15 「おすわり!」の規範性  (20201214)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 動物の訓練は、オペラント条件付けを用いて行われる。例えば、前回挙げた例では、犬は、「おすわり!」の命令(先行刺激)を受けて、お座り(反応)を行い、褒美の餌を手に入れる(結果)。これの反復によって、犬が「おすわり」ができるように訓練する。

 「おすわり」と言われて、お座りができるようになった犬は、「おすわり」といわれたときに、行う反応(オペラント行動)を表象しているのだろうか。その行動をしたときに、得られる食べ物(結果)を表象(イメージ)しているのだろうか。訓練ができている動物の場合、それらを表象しているように思われるが、しかし仮に、その表象(イメージ)がなくても、その行動をするかもしれない。なぜなら、ここでの「おすわり!」を聞くことと座ることは、条件刺激と条件反応の関係のように、表象を介していない関係である可能性があるからである。「おすわり」と言われたら、習慣として、座る行動をしているのかもしれない。

 ところで、十分に訓練された状態の犬の場合には、「おすわり」という発話が、その犬に対して、命令としての規範性をもつようになるのではないだろうか。つまり、「おすわり」と言われたときには、お座りして褒められるか、お座りしないで叱られるか、どちらかが後続することを予想するにようになるのではないだろうか。もしある状態を予想するのだとすると、その状態を表象(イメージ)していると言えるだろう。おそらくある状態を表象しないで、その状態を予想することはできないだろう。しかし、犬がこの予想をしているかどうか、どうやって判定したらよいのだろうか。

 ところで、現代哲学では、判断や言語使用の規範性が強調される。判断は、言語なしにはできないし、言語は、使用の規則に従うことなしには成立しない。人間の言語を用いる行為はすべて、言語の規則従うという規範性を持っている。言語が成立して、規範性がそれに付け加わるのではなく、言語は規範的なものとしてのみ成立するのである。したがって、言語の成立よりも、なんらかの規範的なものの理解の方が先である可能性がある。

 ここで「おすわり!」という命令を、犬が、座れば褒められ、座らなければ叱られるものとして理解しているのならば、「おすわり!」という人の声を、規範的なものとして理解しているのである。この場合、「おすわり」という主人の声を聞くことと、座る行為の間の関係は、条件刺激と条件反応の関係のようなものとはことなる。規範を理解するということは、それに従ったときに何が後続し、従わないときに何が後続するかを理解するということである。では、訓練された犬にとって、「おすわり」という声は、本当にこのように規範的なものなのだろうか。

 犬が、「おすわり」という声をきいたとき、従ったときと従わないときに何が後続するかを明確に理解していないとしても、従ったときと従わないときでは後続することに何らかの違いがあることだけは理解するということがありうるのではないだろうか。

 規範性についてのこのような弱い理解を持っていることについては、私たちは証拠を示すことができるかもしれない。それを次に検討しよう。

14 オペンラント条件づけの再説明(20201213)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回述べた「オペラント条件づけ」の説明が全く不十分だったので、説明をやり直します。

スキナーは、オペラント条件づけの実験のためにスキナーのオペラント条件づけの実験では、スキナーは、「スキナー箱」と呼ばれるようになる箱を用いた。その箱は、その中にねずみをいれておいて、ブザーが鳴ったときに偶然ねずみがレバーを押すと餌が出てくる仕組みになっている。ブザー(弁別刺激)が鳴ったときにねずみがレバーを押す行動(オペラント行動)を測定する。

ここには、3つの項目、「弁別刺激(ブザー)」-「反応(レバーを押す)」-「反応結果(餌が得る)」の関係があり、この関係は、「三項随伴性」と呼ばれている。(この三項随伴性の分析は、

先行条件(Antecedents)、行動(Behavior)、結果(Consequences)の頭文字をとってABC分析と呼ばれており、行動療法でよく用いられる。)

