「山口の外郎を食べたい」

    山口の外郎は食べてしまってないので、
    写真を下記からコピーしました。
http://itp.ne.jp/contents/kankonavi/yamaguchi/tokusan/yam_tok02.html
やっぱり、これは著作権侵害でしょうか。それとも、この程度のことは許容範囲内でしょうか。とりあえず、宣伝しておきましょう。山口の外郎は、名古屋のものより小ぶりで味が細やかで繊細です。名古屋の外郎は、安くてボリュームたっぷりです。)

 さて、私が「山口の外郎をもう一度食べたい」と思った(内言した)としましょう。そのとき、それは、その発話の前にあった心的状態や身体的状態を記述したものだといえるでしょうか。そのようなものは、ないように思えるのですが・・・。思えるというだけで、今うまく論証することは出来ません。
 これを論証するには、ご質問の社会的な欲望について、もっと明確に説明する必要があるでしょう。

 心的ないし身体的状態の記述としての「私は・・・したい」という発話で表現されている欲求を「自然的欲求」と呼ぶことにします。それに対して、心的ないし身体的状態の記述(これは真理値をもちます)ではなく、(真理値をもたない)意図表明としての「私は・・・したい」という発話として欲望を「社会的欲望」と呼ぶことにしました。
 前者と後者の区別は、とりあえず、明確だと思うのですが、後者を「社会的欲望」と呼ぶときに、別の性質をそれに付与することになっているので、urbeさんが疑問を持ったのだと思います。

 私は、意図表明の発話は、様々な意味で社会的なものだと思います。もっとも基本的な理由は、それが公的な言語で語られているということです。それは発話以前に発話から独立に存在するものではありません。そして、そのために、それは他の様々な私の発話や他者の発話と内容的に関係しています。

 例えば、「名古屋の外郎は、安くてうまい」と考えた(言った)あとで、何の説明もなくすぐに「山口の外郎を食べたい」とは言いません。それは(厳密には矛盾ではないのですが)矛盾しているように感じられるし、少なくとも支離滅裂だと感じられるからです。最初の発言の後に、「しかし、山口の外郎のほうがダイエットにはよい」というような発言があると、「山口の外郎を食べたい」という発言が出てくることが自然(?)です。このような思考の流れの中で、後者の欲望が成立しているのではないでしょうか。さらには、このような発言の背後には、最近の山口での楽しい思い出も、影響しているでしょうし、山口の友人が外郎を自慢していたことも、影響しているでしょう。

エントロピー3

     またしても秋吉台です。この高原が水で浸食されていくのも
     エントロピーの増大・・・
 

凡人さん、森田さん、コメントありがとうございました。
 
 ボルツマンとH定理をWikipediaで調べてみました。(インターネットは、便利です。)
 ボルツマンのH定理の功績は、巨視的な熱力学の第二法則を、分子運動に関する統計力学から説明したことにある、と理解しました。(ボルツマンによるエントロピーのこのような説明が、私が考えていたことと同じことなのかどうか、いまひとつ確信がもてません。がそれは、次の質問で明らかになるも知れません。)

 森田さんは、
「そのような人間の解釈に過ぎない(客観的に見ると何の特別性もない)エントロピー最小状態が宇宙初期に実現していたということが,いまの宇宙論ではおおきな謎になってしまうのです.」
と書かれています。

そこで確認したいのですが、ボルツマン(or森田or現代の物理学者たち)は、次のように考えているのですね。
<「宇宙の初期の状態は、エントロピー最小状態である(あるいは、宇宙の現在の状態よりも、エントロピーが小さい)」という主張は、人間の解釈にすぎぎない、つまり宇宙の初期状態を、現在の状態と比較するとき、客観的にみて何の特性もない。>

もしこのようにいえるとすると、森田さんのいう「おおきな謎」は、むしろ次のように問うべきなのではないでしょうか。
<我々はなぜ、宇宙の現在の状態よりも、初期状態のほうがエントロピーが小さい、ないし秩序だっている、と解釈するのか? なぜ、我々にとって、そのような解釈が適切であるように思われるのか?>

 もしコメントいただければ、幸いです。

社会的な死?

