18 規則遵守問題、生きがい、承認(the rule-following problems, reason to live, recognition)(20240223)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(ブランダムのA Spirit of Trustの読書会に参加しているのですが、その第8章でブランダムがカントの自律について語っていることが、「生きがい」にも当てはまると思いますので、そのことを説明したいと思います。(以下の話は、これまで論じてきた人の「生存価値」に関わりますが、今回の話を、これまで話と結びつけることは、今後の行う予定です。)

#ブランダムによれば、カント的自律には欠陥がある。

カント的自律は、<自分で立てた法則に従うこと、それを是認すること>です。

  法則を自分で立てること

  法則に従うことを自分に是認すること

これによって、カントは、直接的に権威(尊厳)を構成します。

ブランダムは、自分で立てた法則に従うことができているかどうか、それを是認するときには、自分で立てた法則に従っていると信じているがそれが正しいのかどうかは、ウィトゲンシュタインの規則遵守問題の一種であると考えます。そして、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とおなじく、自律もまた私的には不可能であり、他者によって、自分で立てた法則に従っていること、定言命法に従っていること、を承認される必要があると考えます。さもなければ、自律は不可能であり、自律は仮想的であり、現実的ではないと考えます。

(同じように考えるならば、「これは赤い」という認識が他者から承認されるとき、それは初めて客観性を持つ。他者からの承認がないときには、それは「仮想的」であるとブランダムは言うでしょう。)

ブランダムは、カントの「尊厳」についても、同様に考えており、人が尊厳をもつことはその人が、尊厳をもつことを自分に是認するだけでは不十分であり、他者から尊厳を帰属されること、つまり他者に尊敬されることが必要だと言います。「尊厳」の意味は、私的には成立しないからです。

さて、私たちはこの議論を「生きがい」にも当てはめることができます。人の「生きがい」は、さしあたりは、その人が自分で設定できます。「私はこれを生きがいにする」と言えばよいのです。しかしそれだけでは「生きがい」はまだ私的言語(あるいは個人言語)であり仮想的です。それが有意味であるためには、他者からの承認が必要です。他者から承認されて「生きがい」は現実的となります。それゆえに、私たちは、他者の承認を求めます。

 ブランダムは、自己意識は規範的地位であり、規範的地位は社会的地位であるといいます。つまり自己意識は承認関係において成立するであり、個人が持つ性質や機能ではありません。自由も同様であり、自由は相互承認関係において成立するものであり、個人が持つ性質ではありません。

 これ踏まえて言い換えると、自己意識や自由や「生きがい」は、他者との問答において成立するものです。「これはリンゴです」という認識は、「あれはリンゴではない」との対比の中で成立するのだから、「これはリンゴですか」や「どれがリンゴですか」という問いに正しく答える答えられることによって成立します、つまり他者との問答において成立します。これと同じく、「私は自己意識を持つ」「私は自由である」「私はこれを生きがいにする」もまた他者との問答において成立するのです。

106 表現型発話は、定義にどのように依拠するのか(How do expressive utterances rely on definition?) (20240218)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

表現型発話は、状況や対象に対する自己の感情的態度を表明するものです。例えば、次のようなものです。

 「おめでとう」「お祝い申し上げます」

 「ありがとう」「感謝申し上げます」

表現型発話の学習は次のように行われるでしょう。例えば、「ありがとう」の学習は、子供がある人にお菓子をもらったとき、親はその人に「ありがとうございます」と言うと同時に子どもに「ありがとうは?」などと、「ありがとう」と言うように教えます。大人は、どのような状況で、子供が他者に「ありがとう」と言うべきであるかを教えます。

「ありがとう」「おめでとう」「お悔やみ申し上げます」などの表現型発話には、言うべき時、言ってもよい時、言ってはならない時の区別が可能です。これらの語の使用法を学習するとは、基本的にこれらの状況の判別を学習するです。 これらの語の使用法の学習は問答によって行われます。つまり「こういう時には、「ありがとう」と言うべきですか」「こういう時には、「ありがとう」と言う必要はありませんか」などの問いへの正しい答えを学習して、未知の状況でも、これらの問いに正しく答えられるようになることによって、「ありがとう」の使用法の学習が行われるでしょう。

表現型発話には、語るべき時、語ってはならない時、語ってもよい時、の区別があります。それは、語るべき時には適切で必要な発話になり、語ってもよい時には適切な発話になり、語ってはならない時には不適切な発話になります。適切なときと不適切なときの区別を持つ行為や発話は、規範性を持ちます。この意味で表現型発話は、規範性を持ちます。