 前回の説明では、この「弁別刺激(ブザー)」に言及していなかったので、訂正する必要がありそうです。

 ところで、この弁別刺激は果たして必要なのでしょうか。仮にブーザーがなく、単にレバーを押せば餌が出てくる仕組みにしておければ、ネズミは、餌を取るために、レバーを押すことを学習するでしょう。ただし、この場合には、レバーの知覚が、弁別刺激になっていると考えることが可能です。オペラント行動があるときには、どんな場合にも、私たちはそこに弁別刺激を見つけることができるのではないでしょうか。その例をいくつか上げてみましょう。

 例えば、「おすわり」の命令(先行刺激)を受けて、座り(反応)、褒美の餌を手に入れる(結果)これの反復によって、犬を訓練する。

 例えば、川の特定の場所で鮭を捕まえた熊は、鮭を食べるとき、川の特定の場所の知覚が弁別刺激であり、そこでの魚を探すことが反応であり、魚を捕まえて食べることが結果である。

 例えば子供が、箱を開けてそこにあるお菓子を手に入れることを学習するとき、箱の知覚が弁別刺激であり、それを開けることがオペラント行動であり、お菓子を手に入れることが結果である。

 例えば、子供が、熱いストーブに触らないことで、やけどを避けることを学習するとき、熱いストーブの知覚が弁別刺激であり、ストーブに触らないことがオペラント反応であり、やけどしないことが結果である。

 オペラント条件づけでは、後続する結果とは関係なく偶然に行った行動、つまりその他の原因で行った行動につづいて、自分に都合のよい結果(あるいは都合の悪い結果)が生じるという経験が一回あるいは何度が起こることによって、その行動をするようになる(あるいはしないようになる)はずです。オペラント行動する動物が、後続する結果を意図して行うのではないでしょう。意図してその行動を行うとすれば、それはまた別のメカニズムである。オペラント条件づけは、少なくともそれが動物の進化上最初に登場したときには、結果状態の表象や結果状態を引き起こそうとする欲求や意図なしに、生じたメカニズムだと思われる。

 しかし、オペラント行動に結果状態についてのイメージをもつ動物もいるかも知れない。もしいれば、オペラント行動には、2つの段階の区別が可能であろう。例えば、上の例の、犬の訓練の場合、ご褒美のイメージを持っている可かもしれない。しかし、動物が、結果状態のイメージを持つことをどうすれば、判別できるだろうか。これについて、次回に考え、人間の探索との類似性と違いついても考えたい。

13 走性・反射から、条件反射、オペラント行動へ (20201210)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

#走性、反射、本能

 刺激に対する「走性」と呼ばれる反応を探求と呼ぶことは、人間や動物の(後述の)探究行動の投影ないし比喩によって、そこに含まれていない要素を主観的に付与して記述するならば可能であるが、客観的な記述としては成り立たないように思われる。例えば、太陽の方に花や葉を向ける植物の振る舞いも、高速で早回しをすれば、動物の走性による動きのように見えるだろう。この違いは、人間の時間意識にとっての違いであり、対象そのものの機能の違いではないように思われる。つまり、動物の走性と植物の屈性は、どちらも探求行動のように見える。したがって、全ての動物は探求をする生物であるというならば、植物についてもまた探求をする生物であると言わなければならなくなってしまう。したがって、<(動物も植物もふくめて、すべての生物は探求している>と言うか、あるいは、<(すべての動物ではなく)ある種の動物は、探求する生物である>と言うべきか、いずれかであるだろう。私は、後者をとりたい。

 走性は、学習によるのではなく、遺伝によるものである。探索を比喩的でなく、厳密に使用するならば、遺伝で決定している振る舞いは、探索とは言えないだろう。

#反射 reflex(脊椎反射spinal reflex

 「反射」とは、「動物の生理作用のうち、特定の刺激に対する反応として意識される事なく起こるもの」を指す(Cf. Wikipedia)。反射は、機能によって次の三種類に分類されるようだ。。

 1 姿勢反射(姿勢を保つための反射)

 2 体性反射

   ・腱反射(腱や骨の突端を叩くと、そこに繋がっている骨格筋が収縮する反射)

