[カテゴリー:問答の観点からの認識]
「サールは、脳科学の知見と素朴実在論の関係をどう考えるのか」という問題の前に、サールが素朴実在論(直接的実在論)について、超越論的論証を行っているのでそれをまず紹介します。
#サールによる素朴実在論の超越論的論証。
サールは、『心』「第十章 知覚」で、感覚所与説を批判するだけでは、素朴実在論の証明にはならないとして、最後に素朴実在論の「超越論的論証」を行います。彼はその論証を、次のステップに整理しています。
「一、私たちは少なくともある場合には他の人と首尾よく意思疎通していると仮定する。
二、その意思疎通の形式は、ある公的な言語において公的に利用できる意味という形式をとる。具体的にいえば、私が「このテーブルは木製だ」という場合、私はあなたがその言葉をわたしと同じように理解するだろうと想定している。さもなければ、私たちはうまく意思疎通できない。…
三、しかし、公的な言語を用いてうまく意思疎通するためには、私たちは共通で、公的に利用できる指示対象を想定しなくてはならない。たとえば、私が「このテーブル」という表現を使う場合、私があなたがその表現をわたしが意図したように理解すると想定しなくてはならない。つまり、私たちはともに同じテーブルを指し示しており、あなたが「このテーブル」という私の発話を理解する場合、あなたは私によるその発話を、同じ状況であなた自身が「このテーブル」と発話する際に指し示すのと同じ対象(このテーブル)を指し示しているものとして受け取るということを仮定しなければならない。
四、このことは、あなたが私とまったく同じ対象に対する知覚的なアクセスを共有しているということをを含意している。公的な言語は公的な世界を前提としている。しかし、その公的な世界を公的に使用できるようにしているものとはまさに、私がここで擁護しようとしている直接的実在論である。」(サール『心の哲学』山本貴光、吉川浩満訳、朝日出版社、348)
つまり、素朴実在論を批判するものも、公的な言語を用いている限り、素朴実在論を前提しているという論証です。
「素朴実在論の正しさを証明するということはできない。むしろ、公的な言語において素朴実在論を否定することは理解不可能な営みであるということが証明されたのである。」(同訳349)
ここで、サールは、超越論的論証は「証明」ではないと示唆していることになります。私も超越論的論証は、厳密な証明にはなっていないと考えています。これについては、入江『問答の言語哲学』「4.4 超越論的論証の限界」で詳論しました。この超越論的論証は、素朴実在論を採用するとそこから有益な主張が帰結するということの一例となるでしょう。(一般に、主張pの上流推論は、pの「証明」となりますが、主張pの下流推論は、その結論が有用である場合には、pの「正当化」になると言えるでしょう。)
さて本来の課題に戻ります。
#サールにおける神経生物学と素朴実在論
サールは『心』で、心身問題に関して「生物学的自然主義」(biological naturalism)153という立場を主張し、これを次の4つのテーゼで説明しています。
「一 意識状態――主観的、一人称的存在論をともなった意識状態――は、現実世界における現実の現象である。意識が錯覚であることを示すだけではそれを消去的に還元することはできない。また、意識は神経生物学的な基盤にも還元できない。なぜなら、そのような三人称的な還元は、意識の一人称的な存在論を切り捨ててしまうからだ。
二 意識状態は、もっぱら脳内におけるより低レベルの神経生物学的な過程によって引き起こされている。従って意識状態は、神経生物学的過程に因果的に還元できる。…
三 意識状態は、脳内において脳組織の性質として現実化されている。従って、意識状態はニューロンやシナプスよりも高レベルで存在している。個々のニューロンは意識を備えていない。だが、ニューロンからなる脳組織の諸部分は意識を備えている。
四 意識状態は、現実世界の中の現実の性質であるから因果的に機能する。たとえば私の意識に現れるのどの渇きは、私が水を飲む原因となる。」(同訳154、下線と強調は入江)
サールは、意識の説明については「神経生物学」のアプローチが「まさに正しいアプローチだ」(199)と考えています。そして、「唯物論でも二元論でもない」立場をとると言います。それは、「生物学的自然主義」でもあり「素朴実在論」でもある立場だといえるでしょう。
サールが、生物学的自然主義と素朴実在論を、私が提案するような仕方で「結合」しようとしているのかどうかはよくわかりません。上記の「三」にあるように、サールは、「意識状態は、脳内において脳組織の性質として現実化されている」と主張しているのですが、この「脳内において」と言うところが気になります。これを知覚に適用するならば、「知覚は、脳内において脳組織の性質として現実化される」と言えるでしょう。しかし、マグカップの知覚において、私がマグカップそのものを見ているのだとすると、その知覚は脳内にあるとはいえないのではないでしょうか。
次回は、この点を、考えてみたいと思います。