24 「総中流社会」を目指しては? (20210317)

[カテゴリー:日々是哲学]

 冷戦終結後、世界的にも日本国内でも経済格差が拡大し続けています。これに対抗するのに、現代では共産主義や社会主義をもちだしても有効だとは思えません。目指すべき社会像を見失っていることが、現代の大きな問題だと思います。

 そこで、提案したいのは、かつて日本の「現実」(?)として語られていた「総中流社会」です。

この言葉は、当時はあまりポジティヴな意味で使われていなかったように思います。しかし格差社会になってしまうと、「総中流社会」は目指すべき社会像とすることができるのではないでしょうか。日本だけでなく、世界全体を「総中流社会」にすることは、人類の幸福のためには、是非とも必要なことであると思います。

 もちろん「総中流社会」という言葉だけでは曖昧過ぎるので、その意味を明確に規定する必要があります(ただし、厳密な定義は、ウィトゲンシュタインが指摘したようにおそらく不可能だろうとおもいます)。さらに「「総中流社会」の実現によってどのような社会問題が解決されるのか?」、「総中流社会をどのようにして実現するのか?」などに答える必要があります。

 「これでは、最底辺の人々を救えない」という批判があるかもしれませんが、それに答えるには、「「誰でも中流になれる社会」をどのように実現するのか?」に答える必要があります。

 「総中流社会」というのは、人類が目指すべき社会像として魅力的なのではないでしょうか?

23 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(3)(20210109)

[カテゴリー:日々是哲学]

 「クワインは「認識論の自然化」で何をしようとしたのか?」と問う時、その答えはどうなるのでしょうか。クワインはつぎのように述べていました。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

「翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

以上からすると、認識論が心理学の一章として行おうとすることは「観察と科学の結びつきを理解する」と言うことですが、しかしそれは「顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成」ではないということ、それは、科学的言明を観察用語と論理学数学の用語で説明するのではない、ということでしょう。

 カルナップが考えている「弱い合理的再構成」はそのようなものであり、それは「合理的意味論的再構成」だと言えるでしょう。これに対して、心理学は意味論ではありません。つまり心理学は、科学的言明の意味を説明するのではなく、科学的言明の成立という心的現象を因果的に説明しようとすることになるでしょう。つまり心理学としての認識論は、科学的言明の「因果的再構成」を目指すと言えそうです。

 ところで、自然化された認識論が、科学的言明の「因果的再構成」を目指すのだとするとき、ここに循環の怖れはないのだろうか、と心配になります。クワインもここに「相互包摂」(「自然科学のうちへの認識論の包摂であり、認識論への自然科学の包摂である」(第36段落))が生じると述べていますが、心配ないといいます。

「科学を感覚与件から演繹する夢を棄てた今ではその心配はまったくない。われわれは科学を世界における制度ないしは過程として理解したいのであるが、この理解が、その対象である科学以上のものであると主張するつもりはない。」(第37段落)

私たちは、これだけではまだ納得できないでしょう。この循環の問題は、現代のプラグマティストであるプライスの言う「位置づけ問題」と関係しているように思います。この問題については、機会を改めて論じることにしたいとおもいます(多くのカテゴリーが書きかけになっているので)。

(位置づけ問題に興味のある方は、ブランダム著『プラグマティズムはどこから来てどこへ行くのか』(加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、下巻、勁草書房)特に第7章、をご覧ください。)

22 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(2)(20210108)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回の引用部分で訂正が必要なのは、次の箇所です。

「認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。」

この中に「科学の「合理的再構成」」という表現があるのですが、その意味(使用法)が曖昧でした。さらに「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 カルナップの「合理的再構成」は、当初は、科学的言明を「観察用語と論理-数学的な補助手段を用いて翻訳すること」を意味していたと思われます。しかし、観察用語と論理学数学の用語だけで、科学的言明の一意的な翻訳を与えることはできないことが明らかになりました。

