多文化主義の信念形式

 山口市の瑠璃光寺の花、その2です。

 「哲学的人生論」と「人生観」の違いは、前回のべた通りです。 私は、私の個人的で主観的な「人生論」をこのBlogで語るつもりはありません。(といっても、時に感傷的になったときに、語るかもしれません)ここでは、あくまでも「哲学の立場から、人生について語れること」に限定して、議論するつもりです。その理由は、「哲学的な人生論」の可能性と限界をできるだけ明らかにしたいからです。ロックやカントが人間の認識能力の可能性と限界を明らかにしようとして、近代的な認識論をはじめたのと似た動機です。

 「哲学的人生論(2)」の書庫では、「人生観」を語るのではなく、「人生観」と「哲学的人生論」の関係、「人生論」そのものの可能性や必要性、「人生論」について哲学的に語れることがあるとすれば、それは何か、などを論じたいと思います。
 
 まず最初に取りあげたいテーマは、前回述べた問題です。つまり、人生観は、次のような形式

A「私は、一般に人生の意味は・・・・・・であると考える。しかし、他の人が別様に考えるのならば、それを尊重する。」

をとりうるのか、それとも、このような信念は自己矛盾しているのか?

 これは、より一般的に表現するとつぎのような形式の主張になります。

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

このような主張は自己矛盾していないでしょうか?このBの形式の信念は、多文化主義や文化相対主義の形式でもあると思います。したがって、これが矛盾しているとするならば、多文化主義や相対主義のあり方にも影響するでしょう。そこで、このBを「多文化主義の信念形式」と呼ぶことにします。
 そこで、ここでの問題は、次のようになります。

 「多文化主義の信念形式は、自己矛盾していないのか?」

B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」
これが、矛盾しているかどうか、を検討しようとすると、まず「尊重します」の意味をもう少し明確にする必要があります。

「私は、他の人がpと信じないことを、尊重します。」
「私は、他の人がpと信じないことを、批判しません。」
この二つは、似ていますが、すこしニュアンスが違うように思われます。「尊重します」は、単に批判しません、というよりも、なにか積極的な倫理的な理由にもとづいて批判しません、と述べているように感じられるからです。
 このように考えると、「他者の意見を尊重します」は、次の④の意味に近いかもしれません。
  
  ①他者の意見を批判できる。
  ②他者の意見を批判できない。
  ③他者の意見を批判すべきである。
  ④他者の意見を批判すべきでない。

しかし、「批判すべきでない」と「尊重する」を全く同義と言うわけにはゆきません。なぜなら、「批判すべきである」は「尊重すべきでない」と似ていると思われるのですが、もしそうならば、「批判すべきでない」が「尊重べきである」と似ていることになります。したがって、「批判すべきでない」は、尊重する」と同義でないことになるからです。

では、最初の提案に帰って、「尊重する」はたんに「批判しない」と同義だとすればよいのでしょうか。しかし、そうも行きません。次を見てください。

  ①他者の意見を尊重できる。
  ②他者の意見を尊重できない。
  ③他者の意見を尊重すべきである。
  ④他者の意見を尊重すべきでない。

前の「批判」の場合、②と④の意味は明確に異っていましたが、ここでの「尊重」の場合、②と④は同じ意味になると思われます。つまり、「尊重する」を「批判する」の単純な反対語とすることは出来ないのです。この理由は、「尊重する」のなかに、何か特殊な倫理的な意味が含まれていることにあるのだと思われます。

(ちなみに、以上の意味のテストは、ライブニッツの「不可識別者同一の原理」ないし「代入則」の応用だといえるでしょう。)

以上から言えるのは、Bは、次のB1とB2に似ているが、しかし全く同じではない、ということです。

B 「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

B1「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判しません」

B2「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判すべきはありません」

これだけでは、「尊重する」という言葉についての語感をすこし磨いたというだけで、語の意味が明確になったとは言えないことは、よくわかっています。

 すこし、別の方向から攻めてみましょう。

C「pです。しかし私はpを信じません」

これは「ムーアのパラドクス」と呼ばれており、矛盾(?)した発話だといわれています。
私は、次の発言もおかしいと思いますが、どうでしょうか?

 「pです。しかし私は、他の人がpを信じないことを批判できません」

もし私がpであると知っているのならば、私は他の人がpを信じないことを批判できるのではないでしょうか。もし他の人がpを信じないことを批判できないのならば、私はpを知っているとは言えないでしょう。言えるのは、せいぜい「私はpを信じている」ということでしょう。

  D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」

というのは、「ムーアのパラドクス」ほどおかしくはないけれど、やはり不自然な感じがします。つまり、他の人が明らかに間違った信念をもつことを尊重するということになります。これは、その他者に対してpが偽であることを指摘しないということですから、その他者に対して嘘をつくことになるのではないでしょうか。

  Cは、矛盾(?)した発話で、認め難い、といえます。
  Dは、Cよりは矛盾の程度は少ないですが、しかしやはり間違った態度だといえるでしょう。
  Bは、Dよりも更に矛盾の程度が少ないように思います。
  では、Bには、問題がないのでしょうか?

(すこし、外堀を埋めただけで、まだ、全く答えには近づいていません。)
 

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「多文化主義の信念形式」への2件のフィードバック

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    ずっと自分に問い続けている問題です… いまだ答えは見つかりません…
    ところで,ただの観察ですが,「信じる」と英語の"believe"はいろいろ曖昧なのかもしれません.あるいは非常に豊かな意味が心的辞書に登録されているのかもしれません.
    「私はpであると信じます」がほとんど,私はpという信念を持ち,かつpを正当化する理由を持つ」つまり,「私はpと知っている」と響くときもあります.(この場合,Bが異様に響くのかもしれません)一方,状況によっては,同じ文が,事実はどうあれ私はpであることを欲しています,というふうに響くこともあります.これは,日本語の「信じる」が命題だけでなく例えば人やものなどをその項としてとるという事実と関係しているかもしれません.例えば,「私は彼を信じます」というように.「信じる」がいろいろな含意を持たない言語があれば面白いかもしれません.

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