13 人類の理想の未来 (20200713)

[カテゴリー:日々是哲学]

 人類は、経済格差をなくして、全ての人が健康で文化的な生活をするために必要な科学技術を既に持っている、あるいは近い将来にそれをもつようにように思われる。したがって、この科学技術を用いて、全ての人が健康で文化的な生活ができるような社会システムを考えることが、人類にとっての重要な課題である。

 そのためには、全世界の人に、医療と教育を無償で提供し、住まいと食料を賄えるベイシックインカムを保証することが必要だろう。これによって、基本的人権と健康的な生活を保障できるだろう。

 現在の諸国家は、この理想を実現するために、互いに協力し合う必要がある。もしこの理想が実現するならば、諸国家が消えて世界共和国になるかどうかは、どちらでもよいように思われる。

 では、この理想を実現するために解決すべき問題には、どんなものがあるだろうか。(これについて何かコメントを頂けると嬉しいです。)

12 未来予測と問答 (20200712)

[カテゴリー:日々是哲学]

「○○は、これからどうなるのだろうか?」という形式の問いに答えることが未来を予想することである。前回例に挙げた「米中関係は、これからどうなるのだろうか?」「AIと人間の関係は、これからどうなるのだろうか?」などに答えることが、未来予測である。その場合の一つの方法について前回述べたとが、今回は、このような形式の問いとそれへの答えについて考察したい。

 「Aは、これからどうなるのだろうか?」という問いは、次のことを前提している。

  ・Aが存在すること、

  ・Aが未来永劫ではないとしても、ある程度の未来においても存在すること、

  ・過去、現在、未来、という時間の流れが存在すること、

この問いに答えることは、これらの前提を受け入れることあるいは質問者とこれらを共有することである。

 では、人が未来予測の問いを立てるのは何故だろうか? これに対しては、次のような理由が考えられる。

 (1) 知的な関心(理論的な関心)による

 (2) 実践的な関心による

 (2-1) 実践的な問いに答えるために、その未来予測を実践的推論の前提として使用する。

 (2-2) 実践的な問いに答えるために、未来予測にもとづいて、下位の問い(理論的問いや実践的問い)を立てる。

(2-2)の例

  PQ2「たくさんの観光客をまた集めるためにはどうすればよいのだろうか?」

     「コロナのワクチンは、いつ頃できるだろう?」(未来予測の問い)

     「ワクチンができるのは、早くても来年だろう」(未来予測)

  PQ1「ワクチンが完成してから、観光客が戻るまでの期間を短くするにはどうすればよいだ  

      ろうか?」

(あるいは、

  TQ1「ワクチンが完成してから、普及するまでにはどのくらいかかるだろうか?」)

このように、未来予測は、実践的な関心(実践的な問い)に答えるための前提となるか、実践的な問いを立てるための前提となる。

11 未来予想について考える一つの方法 (20200709)

[カテゴリー:日々是哲学]

 今日は息抜きです。

 哲学とは、普通よりもより深くより広く考えることだと思います。それは普通よりも一歩踏み込んで考えたり、一歩退いて考えたりすることです。一歩退いて考える方法の一つは、普通よりも長い歴史的なスパンの中で考えることです。というわけで、私は、人類の出現から始まり未来に伸びる人類の歴史についてトータルに考えてみたいと、つねづね思っています。多くの人が同じような願望を持っているだろうと推測します。

 しかし、人類の未来がどうなるかを予想することはほとんど不可能です。例えば、AIの進歩によって、社会がどう変化するかについて一つの予想を立てることは困難です。しかし、それでも2,3の可能性を想定することはできます。

