53 神経科学と超越論的観念論 (20221128)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(一か月ぶりに戻ってきました。少し前のupを読み直していたら、第49回のベイズの定理の証明に間違いが見つかりましたので、それを訂正しました。基本的な間違いですみません。正直なところ、ベイズ推論についてはにわか勉強で、十分に使いこなせるほどわかっていません。それでも取り上げるのは、ベイズ推論は人間や動物の脳の機能の説明や人工知能の作成にとって重要であり、それゆえにまた、それが問答推論として成立することを確認することが重要だと思うからです。)

この一か月フィヒテについて考えていたのですが、フィヒテの超越論的観念論と近年の神経科学の理論との親近性を感じました。日本フィヒテ協会のシンポジウムの発表原稿の最後に次のように書きました。

「神経科学における知覚や行為の説明理論として登場したカール・フリストンの「能動的推論」やヤコブ・ホーヴィの「予測誤差最小化メカニズム」やアニル・セスの議論は、フィヒテによる、物や自我や時間についての超越論的な反実在論的な議論や、自由についてのデフレ的理解と親和性があるように見えます。例えばアニル・セスは、「私たち一人一人にとって、意識的な経験がそこにあるすべてなのだ。意識がなければ、世界も、自己も、内面も、外面もない」(参考文献6,p. 9)と主張していますが、これはフィヒテの超越論的観念論を想起させます。もちろ彼らは神経システムを自然科学で説明します。しかし心を推論によって構成された予測モデルとして捉えるので、心の説明としては構成主義的ないし反実在論的な説明になります。フィヒテが「知識学」で苦心した試み、「事行」から出発して認識や行為を説明する試みが、現代の神経科学の試みに貢献できるかどうかは未知数ですが、親和的であることは確かです。(注8)

注8 彼らによれば、心は、外界からの感覚刺激から世界の表象を作るのではなく、まず世界についてのモデルを作り、そのモデルから感覚刺激を予測し、その予測を実際の感覚刺激と比較して、誤差があれば、モデルを修正するということを繰り返します。彼らは、知覚を推論として捉える心理学者ヘムホルツの影響を受けており、ヘルムホルツはカント認識論の影響を受けていると言われているので、彼らの主張が超越論的観念論と親和的であることは偶然ではありません。彼らは、知覚や行為をベイズ推論によって構築された予測モデルとして説明することを超えて、自我や自由意志などもベイズ推論によって構成される予測モデルである見なす取り組みを始めています。」

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR47%2020221120%20Spinoza%20and%20Fichte.pdf

私たちが外界について知ることは、すべて脳内で予測モデルとして作られ、それが感覚刺激によるチェックと修正を繰り返して成立している、と想定できます。すると、外界は、脳が構成したものです。脳が構成したものだけが私にとって存在するのです。私もまた脳が構成したものです。

(さらに言えば、神経科学が説明している脳もまた、脳が構成したものです。そうするとどうなるのかは、別途(おそらく科学哲学の問題として)考えることにします。)この考えは、「自我が自己の中に定立するもの以外には何ものも自我に所属しない」(『知識学の特性要綱』(『フィヒテ全集』第4巻360)と似ています。

(次回からは、ベイズ定理と問答の考察に戻ります。)

07 インフレ的自由概念とデフレ的自由概念 (20221125)

[カテゴリー:自由意志と問答]

(前々回の宿題「自由意志が成り立つかどうかは、最終的に社会的サンクションに依存するのか?」を論じる前に、自由概念の再検討をしておきたいとおもいます。)

フィヒテの自由論を検討する中で、「自由」についてのインフレ主義とデフレ主義の区別を思いつきました(フィヒテの主張については、前回のリンクをはった学会発表の原稿で説明しました)。

ここではフィヒテ解釈を離れて、この区別の可能性を追求したいと思います。

自由を、(とりあえずは人間の)ある種の能力やある種の活動性の性質として捉えることを「自由のインフレ主義」、あるいは「インフレ的自由概念」と呼ぶことにします。これに対して、自由を、 <意識的に考えたり行為したりすること>として捉えることを「自由のデフレ主義」あるいは「デフレ的自由概念」と呼ぶことにします。

