23 四肢構造と二重問答関係 (5) (20200706)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 廣松は、実践における主体を、二肢性「能為的誰某-役柄的或者」においてとらえる。私たちの行為はすべて社会的文化的に他者から期待されている行為であり、ある役割をもつ行動(役割行動)である。

「挨拶などの日常的な儀礼行為からして演技であり、食事の仕方や排せつの仕方のごときまで、人間行動の様式は文化共同体に内属する他人たちによって期待されている行為方式に応ずる役割演技の構制になっており、まさに「呼吸の整え方」から「箸の上げ下ろし」に至るまで、人間行動はことごとく役割行動として営まれていると言って過言ではない。」(『存在と意味』第二巻、p.107)

「能為的主体の他の能為的主体の期待に応えての行動を役割的行動と呼ぶ。」(『存在と意味』第二巻、p.99)

一定の役割行為をまとめて行うことで、社会の中である<役柄>を行うことにある。役割行為を行うことは、ある役柄を引受けることである。ある<役柄>はいくつかの<役割>の束であり、ある<役割>はいくつかの<行為>の束である、と言えるだろう。それゆえに、私たちが行為する時、「役柄的或者」として行為することになる。私たちは、常に何らかの役柄、「男性」「夫」「父親」「会社員」「課長」などとして行為する。

 ところで、廣松は「役柄的或者」として行為する者を「能為的誰某」とよぶ。例えば、「人が課長として、部下に指示する」とき、「人」が「能為的誰某」である。この時の人は、「社会人」や「会社員」や「男性」などの役柄をまとっているかもしれない。これらの個々の役柄を脱ぎ捨てることはできるとしても、全ての役柄を脱ぎ捨てることはできない。「裸の主体」「裸の私」というものは存在しない。<形相のない質量>がないように、<役柄のない行為主体>は存在しない。

 そこで能為的誰某自身もまた、さらに分析するならば、二肢構造「能為的誰某-役柄的或者」を持っていることが分かるだろう。たとえば「課長は、コロナ感染者として、会社を休む」というとき、先の「課長としての人」自身は、「コロナ感染者」という「役割的或者」と結合するとき、「能為的誰某」となる。このように主体の二肢構造についても、対象の二肢構造の場合と同様に、第一肢はそれ自体が下位の二肢的統一態でありうるし、この二肢的統一態自体が、第一肢となって、より上位の二肢的統一態を構成しうる。

 主体の役柄は、他の役柄と結合している。例えば、「父親」の役柄は、「母親」「子供」「息子」「娘」などの役柄との関係において成立し、「課長」の役柄は「部長」「係長」などの役柄との関係において成立する。したがって、役柄的或者は、他の役柄的或者との、役柄の相互承認によって成立する。

 実践的主体の二肢の在り方と、実践の対象(財態)の二肢の在り方は、次のように関連している。

「財態「実在的所与-意義的価値」の現前様態は主体「能為者誰某-役柄者或者」の形成相在に応じて変容し、返っては亦、主体の在り方は財態の現前仕方に応じて変貌する。」(『存在と意味』第二巻、p.190)

 次に、この実践の四肢構造を二重問答関係の観点から考察したい。

22 四肢構造と二重問答関係 (4) (20200704)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 廣松渉は、『存在と意味』第1巻では、「認知的関心の構えに対して展ける」認識的世界を説明し、第2巻では、「実践的な関心の構えに対して展ける」実践的世界を説明する(全集16巻p.5)。実践的世界は、用在的財態(zuhandenseinede Gueter)と人格的主体(能為的主体)からなる。実践における対象は、二肢性「実在的所与-意義的価値」を持つとされ、実践における主体は、二肢性「能為的誰某-役柄的或者」を持つとされる。

 認識における四肢構造は、次のように語られた。

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

これに倣って言うならば、実践における四肢構造は次のようになるだろう。

  <能為的誰某が役柄的或者として、実在的所与を意義的価値として扱う>

 まず、対象(財態)の二肢構造を説明しよう。

「実践的な関心の構えに対して展らける世界現相の分節態(=用在的財態)は、そのつどすでに、単なる認知的所与より以上の或もの(価値性を”帯びた”或るもの)として覚知されている。」(全集16巻p.5)

認識というのは、起源においても本質においても、実践(行為)のためのものであるから、認識は実践の一断面である。したがって認識の対象は実践の対象に含まれる。この実践の対象は、<実在的所与―意義的価値>という二肢性をもつが、認識の対象は価値性を帯びていないので、認識の対象は、<実在的所与>となる。これが実践の対象となる時には、何らかの価値性が付加されることになる。二肢性をもつある実践の対象が、実践的所与として、別の価値を付加されて、別の実践の対象となることがある。実践の対象は、常により上位の実践にとっての<実在的所与>となりうる。