   ・表在反射(皮膚や粘膜刺激を加えることで、その周りの筋が収縮する反射)

   ・病的反射(起こることが異常である反射)

 3 内臓反射(恒常性の維持、全身の活動性の調節、に不可欠なもの)

 脊椎動物の「反射」は、走性と同じように突然変異で生じ、自然選択されたものであり、遺伝子に組み込まれた反応である。したがって、反射もまた探索とは言えないだろう。(走性、反射、本能行動、の関係は複雑であり、論者によって異なるので、ここでは立ち入らないことにする。ここでは、これらはすべて探索行動ではないと考える。)

 では、条件反射はどうだろうか?

#条件反射(conditioned response)

これについては、パブロフの実験が有名である。

 イヌにメトロノームを聞かせる(条件刺激C)

 イヌにえさを与える(刺激S)。

 イヌはえさを食べながらつばを出す(反応R)。

これを繰り返す。すると、イヌはメトロノームの音を聞いただけで、唾液を出すようになる。

 このSとRの関係は(無条件)反射である。「条件反射」とは、このような無条件反射を前提し、それをもとに成立する。刺激Sに対して無条件に反応Rが生じるとしよう。このとき、Sと同時に刺激Cが与えられることが反復すると、刺激Cだけで反応Rが生じるようになる。これが「条件反射」と呼ばれる。無条件反射の反応とならないものを、条件反射の反応にすることはできない。

 このような条件反射は、生存に次のように役立っている。ある音がきこえ、その後、熊を見かけて、熊に恐怖することが何度もあると、その音を聞いたら、熊を見なくとも、熊に恐怖するようになる。この条件反射が成立することによって、熊の出現により早く用心することができ、生存に有利である。

 この条件反射が成立するためには、ある音をきいたあとで、その音の付近で熊を見かけて、熊に恐怖するという体験の記憶が必要である。それは通常の想起できる記憶である必要はない。(なぜなら、条件反射は意識を介さずに成立するからである。例えば、パブロフの犬の唾液の分泌は、無意識的で自動的な調節によるものである。)ただし、その体験を思い出すことができなくても、それの体験は、動物の脳の中に何らかの仕方で痕跡として残っている必要がある。例えば、ある種のシナプス結合が起こりやすくなる状態、というような痕跡であるかもしれない。

 このような条件反射は、遺伝によって成立するのではなく、記憶によって可能になるので、学習されたものだといえるだろう。(ただし、記憶のメカニズムは、遺伝によって成立している。)条件反射は、経験によって獲得された行動である。しかし探索する行動でも、探索の結果得られた行動でもない。探索は自発的な反応でなければならないだろう。

#オペラント条件付け(Operant Conditioning)

「オペラント行動」とは、「その行動が生じた直後の、刺激の出現もしくは消失といった環境の変化に応じて、頻度が変化する行動」をいう。また「オペラント条件づけ」とは、「自発的に行動された直後の環境の変化に応じて、その後の自発頻度が変化する学習」をいう(Cf. Wikipedia)。

 スキナー箱の実験では、ネズミは、レバーを押したら餌が出てくる経験を繰り返すことによって、レバーを押す自発頻度が増えていく。これは、餌の探索行動である。「オペラント行動」は探索行動の一種である。このオペラント行動が成り立つためには、レバーを押したら餌が出てきたという経験の記憶が必要である。オペラント行動は、推理に基づく行動ではなく、条件付けられた反応であるので、この記憶も、想起される必要はない。何らかの仕方で脳の中にその経験の痕跡があり、その痕跡がはたいて、その行為の自発頻度の増大が生じている必要がある。このようにみてくると、動物の探索行動は、オペラント行動に始まることがわかる。そしてそのためには、記憶の成立が必要であることが分かる。

 では、動物のオペラント行動と人間の探索行動の違いは何だろうか?