「意識的に」という限定によって、無条件反射や条件反射のように、それを意識していても意識していなくとも成立する心の働きを除外するためです。人間が意識的に考えることは、すべて問答によって成立しているだろうと思います。また自由な行為は、意図的な行為だけであり、かつ意図的な行為はすべて自由な行為だと考えます。そしてこの意図は、問答によって成立すると思います(なぜなら、意図は意図表明の発話として成立し、意図表明の発話は問いに対する答えとして意味を持ちうるからです)ので、自由な行為もまた問答に基づいていることになります。したがって、自由とは<意識的に考えたり行為したりすること>であり、言い換えると<問答すること>です。

 このようなデフレ的自由概念を提案する理由の一つは、インフレ的な自由概念を説得的なものとして主張できないということです。

#インフレ的自由概念の欠点:出来事因果の不十分性と行為者因果の曖昧さ

自由な行為や自由な心の働きを出来事因果で説明しようとすると困難です。もし自由な行為(出来事1)が別の出来事(出来事2)を原因として生じ結果であるとすると、「出来事2が生じたから、出来事1が生じた」と語れるはずです。そしてこれを認める者は、「出来事2に似た出来事が生じたならば、出来事1に似た出来事が生じる」を認めるでしょう。出来事2と出来事1の因果関係が成立するのは、何らかの一般的な因果法則があるからだ、ということになります。しかし、この場合には、この出来事1は、自由な行為ではなく必然的な行為です。

そこで登場するのが、行為者因果です。行為者因果は、出来事間の因果関係ではなく、行為者と出来事の間の因果関係です。たとえば、主体が原因となって意志決定(出来事)が結果するとしましょう。このとき、似たような主体があれば、似たような意志決定をする、ということであれば、そこに一般的な因果法則があります。その場合には、それは必然的な意志決定になります。

行為者因果によって自由な心の働きや行為を説明するのであれば、その場合の原因と結果は因果法則以外のものによって決定していなければなりません。それは何でしょうか。それは行為者の力のようなものでしょうか。しかし、力がどのようなものであるかは、力が実現する因果関係によってしか理解できず、その因果関係は法則としてしか理解できないように思われます。そうだとすると、力の結果は、必然的なものであり自由なものではないことになります。このように行為者因果の概念は曖昧ですから、これによってある種の能力やある種の作用を自由なものとして説明することはできません。

#デフレ的自由概念の必要性

このようにインフレ的自由概念は整合的に考えることができないとしても、「自由」という概念は、不要ではありません。なぜなら「自由」概念が不要であるとしたら、すべての出来事が、物理的な因果法則と量子論的な偶然性によって決定していることになり、それでは心の自立的な働きを説明できないからです。私には、心の働きは、物理的な決定を超えた自立性を持っているように思われます。そして心の「自立性」を「自由」と呼びたいと思います。インフレ的な自由概念もこの心の「自立性」を説明しようとするものでしたが、それは失敗していると思われます。そこで、自由を別の仕方で説明すること、つまりデフレ的な自由概念を提案したいとおもいます。

 このデフレ的自由概念の有効性を示すには、自然的決定性からの問答の「自立性」ないし「自由」を証明しなければなりません。これを示すのは、問答に関する別のカテゴリーの課題になると思います。それ進展したのちに、またこのカテゴリーに戻ってきたいと思います。

06 自由意志に対するスピノザの批判とフィヒテの擁護 (20221122)

[カテゴリー:自由意志と問答]

しばらく更新できず失礼しました。11月20日の日曜日に、日本フィヒテ協会第32回大会(同志社大学開催)のシンポジウム「フィヒテとスピノザ」の提題者の一人として発表しました。

タイトルは「自由意志に対するスピノザの批判とフィヒテの擁護」です。

当日の発表原稿とその後の質疑については、

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR47%2020221120%20Spinoza%20and%20Fichte.pdf

を御覧ください。

05 自由に意志していると思っていること(20221111)