 ここで簡略化のために、二肢的二重性が<BとしてのA>とか<Aより以上のBとして>と語られるとき、このAを「第一肢」Bを「第二肢」と呼ぶことにしよう。認識でも実践でも、ある対象の二肢の統一態(廣松はこれを「等値化的統一態」と捉える)において、この第一肢は、それ自体が下位の二肢的統一態でありうるし、この二肢的統一態自体が、第一肢となって、より上位の二肢的統一態を構成しうる。この下降や上昇がどこかで停止するだろうが、しかし対象の二肢構造は、認識や実践の構造であるので、認識や実践が成立する限り、その対象は二肢性を持っている。同様のことは、主体の二肢性についても言えるだろう。

 さて、実践の対象の二肢性をより詳しく説明しよう。

 「ピカピカ・キラキラ・テカテカ・チカチカ」(p.8)感性的体験は、一定の表情価(情動誘起価+反応性向価)をもっている。「白々・黒々・赤々・青々」という色覚も同様であり、「ネバネバ・スベスベ・ベトベト・ツルツル・ブワブワ」という触覚も同様である。さらにいえば「”無表情”もまた一種の表情にほかならないのである」(p.8)

 「ピカピカ」という表情価をもったものは、二肢性(机の表面という実在的所与 + ピカピカという表情価(意義的価値))を持っているが、これに「新品みたい」とか「清潔そう」とか「高級そう」などの意義的価値が添付すると、それ自体が別の実在的所与となる。

 このような表情価は低次の意義的価値の一つである(cf.13)。

 「まず知覚的認知が行われ、→それにともなって情動的興奮が生じ、→そこで一定の即応的行動が起始する」といった三段階の継起で考えられがちであるが、それはむしろ特別な場合であって、一般的には、「三契機が同時相即的に体験される」(p.7)という。純粋に認識的な関心で世界を見る時には、このように継起するかもしれないが、大抵は実践的な関心の中で生きており、実践的な関心にたいして世界は、表情価(意義的価値)をもったものとして現れるのである。それゆえに、この三契機は「同時相即的に」体験される。

 実践における対象(財態)がもつ意義的価値には、どのようなものがあるのだろうか。

 廣松が、例として上げるのは、一つは、価値=情動説の論者が説く「快・不快、好・悪、真・贋、善・悪、美・醜、聖・俗である。これは価値を主観的なものと考える「主観価値説」であるが、これは「対象そのものは価値を持たず、価値はあくまで主観内部の特殊な心的状態にすぎない」と考える立場である。これに対して、廣松は、価値=感情説をとらない。それは、「実在的所与」はレアール(個別的・定場所的・変易的)なものであるのに対して、「意義的価値」はイデアール(普遍的・超場所的・不易的)な存在性格をもつ(p.153)と考えるからである。廣松は、これらの価値について、価値=感情説とは異なった理解をするが、これらの論者が「感情的」な価値と考えているものも想定している。

 廣松が取り上げるもう一つの例は、経済学上の価値論であり、商品の使用価値と交換価値である。

これらの例とは別に、意義的価値について、より一般的に次の7つの区別が説明されている。

(1)興発的価値感得(歓好-嫌嫌)

(2)比較認的価値評価(撰取-貶置)

(3)欲動的価値希求(渇抑-抑斥)

(4)当為的価値応対(促迫―禁制)

(5)期成的価値企投(追求-忌避)

(6)照会的価値判定(適じゅう-反か)

(7)述定的価値判断(承認-否認)  (p.46)

『存在と意味』第二巻、第一編、第一章での財態の二肢性についての説明は、印象的な具体例による説明が少なく、正直なところ全体として非常にわかりにくい。この説明のわかりにくさの理由の一つは、実践の対象が、(理論的認識とは対比される)実践的な認識の対象として考察されており、行為の対象として考察されていないことにあるように思われる。この点については、主体の二肢性の説明を確認してから検討したい。

 次に、実践における主体の二肢性「能為的誰某-役柄的或者」をみよう。

21 四肢構造と二重問答関係 (3) (20200626)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(行為の四肢構造を考察すると予告したが、帰省中で手元に廣松の『存在と意味』第2巻がないので、前回の内容をもう一度検討しておきたい。)

 前回、認識の四肢構造と二重問答関係を関連付けるために、四肢構造を次のように解釈した。廣松が、認識の四肢構造を論じる時に念頭に置いているのは、主として対象の知覚行為である。そこでは、彼は命題形式を持つ認識内容について言及していない。しかし、仮に知覚報告として言語化されていない知覚行為であっても、すでに言語的に分節化されている。したがって、知覚が四肢構造をもっているのならば、認識内容が命題形式を持つ場合にも、四肢構造が成り立つだろう。