12 動物の走性と探索 (20201207)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(このカテゴリーの目標は、「人はなぜ問うのか?」に答えることです。そしてこれに答えるために、まず、「問うとはどういうことか?」を問うことにしました。これに答えるために、まず自然主義の立場からこの問いに答える可能性を追求することにしました。そのために、01から04まで動物の探索について明らかにしようとしました。その過程で、「04 動物は表象を持つのか (20200928)」で、動物の探索と人間の探索の違いを明確にするために、「動物は表象を持つのか?」という問いを立てました。ところで、動物の知覚もまたゲシュタルト構造を持つことが報告されています。つまり、人間の知覚と同じく、動物の知覚もまた地図構造を持つということです。そこで、知覚についてのNoeの議論をしたくなりましたが、そのとき彼の本が手元になかったので、05から人間が理論的問いと実践的問いを問うのは、どういう場合であるかを、考察しました。

 今回から、動物の探索と人間の探索の比較の考察に戻りたいと思います。Noeの知覚論(動物の知覚も人間の知覚も表象ではないと主張しています)にも言及しますが、動物の探索について、「走性」からもう一度考察したいと思います。)

 動物の探索と人間の探索の違いは、探索しているときに、探索していることを同時に意識しているかどうかの違いにある。人間の探索行為は、探索しようと意図することなしには成立しないし、探索しようとする意図を意識していることなしには、成立しない。これは探索行為に限らない。人間の行為は、行為のしていることの反省、行為の意図(行為内意図)の反省なしには、成立しない。

これに対して、動物の場合には(チンパンジーなどが例外になる可能性はあるが)、このような自己意識はない。このような自己意識的な探索がどのように始まるかを検討しよう。

 01で、次のように書いた。「動物は感覚し、そして動き回ることができる」ということにある。動物とは、動き回る生物であるが、動き回るためには感覚が必要である。動物は、動き回って餌をとる。餌を取るためには、餌を感覚する必要がある。動物の運動と知覚は、主として餌の探索のためのものである。つまり、生物が動物となったときから、生物は探索するのであり、動物とは探索する生物なのである。」

 「動物とは探索する生物である」これは正しいだろう。単細胞生物である「原生動物」からすでに栄養を求めて運動するが、そのメカニズムは、おそらく「走性」といってよいのだろう。これが正しければ、原生動物から節足動物(昆虫や、甲殻類)などの運動、行動は、全て「走性」で説明されることになる。

 走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である。

 Wikipediaによれば、「走性」とは、方向性のある外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的行動である。そして、走性は外部刺激によって次のように分類されるようだ。

  走圧性 (barotaxis) – 圧力

  走化性 (chemotaxis) – 化学薬品

  電気走性 (galvanotaxis) – 電流

  走磁性 (magnetotaxis) – 磁場

  走地性 (geotaxis) – 重力

  走水性 (hydrotaxis) – 水分

  走光性 (phototaxis) – 

  走流性 (rheotaxis) – 水流

  温度走性 (thermotaxis) – 温度

  接触走性 (thigmotaxis) – 接触

(おそらくこれら以外の種類のものもあるだろう。)

ゴキブリが、壁沿いを移動するのは、「接触走性」なのかもしれない。蛾が電灯に集まるのは、「走光性」であろう。蚊やハエを捕まえようとしても、それらが素早く逃げるのは、どのような走性なのだろうか。空気の流れに反応しているのかもしれない。蚊がヒトの皮膚から出る二酸化炭素に反応して針を刺して血を吸う。蚊がブーンと音を立てながら近づいてくるとき、蚊は餌を探索していると言いたくなる。ある意味では、そのように言うことは可能である。しかし、蚊は、二酸化炭素に反応して針を刺して血を吸うように、遺伝子によって決定されているのである。蚊は、ヒトの血を探索しているのではなく、突然変異と自然選択の積み重ねによって、そのように行動するように進化したのである。

 たとえば、玄関に、近づいたら明かりが点く照明をつけるとき、照明装置は、人間から出る赤外線に反応している。これは動物の走性による反応とよく似ている。しかし、照明装置は、接近してくる人を探索しているのではない。(その装置を設置した人は、近づいてくる人を探索していると言えるだろう。)これと同じで、走性によって、餌物を捕まえたり、より安全な環境に移動したりする動物は、それらを探索しているとは言えない。