[カテゴリー:自由意志と問答]

<「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであるならば、意志することと決定論をともに真と見なすことは、は両立しない>という主張に対して、スピノザならば、次のように答えるでしょう。

<「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであると思われるとしても、それは何かを意志し、かつ「何かを意志している」と考えているときに、自由に意志しているのではなく、「自由に意志している」と考えている、ということに過ぎない。>

例えば、食堂でうどんを食べるかそばを食べるかを考えて、うどんを選択したとき、そばを選択することもできたという意識がともなうが、選択できたと思っているだけであり、本当は未知の原因によってうどんを選択することが決まっていたということはありうるかもしれません。行為や意志作用に、つねに他行為可能性の幻想が伴うようになっているのかもしれません。

たしかに、一人で何かを意志したり行為したりするときに伴う他行為可能性の意識は、幻想である可能性を排除できません。では二人の時はどうでしょうか。

例えば、私が友人に電話して、明日の正午にどこかで会おうと誘い、友人もそれに同意し、学生食堂で会おうという友人の提案に同意して、あす正午に学生食堂であることを約束したとしましょう。私が、明日の午後に会うことを提案したとき、私は他の日時を提案することも可能であったと考えていますが、それが幻想である可能性はあります。その提案に友人が同意したとき、友人は、同意しないこともできたという他行為可能性の意識を持つでしょうが、その他行為可能性もまた幻想である可能性があります。ここで、私は、<私が友人と明日正午に学生食堂であうことを約束するとき、この約束は、別の内容になっていた可能性もある>と考えていますが、それもまた幻想である可能性があるのでしょうか。その場合、私の提案も友人の同意も最終的に成立した約束も、決定していたということになりそうです。

(ちなみに、仮に自由が幻想だとするとき、自然主義的な描像のなかで、なぜ自由意志という幻想が必要なのか、を説明する必要あります。また、人は自由に意志していると思っているだけだ、というスピノザの主張を、真であると証明するには、実際に自由な意志決定であると思われているものについての因果的な説明を、実際に示す必要があります。それができない限りは、可能性の提示にとどまります。しかし他方、自由意志の存在証明に関しては、そのために何を示したらよいのすら、よくわかりません。それを考えたいと思います。)

ところで、<自由に意志しているのか、それとも自由に意志していると思っているだけなのか>という問題は、以下のように、言語の規則遵守の問題と似ています。

#自由意志の問題は、言語の規則遵守問題と似ている。

私が言語を話すとき、私は言語規則に従っていると信じていますが、言語規則に従っていると信じているだけで本当はそうではないかもしれません。

一人では、

<言語の規則に従うこと>

<言語の規則に従っていると信じていること>

この二つを区別できません。少なくとも二人の人が必要です。もし二人いれば、一人の人が、言語の規則に従っていると信じているときに、他の人が、言語の規則に従っていないと指摘できる可能性があるからです。

 しかし、二人いれば確実に判定できる問いことでもないし、三人いれば確実に判定できるといことでもありません。とりあえずは、社会的なサンクションが必要であるという曖昧な言い方しかできません。

これと同様に、一人では、自由な意志決定を行うことはできません。なぜなら、自由な意志定が成立しているかどうかは、一人では判定できないからです。なぜなら、一人では、

  自由な意志決定ができていること

  自由な意志決定ができていると信じていること

このふたつの区別ができないからです。もし二人いれば、一人の人が、自由な意志決定ができていると信じているときに、他の人が、自由な意志決定ができていないと指摘できる可能性があるからです。

 自由意志についても、二人いれば確実に判定できるということでもないし、三人いれば確実に判定できるということでもありません。とりあえずは、社会的なサンクションが必要であるという曖昧な言い方しかできません。

以上から次のように言えるでしょう。

・<何かを話すことは、何かを言語の規則に従って話すことです>。そして、<言語の規則に従う>ということは、話すことが持ったり持たなかったりする性質ではありません。

・<何かを意志決定することは、何かを自由に意志決定することです>。そして、<自由に>ということは、意志決定することが持っていたり持っていなかったりする性質ではありません。

