これまでの考察によれば、悪意は、次のようにして生まれる。(おそらく、これが唯一のパターンではないだろう。)
①BさんがAさんから与えられた不当な不利益を、Aさんに返そうとするとき、つまり、Aさんに仕返ししようとするとき、個人に対する悪意が生まれる。
②BさんがAさんから与えられた不当な不利益を、個人的な恨みのないCさんに与えようとするとき、これは個人(C)さんに対する悪意というようりも、社会に対する悪意である。なぜなら、Bは、Cを憎んではないからである。Cを憎むとすれば、彼が憎む社会の一員としてである。
この2つの構造は、「恩返し」と「恩おくり」の関係にている。これを、①「仕返し」と②「八つ当たり」と呼ぶことにしたい。(「八つ当たり」では、意味が軽すぎるかもしれないが、不特定の相手に怒りが向かう点では、同じ事柄を表現していると思われる。)
①については、1月26日に書いたように、<BがAから不当な不利益を与えられたならば、Aを憎むのは正しい。しかし、Aに対して仕返しすることは正しくない>。それゆえに、その意志は、悪意である。
ここからしばらくは、②について考えたい。
Bさんが、Aに対する憎しみを、Aに返すことができないとき、Bさんは、Aに仕返しできないことにたいして、怒るだろう。Aに仕返しできない原因が社会にあると考えれば、社会を憎むだろう。
では、BさんがAに対する憎しみを、Aに返すことができないのは、どのような場合だろうか。