[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
サールは、知覚と行為内意図は提示であり、記憶と先行意図は表象であると言います。
知覚が「事態の提示」であるとは、次のような意味です。
「たとえば、私が黄色いステーションワゴンを前方に見ている場合、私の有している経験が直接にその対象についての経験である。その経験は単に対象を「表象」しているのみではなく、対象への接近をも与えている。その経験は、ある種の直接性、端的さ、そして意のままにはならないという、眼前にはない対象について信念を抱くような場合には見出されない性質を有している。それゆえ、視覚経験を表象として描写することは不自然であるように思われる。実際、そのように視覚経験を語る場合には、どうしても知覚の表象説へと導かれてしまうだろう。そこで知覚経験のこうした特別な性質のゆえに、私はそれらをむしろ「提示」と呼ぶよう提案したい。私が述べようとしている視覚経験、知覚された事態を単に表象するのみではなく、それが充足されたときにはむしろ事態への直接の接近をわれわれに許すものであり、そのいみでそれは事態の提示なのである。」(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房63、下線と強調は入江)
「提示は、われわれが表象に与えた定義的条件(すなわち、志向内容、充足条件、適合の方向、志向対象、などを有する)をすべて満たしている」
「提示」は「表象の一種」だとされます。これが、それ以外の表象と異なるのは、「それが充足されたときにはむしろ事態への直接の接近をわれわれに許すもの」であるとされます。
では、行為内意図が「提示」であるとは、どういう意味でしょうか。行為内意図が行為を惹き起こしているので、行為内意図が行為の原因だと言えるでしょう。先行意図もまた行為の原因になりますが、先行意図は行為と時間的に離れているので、直接の原因ではなく間接的な原因となります。先行意図が行為の原因になるためには、行為内意図になる必要があります(先行意図自身が、時間経過によって行為内意図に変化すると考えるのか、それとも先行意図は消えて行為内意図が生じるのか、について議論があるようですが、今は踏み込みません)。先行意図は行為の表象を含みますが、行為内意図は、行為そのものを含むといえるでしょう。行為内意図は行為そのものを提示するのです。
サールは、共に提示である知覚と行為内意図の類似性を、次のように説明しています。
「テーブルを見ることの場合には二つの構成要素、つまり、志向的構成要素(視覚経験)とその充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)がそこに含まれていたのとちょう同じように、私が自分の腕を上げるという行為にも志向的構成要素(行為経験)とその充足条件(私の腕の運動)という二つの構成要素が含まれているのである。志向性に関する限り、視覚経験と行為経験との相違は、適合の方向と因果作用の方向とにある。」(同書123f)
つまり、知覚の場合には、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)が原因となって、志向的構成要素(視覚経験)が生じるのに対して、行為の場合には、志向的構成要素(行為経験)が原因となって、充足条件(私の腕の運動)が生じます。
ちなにみ、知覚と行為には、経験と充足条件の片方だけが欠けている場合がある。知覚の場合、志向的構成要素(視覚経験)があるが、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)が欠けている場合(幻影肢の場合)と、志向的構成要素(視覚経験)が欠けているが、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)がある場合(これは盲視の場合)がある。
これと同様に、行為の場合、志向的構成要素(行為経験)があるが、その充足条件(私の腕の運動)が欠けている場合(コーヒーを飲んでいるつもりだったが、その代用品を飲んでいた場合)と、志向的構成要素(行為経験)が欠けているが、その充足条件(私の腕の運動)がある場合(行為しているが行為内意図を意識していない場合)がある(参照、同書125f)。
さて、このように志向性が単なる表象ではなくて、提示であるとき、それを答えとする問いないし探索は、表象を答えとする問いないし探索とどのように異なるのでしょうか。