このように、自由意志の問題は、言語の規則遵守の問題と似ています。ところで、言語の規則遵守の問題は、最終的には社会的サンクション(言語共同体の同意)の問題になるように思われるのですが、では、自由意志の問題も、社会的サンクションの問題になるのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

04 スピノザの「意志」とは何か (20221104)

[カテゴリー:自由意志と問答]

前回述べたように、私の理解では、「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであるので、意志することと決定論をともに真と見なすことは、両立しないと思われるのですが、スピノザの「意志」の理解は、これとは異なるようです。そこで(意志することと決定論の関係をさらに考えるまえに)、スピノザが、意志をどのようにとらえているのかを確認しておきたいと思います。

スピノザによれば、すべての個物は物体も身体も精神も自己の有に固執しようとする「努力」(conatus)を持っており、彼はこの「努力」を個物の「現実的本質」として捉えています。

「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、そのものの現実的本質に他ならない。」(第3部定理7、強調は入江)

彼は、この「努力」の二つの在り方として、意志と衝動を区別します。

「この努力が精神だけに関係するときには意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係するときには、衝動とよばれる。」(第3部定理I9備考)

この説明は、わかりにくいのですが、とりあえず次のように理解しようと思います。

物体であれ、身体であれ、精神であれ、おのおのの物が、自己の有に固執する努力を持つのですが、精神が持つ努力は思惟であり、身体が持つ努力は物質的なものであり、両者は常に一致するとしても、別のものです。したがって、精神に関係する努力は、身体には関係しえません。また身体に関係する努力は、精神に関係しえません。したがって、「同時に精神と身体とに関係する」努力というものはあり得ません。一つの可能な読み方としては、同一人物の身体に関係する努力と精神に関係する努力は、観念とその対象が一致するのと同じように一致するので、そのようにして<二つの努力が一致したもの>として理解することです。

二つの努力が一致したこの努力を、スピノザは「衝動」と呼びますが、さらにこの衝動が意識されたものを「欲望」と呼びます。

「衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りに於いてもっぱら人間ついて言われるというだけのことである。このゆえに、欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。」(第3部定理I9備考)

欲望は、三つの根本感情(欲望、喜び、悲しみ)(第3部定理59備考)の一つですから、観念の一種であり精神に属します。 欲望は、衝動が意識されたのでした。そして衝動とは、私の理解では、精神における努力と身体における努力が致している場合の努力でした。したがって、欲望とは、おそらく<精神における努力の意識と、身体における努力の意識と、それら二つの努力の一致の意識からなるもの>なのでしょう。

意志は、このような欲望とは異なり、<精神だけに関係する努力>でした。ところで、身体に関係する努力が、「自己の有に固執する」ということは、自己保存しようとすることとして理解できますが、精神に関係する努力が、「自己の有に固執する」とはどういうことでしょうか。これに答えるには、意志と欲望を区別した次の文が役立ちそうです。

「ここで注意せねばならぬのは、私が意志を欲望とは解せずに、肯定し・否定する能力と解することである。つまり私は意志を、真なるものを肯定し、偽なるものを否定する精神の能力と解し、精神をして事物を追求あるいは忌避させる欲望とは解しないのである。」(第2部定理48備考)。

意志とは、<真なる観念を肯定し、偽なる観念を否定する精神の能力>だといわれています。

例えば、おそらく「このリンゴは食べごろだ」という命題を真として肯定することが意志なのでしょう。しかしこれだけでは、リンゴを食べるという行為は始まりません。この意志が行為に向かうためには、欲望が働く必要がありそうです。

 もしスピノザの「意志」がこのようなものだとすると、「…を意志する」は「…を自由に意志する」とは言えないかもしれません。これについて次に考えようと思います。(話がややこしくてすみません。もっとシンプルに語りたいのですが、スピノザについて素人なので、シンプルに語ることができません。)

03 決定論とある行為をしようと意志することは両立するのか (20221031)

[カテゴリー:自由意志と問答]