 他方で、発話は問いに対する答えとして明確な意味をもつのだとすると、認識は問いに対する答えとして成立することになる。そして、認識が四肢構造を持つのならば、問いに対して答えることも四肢構造をもつことになる。それは、次のように理解できるのではないだろうか。

・知覚における対象の二肢構造

  <<ガンの画像>としてのレントゲンの白い部分>

知覚のこの二肢構造は、発話の「レントゲンの白い部分は、[ガンの画像]Fである」という焦点構造に対応している。知覚のゲシュタルト構造(地図構造)が<として>構造に対応する。そして、知覚の地図構造が、発話の焦点構造に対応していると考える。

・主体の二肢構造

 <「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」を問うものとしてのひと>

発話は、大抵は(少なくとも暗黙的に)問いに対する答えとして成立する。したがって、ひとは問う者として、発話する。問うことは探求行為であり、探求行為には、目的がある。その目的を実現できれば探求は成功であり、その目的を実現できなければ、探求は失敗である。

 知覚にも成功と失敗がある。錯覚、幻覚はもとより、よく見えない、よく聞こえない、というのも知覚の失敗である。つまり、知覚も目的を持つということである。その目的は、問いの答えを見つけるということである。

 理論的な問いに対する答えを求める過程は、大抵は推論となる。問いの答えが知覚報告である場合、知覚報告は言語的な推論の結論として導出されるのではない。しかし、問いに答えるために知覚にとりかかる時、その知覚行為は、一種の探索行為である。探索行為としての知覚は、推論と同じく、問いに答えるプロセスとして成立する。知覚において、ゲシュタルトを知覚するとは、ある箇所に注目するということであり、それは発話において、焦点部分に注目することに似ている。

知覚のゲシュタルト構造が、知覚の<として>構造であり、発話の焦点構造が、発話の<として>構造である。発話の焦点位置は、その発話がどのような問いに対する答えであるかによって決まる。(もちろん、言語を持たない動物の知覚もゲシュタルト構造をもつだろう。それは、言語を持たない動物も探索するからである。すべての動物は、探索行動をおこない、そのための感覚器官をもつだろう。知覚がどのようなゲシュタルト構造をもつかは、探索の目的に依存するだろう。)

 廣松は、『存在と意味』第一巻の第一篇で「現相的世界の四肢構造」を論じ、第二編で言語論を扱うのだが、残念ながらその言語分析において、四肢構造を展開していない(それはなぜだったのだろうか?)。私たちは、上記のような仕方で、命題形式の認識についても四肢構造を読み取ることで、四肢構造論をより拡張できるだろう。

 ただし、このように四肢構造を理解する時、廣松が考えていた。<現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関している>という対応付けは出来なくなる。(対象の二肢構造と主体の二肢構造がどう関係するのか、については、行為の四肢構造を考察した後で改めて考えたい。帰省から戻る来週になります。)

20 四肢構造と二重問答関係 (2の仕切り直し) (20200623)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

廣松の言う認識の四肢構造は、

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

であるが、これを簡略化すると次のようになる。

  <ある主体が或者として、ある所与を或物として、認知する>

この四肢構造論は、私には、非常に啓発的であるように見えるが、しかし、この四肢構造論をさらに展開したり応用したりするような研究は現れていないように思われる。そこで、「二重問答関係」を用いて、四肢構造論を発展させたいというのが、私の意図である。

 しかし、前回とりかかった「四肢構造論」と「二重問答関係」の結合はうまくゆかなった。

前回最後に、「廣松が、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関しているという、理由を考察したい」と述べたが、それを考察しても、「四肢構造論」と「二重問答関係」の結びつけはうまくゆきそうにないので、以下では、仕切り直して、前回部分を丸ごとやり直すことにする。

#二重問答関係の例1

   犬小屋を作ろう思って、ホームセンターの木材売り場に行き、「どの板がよいだろうか?」と問い、ある木の板をみて「この木はなにだろう?」と問い、「これは杉の板だ」と答える。

「これは杉の板である」から、「杉の板は丈夫ではないが、加工しやすい。犬小屋の板はそれほど丈夫なものである必要はない。この杉の板は安い。この杉の板がよいだろう」と答える。

Q2「どの板がよいだろうか?」→Q1「この木は何だろう?」→A1「これは杉の板だ」→A2「この板がよいだろう」

このような二重問答関係があるとしよう。ここでは、次のことが成立している。

・犬小屋を作ろうとするものとしてQ2を問う。

・Q2に答えようとするものとしてQ1を問う。

・Q1を問う者として、A1を答える

・Q2を問う者として、A2を答える。

・この例でわかるように、問うのは、より上位の目的のためである。「その目的の実現を実現するにはどうすればよいのか?」という実践的な上位の問いをとくために、問いを立てるという関係にある。

