07 命題ではなく、問答が真であることの説明 (20220810)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

私は、<命題ではなく、問答が真理値を持つ>と考えます。02回でもこれを説明しましたが、もう一度少し詳しく説明しておきたいと思います。

 文が意味を持つことは、問答によって可能になります。なぜなら、文は文を構成する文未満表現(語や句)を統合することによって成立し、その統合は、問いに答えるという仕方で成立するからです。文は問答によって成立するのです。したがって、文が意味をもつことは、問答によって可能になるのです。厳密にいえば、意味を持つのは問答であるということです。(これについては、カテゴリー[問答の観点からの認識]第67回~69回をご覧ください)。

 同じことを、ここで焦点の観点から説明しておきたいと思います。焦点構造をもつ命題の意味は、相関質問に応じて異なるので、問答関係において成立する、あるいは問答関係として成立するといえます。では、焦点構造を持たない命題の意味は、相関質問とは無関係に成立するといえるでしょうか。命題が成立するためには、文の統一が必要であり、そのためには問答関係が必要です。したがって、命題が成立するときには、相関質問との関係が不可欠です。では、そのようにしていったん命題の統一が成立した後は、どうでしょうか。その文が異なる問いの答えとなるとき、その意味(命題)は、焦点構造を持ちますが、それらの命題の間には、共通部分もあるでしょう。それは相関質問とは無関係な命題の意味だといえるでしょう。それを私たちは「これはリンゴである」のような文で表現できるかもしれませんが、しかしそれを理解することはできません。なぜなら、この文を理解するときには、つねにどこかに焦点を置かねばならないからです。焦点なしに文を理解することはできません。それは、ゲシュタルト構造のない知覚をもつことができないのと同様です。

 ちなみにブランダムは、文を構成する文未満表現の意味を、文の意味からの置換推論によってとらえることができるといいます(例えば、『推論主義序説』第4章)が、彼は、語が文を離れて意味をもち、語の意味から文の意味が合成されるとは考えていません。焦点構造を持つ命題の意味と焦点構造を持たない命題の意味の関係もこれと同じだと考えます。

 このように<文ではなく、問答が意味を持つ>と言える時、ここから、<文ないし命題ではなく、問答が真理値を持つ>が帰結します。

 ところで03回では、<問答が真である>つまり<ある問いに対するある答えが真である>とは、<その問いに対してその答えをすることが、規範性を持つ>ことと説明しました。例えば、問い「それは何ですか」に対して、答え「それはリンゴです」が真であるとすれば、何度尋ねられても、そう答えるべきですし、だれに問うてもそう答えるだろうと予測できますし、また誰に問うても、相手はそう答えるべきだといえます。

 しかしこのような問答の真理性の定義については、<問答が真であるならば、問答は規範性を持つ>には同意できるが、<問答が規範性を持つならば、問答は真である>には同意できないという反論があるだろうと思います。私はその反論を受け入れたいとおもいます。なぜなら、(『問答の言語哲学』で述べたことですが)問いを、理論的問いと実践的問いに分けることができるからです。理論的な問いの答えは事実の記述であり、実践的な問いの答えは意思決定です。『問答の言語哲学』「1.1.1. 推論は問いに答えるプロセスである」では、理論的な問いの答えは真理値を持ち、実践的な問いの答えは適切性をもつと説明しました。現在は、厳密にいうならば、理論的な問答が真理値を持ち、実践的な問答が適切性を持つ(その答えが真理値を持つ問い)と考えます。そして、実践的な問答が適切性持つ場合、例えば、問い「私が血圧を下げるには、どうすべきだろうか」に対して、答え「私は塩分を減らすべきだ」が適切であるとすれば、何度問うても、誰に問うても、答えは同じであり、その問答関係は規範性を持ちます。したがって、規範性を持つ問答関係は、真なる問答関係に限りません。したがって、<問答が真であること>を、<問答が規範性を持つこと>として定義することはできません。これは必要条件でしかありません。

 では、問答の真理性を定義するには、問答の規範性以外にどのような条件が必要でしょうか

これを次に考えたいと思います。(他方で、実践的な問答についてはさらに詳しい説明が必要ですが、それは別の機会に行いたいと思います。)

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。