[カテゴリー:平和のために]
昨日[カテゴリー:日々是哲学]で「39 戦争の時こそ理性の公的使用を! (20220621)」をupしました。そこでは、カントの『啓蒙とは何か』における「理性」の「公的な使用」と「私的な使用」の区別をもとに、「戦争を防ぐために何より必要なのは、理性のこのような「公的使用」ではないでしょうか。またいったん始まって、国民がナショナリズムに熱狂しているときに、何より必要なものも理性の「公的使用」ではないでしょうか。」と書きました。
しかしこれは説明不足でした。また議論しておくべきことがあると気づきましたので、それをこのカテゴリーで論じることにします。
まず「戦争を防ぐために、なぜ理性の公的使用が必要なのか?」を説明したいと思います。
「戦争を防ぐために、理性の公的使用が必要である」と考えるようになったきっかけは、舟場保之さんの論文「EUの正統性とそのポテンシャリティ--『ヨーロッパ憲法論』を中心に――」(永井彰、日暮雅夫、舟場保之編『批判的社会理論の今日的可能性』晃洋書房、2022、所収)を読んだことです。この論文で舟場さんは、EUの正統性を考える時に、ヨーロッパの市民の「個別国家の国民」としての判断と、「EUの市民」として判断の関係が問題となることを指摘し、この二つの判断の関係を、カントの言う理性の「私的使用」と「公的使用」の関係に結び付けて考えることを提案します。そのうえで「カントのよれば、啓蒙を実現するうえで理性の私的使用は制限されても問題ないが、「万事において理性を公的に使用する自由」は常に確保されていなければならない」(『批判的社会理論の今日的可能性』p.63)と言います。
これを読んで、この議論を、戦争をめぐる「ある国家の国民としての判断」と「世界市民としての判断」の関係に拡張すること思いついたのです。例えば、今回のウクライナ戦争について、ウクライナの人の「ウクライナ国民としての判断」と「世界市民として判断」には違いがあるかもしれないし、ロシアの人の「ロシア国民としての判断」と「世界市民としての判断」には違いがあるかもしれません。日本に住む人の「日本国民としての判断」と「世界市民として判断」にも違いがあるかもしれません。ここで、ある戦争を考える時、どの国の国民であるかによって、「国民としての判断」は大きく異なるでしょうが、「世界市民として判断」は、理性の公的使用として、同一でありうるということになります。しかも、ある国民としての「理性の私的使用」にたいして、世界市民としての「理性の公的使用」が優先するべきであり、公的使用においてどちらもでもよい事柄の場合に限って私的使用が認められるべきだ、ということになります。
戦争に関しても、ある国の「国民としての判断」よりも「世界市民としての判断」が優先されるべきである、ということになります。もしこれが原則として受け入れられるならば、戦争はおそらく生じないし、生じている戦争もまた速やかに収束するでしょう。
これは理想論だと言われるかもしれませんが、しかしこの原則を批判することは難しく、これは戦争反対の強力な論拠になるとおもいます。
以上が昨日のupについての補足説明です。
しかし、その後、この議論に問題があることに気づきました。それを次に説明します。