・この例でわかるように、答えるのは、問う者として、であると言えそうだ。他者から問われたときには、問う者と答える者が同一でないが、そのときでも、答える者は、問われたものとして答えるのである。答えるのは、問う者として(あるいは問われたものとして)答えるのである。

以上を四肢構造に即して表現すると次のようになる。

 <Q1を問う者は、より上位の問いQ2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとは、Q2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとは、Q1を問う者として、A1を答える>

#二重問答関係の例2

 Q2「この人は健康だろうか?」という問いに答えるために、「Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」を問い、A1「それは、肺がんの画像(意味的所識)である」と答える。

この答えから、Q2の答えA2「この人はガンに侵されている」を得る。

 <ひとはQ2を問う者として、Q1を問う>

 <ひとはQ1を問う者として、答えA1を得る>

 <ひとはQ2を問う者として、答えA2を得る>。

廣松のいう認識の四肢構造は、次であった。

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

この四肢構造で、上記の問答関係を表現すると、例えば次のようになる。

  <人は、Q1を問う者として、答えA1を得る>

対象の側である答えA1は、二肢構造になっていないが、しかし答えの命題は、問いにおいて既に与えられている部分と、答えの中で新しく提供される焦点部分に分かれており、その焦点構造を<として>構造として解釈できる。それは次のようになるだろう。

  <レントゲンの白い部分は、[ガンの画像]Fである>

  <<ガンの画像>としてのレントゲンの白い部分>

上記の例のなか、<ひとはQ2を問う者として、Q1を問う>については、対象の側の二肢構造を、   

  <(空白)>としてのレントゲンの白い部分>

のように解釈できるだろう。

廣松は、認識の四肢構造を、知覚を念頭に分析しているので、対象が二肢構造(<として>構造)をもつことになる。これは、知覚のゲシュタルト構造(地図構造)とうまく一致する。しかし、認識を「私はpを知っている」などの命題的態度として捉えると、「知識についての問答関係論」(これについては、いずれ説明します)には都合がよいのだが、四肢構造論を当てはめることに無理があるのかもしれない。

次に行為の四肢構造を考察しよう。

19 四肢構造と二重問答関係(2) (20200622)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

認識の四肢構造は次のようなものであった。

<能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

対象の側にも主体の側にも、「として」構造という二肢構造がある。これが四肢構造である。対象がどのようなものとして現れるかは、主体がどのようなものとして対象を見るかに依存している。前回の例で言うと、<人(能知的誰某)は、医者(能識的或者)として、レントゲン写真の白い部分(現相的所与)を肺がんの表象(意味的所識)として認知する>となる。

#対象の「として」構造と問答

対象の二肢構造(「として」構造)は、<認識が問いに対する答えとして成立する>ということによるのではないだろうか。たとえば「AはBである」という認識の場合、それは次の問いの答えとして成立する。

Q1「Aは何か?」 A1「AはBである」

この答えは、「AをBとして」とらえている。上の例では、認識の主体は、次の問答を行っている。

  Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」と問い、「それは、肺がんの表象(意味的所識)である」と答える。

#主体の「として」構造と問答

では、主体の「として」構造は、認識における問答とどう関係しているのだろうか。

認識が成立する時、主体が次の問答を行っているとすると、

Q1「Aは何か?」 A1「AはBである」

Q1を問う者が、A1を答える者として、認識しているのだろうか。上の例でいうと、<Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」と問う人(能知的誰某)が、「それは、肺がんの表象(意味的所識)である」と医者(能識的或者)として答える>のだろうか。つまり、能知的誰某と能識的或者の二肢に、問うことと答えることを割り振ることができるのだろうか。

 それとも、この割り振りは間違っており、問うことも、答えることも、<医者(能識的或者)としての人(能知的誰某)>がおこなうのだろうか。「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」という問いよりもさらに、専門的な問い、たとえば「レントゲン写真の肺の左下のこの小さなうっすらと灰色になった部分は何か?」というような専門家でなれば設定できないような問いを考えるならば、<医者(能識的或者)としての人(能知的誰某)>が問うのだという方がよいかもしれない。この場合には、二肢構造を持つ主体が、問いを設定し、それに答えることになる。

 この二つの解釈の内、どちらが正しいのだろうか?