 例えば、AIの未来について、次のような可能性を想定することができます。

  ①AIは、いずれ人間以上の知性を持ち、人間にとって代わるだろう。

  ②AIが人間のような知性になることは原理的に不可能であり、人間の脳を補助する役割にとどまるだろう。

  ③AIと人間の知性は、いずれ融合して、人工知能であることと自然知能であることを区別することが無意味になるだろう。

この3つの可能性はどれもまだ曖昧です。それぞれの可能性をより詳細に考えることによって、未来の可能性をより判明なものにしてゆくことができるでしょう。

 また例えば、中国の近未来についての、次のような可能性を考えることができます。

  ①AIや通信技術の利用による経済発展によって、中国共産党の一党独裁が持続する。

  ②外国資本が、中国から逃げて、ベトナム、タイなどの東南アジアの国にシフトすることによって、中国経済は衰退し、共産党一党独裁が終わり、自由主義国家になる。

この二つのシナリオ以外のものもありうるでしようが、とりあえずいくつかの極端なシナリオをせってして、その可能性をより詳細に考えることによって、未来の可能性をより判明なものにしてゆくことができるでしょう。また、それらのシナリオ中に、そうあって欲しいシナリオがあれば、そのためにどうすればよいのかを考えることも可能になります。

言いたいことは、<未来予測は難しいが、2,3のシナリオを想定して、それを詳細に考えてみることによって、未来予測となすべきことをより明確に考えることができるだろう>ということです。

10 太陽光はなぜ無色透明なのか (20200611)

[カテゴリー:日々是哲学]

「太陽光は、なぜ無色透明なのだろうか?」

 恒星が無数にあり様々な色をしている中で、私たちの太陽系の光がたまたま無色透明であった、ということは考えられないだろう。つまり、どの恒星の知的生物も、その恒星の光を無色透明と感じるのではないかと思われる。

原因1:すぐに思いつく答えは、サングラスを長時間していると、それが普通になって、青色であること忘れているのとどうように、太陽光も小さい頃からずっとその光のもとでものを見ているので、それが普通になって、色を感じないのである。

原因2:(この原因2は、原因1と両立するだろう。)人間の視神経は、太陽の光のもとで発生し進化してきた動物の視神経の進化の産物である。動物の視神経は、太陽光によって身体の周りの状態を認識するためにより適切なものへと進化してきた。そのときに、太陽光を無色透明と感じることが最も適切なのではないだろうか。なぜなら、もし太陽光を無色透明と感じないとすると、太陽光のもとで、認識が妨げられる対象が存在することになるように思われるからである(この点は、もうすこし詳細な論証が必要だろう)。そのような視神経は、生存のための適切性に関して劣る。このことは、人間だけではなく、他の動物の視覚についても同様であろう。

 この原因2の方は、もっと複雑な議論が必要になるだろう。人間は三色型色覚であるのに対して、二色型色覚(犬)、四色型色覚(鳥)の動物などは、その方が生存に有利だったのだろうとおもわれる。犬にとって、太陽光が無色透明なのかどうかわからない。人間にとっては、三色合わさって無色透明になるのかもしれないが、犬にとっては二色合わさって無色透明になるのかもしれない。これはクオリアの問題なので、物理学では決着のつかない問題かもしれない。というわけで、太陽は何故無色透明なのか、に答えるには、原因1と原因2だけでなく、クオリアの問題も考えなければならない。

このことは、視覚だけでなく、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、についても同様であろう。

 「空気はなぜ無臭なのか?」

 「唾液はなぜ無味なのか?」

これらの問いに、色の場合と同じように答えることができるだろう。

09 狭い意味の非合理な答え (20200528)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回、答えが合理的である場合には、次の3つあると述べた。

   ①真であるという意味での合理性

   ②正当化されているという意味での合理性

   ③適切であるという意味での合理性

①と②の問いの答えのなかには、推論によって得られるものがあった。しかし、推論の前提をさかのぼれば、いずれは推論によって証明したり正当化したりできない命題に行き着く。それは、知覚報告や記憶報告や伝聞であったりするかもしれない。これらについて、「05 合理な答えと非合理な答えの区別 (20200518)」では、次のように述べた。