      山口市の瑠璃光寺に咲いていた花です。
      花はつねに、儚さの象徴です。

 ここでは、人生論の第一問題「死に対してどのような態度をとるべきか」について考えます。

 「生きたい」という意図と、「人間は死ぬ」という事実の矛盾(?)から、「死に対してどのような態度をとるべきか」という問いが生まれのだと思われます。少なくとも、このどちらか、あるいは両方が成立しないとき、上の問いは生じないでしょう。

 さて、「生きたい」という欲望には、二種類あることがわかりました。一つは心的ないし身体的な状態の記述としての「私は生きたい」です。もう一つは、意図表明としての「私は生きたい」という発話です。後者は社会的な欲望だといえそうです。
 「私は生きたい」が事実の記述であるのなら、「人間は死ぬ」と矛盾しません。これらは、事実として、あるいは事実の記述としては、矛盾していないからです。
 「私は生きたい」が意図であるときに、「人間は死ぬ」と矛盾する(?)のです。(この矛盾については、いずれ、もう少し詳しく説明することにします。)
 もし「私は生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死でなく社会的な死、自然的な事実ではなく社会的な事実なのではないでしょうか? では、社会的な死とは何でしょうか?

主観的な写真と主観的な人生観について

 私には思い入れがあるのですが、この写真の意図は主観的なものでおそらくうまく伝達できていないだろうと思います。

 ここでは、「人生観」について考えてみたいと思います。「人生観」と「哲学的人生論」とは、はっきりと区別する必要があります。ここでは、ある個人の、人生についての私的な主観的な考えを「人生観」と呼ぶことにします。

 個人の人生観が、「私は、私の人生について・・・と考えて、生きたい」とか「私は私の生き方としては・・・がよい」というように彼の生き方だけに関わるときには、この発言には内的に矛盾したところはなさそうです。(この場合にも、その内容が他者に危害を与えるときには、それは他者からの批判を受けてしかるべきであり、これについての議論が必要になります。)

 しかし、
  「私は、人は一般に …… の仕方で生きるべきだと考える」
というように、その人だけに関わるのでなく、ひと一般の人生についての考え方を述べているときには、この発言は矛盾しているのではないでしょうか。もしこのように普遍性を主張するとすれば、それは人生観と言うよりも人生論です。もし人生観でありながら、普遍性を主張しようとすると、次のようになるかもしれません。
  「私は、人生の意味は …… であると考えるが、しかし、他の人が別様に
   考えるのならば、それを尊重する」
というような主張になるでしょう。
 
 しかし、このような発言は、矛盾していないでしょうか。人生観に限らず、より一般的にいうと次のような主張になります。
  「私はpを信じる。しかし他の人が¬pを信じるのならば、私はそれを尊
   重する」
これは、矛盾していないでしょうか。これを次に考えて見ます。

エントロピーの続き

凡人さん、コメントありがとうございました。

トランプの例は、人間が作り上げた秩序だからよい例ではないというご指摘ですね。私もそうかもしれないとおもいます。

ただし、問題は次のようなことです。

たとえば、コップに水がはいっており、その中に角砂糖を一つ入れたとします。いずれ砂糖は水に溶けます。最初のうちは、砂糖が溶けた水は、コップの下のほうだけにあるのだろうとおもいます。しかし、そのままにしておくと、水の分子運動につれて、砂糖はコップの水の全体に、均一に広がるでしょう。
これを、エントロピー増大の法則の一例だと考えてよいだろうとおもいます。

しかし、私が前回のべた疑問点は、次の通りです。
「コップの中に角砂糖が溶けずにあることが、解けている状態よりも、エントロピーが小さい。」
「溶けた水がコップの下のほうにあるよりも、コップの全体に均一に広がっている方が、エントロピーが小さい。」

このような主張もまた、ちょうどトランプの数字の解釈が人間の作り出したものであるのと同様に、人間の作り出した解釈なのではないか、というのが、私の疑問でした。

私の疑問点が、うまく伝えられたかどうか、わかりません。
どなたでも、ご批判をお願いします。

アルゴンキンの夢

         カナダのアルゴンキンです。
    無数の湖が水路でつながっています。
  ここで一週間くらいカヌー旅行したいものです。

前回次の二つの欲望の関係を考えて見ました。
   a「私は、カヌーをやりたい」
   b「私は、そのためのお金と暇がほしい」
このaとbの間には、次の関係があります。
   c「bが成り立つならば、aが成り立つ」
aとbは真理値をもちませんが、このcは、aとbの関係を記述したものであり、真理値をもちます。