廣松は、四肢の関係について次のように述べている。

「われわれは、能知的主体が、[…] 現相的所与の帰属者たるかぎりで「能知的誰某」と呼び、能知的主体が […] 意味的所識の帰属者たる限りで「能識的或者」と呼ぶことにしたいのである」148

つまり、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関していると考えている。四肢の関係をこのように理解する限り、廣松ならば、二つの解釈のうちの、前者が正しいというだろうと考える

次に、廣松が、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関しているという、理由を考察したい。

18 四肢構造と二重問答関係(1) (20200620)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

廣松渉(1933.8.11~1994.5.22)は、戦後日本のもっとも卓越した哲学者である。あるいは明治以後のもっとも卓越した哲学者だと言えるかもしれない。彼は、出世作『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房,1975年)において四肢構造論を展開している。彼の哲学全体は、主著『存在と意味 事的世界観の定礎』の三巻で計画されていた。

第一巻「認識的世界の存在構造」

第二巻「実践的世界の存在構造」

第三巻「文化的世界の存在構造」

残念なことに出版されたのは、第一巻と第二巻の第二編までであり、病気のために、第二巻第三篇と第三巻は出版されなかった。

廣松は、従来の「物的世界像」に対して「事的世界観」を主張した。物的世界像の「実体主義」に対して、「関係の一次性」という用語で関係主義的存在観を主張した。実体が自存して第二次的に関係し合うのではなく、関係こそが第一次的存在であるという主張である。この関係の基本となるのが、四肢構造である。

『存在と意味』の第一巻では、認識の場面での四肢構造が説明され、第二巻では行為の場面での四肢構造が説明されている。まずは、第一巻の認識の四肢構造を紹介したい。

#認識の四肢構造

 第一巻では、「認知的に展らける世界現相」(xvii)の存在構造を扱う。

認知的に展らける「現相的世界」は四肢構造をもつとされる。認識の対象の二肢性と主体の二肢性である。

#認識の対象の二肢性

 認識は、「として」構造をもち、ある対象を「より以上の或るもの」として捉えることである。認識は、対象=「現相的所与」を「より以上のもの」=「意味的所識」として認識する、という二肢性を持つ。

 AをBとして認識する時、Aは所与とされるが、しかしAも実はすでに二肢構造を持っている。二肢構造を持つAが.Bとの関係において所与となるのである。

 たとえば、私が、コンビニにあるケーキをクリスマスケーキとして認知するとき、コンビニにあるケーキは所与であり、それ(現相的所与)を「クリスマスケーキ」(意味的所識)として認知するのであるが、しかしコンビニにあるその対象を「ケーキ」として認知する時に、すでに二肢構造が成立している。それは、「白いもの」を「ケーキ」として認知することかもしれない。そしてその白いものもまた、対象を「白いもの」として認知するという二肢構造をもつ。認知は、常に、何かを何かとして捉えるという二肢構造において成立するので、裸の対象があるのではない。所知は、所知―所識関係の項として成立する。所知であるものをこの関係から取り出して、対象化したときには、それはすでにあるもの「として」捉えられており、二肢構造をもつ。(この議論は、アリストテレスの「第一質料」に始まる。)

 このような対象の側の「として」構造は、解釈学や現象学で指摘されていたことであり、新しい指摘ではない。廣松の新しさは、認識の主体の側にも二肢性を指摘したこと、そしてその二つの二肢性が相関していることを指摘したことにある。

#認識の主体の二肢性

認識において、主体もまた「より以上の或るもの」として認識する。その二肢性は、一般的には、「能知的誰某」がそれ以上の「能識的或者」として認識するといわれる(『廣松渉著作集』第15巻136)。

コンビニのケーキを見て、クリスマスケーキとして認知するのは、現代の日本に生活する人間としてであり、だれでもそう認知できるのではない。

レントゲン写真の影を見て、肺がんがあると認知できるのは、訓練を受けた医者としてであり、だれでもそう認知できるのではない。

人(能知的誰某)は、医者(能識的或者)として、レントゲン写真の白い部分(現相的所与)を肺がんの表象(意味的所識)として認知する。

#認識の共同主観性

 牛を見て、「ワンワン」という子供がいるとしよう。大人は、その子供が、牛を犬だとおもっていると理解する。この理解は、次のようにして可能である。

その大人は、その子供「として」、その牛を、犬「として」見る。

ここでは、大人は、その子供の視座から牛を見ている。廣松は、これを「視座照応的」(『廣松渉著作集』第15巻146)、と呼び、照応関係の一種とみている。このような照応関係によって、共同主観性が成立する。

「両人は人称的能知主体としては別々でありながら、一個同一の「所識」を共帰属せしめている者としては同一の能知的主体である。」(『廣松渉著作集』第15巻147)。

「意味的所識」は自分にとってだけでなく他人たちにとっても存立するという間主観性、共同主観的同一性の故に、単なる自分一人の私念ではないこと、この間主観的妥当性によっても存立性をもつ。」(『廣松渉著作集』第15巻197)。

この一人称的主体以上の或者は、意味的所識が、共同主観的に同型化している限りで「共同主観的な或者」である。

能知は、「人称的誰某」以上の「共同主観的或者」である。(198)