「問いの答えが、知覚、記憶、伝聞によって得られる場合、その答えは、事実の記述である。事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう。したがって、知覚による答え、記憶による答え、伝聞による答えは、(推論によって得られる答えではないが)合理的な答えとなりうる。」

ここで「事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう」というのは、<知覚報告であれ、記憶報告であれ、伝聞であれ、それらが推論の結論ではないとしても、それらは真として受け入れられている他の命題と整合的でなければならない、その整合性を充たす限りにおいて、それは合理的な答えだと言える>という意味である。しかし、整合性を充たす候補が複数ある時には、その中から一つを選ばなければならない。そしてその選択は、推論によって証明したり正当化したりできないものである。

 価値判断の場合については、「06 問いの答えが事実の記述でない場合 (20200520)」において次のように述べた。

「認知主義であれ非認知主義であれ、似たような対象については(似たような状況では)、似たような価値判断をすべきであろう。したがって、価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である。」

ここで「価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である」と述べたのは、<価値判断は、推論の結論となっていないとしても、受容されている他の価値判断と整合的でなければならず、その整合性を充たす限りにおいて、それは合理的な答えだと言える>という意味である。しかし、ここでも、整合性を充たす候補が複数ある時には、その中から一つを選ばなければならないが、その選択は、推論によって証明したり正当化したりできないものである。

 事実判断や価値判断についてのこれらの選択ないし受け入れは、意識的な決断による場合もありうるが、気づいたときにはすでに受け入れているというものであるかもしれない(たいていは後者であろう)。意識的な決断によってある命題を受け入れる時には、問答によって、つまり「pを受け入れるか否か?」という問いに対して「受け入れよう」と答えることによって行われる。気づいたときに受け入れているというのは、このような問答を意識的には行わなかったということであって、問答がなかったということではないだろうと推測する。

 意識的な決断によって、あるいは無意識のうちに受け入れたこれらの前提は、①と②の意味での合理性を持たないし、その合理的な答えに矛盾するという意味の不合理性も持たない。この意味で、これらの前提は、非合理である。ただし、これらの前提は、③の意味の合理性はもつだろう。しかし、③の合理性だけでは、答えの内容の決定を説明するには不十分である。この意味で、これらの前提は、非合理である。

#「知性」と「理性」という語を、つぎのように使用することを提案したい。

私たちは、問いに対して推論で答える時と推論に寄らずに答える時がある。推論の能力を「理性」と呼び、問答能力を「知性」と呼ぶことにしたい。問いを理解すること、その答えとなる発話を行うことは、ともに知的な行為である。問答を含まない知的な行為は、考えられない。知的な行為は問答によって構成されている。問答の能力とは、適切に問いを立て、問いに適切に答える能力である。これに対して、問いに対して推論で答える能力は、「理性」だといえるだろう。動物は言語を持たないが、しかし動物もまた探索していると言える限りにおいて、動物もまた問答していると言え、その限りで知性を持つといってもよいだろう。

 非合理主義を取り上げ始めたときに、私が語り語ったことは、この知性と理性の区別である。

 非合理主義については、デイヴィドソンが論じた「意志の弱さ」や「自己欺瞞」、ポパーの「理性への非合理な信仰」に基づく「批判的合理主義」など、他にも重要な事柄があるが、思いのほか長くなったので、とりあえずここで閉じる。(デイヴィドソンは、心の分割によって「意志の弱さ」や「自己欺瞞」を説明したが、これについては、分人主義と関連付けて論じたい。ポパーの「理性への非合理な信仰」については、問答論的矛盾による超越論的論証と関連付けて論じたい。後者については執筆中の本が出版されたら、それを踏まえて論じたい。)

08 問いに対する答えが合理的であるとはどういうことか? (20200526)

[カテゴリー:日々是哲学]

{つぶやき:非合理性を一般的に、問いの答えの性質として理解できるということを示したたかっただけなのですが、非合理な答えを、合理的な答えに矛盾する不合理なものと、合理的な答えと矛盾しない非合理なもの(狭い意味の非合理なもの)に区別してから、なかなか「狭い意味の非合理な答え」の具体例に辿りつかなくて長くなってしまっています。}