この例は、目的と手段の関係で、ある目的を欲望する者は、その手段の一つを欲望する、と言う関係でした。(手段が複数あるときには、その手段の中の特定ものだけを欲望するということがあるかもしれません。)

しかし、ここでとりあえず考えたいのは、次の関係です。
  d「私はカヌーをやりたい」
  e「私は生きたい」
このdとeは目的と手段の関係ではありません。かりに、「カヌーが私の生きがいで、それが出来ないのならば、生きる意味がない」というxさんがいたとしましょう。このxさんにとっては、dは目的ですが、eはその手段ではありません。
 このdとeの関係は、次の関係に似ています。
   f「私はトランプをしたい」
g「私は遊びたい」
とか、
    h「私は黒ビールが飲みたい」
    i「私はビールが飲みたい」
これらは、特殊と普遍の関係です。

では、「ビールを飲みたい」とか「カヌーをしたい」とか「旅行したい」とか「本を読みたい」とかの欲望をもつひとは、「生きたい」と考えるでしょうが、そのような特殊な欲望がない場合に、ただ「生きたい」と考えるということがあるでしょうか?

あります。それは、「死にたくない」と考えるときです。我々は、突然余命を宣告されたとき、「死にたくない」「生きたい」と考えるでしょう。

ここでもう一度、問題を設定しなおしましょう。(これはurbeさんの質問と同じものだろうと思います。)
心的な状態ないし身体的な状態の記述としての自然的な欲求でなく、真理値をもたない欲望としての「生きたい」や「死にたくない」や「カヌーをしたい」は、どのようにして成立するのでしょうか。それが理由の空間の中で社会的に構成されるのだとしても、より具体的には、それはどのようにして構成されるのでしょうか?

エントロピーについての疑問

 秋吉台の夏の景色です。緑が綺麗で、ヨーロッパのような景色でした。先日二泊三日で山口に行ってきました。

 この書庫「思いつき」では、時々の哲学に関する思い付きを断片的に書くことにします。

 先日山口で参加した研究会で思いついたこと。
 それは、「エントロピー増大の法則は、人間的な原理かもしれない」ということです。これは、次のような意味です。買ったばかりの新しいトランプをシャッフルすると、次第に無秩序な並びになります(研究会でAさんの挙げた例です)。それが、エントロピー増大の法則の例だと見なされています。しかし、それは我々が番号順に並んでいる最初の状態を秩序があると考えるためであって、もしたまたま数字と同じ形の文字をもつけれど、全く異なる意味でそれを理解する言語があるとすると、その言語の使用者にとっては、そのトランプの並びは、最初からずっと無秩序なままであったということになるでしょう。そこには、とくにエントロビーの増大はなかったということになるでしょう。
 我々が、秩序正しく並んでいたトランプをシャッフルするとき、一回のシャフルのたびにカードの並びを記録したとしましょう。その記録を見て、その順番が次第に整理されていき、最後の状態で最もよく整理された順番になっている、というようにトランプの数字をよむ読み方もありえます。そして、別の言語の人にとっては、たまたまそのような順番になっていることもありえます。このとき、エントロピーは縮小していったことになります。したがって、トランプの例での、エントロピー増大の法則は、数字をどのように読むかに依存していると思われます。(違うかもしれませんが・・・)

 これと同様で、ビッグバンのときに、エントロピーが最小で、その後次第に増大しているのが宇宙である、と我々は考えていますが、ビッグバンのときがエントロピーが最小であるというのは、我々の自然に対する一つの解釈であって、別の解釈もありえるのではないでしょうか。そして、自然はそのような解釈に関係なく、実はつねに同じエントロピーのままである、という可能性があるのではないでしょうか。
 あるいは、エントロピーという概念は、つねに一定の「秩序」の解釈を前提しますが、そのような「秩序」そのものが人間的な概念なのではないでしょうか。