「われわれは[…]「現相的所与」が「意味的所識」として「能識的或者」としての「能知的誰某」に対妥当するという二つのレアール・イデアルールな二肢的成態の連関、都合、四肢的な構造的連関態を挙示する。そして、この四肢的構制態をわれわれは「事」と呼ぶ」

(199)

(以上の四肢構造論の紹介の大部分は、2018年の秋冬学期講義「問答の観点からの哲学」第12回(20190111)からの転載である。

https://irieyukio.net/KOUGI/tokusyu/2018WS/2018ws12Hiromatsu.pdf )

 次に、この認識の四肢構造を二重問答関係の観点から分析しよう。

17 理論的問いは、実践的問いの上位の問いになりうる? (20200618)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 実践的な問いに答える推論の前提は、意図表現の命題であるか、因果関係を記述する真理値を持つ命題である。それゆえに、意図表現の命題は、実践的な問いの答えとして与えられうる、また因果関係を記述する真理値を持つ命題は、理論的な問いの答えとして与えられうる。したがって、実践的な問いの下位の問いは、実践的な問いであるか、理論的問いであるかのどちらかである。

 これに対して、理論的な問いに答える推論の前提は、すべて真理値を持つ命題になる。真理値を持つ命題は、理論的な問いの答えであって、実践的命題の答えではない。それゆえに、理論的な問いに答える推論の前提を実践的問いによって得ることはできない。つまり、実践的な問いの上位の問いが理論的な問いであることはない。

 それでは、前回の反例をどう考えればよいのだろうか?

前回の反例:「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために、「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的な問いを立てることがある。

厳密に言うならば、「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために立てる最初の実践的な問いは、「この木の実の中がどうなっているかを知るには、どうしたらよいのだろうか?」という問いである。その答えとして「この木の実を割って中を見ればよい」が得られ、それに基づいて「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的問いを立てることになる。これは次のような問答の流れになるだろう。

「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」(理論的問い)

「この木の実の中がどうなっているかを知るには、どうしたらよいのだろうか?」

「この木の実を割ればよい」

「この木の実を割るにはどうしたらよいのだろうか」

「木づちで叩こう」

「木の実の内部は二つに分かれている」

 私たちは、すべての理論的問いについて、「この問いの答えを知るにはどうしたらよいのだろうか」という問いを立てることができるが、この問いは実践的な問いであろう。なぜなら、この問いは、「…するためには、どうすればよいのか」という形式を持っており、この形式の問いは実践的問いだからである。この問いに答えるためには、実践的推論が必要である。

 この問いの答えが命令や指令だとすると、厳密に言えば、それは真理値を持たないが、しかし正誤はありうるだろう。例えば「うまく卵焼きを焼くにはどうしたらよいのだろうか」という問いの答えを実行して、卵焼きをうまく作れたら、その答えは正しく、うまく作れなければ、答えは正しくないと言える。この問いの答えが「よくかき混ぜるべし」という指令であるなら、この答えは真理値を持たない。もしこの問いの答えが、条件文「うまく卵焼きを焼くには、よくかき混ぜればよい」だとしても、後件が指令であるので、やはり真理値を持たない。

 反例についての考察をまとめよう。「この木の実を割るにはどうすればよいのだろうか?」という実践的な問いのより上位の問いが、「この問いの答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いであるとすると、実践的ない問いのより上位の問いは、実践的な問いである。しかし、「この問いの答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いのさらにより上位の問いは、理論的な問いである。したがって、実践的な問いのより上位の問いが、理論的な問いである場合が存在することになる。

 Q1「問いQ2の答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いのより上位の問いは、問いQ2であるとしよう。この問いQ2は、理論的な問いである場合と実践的な問いである場合がある。ここではさしあたり、この問いQ2が理論的な問いであるとしよう。このQ1の答えをA1、Q2の答えA2とするとき、ここでは、Q2→Q1→A1→A2という二重問答関係は成立していない。なぜなら、ここでのQ1の答えA1は行為の指令であるので、理論的な問いQ2に答える推論の前提にはなりえないからである。

(ちなみに、このことは、Q2が実践的な問いであるときも同様である。Q2が「どうやって肉じゃがを作ればよいのか?」という実践的問いであるとするとき、Q1は「Q2の答えを知るにはどうすればよいのか?」となり、その答えA1が、たとえば「ググればよいのです」であるとき、A1は、A2を導出するときの前提にはならない。)

 ここではQ2→Q1→A1→A2という二重問答関係が成立しておらず、A1からA2に至る過程が単純な推論ではなく、すこし複雑な過程になる。例えば、その一つの場合は、A1からA2にたどり着くには、A1の指令を実行して、その結果から得られた命題がA2であるという場合である。Q2→Q1→A1(指令)→指令の実行→実行の結果→A2、というような流れになるだろう。