 例えば「水溶性」という科学用語を、観察用語と論理学数学の用語だけで定義することができないのです。ただし、「水溶性」について次のように説明することはできます。

Aを水に入れる⊃(Aは水に溶ける⊃Aは水溶性である)

これは、ベンサムに始まるとされる文脈的定義とは異なります。文脈的定義は、或る用語を含む文に対して、それと同値な文を与えることです。例えば、

  AはBより硬い≡AとBをこすり合わせれば、Bに傷がつくが、Aには傷がつかない。

このような同値文があれば、私たちは「より硬い」という語を消去することができます。しかし、「水溶性については、そのような同値文を示すことができないので、文脈的定義で消去できないのです。そこでクワインは次のように述べています。

「カルナップの緩やかな還元形式は一般には等価な文を与えない。それが与えるのは含意文である。それは新しい用語を部分的にではあるにしろ説明する。すなわち、当の用語を含んだ文によって含意されるいくつかの文を特定し、その用語を含んだ文を含意する別の文を特定することによって、その用語を説明するのだ。」(第20段落)

この説明方法は、ブランダムの推論的意味論に非常に近い考えになるように思います。例えば、新しい科学用語をXとし、Xを含む文をpとするとき、pを結論とする上流推論とpを前提とする下流推論を特定することによって、その用語Xを説明するということです。

 このような緩やかな形式による科学的言明の説明も、おそらく緩やかな意味で、「合理的再構成」であると、カルナップとクワインによって考えられているようです(参照、「定義するは消去するなりである。しかしカルナップの還元形式に基づく合理的再構成にはこのようなことはまったく思いもよらない。」(第23段落) )。

「唯一我々の求めているものが、翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

「あらゆる文を観察用語と論理-数学用語からなる文に等しいと見なせるような認識論的還元が不可能である」「この種の認識論的還元の不可能性は、心理学に対して合理的再構成が持っているとおもわれていた優位性を最終的に打ち砕いた。」(第32段落)

以上を踏まえて、認識論的還元を「強い合理的再構成」とよび、緩やかな還元形式による科学的言明の説明を「弱い合理的再構成」と呼ぶことにしたいとおもいます。そうすると、カルナップは、「強い合理的再構成」を放棄し、「弱い合理的再構成」を追求していたと言えるでしょう。

 それに対して、クワインは、「弱い合理的再構成」は可能であるが、それよりも心理学による科学論の探究のほうが有効である、と考えていたと思われます。つまり、クワインは心理学によって科学の心理学によって科学の「合理的再構成」を目指したのではありません。「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 では、「クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?」これを次に考えたいと思います。

21 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(20210106)

[カテゴリー:日々是哲学]

(以下は2020年11月19日「世界哲学の日」記念討論会での発表原稿の一部抜粋です。当日の発表原稿の全体はこちらにあります

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20201123%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A8%8E%E8%AB%96%E4%BC%9A%E3%80%8D.pdf)。

 以下では、クワインの論文 ‘Epistemology Naturalized’, in Ontological Relativity and Other Essays, 1969「自然化された認識論」(伊藤春樹訳、『現代思想』1988年7月号)を参照しています。)

――――以下抜粋

・論理実証主義(カルナップ)の認識論は、科学を基礎づけようとするものでした。しかし、それを、論理学と集合論と観察文から基礎づけられないことが明らかになりました。(全称文や反事実的条件文を証明できません)。

・そこで、認識論は、科学的言明の真理性ではなく、その意味を、論理学と集合論と観察文によって説明すること(「合理的再構成」(カルナップ))を目指すようになりました。しかし、理論的用語の意味をそれらでは定義できないことが明らかになったので、この試みも挫折しました。(「水溶性」を定義できません)。

・そこで、クワインは認識論を心理学やその他の科学に置き換えることを提案します。

「感覚受容器における刺激が、世界の描像を獲得する際にだれもが最終的に受け入れざるを得ない証拠のすべてである。ならば、この世界像が実際どのように構成されるのか、それをみてみようとなぜしないのか。どうして心理学で満足できないのか。」(第19段落)