 問いに対する答えが、正当化と無縁であるとしても、適切/不適切の区別を持つとしたら、適切な答えは、合理的だといえるだろう。

 では、問いに対する答えが適切であるとは、どのような場合だろうか。

 <問いに適切に答える>ことは、少なくとも次の二つを意味するだろう。

 第一に、ある発話が、意味に関して、問いに対する答えとなっていること、を意味する。

 例えば「あなたは何を食べますか」という問いに、「彼はそばを食べます」とか、「私は学生です」と応答することは、問いへの答えになっていない。寿司屋さんに入って「何にしますか」と問われて「天津飯をください」と答えることも不適切である。(最後の寿司屋の例は、意味に関して不適切なのか、事実に関して、不適切なのか迷うところである。この不適切性は、問答が行われる状況に依存しているが、意味と状況を分離しないならば、この不適切性は、意味に関するものである。このように曖昧な事例はあるかもしれないが、おおよそ、答えの適切性を、意味に関する適切性と、事実に関する適切性に、分けることができる。)

 この条件を充たさない答えは、そもそも答えであるとは言えない。したがって、不合理な答えでも狭い意味の非合理な答えでもない。

 第二に、問いQ1には、より上位の目的(より上位の問いQ2に答えること)があり、Q1の答えA1が、より上位の目的の実現に役立つものになっていること、を意味する。

 例えば、飲食店で「何にしますか?」と問うとき、店員は、注文をとって、それを作って、提供して、お金をもらう、という目的を持っている。それゆえに、お店に天津飯がないときに、「天津飯をください」と言われても、店員のより上位の目的を実現することはできない。この答えは、不適切です。お店に天津飯があれば、この答えは適切です。

 問いの答えが上の二つの意味で適切であるとき、その答えは、合理的だと言えるでしょう。

 これまで述べた問いの答えの合理性には次の3種類がありました。

   ①真であるという意味での合理性

   ②正当化されているという意味での合理性

   ③適切であるという意味での合理性

 これらに対応して、次の三種類の不合理性があります。

   偽であるという意味での不合理性  

   間違って正当化されているという意味での不合理性

   不適切であるという意味での不合理性

 問いの答えが合理的である場合と不合理である場合を、このように3種類に区別できるとするとき、問いの答えが、「不合理性」とは異なる「狭い意味の非合理性」を持つ場合は、あるのでしょうか。それはどのような場合でしょうか。

07 問いの答えが、正当化と無縁である場合 (20200524)

[カテゴリー:日々是哲学]

 前回までで分かったことは、<もし問いの答えが(狭い意味で)非合理であるとしたら、その問いの答えは正当化と無縁である>ということです。(ただし、<もし問いの答えが正当化と無縁であれば、それはかならず非合理である>とは言えないだろうと予想します。)

 ここで、<正当化と無縁である>とは、<正当化できないし正当化を必要としない>という意味です。例えば、「食堂で何にしますか?」と問われて、「うどんにします」と答えたとき、この答えは、正当化を求められていないし、正当化する必要もないし、正当化することもできないと思います。お店の人が「何故、うどんにするのですか」と(正当化を求めて)問うことはありません。なぜなら、うどんであれ、他の何かであれ、お店の人にはどちらもでも好いからです。もし一緒にいた友人から「なぜうどんにするの?」と問われたら、「特に理由はありません」とか「うどんを食べたいと思ったから」とか「うどんがすきだからです」とか「いつもうどんを食べているからです」とか「昨日は蕎麦だったから」とか答えることもできます。この場合に、(最初の「特に理由はありません」以外の)これらの答えは、うどんを注文する理由であっても、うどんにしなければならないこと説明するものではありません。つまり、うどんの注文を正当化するものではありません。