 しかしそうすると、「動物は、探索する生物である」とは言えなくなる。「蚊は、ヒトの血を探している」と言えるのだろうか、言えないのだろうか、どういう語り方が正しいのだろうか。

11 問うために問わないこと (20201029)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(動物の探索の話に戻る予定でしたが、その前に前回の「選択の選択」に関連したことを書いておきたいと思います。)

#あることを問うことは、他のことを問わないことである。

 ここでいう問わない<他のこと>の中には、二種類のことがある。それは次の二つである。

  ・問いの前提

  ・他の問い

 第一は、問いの前提である。私たちがある選択を問うときには、その問いの前提を受け入れる必要がある。問いの前提とは、真なる答えが成立するための、必要条件である。問う時には、その前提の真理性を受け入れコミットし、それを問わないことが必要である。

 第二は、他の問いである。私たちが各瞬間に問うことができる問いは多数ある。しかし実際にはその中の一つの問いを問うことができるだけである。つまり、私たちは、常に多数の問いの中かラ一つの問いを選択している。ある問いに答えるとは、可能な複数の答えの中から一つの答えを選択することである。したがって、複数の問いから一つの問いを選択することは、前回述べた「選択の選択」である。

#「選択の選択」と、問うために問わないことの関係

 問いに答えることは、選択することであり、その答えにコミットすることである。従って、問うことは、コミットメントを求めることである。これに対して、問うことは、問いの前提を受け入れることであり、問いの前提にコミットすることである。問いの前提にコミットするのだから、問いの前提を問う(疑う)ことはできない。ある問い問うためには、その問いの前提を問わないことが必要である。

ただし、この問いの前提へのコミットは、選択の選択によって行われている。したがって、この選択の選択は、より上位の問いへの答えとして生じる。ある問いの選択は、より上位の問いの答えを見つけるために、問いを設定することである。つまり、そこでは、すでにより上位の問いを選択してしまっている。ある問いの選択は、このより上位の問いの選択から生じるのである。

したがって、ある問いを検討するときには、次の二点も重要になる。

 ・問いの前提を明確にすること

 ・その時その問いをとうことで、問わないことになる問いを明確にすること。

10 実践的問いを問うのはどのような場合か(2) (20201026)

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次に(2)願望と意図が葛藤する場合と、(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合を考えよう。

(2)願望と意図が葛藤する場合:ある行為を意図するとき、それと同時には実現できない願望を持つことはありうる。例えば、禁煙をしようと意図するときに、同時にタバコを吸いたいという願望をもつことがありうる。この場合に問題が生じるとすれば、それは「どうやって禁煙をいじするか」という問いであろう。つまり、願望と葛藤関係にある意図をどうやって実現するか、という問いである。

(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合:例えば、パンを焼きたいが、どうすればよいのかわからない場合、「どうやってパンを焼けばよいのか?」という実践的な問いを立てることになる。

(2)と(3)では、実現すべき意図は与えられているので、問題は、その意図をどうやって実現するかである。(2)は意図の実現を妨げるものが願望であるのに対して、(3)では意図の実現を妨げるものが無知である。

この実現すべき意図は、どのようにして設定されるのだろうか。それはより上位の意図(目的)を実現するためであろう。より上位の意図(目的1)を実現するための実践的問い「どうやって目的1を実現すればよいのか?」の答えが、「目的2を実現すればよい」であるとき、「どうやって目的2を実現すればよいのか?」という下位の実践的問いを設定することになる。これが、(2)と(3)の場合の問いになる。

 多くの場合、意図は、より上位の意図を実現するために設定される。この場合には、下位の意図とより上位の意図は、手段と目的の関係にある。上位の目的の実現を実現しようとするとき、大抵は唯一ではなく複数の手段が可能である。それにゆえに、「上位の目的1をどうやって実現すればよいのか?」という問いに答えるとき、選択が必要になる。