 エントロピーに詳しい方のご批判をおまちしております。

「今日もビールを飲みたい」

       「今日も、ビールを飲みたい」
 
 「生きたい」という自然的な欲求は、何らかの身体的ないし心的状態の記述です。たとえば「この犬は生きたいのだ」とか「カブトムシも生きたいのだ」というのは、このような記述であり、真理値をもちます。
 これに対して、「生きたい」という社会的な欲望は、記述ではなく意図表明の発話です。約束や宣言の発話が真理値をもたないのと同様に、この発話も真理値をもちません。

 これが前回の復習です。「今日もビールを飲みたい」は自然的な欲求でしょうか、社会的な欲望でしょうか。おそらくこの二つが混じっているでしょう。この二つを内省によって分離することは非常に困難です。(その理由は、いずれ機会があれば述べましょう。)

 さて、話をもどしましょう。
 自然的な欲求の場合、我々は、「この犬は水を飲みたいのだ」から、「この犬は生きたいのだ」を推論できます。前者が真であるためには、後者が真でなければならないからです。
 xさんが「私はカヌーやりたい。そしていつかアルゴンキンをカヌーで旅したい」と言うとき、これはxさんの社会的欲望の発話であり、真理値をもちません。しかし、その発話を聞いた私が、「xさんはカヌーをやりたいのだ」と言うとき、これはxさんの欲望についての記述です。これは「xさんは『私はカヌーをやりたい』と発話した」という記述とほぼ同じ意味の記述であり、同じ真理値をもちます。私が、「xさんはカヌーをやりたいのだ」だから「xさんは生きたいのだ」と推論するとき、「xさんは生きたいのだ」もまたxさんがある社会的欲望を持つことについての記述であり、真理値をもつことになります。この二つの発話は真理値をもち、しかもそれらの真理値の間には、もし「xさんはカヌーをやりたい」が真ならば、「xさんは生きたい」も真である、という関係が成り立ちます。この真理値間の関係は、経験的な関係でなく、<発話の意味にもとづく>関係です。
 ところで、xさんにとって、「カヌーをやりたい」という発話も「生きたい」という発話も真理値を持たちません。しかし、この二つの発話の間にも、もし「私がカヌーをやりたい」という欲望があるのなら、「私は生きたい」という欲望もある、という関係があります。つまり、「私はカヌーをやりたい」と発話する者は、「生きたいですか」と問われたならば、「生きたい」です、と答えるはずです。(誤解のないようにコメントしておくと、質問には、二種類在り、事実を尋ねる質問に対する返答は、事実についての記述であり、真理値をもつが、意図を尋ねる質問に対する返答は、意図表明であり、真理値をもちません。ここでの「生きたいですか」は後者の質問です)

この関係もまた、<発話の意味にもとづく>関係です。これについて考えてみましょう。
   a「私は、カヌーをやりたい」
   b「私は、そのためのお金と暇がほしい」
これらは、どちらも真理値をもちません。しかし、bの欲望は、aの欲望を含意しているので、bが成り立つなら、aが成り立つという関係があります。
   c「bが成り立つならば、aが成り立つ」
cは、aとbの真理値の関係ではありませんが、このcは、aとbの関係を記述したものであり、真理値をもちます。

二種類の「生きたい」

 またしても北京のビールです。

前回次のように書きました。

 「生きたい」に対応する状態がないとしても、それが真理値を持つ可能性があるのではないでしょうか。例えば、もし「私は食べたい」が、私が生きることを前提するのならば、「私は食べたい」が真であるとき、「私は生きたい」も真であるのではないでしょうか? 

この続きを考えましょう。

 ここで我々は「生きたい」を二つの意味で理解することが出来るように思われます。一つは、「私は食べたい」が真であるならば、それが前提しているような「生きることを求める」という意味です。ここでの「食べたい」は、心的ないし身体的な状態であるとしましょう。この場合には、「食べたい」も「生きたい」も動物としての欲求だと言ってよいでしょう。このような「食べたい」には真理値があるでしょう。「その犬は何か食べたいのだ」が記述であって、真理値をもつのと同様に、「私は何か食べたい」も記述であって、真理値をもつと考えられます。そして、「生きたい」に対応する状態を、このような「食べたい」や「水を飲みたい」や「眠りたい」や「休みたい」に対応するような諸状態の体系として想定するとき、「その犬は生きたいのだ」もまた記述であり、真理値をもつことになります。