しかし、「心理学やその他の経験科学」で、科学の基礎づけを目指すとすれば、循環論法になります。

「認識論の課題を心理学にゆずり渡してしまうのは、最初のころは循環論法だとして許されなかった。経験科学の基礎の確実性を示すところに認識論者の目標があるとするならば、その証明にあたって心理学やその他の経験科学を援用すれば、彼は目的に背くことになる。」(第19段落)

しかし、これに続けて彼は次のように言います。

「しかしながら、循環に対するそのような後ろめたさは、科学を観察から演繹しようという夢をひとたび放棄するならば大して意味がない。」(第19段落)

認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

この状況をクワインはしばしば「ノイラートの船」に例えます(「経験論の2つのドグマ」「自然化された認識論」「経験論の5つの里程標」)。これは、ドックに入らないで航海しながら修理するという船ですが、この比喩に次の3つを付け加えたいとおもいます。

・ノイラートの船は、一人乗りではない。

・ノイラートの船は、底割れしない。

・ノイラートの船は、一艘とは限らなない。

――――――――― 以上

お正月にこの個所を読み直していて、一部訂正したくなりましたので、次回それを説明します。

20 問答の観点から哲学を改造すること(20210103)

[カテゴリー:日々是哲学]

明けましておめでとうございます。

今年も問答の考察を進めたいと思います。よろしくお付き合いください。

<問答の観点から哲学を改造すること>、これが私の目標です。

(問答の重要性が分かれば、おのずから哲学のあり方は変わるだろうと予測しています。)

現在次のようなことを考えています、あるいは、考えたいと考えています。

・哲学は、普通よりもより深くより広く問うことである。哲学では、通常は問いの対象の方に関心が向かっているが、哲学研究は、問答で出来ている。

・哲学研究の対象(世界)もまた問答で出来ている。

 言語、認識、行為、主体、社会などが問答で構成されていることを示すこと。

・言語について言えば

 語、文法、言語行為。

 構文論的諸概念、意味論的諸概念、語用論的諸概念が、問答関係によって成立すること

・論理学について、

 論理学的諸概念、論理法則が、問答関係によって成立すること

・認識論について

 信念、知識、主張は、問いに対する答えであること

 認識を問いへの答えとみなすこと、真理を問いに対する答えの関係とみなすこと。

・行為は問いに対する答えであること

 行為主体は、問いで構成されていること

・社会制度は、社会問題への答えであること

 法は、関数である

 法は、社会問題への答えである

 権利は、問答の権利である

 お金は、負債証明書である。

 負債があるとは、返済義務があるということである

・歴史は物語である

 物語は、物語的問いへの答えである

・人生の意味について

人生の意味は、人生の上流推論と下流推論である

学問の危機

[日々是哲学]

政府と自民党は、日本学術会議のあり方を変えようとしています。それを変えるには、日本学術会議法を変えなければならないので、改正案を国会にかける必要がありますが、与党が過半数を占めているので、もし法案が審議された多数決で成立することになる可能性が極めて高いです。それを阻止するには、この間の学術会議委員の任命拒否の問題を裁判に訴えて、憲法違反であることをハッキリさせるしかないでしょう。日本学術会議に裁判所に訴えることを強く望みたいとおもいます。

中国およびアメリカと日本の経済力の差は今後ますます開いていき、経済力に誇りを持てない日本人は、自国の科学技術や文化や民主主義に誇りをもつか、あるいは伝統的な日本文化やナショナリズムに誇りを見出すか、しかなくなるでしょう。現状のままだと、戦前のようにナショナリズムの方に流れていきそうです。

18 この世界の片隅で、諸行無常(可謬主義)を生きることはできるのか? (20201130)

[カテゴリー:日々是哲学]