 このように考える時、実践的推論について再考する必要が生じる。

   Aしよう

   Bすれば、Aできる

   ∴Bしよう。

この場合、Bすることは、Aするための唯一の手段ではないが、手段の一つである。もしそうだとすると、「どのようにしてAを実現しようか?」という問いに答える時、この答えは、選択に基づいている。つまり、実践的推論は、推論であるけれども、選択によって可能になる。

 ここで、「どのようにしてBを実現しようか?」という問いが立てられ、さらにそれに対する答えも、選択に基づいているとしよう。このときの選択を選択1とすれば、この選択1は、Aを実現するためのB以外の他の目的をC、Dの中から、Bを選択したときの選択を選択2とするとき、選択2は、「選択1の選択」となっている。

 実践的問いを上位の実践的問いとの「二重問答関係」において考える時、「選択の選択」が行われている。つまり、実践的問いは、(1)(2)(3)の全ての場合に、「選択の選択」が行われている。

09 実践的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201023)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 実践的な問いとは、答えが真理値をもたない問いである。例えば、「パンを作るにはどうすればよいだろうか?」の答えが「イーストを手に入れよう」であるとき、この答えは命令文であるので真理値を持たない。ただしこの答えは、「パンを作るには、イーストが必要である」という条件文に基づいており、この条件文は真理値を持つ。これはつぎのような実践的問答推論になっている。

   パンを作ろう。

   パンを作るにはどうすればよいだろうか?

   パンを作るには、イーストが必要である。

   ∴ イーストを手に入れよう。

実践的な問いは、多くの場合、ある目的を実現するために「どう行為したらよいのか」を問うものである。実践的問いの答えは、多くの場合、「…しよう」という事前意図(行為に先行する意図)になる。

 実践的な問いが、<願望ないし意図と現実の衝突>から生じるのだとして、この衝突にはどのような場合があるだろうか。理論的問いの場合と似た仕方で、次のような場合を考えられるだろう。(1)二つ以上の願望が葛藤している場合、(2)願望と意図が葛藤する場合、(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合、である。

(1)二つ以上の願望が葛藤している場合:たとえば、目の前のケーキを食べたいと思い、同時に痩せたいのでケーキを食べるのをやめようと思うとき、この二つの願望を同時に実現することはできないが、同時に持つことはできる。このような葛藤関係にある多くの願望をもつことは日常的にあふれている。葛藤関係にあるのは二つ以上の願望の場合もある。週末に、山に行きたいし、海にもゆきたいし、美術館にもゆきたいし、映画も見たいし、小説も読みたい、などである。

 ところで、このように複数の願望が葛藤関係にあるとしても、常に実践的な問いが問われるわけではない。複数の願望の葛藤関係をそのまま放置しておくことも可能である。実践的な問いが問われるのは、その願望の中のどれかを選択しなければならないときである。では選択しなければならないのは、どのような場合だろうか。例えば、ケーキを目の前にしたとき、私がそのケーキを食べるかどうかを選択しなければならなくなるとすると、それは選択の可能性に気づいたためではないだろうか。あるときあるところで「いまここで…についての選択が可能である」と気づいたときには、そのときそこで…についての選択をすることは不可避になる。なぜなら、選択を先延ばしにすることもまた、そのときそこでひとつの選択をすることだからである。

  では、ケーキを眼にしたとき、食べるかどうかの選択の可能性があると思うのは、どのような時だろうか。各瞬間において、人にとって可能な選択は無数にあるだろう。しかしある瞬間に、人が実際に行う選択は一つであろう。では、可能な選択のなかの一つの選択に取組むことはどのようにおこなわれているのだろうか。多くの可能な選択の中からの一つの選択はどのようにおこなわれるのか? これを「選択の選択」と呼ぶことにしたい。これは、<ある瞬間において、論理的にも現実的にも可能な複数の選択の中から、その時に実際に取組む一つの選択を取り出すこと>である。