決定論と、何かをしようと意志することは、(その意志が自由意志ではない限り)両立する、とスピノザは考えているようです。これに賛成する人は多いかもしれません。

例えば、私が、食堂で、うどんを頼むかそばを頼むかを迷って、うどんを食べようと決めたとししたとします。決定論者は、私が、そのように迷うことも、またそのあとうどんを食べようと決めること、あるいはうどんを食べようと意志することも、決まっていたと考えます。ここに矛盾はないと思います。そして、私自身が、うどんを頼むかそばを頼むか迷って、その後うどんを食べようと意志したとき、それを後から振り返って、そう意志することが決まっていたと考えることにも、矛盾はないかもしれません。

しかし、私自身が、うどんを頼むかそばを頼むか迷った後、うどんを食べようと意志するときに、同時にそのことが決まっていると考えることは、できないように思います。私が、うどんを食べようと意志し、同時にそう意志することに決まっていると考えることは矛盾するように思います。なぜなら、私は、何かを意志することは、それを自由に意志すること、それを意志ないことも可能であると考えることを伴っていると考えるからです。

ちなみに、欲求の場合には、他行為可能性の意識を伴わないと考えます。例えば、のどが渇いて、水を飲みたいと思うとき、水を飲みたいと思わないことも可能である、とは考えられません。これに対して、意志の場合には、他行為可能性の意識が伴うだろうと思います。これが、欲求と意志の重要なの違いです。

繰り返しになりますが、もしあることを意志することが、あることを自由に意志することであり、他行為可能性の意識を伴うことであるとすると、あることを意志することと決定論を信じることは両立しないでしょう。

スピノザが、あることを意志することと決定論が両立すると考えるのは、意志の理解が、私が考えるものと違うからだと思われます。では、スピノザの考える「意志」とはどのようなものでしょうか。

02 二つの「自由」の関係 (20221027)

[カテゴリー:自由意志と問答]

前回述べたように、スピノザは、エチカ第1部定義7で自由を定義しますが、自由であるのは、神だけであるといいます。人間は、(この意味の)自由をもちません。また人間は自由意志を持ちません。その理由は「個々の意志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。」(第1部、定理32、証明、太字は引用者)ということでした。(前回言い忘れましたが『エチカ』からの引用は次の訳を用います。スピノザ『エチカ』上、下巻、岩波文庫、畠中尚志訳、Kindle版からの引用なので頁数が少しずれているかもしれません。)

では、この「他の原因」とは何でしょうか。スピノザによれば、唯一の実体(神)は無限の属性を持ち、思惟と延長はそれに含まれます。人間知性が知覚するのは、この二つの属性だけです。そして異なる属性の間に因果関係はありません。したがって、この「他の原因」というのは、他の観念であると思われます。ところで、「意志作用は観念そのものに他ならない」(第2部定理49証明)と言われているので、ここでは観念と観念の因果関係が考えられているのです。

では観念と観念の因果関係というのは何でしょうか。観念と観念の関係は、論理的な関係、あるいは意味論的な関係としてしか考えられないと思います。意志を結論とする推論は、実践的推論であり、それは前提に意志(意志の表現)を含みます。その意志もまたさらにより上位の意志を前提とするとしたら、これは無限に遡行します。そのような無限遡行が不可能であるとすると、無前提に設定された意志があると想定できます。これに対して、スピノザは、そのように無前提に見える意志にも、隠された前提が原因となっているというでしょう。人々は、自由意志は原因を持たないと考えていますが、スピノザは、原因のない意志作用はなく、自由意志はないと考えています。(次回以後に述べますが、フィヒテは自由意志を原因を持たない意志作用と考え、それがあると考えています。)

ところでスピノザは第4部と第5部で「人間の自由」について論じています。そこで人間を、自由人と奴隷に次のように分けます。「自由人」とは「理性に導かれる人間」であり、奴隷とは「感情ないし意見のみに導かれる人間」です(第4部定理66備考)。ここでの「自由」と第一部定義7の「自由」は、どう関係するのでしょうか。