映画『この世界の片隅で』の英語タイトルを知ったとき、少し驚きました。それが“In This Corner of the World”だったからです。これは直訳すれば「世界のこの片隅で」となります。私なら“In a Corner of This World”としていたでしょう。その理由は、「この世界」という言葉が、「あの世界」(「あの世」)と対になっていると考えるためです。これは仏教用語です。つまり、「この世界」という表現には、この世界は諸行無常の世界である、という意味が暗黙的に込められていると思っていました。(実際の英訳タイトルにも、また理由があるのだろうと思います。私が想定していた訳では、英語圏の人にはうまく伝わらないのかもしれません。)

 私たちは、諸行無常を生きることができるのでしょうか。大乗仏教圏に住む者にとっては、諸行無常は空気のように自明な事柄であり、私たちは日々そのような世界を生きているのではないでしょうか。しかし、ハーバーマスならば、おそらくそのような世界で生きることはできないと言うでしょう。

 現代哲学においては、あらゆる知が可謬的であることは、自明なこととして認められています。ハーバーマスもそれを認めますが、しかし彼は同時に、可謬主義を生きることはできないと言います。

「反省的な態度をとったときのわれわれは、いっさいの知が可謬的であることを知っている。だが、日常生活においてわれわれは、仮説だけで暮らしていくことはできない。つまり何から何まで可謬主義的な態度で生きていくことは無理である。」(ハーバーマス『真理と正当化』三島憲一、大竹弘二、木前利秋、鈴木直訳、法政大学出版局、p. 308)

「素人や専門家が用いている知を確実でないと思い続けるなら、あるいは、さまざまな事物の製造や課題の遂行に使用されている前提を真でないと思い続けるなら、われわれは橋に足を踏み入れることもできなければ、車を使うことも不可能だし、手術に身を任せることもならず、おいしく調理された料理を楽しむことも無理となろう。」(同書、p. 308)

そうでしょうか。橋は絶対に落ちないと信じていなくても、私たちは橋を渡るのではないでしょうか。私たちは、不確実な世界、可謬主義を生きざるをえないし、生きることができるのではないでしょうか。私たちは、諸行無常を生きているのではないでしょうか。

 これに対して、ハーバーマスは、可謬主義を生きることができない理由を、次のように言います。

「いずれにせよ行為確実性を遂行する必要性は、真理への原則的留保を無理なものとしている。[…] 実践においては「真理」が行為確実性を支えるのに対して、そうした諸々の「真理」は、ディスクルスにおいては、真理請求のための準拠点を提供してくれている。」(同書、p. 308)

この行為確実性は、(ハーバーマスは言及していないのですが)アンスコムの言う実践的知識の確実性のことだろうと思います。人は「何をしているの?」と問われたとき、観察なしに即座に、例えば「コーヒーを淹れています」のように答えることができます。この答えが、「実践的知識」です。ハーバーマスの言う「行為確実性」というのは、この実践的知識の確実性のことだろうと思います。行為するときには実践的知識が可能であり、それが不可能であるとすると、行為できないでしょう。「何をしているの?」と問われたり自問したときに、答えられないとしたら、行為を続けることは不可能になるからです。その意味では、実践的知識は確実です。

 しかし、(アンスコムも認めるように)このような実践的知識は間違えることもあります。例えば、コーヒーを淹れているつもりだったのだが、ココアの粉を使っていたということがありうるからである。おそらくハーバーマスもこのような間違いの可能性を認めるだろう。しかし、行為している時には、その行為の知を可謬的であると考えることはできないと言うのだろう。

 これに対して、私は、実践的知識の可謬性を意識しつつ、行為することは可能であると思います。

このことを明確に証明するにはどうしたらよいでしょうか。

17 ノーベル賞と聖人 (20201008)

[カテゴリー:日々是哲学]