選択の選択は、そのときに人が取り組んでいる問いを解くために必要なないし有用な選択を取り出すこととして行われるのではないだろうか。

 たとえば、白い箱に入ったウェブカメラを探しているときに、白い箱の中のケーキを見つけたとしても、それを食べるかどうかという選択は、カメラ探しに必要なないし有用な選択ではないので思い至らないし、かりに思い至ってもすぐに忘れるだろう。

 この(1)の場合には、より上位の問いに答えるために、「どの願望を実現するべきか?」という問いが立てられ、その場合の<二つ以上の願望が葛藤関係にある>という現実と、<より上位の問いに答えたいという意図>が矛盾している。

 次に(2)と(3)の場合について考えよう。

07 理論的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201018)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回述べたように、問いを理論的問いと実践的問いに区別し、問いが発生するのは、<願望/意図と現実が葛藤する場合>だとしよう。このとき、実践的問いが、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることは、わかりやすいだろう。理論的問いについては、わかりにくいかもしれない。理論的な問いについても、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることについては、つぎのように説明できるだろう。

 科学研究において、理論と観察命題が矛盾したりする場合(つまり、理論に基づく予測と実験結果や観察報告が矛盾する場合)に、理論的問いが設定されることになるだろう。そこには二つの事実命題の矛盾という現実がある。しかし、このような矛盾があるだけでは、問いが発生するには、不十分である。それとともに、整合的な認識を得たいという意図が研究者になければならない。その証拠に、金言や格言には矛盾したものが沢山あるが、人々はそれらの矛盾をふつう問題にしないからである。つまり、矛盾する命題があるというだけで直ちに問いが発生するわけではない。<事実命題の矛盾という現実>と<整合的な認識を得えたいという意図>の葛藤があるときに、理論的な問いが発生する。(参照、拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM

ところで、理論的な問いを生じさせる<願望/意図と現実の葛藤>という時の<現実>は、次のように3つに分類できるだろう。

(1)どちらも真であると思われる二つの命題(事実命題、論理命題、価値命題(価値命題が真理値をもつとみなす場合)、など)が矛盾している場合。上の段落で述べた、理論と観察命題の矛盾する場合は、この場合に属する。

(2)ある知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合。

(3)ある事柄について無知である場合、などである。

これらは、それぞれ次の意図との間で葛藤を生じさせる。(a)整合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得ようとする意図、(b)確実で真なる認識を得ようとする意図、(c)ある事柄について知ろうとする意図、である。

これらの3つは、「人はなぜ理論的問いを問うのか?」という問いに対する答えとなりうるだろう。他方で、これとは違った仕方で、次のようにこの問いに答えることもできる。

 理論的問いを問うことは、行為一般と同様に、目的をもつ。その目的は、より上位の問いに答えることである。理論的な問いは、(ア)別の理論的問いに答えるために問われる場合と、(イ)実践的問いに答えるために問われる場合がある。

では、この(ア)(イ)の区別と、(1)(2)(3)の区別は、どう関係するだろうか。

(ア)では、ある理論的な問いQ1に答えるために、別の理論的な問いQ2の答えが必要であるとしよう。そして、Q2の答えがわからないとしよう。このとき、私たちがQ2を問うのは、Q1に答えるためにQ2の答えを知りたいという願望ないし意図のためである。これは、上の(3)のケースになるだろう。

(イ)では、ある実践的な問いQ3に答えるために、理論的な問いQ4の答えが必要であるとしよう。例えば「どうすれば早くパンをつくれるだろうか?」という問いに答えるために、「イーストの発酵に適した温度は何度か?」を知る必要があるとしよう。このとき、Q4を問うのは、Q3に答えるためにQ3の答えを知りたいという願望ないし意図である。これもまた上の(3)のケースになるだろう。

 では、上の(1)と(2)の場合の問いの、より上位の問いはどのようなものになるのだろうか。

06 人が問うのはどのような場合か(2) (20201013)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回挙げた拙論「問題の分類」では、「意図と現実の矛盾」という「問題状況」を、認識問題状況、実践問題状況、決定問題状況、という3つに区別した。現在私は、問いを理論的問いと実践的問いの二つに区別するが、この二種類の区別の関係は、ここでの3つの区別と次のように関係するだろう。

