22 四肢構造と二重問答関係 (4) (20200704)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 廣松渉は、『存在と意味』第1巻では、「認知的関心の構えに対して展ける」認識的世界を説明し、第2巻では、「実践的な関心の構えに対して展ける」実践的世界を説明する(全集16巻p.5)。実践的世界は、用在的財態(zuhandenseinede Gueter)と人格的主体(能為的主体)からなる。実践における対象は、二肢性「実在的所与-意義的価値」を持つとされ、実践における主体は、二肢性「能為的誰某-役柄的或者」を持つとされる。

 認識における四肢構造は、次のように語られた。

 <能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

これに倣って言うならば、実践における四肢構造は次のようになるだろう。

  <能為的誰某が役柄的或者として、実在的所与を意義的価値として扱う>

 まず、対象(財態)の二肢構造を説明しよう。

「実践的な関心の構えに対して展らける世界現相の分節態(=用在的財態)は、そのつどすでに、単なる認知的所与より以上の或もの(価値性を”帯びた”或るもの)として覚知されている。」(全集16巻p.5)

認識というのは、起源においても本質においても、実践(行為)のためのものであるから、認識は実践の一断面である。したがって認識の対象は実践の対象に含まれる。この実践の対象は、<実在的所与―意義的価値>という二肢性をもつが、認識の対象は価値性を帯びていないので、認識の対象は、<実在的所与>となる。これが実践の対象となる時には、何らかの価値性が付加されることになる。二肢性をもつある実践の対象が、実践的所与として、別の価値を付加されて、別の実践の対象となることがある。実践の対象は、常により上位の実践にとっての<実在的所与>となりうる。

 ここで簡略化のために、二肢的二重性が<BとしてのA>とか<Aより以上のBとして>と語られるとき、このAを「第一肢」Bを「第二肢」と呼ぶことにしよう。認識でも実践でも、ある対象の二肢の統一態(廣松はこれを「等値化的統一態」と捉える)において、この第一肢は、それ自体が下位の二肢的統一態でありうるし、この二肢的統一態自体が、第一肢となって、より上位の二肢的統一態を構成しうる。この下降や上昇がどこかで停止するだろうが、しかし対象の二肢構造は、認識や実践の構造であるので、認識や実践が成立する限り、その対象は二肢性を持っている。同様のことは、主体の二肢性についても言えるだろう。

 さて、実践の対象の二肢性をより詳しく説明しよう。

 「ピカピカ・キラキラ・テカテカ・チカチカ」(p.8)感性的体験は、一定の表情価(情動誘起価+反応性向価)をもっている。「白々・黒々・赤々・青々」という色覚も同様であり、「ネバネバ・スベスベ・ベトベト・ツルツル・ブワブワ」という触覚も同様である。さらにいえば「”無表情”もまた一種の表情にほかならないのである」(p.8)

 「ピカピカ」という表情価をもったものは、二肢性(机の表面という実在的所与 + ピカピカという表情価(意義的価値))を持っているが、これに「新品みたい」とか「清潔そう」とか「高級そう」などの意義的価値が添付すると、それ自体が別の実在的所与となる。

 このような表情価は低次の意義的価値の一つである(cf.13)。

 「まず知覚的認知が行われ、→それにともなって情動的興奮が生じ、→そこで一定の即応的行動が起始する」といった三段階の継起で考えられがちであるが、それはむしろ特別な場合であって、一般的には、「三契機が同時相即的に体験される」(p.7)という。純粋に認識的な関心で世界を見る時には、このように継起するかもしれないが、大抵は実践的な関心の中で生きており、実践的な関心にたいして世界は、表情価(意義的価値)をもったものとして現れるのである。それゆえに、この三契機は「同時相即的に」体験される。

 実践における対象(財態)がもつ意義的価値には、どのようなものがあるのだろうか。

 廣松が、例として上げるのは、一つは、価値=情動説の論者が説く「快・不快、好・悪、真・贋、善・悪、美・醜、聖・俗である。これは価値を主観的なものと考える「主観価値説」であるが、これは「対象そのものは価値を持たず、価値はあくまで主観内部の特殊な心的状態にすぎない」と考える立場である。これに対して、廣松は、価値=感情説をとらない。それは、「実在的所与」はレアール(個別的・定場所的・変易的)なものであるのに対して、「意義的価値」はイデアール(普遍的・超場所的・不易的)な存在性格をもつ(p.153)と考えるからである。廣松は、これらの価値について、価値=感情説とは異なった理解をするが、これらの論者が「感情的」な価値と考えているものも想定している。

 廣松が取り上げるもう一つの例は、経済学上の価値論であり、商品の使用価値と交換価値である。

これらの例とは別に、意義的価値について、より一般的に次の7つの区別が説明されている。

(1)興発的価値感得(歓好-嫌嫌)

(2)比較認的価値評価(撰取-貶置)

(3)欲動的価値希求(渇抑-抑斥)

(4)当為的価値応対(促迫―禁制)

(5)期成的価値企投(追求-忌避)

(6)照会的価値判定(適じゅう-反か)

(7)述定的価値判断(承認-否認)  (p.46)

『存在と意味』第二巻、第一編、第一章での財態の二肢性についての説明は、印象的な具体例による説明が少なく、正直なところ全体として非常にわかりにくい。この説明のわかりにくさの理由の一つは、実践の対象が、(理論的認識とは対比される)実践的な認識の対象として考察されており、行為の対象として考察されていないことにあるように思われる。この点については、主体の二肢性の説明を確認してから検討したい。

 次に、実践における主体の二肢性「能為的誰某-役柄的或者」をみよう。