 このうどんの注文は典型的な例です一般に自由な決定を求める問いに対する答えは、自由な決定であり、正当化を必要としないし、正当化できません(なぜなら、正当化できるとすれば、自由な決定ではなくなるからです)。

 では、この場合の「うどんにします」という注文は非合理でしょうか。「xは非合理である」といえば、そこから「xは避けるべきことである」ということが帰結するように思います。しかし、うどんの注文は、避けるべきことではありません。では、「うどんにします」という注文は、合理的でしょうか。正当化を必要としない答えであるのに、これが合理的であるとしたら、その場合の「合理的である」とはどういう意味でしょうか。

 もう一度まとめるとこうなります。自由な決定を求める問いに対する答えは、正当化を必要としない。しかし、それを非合理な答えということはできないように思われる。では、それは合理的な答えなのだろうか。それとも、合理的でも非合理でもない答えなのだろうか。これを次回に考えたいと思います。

06 問いの答えが事実の記述でない場合 (20200520)

[カテゴリー:日々是哲学]

#問いの答えが、事実の記述でない場合の一つは、価値判断である場合である。

価値判断については、認知主義者は、事実と同じく価値は実在しており、認識の対象であると考える。そして価値判断は実在する価値の記述であり、真理値を持ちうる。それゆえに、価値判断は合理的な判断である。

価値判断について、非認知主義者は、事実についての認識に価値を付与する仕方で、価値判断を行う。つまり、価値そのものを認知するのではなくて、価値は付与されるもの、ないし構成されるものだと考えるのが、非認知主義である。したがって、価値判断は真理値を持たない。ただしこの場合でも、価値判断は恣意的なものではなく、似たような対象については似たような価値判断をすべきだと考えられている。その限りで、価値判断には何らかの従うべき基準があり、それに従う限りで合理的な判断である

認知主義であれ非認知主義であれ、似たような対象については(似たような状況では)、似たような価値判断をすべきであろう。したがって、価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である。

#問いの答えが、事実の記述でない場合のもう一つは、実践的推論の結論の場合である。

「xするにはどうしたらよいのか?」というような問いに対して、実践的推理によって答える場合である。これの答えは、真理値を持たない。むしろ、「…すべし」という指令になるだろう。理論的推論ではないが、これもまた推論による答えである。そして、この実践的推論で答える答えもまた合理的である。

問いの答えは、それが価値判断である場合も、実践的推論の結論の場合も、正当化可能なものであり、その内容は合理的なものでありうる(もちろん不合理なものの場合もある)。

では、問いの答えが正当化と無縁であるような場合はないのだろうか。

05 合理な答えと非合理な答えの区別 (20200518)

合理的な答えと非合理な答えの区別を論じ前に、「不合理な答え」と「非合理な答え」の異同について説明したいとおもいます。不合理性もまた、問いに対する答えがもつ性質だと考えています.

ところで「不合理」も「非合理」も、英語ではどちら’irrational’であり、英語にはこの区別はなさそうです。しかし、日本語の場合には、いかに述べるような違いがあるとおもいます。

 問いに対する不合理な答えとは、合理的な答えと矛盾する答えであり、間違った答え、避けるべき答えである。このような不合理な答えを、非合理なり答えということあるようにおもう。例えば、男女差別の制度は、この意味で不合理な制度であるが、それを非合理な制度ということもできる。他方で、合理的な答えが存在しない問いに対する答えを、非合理な答えということもある。この場合、非合理な答えは合理的な答えと矛盾することはない。それゆえに、非合理な答えは、不合理な答えを含むがより広い概念である。

 不合理な答えである部分を除いた非合理な答えを、狭義の非合理な答えと呼ぶことにしよう。ところで、合理的な答えを持たない問いの答えは、すべて狭義の非合理な答えなのだろうか。

 まずは、合理的な答えを持つ問いとはどのようなものなのかを考えよう。

・答えが知覚によって得られる時、また答えが記憶によって得られる時、それらの答えは推論に基づいてはいないが、非合理ではない。知覚や記憶に基づいて答えることもまた、合理的である。

