[カテゴリー:問答と懐疑]
疑いの対象となる命題には、次のようなものがある。(これはまだ整理されていないし、網羅的でもないかもしれない。)
・知覚判断への疑い
・記憶判断への疑い
・経験的な個別判断への疑い
・経験的な全称判断への疑い
・未来予測への疑い。
・評価判断(価値判断)への疑い。
・命令への疑い
・論理学や数学の命題への疑い
・表現の意味への疑い
まず、最も単純そうに見える「知覚判断」への疑いについて、それがどのようなものであるかを考えてみよう。
「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは本当によく熟しているのだろうか?」と問うとき、これは主張を疑っている。この疑いが、「このリンゴはまだ熟し方が足りないだろう」という推測を伴っているとき、この疑いを確かめるもっとも良い方法は、それを切って食べてみることである。私たちは、この場合に「疑いを確かめる」という言い方をするが、それは、疑いに伴っている想定を確かめることを意味している。このような知覚判断への疑いは、それと矛盾する別の知覚判断を確証することによって確かめられる。経験的な命題への通常の疑いは、別の経験的な命題によってテストできる。
この例は、主語が指示する対象について述定が真であることを疑う場合であるが、主語が指示する対象が実在するかどうかを疑う場合もある。例えば、「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「これはリンゴだろうか、スモモではないだろうか?」と疑う場合がそうである。この場合にも、「これはリンゴではなくスモモである」という経験的な命題によってテストできる。
しかし、経験的な命題への疑いの中には、別の経験的な命題によってテストできないものがある。例えば、「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは実在するのだろうか?このリンゴは私の知覚像に過ぎないのではないか?」という疑いである。
別の経験的な命題によってテストできる疑いを「経験的疑い」と呼び、別の経験的な疑いによってはテストできない疑いを「哲学的疑い」と呼ぶことにしよう。
次に、この二種類の疑いの関係を考えたい。