 次回からは、「二重問答関係」と、廣松渉のいう「四肢構造」の関係を分析しよう。

16 二重問答関係とは? (20200617)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 <推論は問いに答えるプロセスである>というのが、問答推論主義の出発点である。そして、推論は、問いと答えの関係の一種である。しかし、問いの答えを得るときに、常に推論を用いるわけではない。例えば、「それは何色ですか?」に対して「これは赤色です」と知覚判断で答えるとき、推論を用いていない(知覚もまた推論であるという主張については、後に考察したい)。また「何を食べますか?」に対して意思決定によって「うどんにします」と答えるときにも、推論をしていない。「なぜうどんにするのですか?」と問われて、例えば「なんとなくです」と答えるとき、少なくとも意識的には推論によって「うどんにします」と答えたのではないことが明らかだ。このように、問に対して、推論で答えるときもあれば、推論以外で答えることもある。

 ところで、問に推論で答える場合であれ、その他の仕方で答える場合であれ、どちらの場合であっても、問うときには、常にとは言わないまでも大抵の場合、より上位の目的がある。より上位の目的は、問いとして理解できるだろう。つまり、大抵の場合、問いは、より上位の問いを解くために立てられる。ここにつぎのような「二重問答関係」が成立する。

  Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1が立てられ、Q1の答えA1が得られて、A1を前提にして、そこから、Q2の答えA2が得られる>という関係を示している。

 二重問答関係には、いろいろなものがある。

 ここで、問いを、真理値を持つ命題を答えとする理論的な問いと、真理値を持たない命題を答えとする実践的な問いに区別することにしよう。理論的な問いは、より上位の理論的な問いを解くために立てられる場合と、実践的な問いを解くために立てられる場合がある。これに対して、実践的な問いは、より上位の実践的な問いを解くために立てられるが、より上位の理論的な問いを解くために立てられることはない。

 これまで、このように<実践的な問いが、より上位の理論的な問いを解くために立てられることはない>と論じたことが何度かあるが、果たしてそうだろうか。例えば、「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために、「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的な問いを立てることがあるのではないだろうか。

 これを検討しておきたい。

15 科学研究における事実の明示化 (20200531)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 XとYが同義の表現であるとしよう。この場合、次の理由でXもYも保存拡大である。Xの導入規則と除去規則のXにYを代入したものは、Yの導入規則と除去規則になる。したがって、Xの導入規則と除去規則を連続して適用した結果できる推論は、Yを用いて推論できる。つまり、このようなYとXがあるときには、XもYも保存拡張である。この場合、Xは他の語彙の意味を変えないのだから、意味の明示化に使用できる。つまり、XはYの意味の明示化に使用できる。(たとえば、「りんご」と「アップル」が完全に同義の表現だとしよう。このとき、「りんご」をもちいて、「アップル」の意味を明示化できる。つまり、「アップル」を使用した文に、「りんご」を代入して、「アップル」を使用した文の意味を明示化できるからである。)

 この言語からYを除去した言語(もとの言語の断片)をつくるとき、その言語において、Xは保存拡大であるかもしれないし、非保存拡大であるかもしれない。

 この言語において、Xが保存拡大であるとしよう。この場合Xは、他の語の意味を変えない。したがって、Xを含まない他の命題の意味を変えない。したがって、Xは他の命題の真理値を変えない。推論によって語「X」の意味を明示化できるとともに、対象Xに関する事実を明示化できる。ただし、この事実の明示化は、分析的な明示化である。

#日常生活や科学において、事実を解明するとは、新しい真なる命題を発見することである。対象「X」は語「X」の導入によって成立する。もし導入した「X」が保存拡大であれば、導入前の命題の真理値は変化しない。したがって、新しく真となる命題は「X」を含む命題だけである。「X」を含まない命題の中には、新しく真となる命題はない。

 「X」が非保存拡大であれば、「X」の導入は、導入以前に成立していた古い命題の真理値を変化させる。綜合的な新しい真なる命題を発見するためには、語「X」が非保存拡大でなければならない。

 例えば「H2O」は非保存拡大である。

   ① xは水である┣xはH2Oである  (H2Oの導入規則)

   ② xはH2Oである┣xは水素と酸素で出来ている (H2Oの除去規則)

   ③ xは水である┣xは水素と酸素でできている

最後の推論は、「H2O」を使用せずには不可能であった。それゆえに「H2O」は非保存拡大である。この推論③によって、水についての新しい真なる命題が発見され、水についての新しい事実が発見されたことになる。

14 保存拡大の語彙による事実の明示化 (20200514)

(これまでの話をまとめよう。06回以後の議論をまとめよう。論理的語彙と疑問の語彙は、拡大保存であり、その他の語彙の意味を変えないので、その他の語彙の意味の分析に利用できる。