スピノザは、「理性の指図に従って行動する限りにおいてのみ人は自由であると呼ばれる」(第4部定理72証明)と言います。理性の指図に従って行動する人が自由である、ということを説明する仕方には、いろいろな仕方があると思いますが、その一つは次のようなものです。

「感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち、前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのための自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名付ける。」(第4部定理66備考)

しかし、これだけでは、第1部の定義7の「自由」との関係は不明です。おそらく、理性は人間本性であり、理性に従うことは本性の必然性に従うことなので、その点で定義7の「自由」に似たものである、あるいは定義7の「自由」の人間バージョンであるということだろうと思われます。

この二つの自由の関係をもう少し厳密に論じるためには、そもそも、どうして人が「理性の指図にしたって行動する」ことができるのか、を理解する必要があります。なぜなら、スピノザは、『エチカ』第一部で(スピノザの言葉ではないですが)次のような「決定論」を主張しているからです。

「自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し、作用するように神的本性の必然性から決定されている。」(第1部定理29)

「決定論」と「理性の指図に従って行為する」ということは果たして両立するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

41 ベイズ推論から問題設定の反証主義へ (20221023) 

[カテゴリー:日々是哲学]

ポパーの反証主義は、命題が科学的であるかどうかを区別するために、命題が反証可能であるかどうかをもちいることを提案しました。ポパーは、それを命題が有意味か無意味かの区別に使えるとは考えていませんでした。科学的な命題は、反証可能であるから、反証されたならば、それを修正することになります。ポパーは、それの繰り返しによって、次第に真理に近づくと考えました。

これに対しては、<ある命題が反証されたときに、他の前提を加えたり修正したり除去したりして、その命題を維持することが可能である>という批判がありました。反証を無効化するこのプロセスは「免疫化」と呼ばれています。ただし、反証主義には、探求を始めるために確実な出発点を見つけなければならない、という困難を回避できる、という長所がります。

ところで、問いの前提について、それの証明が必要だと考えるのではなく、とりあえず問いの前提を設定して、それが反証されたならば、それを修正することによって、より正しい問いの設定に接近していくという方針を考えることができます。これを「問題設定の反証主義」と呼びたいとおもいます。ところで、ポパーの反証主義に対して、どのような命題も反証に対して免疫化可能であるという批判があったように、この問題設定の反証主義に対しても、どのような反証に対しても免疫化可能であるという批判が可能です。ただし、反証主義の長所、つまり<探求を始めるために確実な出発点を見つける必要がない>という長所をより、強化するのに役立ちます。つまり、反証主義では、ある問題に対する答えをとりあえず設定して、その正しさをテストにかけるという仕方で探求を開始できたのですが、そのとき、問題の設定の適切性については言及していませんでした。ある問題に対する答えを設定する前に、問題の設定をしているのですが、この問題の設定についても、私たちはとりあえず問題を設定して、それの適切性をテストにかけて修正するという仕方で、探求を始めることができるのです。

 (これがベイズ推論と似ていることは、一か月後に、カテゴリー「人とはなぜ問うのか」で論じたいとおもいます。)

01 スピノザの自由意志への批判 (20221022)

カテゴリー[自由意志と問答]

スピノザの自由意志批判は有名ですから、それをまず見ておきたいと思います。

#スピノザによる「自由」の定義

スピノザは、自由を、「自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定される」(第1部、定義7)ことだと定義します。そして、この意味で自由であるのは、神のみであるといいます。「神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されてはたらくことがない。」(第一部定理17)59 「ひとり神のみが自由原因であることになる。」(第一部定理17系2)59

#スピノザによる自由意志の否定

スピノザは、このように神が自由であることを認めるのですが、人間の「自由意志」は認めません。なぜなら、「 個々 の 意志 作用 は 他 の 原因 から 決定 さ れる ので なく ては 存在 する こと も 作用 に 決定 さ れる こと も でき ない。」 (第一部、定理32、証明)からです。それにもかかわらず、個人が、自分は自由意志を持っていると考えるのは、「 彼ら が ただ 彼ら の 行動 は 意識 する が 彼ら を それ へ 決定 する 諸 原因 は これ を 知ら ない という こと に のみ 存する ので ある。」(第一部、定理35の備考)と言います。