では、これらの語はどのように発生したのでしょうか。例えば「ありがとう」を次のように定義できるかもしれません。<「おめでとう」は、お祝いの言葉である、つまり相手によい出来事起こったときに発話し、そのことを共に喜ぶための言葉です>。相手によい出来事起こったときに、そのことを共に喜ぼうとするときの発声が、習慣化することによって、お祝いの言葉となったのだろうと推測できます。このプロセスが、この語の定義のプロセスだと言えるかもしれません。この語の使用が習慣化し、使用法が定義されると、その定義に基づいて使用されるようになるし、定義に基づいて学習が行われるようになるでしょう。この語の使用規則が慣習化するとき、この語の使用は規範性をもちます。この語は、使用法の慣習化という意味での定義を持つといえますが、しかしこの定義は宣言発話によって行われるのではありません。

 それでも、表現型発話の適切性は、表現型発話の定義および学習に依拠すると言えます。

*注1:宣言型発話は、オースティンが言うように、一定の慣習のもとで成立し、それがないときにはその発話は無効になります。表現型発話には、それを語ってはならない場合がありますが、宣言型発話には、語ってはならない場合は(おそらく)ありません。しかし、それが無効になる場合はあります。それが無効になるとき、それは不適切な発話になるのではありません。不適切な宣言というものはなく、無効な宣言発話があるだけです。これに対して、表現型発話の場合には、それが不適切な発話にある場合はありますが、慣習を前提することはありません。表現型も宣言型も「適合の方向」を持たない点では共通していますが、慣習を前提しないか前提するか、の違いがあります。

*注2:表現型発話が無効になるのは、発話相手がいない時ですが、前提とする事実が成立していない時はどうでしょうか。例えば「合格おめでとうございます」は、もし相手が合格していなければ、無効なのでしょうか。それとも不適切なのでしょうか。

*注3:表現型発話は単なる感情表現の発話ではありません。「私は嬉しい」「私は満足だ」が、感情の記述であるときには、それは真理値を持つ主張型発話です。これに対して、プレゼントをもらって「私は嬉しい」とか「私は満足だ」とか相手に言うときには、それは感情の記述ではなく、相手の行為に対する自分の態度を表現しています。サールの言う表現型発話は、適合の方向がゼロです。これは、表現型発話が、心理状態の記述ではないことを意味しています。「ありがとうございます」と言うとき、たとえ本当に感謝していなくても、その場合にも感謝の表現は成立しています。(発話の誠実性については、いつか別途考えます。)

以上みてきたことから、宣言型発話以外の発話(主張型、行為拘束型、行為指示型、行為拘束型、表現型)の発話の真理性ないし適切性は、すべて定義に依拠することがわかりました。

 では、宣言型発話の適切性については、どう考えればよいのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

105 依頼の発話は、命名や定義にどのように依拠するのか(How do request utterances rely on naming and definition?) (20240215)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#依頼の発話の適切性

依頼の発話が適切であるとは、次の条件を満たすことだと思われます。

  ・依頼の内容が実現可能であること

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)

ちなみに、主張の発話の場合にも、同様に適切性を語ることができます。

  ・主張の内容が真であること

  ・発話者が主張する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、主張内容を真であると信じていること)

#依頼の発話の実現可能性は、命名と定義に依拠します。

「相手が水を持ってくることが実現可能である」が成り立つことを認識するには、命名と定義に依拠する必要があります。なぜなら、依頼内容「水を持ってくる」を理解するには、「水」と「持ってくる」の定義に依拠する必要があるからです。そして、「水を持ってくる」を理解するとは、どのような場合にこれが成り立つかを理解するということであり、それは、どのようの場合に「相手が水を持ってくることが実現可能である」が成りたつかを理解することです。従って、「水を持ってきてください」という依頼の発話の適切性の認識は、「これは赤い」という記述の発話の真理性と同様の仕方で、命名や定義に依拠します。

したがって、サールの分類による行為拘束型発話(命令・依頼)や行為指示型発話(約束)の実現可能性は、それに用いられる語の命名や定義の宣言に依拠する、と言えます。

 では、サールの言う表現型発話は、命名や定義とどう関係するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

104 発話は、命名や定義にどのように依拠するのか(How do utterances depend on naming and definition?)(20240205)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーでは97回あたりから、<命名と定義に依拠して、問いに対する答えの真理性を正当化する>ということを考えており、命名や定義のための宣言や、その宣言を答えとする問答の成立を説明するために、規則遵守問題を論じると予告していたのですが、その前に、「(記述の発話に限らず)発話一般に関して、発話の意味理解や真理性や適切性が、命名や定義にどのように依拠するのか」を考察しておきたいと思います。