 ところで、このような「生きたい」が、動物としての欲求だとすると、これと区別して、社会的な欲求としての「生きたい」という欲望を考えることが出来るのではないでしょうか。
 実は、「食べたい」にも、この二つを区別することが出来ます。「名古屋の外郎(ういろう)でなく、山口の下郎を食べたい」という欲望は、それに対応する心的ないし身体的状態が言語とは独立にあり、それを記述している、というのではないでしょう。つまり、「山口の外郎を食べたい」は記述ではなく、真理値をもちません。このような欲望は、社会的欲望だと思われます(これの意味の説明と、これの論証は、後の課題とします)。しかし、山口の外郎を食べることが、生きていることを前提するならば、「山口の外郎を食べたい」という欲望は、「生きたい」という欲望を含意します。このときの「生きたい」は社会的な欲望であり、それに対応する心的ないし身体的な状態が、この発話と独立に存在するのではありません。この「生きたい」は、記述ではないので真理値を持ちません。

 動物としての「生きたい」という欲求と、社会的な「生きたい」という欲望は、常に揃っているとは限りません。一方だけがある場合、どちらもない場合もありえるでしょう。

ビールと復習

 北京で飲んだ燕京ビールです。味はもう一つでした。

 urbeさん、鋭いご質問ありがとうございます。夏休みボケで、私がご質問を十分に理解しているかどうかは、自信がないのですが、答えて見ましょう。

 <欲望は命題的態度の一種である>というのは、<欲望は「私は・・・したい」という発話である>ということだと思います。「私は…という欲望を持つ」と考えているとき、私は「私は…したい」と発話しています。しかし、欲望を持つことが、そのような発話をすることに尽きない場合があるとおもいます。
 たとえば、「水を飲みたい」と思うとき、「水を飲みたい」という欲望として語られる心的状態ないし身体的状態(この違いは大きいかもしれません)が、言葉になる前に、あるいは言葉とは独立に、存在しているだろうとおもいます。このとき、欲望は、単に命題的態度と同一ではありません。
ところで、それが「みずを飲みたい」という欲望であることは、セラーズの言う「理由の空間」の中で、つまり様々な命題との関係のなかで、初めて成立するのだと思われます。もし、発話と独立にそれに対応する心的状態ないし身体的状態があるとすると、「水が飲みたい」という発話は、それの記述です。このときには、「水を飲みたい」は、私の状態についての認識であり、真理値をもつでしょう。

 さて、「生きたい」という欲望も、これと同じかもしれませんが、しかしこの欲望は、もっと抽象的なものなので、「生きたい」という欲望として語られるものが、言葉になる前に、言葉とは独立に存在するということはないのかもしれません。そのようなもの無しに、さまざまな命題との関係の中で、「私は生きたい」という発話によって成立するのかもしれません。
 もしそのようなものがあるとすると、おそらく、「食べたい」とか「水を飲みたい」とか「眠りたい」とか「排泄したい」とか「休みたい」とかに対応するものどもの体系のようなものでしょう。もしそのようなものがあるとすると、「生きたい」もまた、心的状態ないし身体的状態の記述であり、真理値を持つことになります。
 
 しかし、私は、そのようなものはない、つまり「生きたい」に対応するような心的な状態ないし身体的状態はないと考えてみたい気がします(これは、いまのところ証明できません。)もし、そのようなものがないとしたら、どうなるでしょうか。「ご就職おめでとうございます」という発話が表現型発話であり、真理値を持たないのと同様に、「私は生きたい」という発話もまた(表現型か?、宣言型か?)真理値を持たないことになります。
 このような意味で、「生きたい」は真理値をもたない、と述べました。
 
さて、これで、以前の発言がより明晰になったでしょうか。

 しかし、ここでちょっと、もう一度考えてみたいとおもいます。「生きたい」に対応する状態がないとしても、それが真理値を持つ可能性があるのではないでしょうか。例えば、もし「私は食べたい」が、私が生きることを前提するのならば、「私は食べたい」が真であるとき、「私は生きたい」も真であるのではないでしょうか?