[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
前回触れたように、「記憶」と呼ばれるものには多様なものがあります。但し、全ての記憶は、真理値をもち、心から世界への適合の方向を持ちます。そして、志向性としての記憶は次の構造を持つでしょう。
思い出す(出来事や対象)
記憶の充足条件については、前回も述べましたが、次のように言うこともできます。
①出来事が存在したこと
②出来事を記憶内容として思い出すこと
記憶内容である出来事は、記憶内容として思い出される必要があります。さもなければ、その出来事を現実の出来事や単に想像した出来事などと区別できないことになるからです。
ところで、志向性としての記憶は、単に記憶内容なのではなく、それを思い出すことです。では、なぜある特定の記憶内容を思い出すのでしょう。それには原因や理由があると思われます。例えば、鍵を探していて、「鍵をどこに置いただろうか」と自問して、ズボンのポケットに入れたことを思い出したとすると、問いに対して答えるために、思い出しが行われ、答えとして記憶内容が報告されてているのです。このように記憶の想起に理由がある時には、そこには問いがあるといえるでしょう。
ただし、単なる連想の場合もあるかもしれません。たとえば、荒れた海の写真を見て、その連想で「3.11の津波」を思い出す場合はどうでしょうか。その写真を見る時に、私たちはその写真を理解するために、「これは何だろう」という問いを立て、これは「3.11の津波に似ている」という答えを得るのかもしれません。習慣的な連想を別にすると、連想もまた無意識問いに促されているだろうと推測できます。さらに習慣的な連想についても、それが習慣になる最初の時には、無意識ないし意識的な問いに促されているだろう推測できます。
記憶の想起はつねに何かについての記憶の想起であり、その何かの選択は、問いに答えることによって行われていると思います。何の問いもないところで、何かを想起するということはないでしょう。(出来事の記憶には、個人の思い出の記憶もありますが、歴史のように共同体にとっての出来事の記憶もあります。後者の記憶は、サールの言う「集合的志向性」に属すると思いますが、これもまた問い(集合的な問い)に対する答えとして成立するものになると考えますが、これについては個人の志向性を論じた後に論じることにします。)
ところで、個人の記憶は、(体験や出来事の記憶のように)記憶内容が時間空間上の座標を持つものと、時間空間上の座標を持たないものに分けることができます。後者はほとんどが何らかの規則の記憶であると思われます。この規則には、論理規則、文法規則、意味論的規則(語の意味は、これに属します)、自然法則、社会的規則(法律など)があります。これらの規則の記憶の場合にも、それを想起することは問いに答えるために生じると言えるでしょう。
これらの記憶は長期記憶であすが、それに対して短期記憶と呼ばれるものがあります。ある作業をしているときの短期記憶は、その作業を遂行するために必要なものです。ある作業を進めるには、作業の全体計画を記憶し、現在その中のどの部分を行っているのかを記憶しておく必要があります。これらの短期記憶は、「この後どうするのか?」「これは何のためであったのか?」などの問いに対する答えとなります。
このような短期記憶(作業記憶)は、行為内意図や先行意図と深く関係しています。次にこの二つの意図について、それらもまた問いに対する答えとして成立することを確認したいと思います。