04 経験的疑いと哲学的疑いの区別を再考 (20200721)

[カテゴリー:問答と懐疑]

前回「別の経験的な命題によってテストできる疑いを「経験的疑い」と呼び、別の経験的な疑いによってはテストできない疑いを「哲学的疑い」と呼ぶ」と区別した。ここでは、この区別の有効性、妥当性を検討したい。

 前回、疑いの対象となる命題には、次のようなものがあると述べた。

・知覚判断への疑い

・記憶判断への疑い

・経験的な個別判断への疑い

・経験的な全称判断への疑い

・未来予測への疑い。

・評価判断(価値判断)への疑い。

・命令への疑い

・論理学や数学の命題への疑い

・表現の意味への疑い

 ここでまず問題になるのは、最後から3番目の「・命令への疑い」について、私たちが02で考えた〈疑い〉の定義は当てはまらない、ということである。02で、〈疑う〉こと次のように定義した。「〈疑う〉ことには、命題の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。」

 命令への疑いは、命令の適切性を疑うのであって、命令の真理性を疑うのではない。なぜなら命令には真理値はないからである。これに対応するためには、広義の〈疑い〉を次のように定義しよう。

「広義の〈疑う〉ことには、(信念や主張や命令の)命題の適切性を問うことに加えて、その問いに、適切でないかもしれない/おそらく適切でない/不適切であるかもしれない/おそらく不適切である/不適切である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。」

 次に問題になるのは、最後の二つの疑いである。まず、「論理学や数学の命題への疑い」について考えよう。数学の命題に対する疑いは、「別の経験的な命題によってテストできる疑い」なのだろうか。論理学や数学の命題は、経験的な命題ではない。それは経験によって検証されたり反証されたりしない。例えば、93錠の薬から、7錠取り除いて、数えたら87錠になったとしても、それは93-7=86を反証したことにならないし、数えたら86錠であったとしても、それは93-7=86を検証したことにならない。

 したがって、論理学や数学の命題への疑いは、経験的な疑いではない。しかし、これを「哲学的疑い」と呼ぶのではなく、「論理的数学的疑い」と呼ぶ方が適切だろう。そのためには「哲学的疑い」を再定義する必要がある。

 哲学的疑いについての前回の例をもう一度みよう。「このリンゴはよく熟している」という主張に対して、「このリンゴは実在するのだろうか?このリンゴは私の知覚像に過ぎないのではないか?」という哲学的な疑いの特徴は何だろうか。

 「このリンゴはよく熟している」への経験的疑いは、「このリンゴはまだ熟していないのではないだろうか」と問うことである。この問いに、「このリンゴはよく熟している」(肯定)と答えるにせよ、「このリンゴはまだ熟していない」(否定)で答えるにせよ。どちらの場合にも、これらの答えは、「このリンゴが実在する」を前提しており、これは経験的疑いの前提でもある。 

 先の哲学的疑いは、経験的疑いのこの前提を疑うものである。「p」という命題について、経験的疑いは、「pは真か?」と問うが、この問いは多くの前提を持つ。問いの前提とは、問いが成り立つための、言い換えると、問いが真なる答えを持つための必要条件である。哲学的疑いは、この必要条件を疑うものである。

 しかし、この必要条件を問うことのなかには、哲学的疑いだけでなく、経験的疑いも含まれている。例えば、「これは瑠璃色だ」という主張の真理性を問う問いが、「これは瑠璃色だろうか?」であるとき、この問いの前提の一つは、「これは色を持つ」である。この前提を問う問い、つまり「これは色を持つのだろうか?」という問いは、経験的な疑いである。

 このように経験的疑いの前提の真理性を問う〈疑い〉に、経験的疑いと哲学的疑いの二種類がある。したがって、哲学的疑いを、「哲学的疑いとは、通常の経験的疑いの前提を疑うものである」とするのでは、定義としては不十分である。これに前回の定義(の試み)「哲学的疑い」は、「別の経験的な命題によってはテストできない疑い」を組み合わせて、つぎのような定義を提案したい。

「哲学的疑いとは、通常の経験的疑いの前提を疑うものであり、かつ、別の経験的な命題によってはテストできない疑いである」

この定義は、前半部分で、論理的数学的疑いを排除し、後半部分で、経験的な疑いを排除している。この定義の検討のまえに、つぎに「表現の意味への疑い」を考察しよう。