  「理論的問い」「認識問題状況」での問い

  「実践的問い」「実践問題状況」あるいは「決定問題状況」での問い

さて、この論文では、問いは「意図と現実の矛盾」から生じると述べたが、それについて二点修正したい。

 まず、「矛盾」を「衝突」に修正したい。その理由は、この論文でも述べていたことである。つまり、「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」つまり、正確にいえば、意図と現実は矛盾しないからである。そこで、問いは「意図と現実の衝突」から生じる、と言う方がよいだろう。

 第二の修正点は、「意図と現実の衝突」だけでなく「願望と現実の衝突」から生じる場合もあることから、問いは「願望/意図と現実の衝突」から生じる、と変更することである。これを実践的問いで説明しよう。

 例えば「ケーキを食べたい」という願望と「ケーキがない」という事実の衝突がある場合にも、「どうやってケーキを食べようか?」という問いが生じるだろう。とこで、願望と意図の間には次のような違いがある。

<違い1:願望(欲求、欲望など)と願望の衝突、意図と意図の矛盾>

 私たちは互いに衝突する願望を持ちうる(たとえば、「TVを見たい」と「勉強したい」というように)。そして、二つの願望が衝突するとしても、その衝突を解消するために願望を修正しようとはしない。TVを見たいと勉強したいという二つの願望は衝突するが、矛盾するのではない。なぜならこれらは両立可能だからである。

 他方で、私たちは互いに矛盾する意図を持つことはない(たとえば、「TVをみよう」と「TVを見るのをやめよう」は矛盾する)。そして、もし二つの意図が矛盾することに気づいたら、直ちに一方ないし両方の意図を修正するだろう。

<違い2:意図は実現可能性を前提するが、願望は実現可能性を前提しない>

 「Aしよう」という意図は、「Aできる」ということを前提している。Aできるかどうかわからないときには、私たちは「Aしよう」とは思わないだろう。「Aしよう」と思うのは、Aできると信じている場合である。つまり、Aできることを信じているが、どのようにしてそうしたらよいのか解らないときに、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うのである。

 他方で、Aできるかどうかわからないときにも、私たちは、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。つまり、「Aしよう」と意図しているのではなく、「Aしたい」と願望しているときにも、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。

 つまり、「Aするには、どうすればよいのか?」と問う時には、「Aしよう」と意図している時と、「Aしたい」と願望しているときの二種類がある。

05 人が問うのはどのような場合か?(1) (20201007)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(動物が、意識や表象を持つのかどうか、という問題、動物の探索と人間の問いの比較、については、奈良に戻ってNoeの本を検討してからにして、別の論点を議論したいと思います。)

 人が問うのはどのような場合だろうか。一つは、より上位の問いに答えるために、問いを立てる場合である。問いを理論的な問いと実践的な問いに区別すると、次のような4つの場合を想定できる。

①理論的な問いに答えるために理論的な問いを立てる。

②実践的な問いに答えるために理論的な問いを立てる。

③理論的な問いに答えるために実践的な問いを立てる。

④実践的な問いに答えるために実践的な問いを立てる

この③が存在するかどうかについて、カテゴリー「問答推論主義に向けて」の「16」「17」で論じ、③は存在すると論じたが、少し疑念が残るので、③についてはそのカテゴリーで改めて議論することにし、ここでは①②④を想定しておきたい。

このようにより上位の問いに答えるために問うのだとすると、そのまた上位の問いへと無限にさかのぼることになり、説明が閉じない(上位の問いが、明示化されておらず、暗黙的である場合もあるだろうが、その場合でもその暗黙的な問いはどのように発生するのか、を問う必要がある)。

 では、上位-下位の問いの系列の最初の問いは、どのように生じるのだろうか。 問いの発生については、「意図と現実の矛盾」から生じると論じたことがある(拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM)。そこでは次のように述べた。

 「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」

 これについて、次に考えたい。