(自然数論と幾何学の語彙が保存拡大であるかどうかは、ペンディングにして)科学の語彙や日常語は(少なくともその一部は)非保存拡大である。)

 ここでは、表現の意味の明示化に利用できる論理的語彙と疑問の語彙は、同時にまた事実の明示化に利用できることを示したい。

 推論関係によって表現の意味が明示化したり、確定したりできるのは、推論関係が、表現の意味を変えないからである。もし推論関係が表現の意味を変えてしまうとすれば、それによって表現の意味を明示化することはできないだろう。問答によって表現の意味を明示化できるのは、問答が表現の意味を変えないからである。

 論理的な語彙の使用が、他の語彙の意味を変えないとすれば、他の語彙による事実の記述の意味だけでなく、事実の記述の真偽にも影響を与えない。それゆえに、論理的推論は事実の分析に役立つ。事実の論理的分析によって得られた命題(つまり事実についての記述から推論して得られた命題)もまた事実の真なる記述であり、事実を表現している。

 ところで、論理的な語彙の使用が、他の語彙の意味を変えず、それらを持ちた表現の意味の明示化が可能になる、ということは証明できたとして、では実際に表現の意味を明示化することはどのように行われるのだろうか。たとえば、しりとりは、語の意味を変えないゲームである。しかし、しりとりをしても語の意味が明示化できるわけではない。同じように、

  p⊃r、p┣r

という推論は、pやrの意味を変えない。それゆえにこそ、pやrには任意の文を代入できる。しかし、このような推論は、pやrの意味を何ら明らかにしない。

では、推論が表現の意味を明示化できるのはどのような場合だろうか。「これはリンゴである」の導入規則(上流推論)と除去規則(下流推論)で考えてみよう。

これはマッキントッシュである┣これはリンゴである。

これはイブがエデンで食べた果物である┣これはリンゴである。

  これはリンゴである┣これは果物である

   これはリンゴである┣これはバラ科の高木の実である。

これらの推論によって、「これはリンゴである」の意味は明示化される。これらの推論は、ブランダムが実質推論と呼ぶものであり、これらの実質的推論を学習することが語「リンゴ」を学習することであり、これらの実質推論によって意味が明示化されている。

 これらの前提と結論には、論理的語彙(論理結合子)は使用されていないが、推論関係を示す「┣」を「ので」で表現すると次のようになる。

これはマッキントッシュであるので、これはリンゴである。

これはイブがエデンで食べた果物であるので、これはリンゴである。

  これはリンゴであるので、これは果物である

   これはリンゴであるので、これはバラ科の高木の実である。

推論は条件文に言い換えることができるが、実質推論の場合、この条件文が真であることは、語の意味に依存する。言い換えると、語の意味がこの条件文で表現されている。論理的語彙「ので」をもちいたこれらの条件文は、「これはリンゴである」の意味を明示化している。

 推論の前提や結論の中で論理的語彙が使用される場合にも、それらは意味の明示化に役立つ。次のような場合である。

    AはBの西にあり、かつ、BはCの西にある┣AはCの西にある。

    AはBより硬い、かつ、BはCより硬い┣AはCより硬い。

 この推論は、「かつ」の意味だけに依存するのではなく、「の西にある」や「より硬い」の意味に依存している。

 これらの推論の中の論理的語彙は、その他の表現の意味を変えることなく、実質推論においてそれらの意味を明示化するのに役立っている。日常生活における言語使用の多くはこのような推論になっている。

 ところで、このような実質的推論は、意味を定めたり意味を明示したりしているだけでなく、同時に対象や事実を明示している。

これはマッキントッシュであるので、これはリンゴである。

とうい条件文は、「マッキントッシュ」と「リンゴ」の関係を明示化するだけでなく、対象<マッキントッシュ>と対象<リンゴ>の関係を明示化している。「ので」を用いても、もとの語の意味や指示対象に変化を与えないことから、二つの対象が、類と種の関係にあることが明示化されている。

    AはBより硬い、かつ、BはCより硬い┣AはCより硬い。

という推論は、「より硬い」という述語が推移性をもつことを明示しているだけでなく、関係<より硬い>が推移性をもつことを明示している。「かつ」を用いても、もとの表現の意味や真理値に変化をあたえないことから、<より硬い>という事実的関係が推移性をもつことが明らかになる。

 このように保存拡大の語彙を用いることで、意味の明示化だけでなく、対象や事態の明示化が可能になる。そうすると、非保存拡大の語彙を用いても、意味の明示化ができないだけでなく、対象や事態の明示化もできないことになるのだろうか。そうではないだろう。なぜなら、科学研究でも日常の探究でも、私たちは非保存拡大の語彙を用いてそれを行っているからである。