・問いの答えが、推論によって得られる時には、その答えは合理的である。

 問いの答えが、推論によって得られる時、推論には前提が必要であるが、その前提もまた別の問いの答えとして得られる。この前提が、問いに対する非合理な答えであるとしても、それから推論によって得られる答えは、とりあえず合理的な答えだとしておく。

・問いの答えが知覚によって得られる場合

「この紙の裏側は何色か?」と問われたとき、その紙を裏返して、そこを見て、「白色です」と答える。このときの答えは、推論によらず知覚によって得られる。

・問いの答えが記憶によって得られる場合

 「前回の哲学の世界大会はいつでしたか?」と問われたとき、記憶によって「2018年でした」と答えるとき、この答えは、記憶によって得られる。

 「次回は2023年で、前回はその5年前なので、2018年でした」と答える時には、記憶だけでなく、次の推論によって答えている。

  次回開催は2023年である。

  世界大会は5年おきに開催される。

  前回の世界大会は、2023年の5年まえである。

  ゆえに、全体の世界大会は2018年である。

・問いの答えが伝聞によって得られる場合

  「前回の哲学の世界大会はいつでしたか?」という問いに、インターネットで検索して前回の世界大会が2018年であったことを知る時には、伝聞によって答えたのである。

・問いの答えが、知覚、記憶、伝聞によって得られる場合、その答えは、事実の記述である。事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう。したがって、知覚による答え、記憶による答え、伝聞による答えは、(推論によって得られる答えではないが)合理的な答えとなりうる。

では、問いの答えが、事実の記述でない場合には、どのような場合があるだろうか。

04 非合理性とは何か? (20200515)

[カテゴリー:日々是哲学]

 哲学でも、「非合理性」が議論されることがしばしばありますが、非常に多様な仕方で語られます。それは行為の非合理性であったり、決定の非合理性であったり、感情の非合理性であったりします。それらの多様な非合理性をまとめて共通要素を取り出して扱うことができるのか、それとも多様な非合理性のそれぞれについて区別して分析すべきものなのか、曖昧なことが多いです。

 そこで、ここではまず次を提案したいと思います。

  <合理性/非合理性は、問いに対する答えがもつ性質である>

現代の真理論では、真理の担い手(truth bearer)と真理の作り手(truth maker)を区別して議論されます。真理の担い手とは、「…は真である」という述語が述定される対象のことあり、命題や発話が真理の担い手とされることが多いとおもいます。真理の作り手とは、真理の担い手に真とならせるものものであり、対応や整合性などが考えられることがあります。真理論については、別途論じることにして、ここでは、この担い手と作り手の区別を「合理性/非合理性」に当てはめて考えたいと思います。

  <合理性/非合理性の担い手は、問いに対する答えである>

 問いの答えは、合理的であったり、非合理であったりするということです。信念、行為、感情、欲求などについて、非合理であると言われることがありますが、その理由は、これらが問いに対する答えとなるからだと思われます。(これらは、問いの答えとして、合理的なものである場合もありえます。)

 これらは、人間の反応や振る舞いの一種ですが、これらとは異質なものである「制度」についも、制度が合理的とか、制度が非合理とか言われることがあります。制度が合理的なものや非合理なものであるのは、制度が問題の解決(問いの答え)であるからである。(社会制度(社会組織と社会規範)が社会問題の解決策であるということについては、カテゴリー「問答としての社会」で論じています。)

 ちなみに「自然は合理的である」と言うことができる。このように語ることができる理由は、自然が問いに対する答えであるからではなくて、自然についての真なる記述が、つねに問いに対する答えとして合理的だからだといえるだろう。

 (問いもまた、それの問い自体が上位の問いの答えであるときには、合理性/非合理性の担い手となりうる。つまり「合理的な問い」や「非合理な問い」がありうる。)

 合理性/非合理性の作り手について、つぎに考えてみます。