「真理」の社会的有用性、「真理」の社会的重要性は、「神」のそれに似ている。「科学信仰」が「神への信仰」と共有しているのは、真理が重要だという点である。

 真理は、個体が生存するために重要であるが、共同体や社会が自己を維持するためにも重要である。それゆえに、社会は科学研究をコントロールしようとする。ノーベル賞受賞者が、聖人のように扱われるのは、真理が社会的に重要だからである。真理は社会問題の解決に役立つ。それゆえに、真理は社会的に有用である。社会制度は真理の上に成立している。政府が学術会議を支配しようとすることと、ノーベル賞受賞者を聖人のようにあつかうことは、結合している。

16 可謬主義と改革主義 (20200921)

[カテゴリー:日々是哲学]

 私は、現代の多くの哲学者と同様に、究極的な根拠づけは不可能であると考えます。政治に関していえば、革命を目指す者は、その政治理念が絶対に真であると考えているとおもわれますが、もし自分が主張する政治理念の可謬性を認めるのなら、そのものは革命ではなく、漸進的な改革路線をとるでしょう。どのような政治理念も可謬的であるとすれば、テストしながら漸進的に改革していくことが合理的な態度であるからです。

 さて、前回のべた税制についても、テストしながら漸進的に改革していくことが望ましいでしょう。

15 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の検討2 (20200920)

[カテゴリー:日々是哲学]

 国家は、社会問題を解決するために作られた制度である(カテゴリー「問答としての社会」を参照してください)。それゆえに、国家は社会問題を解決しなければならない。この社会問題を、つぎの二種類に分けることができるだろう。

 社会問題の一つの種類は、利害の対立であり、それを解決するために規則(法)を作ることである。そのための制度や組織(立法制度)が必要である。そして、その法を実現するための制度や組織(警察制度、司法制度)が必要である。

 社会問題のもう一つの種類は、貧困問題、災害復興のように社会的支援が必要な社会問題である。これに取組むには、組織(行政組織)と資金が必要である。この社会問題の中には、既成の社会制度が引き起こした問題であって、解決のためには社会制度の改革が必要な社会問題も含まれている(このような社会問題を「疎外」と呼ぶことができる。)

 こうした社会問題を解決するために、資金が必要であり、それを税金として集める事が必要になる。社会として取り組まなければ解決できない問題を解決することが、国家の目的であり、そのためのお金が税金である。これが税金を収める一つの理由である。

 もう一つの理由は、次のとおりである。個人の収入は、個人の経済活動の成果であり、その経済活動によって社会の経済活動が成り立っている。経済制度は、規則と組織からなる。社会の経済活動は、個人や組織が規則に従って行為することによって成立している。個人の収入は、社会の経済活動にもとづいて成立するので、もし社会の経済活動が成り立つために必要な制度を維持するために、社会が投資する資金が必要ならば、個人はその収入に応じて、提供しなければならない。これが、税金を収めるもう一つの理由である。

 さて、こここで<完全に平等な税制+ベーシックインカム>をもう一度検討しよう。前回は、完全に平等な税制の税率の決め方を、<ベーシックインカム+医療費+教育費+その公共事業費>として、それを賄うことができるように税率決定するという案を提案した。今回は、それと逆の決定方法を、提案したい。個人の収入は、社会の経済システムや経済活動に依存して成立しているので、経済システムが、個人の経済活動をすでに半分は、構成している(問いが答えの半製品であるのと同様である)。そこで、個人の収入の50%はシステムのおかげであると考えて、税率を50%とする(このばあい、システムの寄与分を40%としてもよいし、60%としてもよいかもしれない。このシステムの寄与分を計算する方法について何か提案がありましたら、ぜひ教えてください)。こうして得られた歳入によって、ベーシックインカムなどの歳出金額を決定するということになる。

 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の案には、先週の案や今週の案とは異なるものもありうるだろう。そして、現在の税制が、これらの案よりも合理的であるとする理由が、私には思いあたらない。税制については、すくなくとももっと根本的に問い直してみる余地がある。