#まず次の二つの例を考えてみます。

  「これは赤い」

  「水を持ってきてください」

「これは赤い」の場合:この発話の意味の理解は、「赤い」の定義に基づきますが、それだけでなく、真偽の判定も、定義の時の対象と現在の対象との類似性と、推論規則に依拠します。

「水を持ってきてください」の場合:この発話の意味の理解もまた、語「水」や「持ってくる」という語の理解に基づくので、それらの学習過程、さらに遡ってそれらの定義に基づきます。さて、この依頼の発話は、真理値は持ちませんが適不適の区別を持ちます。この適不適の区別は、語「水」や「持ってくる」の定義には依拠しないのでしょうか(そこが「これは赤い」との違いなのでしょうか)。

それとも、発話の適切性もまた、それに含まれる語の定義に依拠するのでしょうか。

 この点をもう少し分析したいと思います。

103 「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」への答え(The answer to “What does it mean for an answer to a question to be true?”) (20240203)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(今回の発言は、一時休憩の踊り場です。)

 第97回から考えてきたことは、「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」ということでした。そして、前回最後にのべたように、<命名や定義の宣言が成立するには、他者との問答が必要であり>、また<命名とその記憶に基づいて「あれが富士山です」と事実を主張するときにも、その記憶の正しさを保証するには、他者との問答が必要です>。そこで、「他者と問答できていることと、他者と問答できていると信じていることの区別について」考えたいと思ったのです。しかし、この問いに答えようとすると、当初の「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」に答える必要があるように思われます。このように振り返ると、最初の問題設定からあまり前進していません。

 今回は、当初の問題「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」への現時点での答えをまとめておきたいと思います。以下は、2024年8月にローマで開催予定の世界哲学会にエントリーするためにまとめた文章「命名と定義による真理の正当化」の一部です。

「記述の真理性は、使用する語の意味(使用法)に依拠し、語の意味(使用法)の学習は、語の意味(使用法)の定義に依拠する。その定義は宣言発話であり、それ自体は真理値を持たないが、定義の後、同じ文の発話が反復され時、それは記述となり、その真理性は定義に依拠する。では、真理値を持たない宣言発話の文を反復して発話することが、どうして真なる記述になるのだろうか。

 世界の記述が真となるのは、その命題内容が、世界の在り方と一致するからだと考えられている。命題内容が事実と一致するためには、命題内容と事実の区別が前提となる。この区別は、命名や定義のための問答において暗黙的に行われる。したがって、例えば、語「象」を定義することは、同時に対象<象>を定義することであり、定義の後で、定義の文を反復するとき、それはその対象についての記述となり、真理値を持つことになる。」

The truth or falsity of a statement depends on the meaning (usage) of the words used in it, and knowing the usage of a word depends on the definition of the usage of the word. A definition is a kind of declaration, so it has no truth value in itself, but repeating the same sentence after a definition becomes a description, and a truth value is derived based on the definition. So how can repeating a statement of a declaration, which has no truth value, become a true statement? A description of the world is said to be true because its propositional content ”corresponds” to the way the world is. In order for the content of a proposition to ”correspond” to facts, it is necessary to distinguish between the content of a proposition and facts. Defining the word ”elephant” is inseparably defining the object <elephant>, but words and objects are implicitly distinguished in questions and answers about naming and definitions. Therefore, if you repeat the definitional statement after the definition, it becomes an accurate description of that object.)

発表しようとしている内容は、このカテゴリーで97回から考えていることです。しばらくこのエントリーの準備に時間を取られ、ブログの更新が遅れてしまいましたが、そこで気づいたのは、命名や定義を行うときの問答そのものの分析の必要性です。

 命名と定義から記述の真理性を正当化する、という主張は、記述の真理性を、要素命題の真理性や語の意味に還元する立場だと思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら語の命名や定義は、問答によって可能になるからです。問答によって、語と対象の区別が可能になり、問答よって、語から文の合成が可能になり、問答によって命題と事実の区別が可能になり、問答によって語の命名や定義が可能になるからです。ところで、この問答が私的言語としては成立し得ないとすれば、問答が成立するためには他者が必要だとして、他者の登場によって、規則遵守問題はどのように解決されるのでしょうか。

 この問題を次に考えようと思います。