[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]
01と02での説明には曖昧なところがあるので、もう少し厳密に考えてみよう。人生は行為や出来事からなり、人生の意味も、行為や出来事の意味からなると考えることにしよう。さらに、行為や出来事の意味は、行為の上流問答推論や下流問答推論であるとしよう。
では、行為の上流問答推論とは何だろうか? 私のある行為は、実践的推論をもつが、その大前提は、私の意図である。(実際には実践的推論の前提は私の意図だけからなるのではないが、もしかりに私の意図だけからなるとすると、その上流推論と下流推論もまた私の意図だけからなり、行為に関する推論関係は、私の意図の内部に閉じることになる。すると、私の人生の意味をそのような推論関係から説明することはできなくなるだろう。なぜなら、私の人生の外部に出ることができないからである。)
「どうやって意図Iを実現したら良いのか?」という実践的問いに、答えるための実践的推論は、次のようになる。
私はAを実現したい。(意図I)
Bを実現するならば、Aが実現する。(原因結果関係、自然的な因果関係とは限らない。)
∴私は、Bを実現しよう。(事前意図)
(結論の意図から直ちに行為に移れないときには、「その意図をどうやって実現したら良いのか」という実践的問いを立て、それに答えるために実践的推論をする必要がある。この下降は、理論的には「基礎行為についての事前意図」にたどり着くまで行うことができるが、実際には、その前の「複合的な行為についての事前意図」で直ちに行為に映ることが多いだろう。「基礎行為」ないし「基礎的行為」については、『問答の言語行為』や私の講義ノートで説明しているが、今回の焦点は、実践的推論の「結論」ではなく「前提」にあるので、説明を省略する。)
今回注目したいのは、原因結果関係を記述している「小前提」である。(実践的推論の場合、何を「大前提」とよび何を「小前提」と呼ぶか、おそらく一般的な決まりがないと思うが、以下では便宜上、意図(あるいは欲求や目的)を表現する前提を「大前提」、(自然的因果関係に限らない)原因結果関係を記述している前提を「小前提」と呼ぶことにしたい。)
この小前提には、自然的な因果関係、他者の発言、他者の希望、社会的関係(私はいくらお金を持っているのか、私の国籍はなにか、隣の人はどんな人か、私の会社は何をしているのか、コロナはどうなるのか、景気はどうなるのか、など行為に関わるあらゆる事柄)、社会的規範(法や道徳など)、などが含まれるだろう。実践的推論を意識しているときには、意識されている前提はこれらのごく一部であり、大部分は推論の「背景」として機能しているだろう。私の実践的推論は、このようにして、他者の言葉や行為の影響を受けており、社会的規範や社会の仕組みの影響を受けている。このときの実践的推論は、私の(言葉や行為の)事前意図を結論としており、私の言葉や行為の上流推論になっている。
同時にまた、私の言葉や行為は、他者の実践的推論の小前提ないし背景となり、それに影響を与えている。このとき、他者のこの実践的推論は、私の言葉や行為の下流推論となっている。
私の言葉や行為の「意味」は、このような上流推論と下流推論によって明示化される。
では、このような「意味」の集積が、私の「人生の意味」だと言えるだろうか。