31 知覚の因果的自己言及性とは (20210311)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、知覚は「因果的自己言及性」(あるいは「志向的因果性」)を持つと言います。例えば、黄色いステーションワゴンを見るときの「視覚経験の志向内容」は、次のようなものになるといいます。

「私は(そこに黄色いステーションワゴンが存在し、そしてそこに黄色いステーションワゴンが存在することがその視覚経験を引き起こしている)という視覚経験を有している。」(『志向性』前掲訳66)

つまり、志向内容には、

  ①「そこに黄色いステーションワゴンが存在する」

ということだけでなく、

  ②「そこに黄色いステーションワゴンが存在することがその視覚経験を引き起こしている」

ということも含まれます。

 このように②を含むゆえに、知覚経験の志向内容は「因果的に自己言及的」(前掲訳68)であると言われます。もちろんこの自己言及性は語られているのではありません。しかしそれは「示されている(shown)」とサールは言います(前掲訳68)。

 ところで、動物の知覚もこのような因果的自己言及性をもつでしょうか。私は、動物の知覚はこのような因果的な自己言及性をもたないだろうと思います。つまり上の視覚経験で言えば、①をもつが②はもたないだろうと思う。(さらに①についても、動物の場合には、その内容は言語的に分節化された内容ではないでしょう。)

 ②を持つのは、人間の知覚の場合だけだろうとおもいます(それをどうやって証明したらよいのか今のところ分かりませんが…)。確かに、人間の知覚の場合には、②のような意識を伴っているように思われる。つまり、人間がある対象や事実を知覚するときには、知覚していることの意識が伴っているでしょう。では、どうしてそうなるのでしょうか。

人間が知覚しているときには、知覚していることを意識していることが多いとすると、それは次のような事情ではないでしょうか。

 前回述べたことですが、「この車は黄色い」という主張発話が誠実であるための条件として、話し手が<この車は黄色い>という信念(志向性)をもつことを指摘できます。ここでの一連の問答はつぎのような関係にあります。

 「この車は何色か」という言語的問い 探索(この問いの発話の誠実性条件となる心的状態)→知覚(視覚経験)→「この車は黄色い」という知覚報告(この報告の誠実性条件は、<この車は黄色い>という信念をもっていることです)。

 <人間が行う知覚が、このような言語的な問答(言語的な問いと答えとしての知覚報告)のプロセスを成立させるために、問いから答えを導出するプロセスの中で成立するのだとすると、「探索」という心的状態は意識されており、したがってそれに対する答えとしての知覚(知覚経験)も意識されており、その知覚は、因果的自己言及性をもつことになる>と言えるのではないでしょうか。

(人間はつねにこのように意識的に知覚を行っているとは限らず、知覚しても因果的自己言及性を持っていないように見える場合もあります。しかし逆に、原始的な動物の知覚を含めて知覚プロセスはつねにこのような因果的自己言及性を持っていると見なすことも可能かもしれないもおもいます。そのためには、現代の脳神経科学の知覚論やディープラーニング論を考慮する必要があると考えています。いずれ別の機会に述べるつもりです。)

 同様のことが、因果的自己言及性を持つ他のタイプの志向性(記憶、先行意図、行為内意図)についても言えるかどうかを、次に確認したいと思います。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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