期せずして、結論が出てしまいました。
<Aは求めて得られなかったBの承認を、求めるに値しないもの(「すっぱいブドウ」)と考えるかもしれない。本当は「すっぱいブドウ」なのに、「甘いブドウ」だとだまされていたと考えるかもしれない。そこでAは、「Bにだまされていた、Bは詐欺師である、Bは悪いひとだ、Bは不当に私のプライドを傷つけた」などと考えるようになる。>
では、この「不当性」の判断の間違いは、どこにあるのだろうか。
間違いは、Aが<本当は「すっぱいブドウ」なのに、「甘いブドウ」だとだまされていた>と考えるところにある。
ここには、次の二段階の思考がある。
①Bからの承認は重要で有意義だと考えていたが、実はそうではなかった。
②私のBについての判断が間違っていたのは、Bがだまそうとしていたからであり、Bが悪い。
少なくとも②について、Bは反論するだろう。Bにはそのような意図は全くなかったからだ。Aが②のように考えるとすれば、①での判断間違いの責任を自分にではなくて、Bに負わせるためである。<自分のプライドを守る>ために、責任を他者に転嫁しているのである。つまり、②は間違った判断である。
①の判断についても同様のプロセスが働いている。重要なものを得られないで傷つく<自分のプライドを守る>ために、重要なものではなかったと考えを変えるのである。では、①もまた間違った判断だというべきだろうか。私には、そのようには思えない。
<自分のプライド>のために、Bの承認を求めようとしたが、それができなくなって、<自分のプライド>が傷つく可能性が出てきたので、それを防ぐために、Bの承認は求めるに値しないものだと考えることにした。「Bの承認が大切だ」という判断もプライドのためであり、「Bの承認が無意味だ」という判断もプライドのためである。つまり、もし何らかの関心にもとづく価値判断を認めるのならば、関心にもとづいて、その価値判断を変更することを認めることに問題はないだろう。
ところで、AがプライドのためにBの承認を求めるとはどういうことだろうか。
「プライドのため」と語ってきたのは、他にその理由を語る仕方が見つからなかったからである。「プライドをもつ」とは、自分の存在、価値、意義を認めるといえるだろう。これは自己を承認することである。自己を承認するとき、人は他者に同意を求めるのではないか。これは、他者に私を承認することを求めるということである。
では、人はなぜ自己を承認し、それについて他者の同意をもとめるのか?
こういえないだろうか。自己を承認しないということは、自己の存在、価値、意義などを認めないということである。それは自己否定するということである。そのためには、自殺しなければならない。自殺しないで、自己否定するということは、自己矛盾である。もちろん、「自分に価値や意義がなくても、私は生きていける、私が生きることに価値や意義はない」と考えることはできるかもしれない。しかし、そう考えることは、どこかで自己矛盾していないだろうか。(この自己矛盾について、今ここでうまく指摘することはできない。それは別の書庫で議論することになるだろう。)このように自己を承認しないことが困難であるために、我々はつねに自己を承認する、あるいは承認しようとする。(この段落は、独断的で思弁的すぎるかもしれません。)
こうして、人は自己を承認する。では、なぜ他者の同意を求めるのだろうか。それは我々の知が、本来的には共有知であるからだ、と考える。(これについては別の書庫で考える。)
とりあえずの結論は、以下の通りである。
悪意の起源は<仕返し>にあり、<仕返し>の起源は、次の判断間違いにある。
②「私のBについての判断が間違っていたのは、Bがだまそうとしていたからであり、Bが悪い。」
という判断の間違いである。この判断の間違いは、次の点にあった。
「Aが②のように考えるとすれば、①での判断間違いの責任を自分にではなくて、Bに負わせるためである。<自分のプライドを守る>ために、責任を他者に転嫁しているのである。」
ここでの間違いは「①での判断間違いの責任転嫁」にあるが、もう一つの間違いは、①を判断間違いだと考えた点にある。①における「Bの承認が大切だ」から「Bの承認は意味がない」への変化は、事実の記述の間違いを修正したのではない。関心に基づいて価値判断を変更したのである。このような価値判断には、原理的に「間違い」はありえない。したがって、それを変更することは自由である。この点を誤解したことから、AはBを憎むようになったのである。
ここでの価値判断についての誤認に、悪意の起源がある。
さて、本当にこれでよいのでしょうか。
こんなことで、イリノイ工科大学での銃殺を説明できるのでしょうか。
特異な悪意に特異な原因があるとすると、上記はそのような特異な原因ではありません。
ご批判をお願いします。
さて、これでよいでしょうか。ご批判をお願いします。
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自殺しないで、自己否定するということは、自己矛盾である。もちろん、「自分に価値や意義がなくても、私は生きていける、私が生きることに価値や意義はない」と考えることはできるかもしれない。しかし、そう考えることは、どこかで自己矛盾していないだろうか。(この自己矛盾について、今ここでうまく指摘することはできない。それは別の書庫で議論することになるだろう。)このように自己を承認しないことが困難であるために、我々はつねに自己を承認する、あるいは承認しようとする。
こうして、人は自己を承認する。では、なぜ他者の同意を求めるのだろうか。それは我々の知が、本来的には共有知であるからだ、と考える。(これについては別の書庫で考える。)
興味深いです。
また、「別の書庫」と二回出てきますが、何処でしょうか?
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管理人です。ご返事が遅れてすみません。
最初の「別の書庫」というのは、哲学的人生論に関する書庫といういみです。これまでのどれかの書庫ではなくて、新しく建てることいなるだろうとおもいます(いつ?になるのか、私も聞きたいです。すみません。)
二つ目の「別の書庫」は「世にも奇妙な「共有知」」という書庫のことです。
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