#他方で、スピノザは「人間の自由」について語ります。

スピノザは、第4部と第5部で「人間の自由」について論じています。人間を、自由人と奴隷を次のように分けます。「自由人」とは「理性に導かれる人間」であり、奴隷とは「感情ないし意見のみに導かれる人間」です(第4部定理66備考)。

第4部第5部での「自由人」の「自由」は、第1部定義7でいう「自由」とどう関係するのでしょうか。

52 ベイズ推論は問答推論として成立する (20221020)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

まずベイズ推論と問答推論の関係を説明します。

#ベイズ推論は、問答推論として成立する

ベイズ推論も推論であるなら、前提から結論を導出するという形式になっているはずです。そしてそこでも、前提から論理的に導出可能な結論の候補は複数あるでしょう。したがって、そこで一つの候補を結論として選択するときには、問いが働いているだろうと推測します。つまり、ベイズ推論もまた、問答推論として成立すると推測します。以下がその説明です。

  ベイズの定理:  =P(X|A)P(A)/P(X)

 この定理は、次のように変形します。

    = P(A)(P(X|A)/P(X))

そうすると、この式は次のように理解できます。

<主観確率P(A) に、係数 P(X|A)/P(X)を掛けることにより、証拠 X を加味して、より客観性の高い確率 P(A|X) を求めることができる>

このようなベイズ推論の前提は、P(A)とP(X|A)/P(X)であり、結論は  です。これらの前提が成り立つとは、<P(A)がある値aとなる、つまりP(A) = aが成り立つ>、かつ、< P(X|A)/P(X)がある値bとなる、つまり P(X|A)/P(X)=bが成り立つ>ということです。結論P(A|X)が成り立つとは、<P(A|X)がある値cとなる、つまりP(A|X) = cが成り立つ>ということです。

しかし、P(A) = aとP(X|A)/P(X)=bから帰結するのは、P(A|X) = c であるとは限りません。例えば、 P(X|A)/P(X) P(A) = (P(X|A)/P(X))/P(A) もまた帰結します。ここでP(A|X)が結論として選ばれるのは、問い「P(A|X)はいくらか?」あるいは「「P(A|X)はcであるか?」に答えるためであり、この推論がこの問いに答えるためのプロセスとして行われているからです。

次に、この問いとベイズ確率がどう関係しているのかを説明します。

#ベイズ確率と問答の関係

ベイズ確率P(y|x)は、事象xが起きた時に、事象yが起きる確率を表します。このようなベイズ確率は、問答の関係に似ています。今次の問答があるとします。

①「これは何ですか?」「これはリンゴです」

問答①は、「これ」が指示する対象が存在することを、問いの前提(問答の前提)としています。今仮に、事象xを命題「これが対象aを指示する」で、事象yを命題「対象aがリンゴである」で表すことにします。このとき、ベイズ確率P(y|x)は、事象xが成り立つとき、事象yが成り立つ確率を表しますが、事象xが成り立つとき問い「これは何ですか」が成り立つとすると、次のようにいえます。

  P(y|x)は、①の問いが成り立つとき、①の答えが成り立つ確率を示す。

一般的には次のように言えるでしょう。

<問いQは、常に何らかの前提をもち、問いが成立するためにはその前提が成立することを必要条件とします。ここで問いQのすべての前提の連言が表している事象をpとするとき、問いある問いQに対して、Qのある答えが表している事象をaとするとき、その答えがQの正しい答えとなる確率は、P(a|p)と表現できます。>

(この後、見かけ上の能動的推論と問答としての能動的推論の区別、にまで話を展開しなければ、一区切りとはならないのですが、実は「自由意志」についての学会発表のための準備が切迫してきましたので、新しいカテゴリー「自由意志と問答」を立ち上げ、一か月ほどそこに書き込みしたいとおもいます。ここでの議論の続きは、一か月後、11月の下旬に再開したいと思います。)