8 懐疑主義とは、主張か態度か方法か  (20200730)

[カテゴリー:問答と懐疑]

懐疑主義(skepticism)を3種類に分けることができるだろう。

(1)主張としての懐疑主義

この一つのタイプは、特定対象や領域に関する主張に対する「ローカルな懐疑主義」である。「その命題は疑わしい」「星占いは、疑わしい」「自然科学は疑わしい」のようなものである。

もう一つは、「全ての命題は疑わしい」と主張する「全面的な懐疑主義」である。これに対する、よくある批判は、「それではこの命題も疑わしいのか?」という問いに、「はい」と答えれば、懐疑主義を否定することになり、「いいえ」と答えても、懐疑主義を否定することになる、ということである。

 主張としての全面的な懐疑主義は、このように自己矛盾するので、成り立たない。

(2)態度としての懐疑主義

 これは、懐疑的な態度のことである。この態度の対象になるのは、命題、人物、制度、規範、などであろう。この場合にも、あらゆる対象に対して懐疑的にふるまう「全面的懐疑主義」と、特定の対象について懐疑的にふるまう「ローカルな懐疑主義」を分けることができるだろう。

 ローカルな懐疑主義は、成立可能であるが、全面的な懐疑主義は、成立不可能であろう。

なぜなら、疑うことは、命題の真理性や適切性について問うことの一種であり、問うことは一定の前提(ウィトゲンシュタインの言う蝶番)を受け入れることによって可能になるので、すべての命題を疑うことはできないからである。(ちなみに、人物、制度、規範などに対して、懐疑的な態度をとることは、人物、制度、規範などについての命題の真理性や適切性を疑うことである。)

(3)方法としての懐疑主義

 古代の懐疑主義は、そのものを目的にしているのではなく、懐疑によってある主張に固執することを避け、心の平静を保つための方法であった。また、デカルト的懐疑と言われるものは、確実な知を獲得するための方法であった。また「科学的懐疑」と言われるものは、常識や迷信を疑い、科学的な知を獲得するための方法である。

 以上が、懐疑主義についての大まかな分類である。では、私たちは、今日、懐疑主義を飼いならせているのだろうか。