10 人生の意味と人生の目的の区別 (20210515)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

私たちが生きていくとき、他者や自分との絶えず問答をおこなっており、またそれが必要でもあります。他者と問答するためには、自分の行為と発言を記憶し、その整合性をチェックし、必要ならばそれを修正し、必要ならば、その修正を他者に伝えます。場合によっては、変更理由を説明する必要があります。他者との言葉と行為による交流ができている限りにおいて、主体は自分とは何かをおおよそ理解しています。つまり次のような問いを問い、それに答えています。

①「主体(自我、人間)とは何か」

②「自分はどういう人間か」(自分探しの問い)

③「私は、○○のためには、どうすればよいのか?」

この「○○」には、例えば「健康」「長生き」「幸せな生活」「家庭円満」「人に認められること」「お金儲け」「すごい芸術家になること」「会社で出世すること」「会社を大きくすること」などが入ります。「○○」に入るものは、その人の生活の目標です。これらの目標は、より大きな目標のための手段である場合もあります。ところで、人は、何度かこれらの目標を再確認したり、修正したりする必要に出会うでしょう(たいていは、その目標追究に行き詰まったときであり、ときには目標追究があまりにもうまく進んで不安になったときかもしれません)。そのときに、「私は、何のために、○○しようとするのか?」という問いが生じます。この問いを立てる者は、それに答えるために、次の問いを立てるでしょう。

④「私は何のために生きるのか?」

そこで、次のように主体を定義したいと思います(これ以外の主体の定義を排除するものではありません。一般に、一つの定義が可能ならば、大抵は複数の定義が可能です)。

主体の定義:主体とは、「私は何のために生きるのか?」と問うものである。

「私は何のために生きるのか」という問いは、「私の人生の目的はなにか」と言い換えられます。そして、この問いは、「私の人生の意味は何か?」という問いとは異なります。

 「人生の意味」については、問答推論的意味論に基づいて、「ある人の人生の意味は、その人がしてきたことの上流推論と下流推論の総体である」であると考えることを提案しましたが。しかしこれを受け入れても、これだけでは「私は何をなすべきか」や「私は何のためにいきるのか」に答えることはできません。

 「私は何のために生きるのか?」と自問して、答えが見つからない人にとっては、この問いを問うことが人生の目的になるでしょう。つまり、その人は「私は何のために生きるのか?」という問いの答えを見つけるために生きる、と言うことになるでしょう。

 ただし、この問いの答えを見つけている人もたくさんいるとおもいます(中高年になると答えを持っている人が多いだろうと推測します)。

 例えば、私の場合、「私は何のために生きるのか?」に対する答えは、「私は哲学するために生きる」です(「哲学する」とは、「通常より、より深くより広く考えること」です)。このように、この問いに対する答えをすでに持つ者も、この問いを問う必要があります。何故なら、「私は哲学するために生きる」という発話の意味は、「私は何のために生きるのか?」という相関質問を問うことによって明示的になるからです。このような意味で、私たちは、「私は何を求めて生きているのか?」と問う者なのです。

 ところで、ここでさらに「私は何のために、哲学するのか?」と自問するとき、私がそれに答えられないとすると、「私は哲学する」は、それ以上の(自覚された)目的を持たないことになります。もしこれを自分の最上位の目的とすることに、確信がもてないとすると、私は「私は何のために生きるのか?」と自問するでしょう。

 以上の話は「私は、素晴らしい絵を描くために生きる」や「私は子供幸せのために生きる」や「私は人類のために生きる」などの他の答えの場合でも同様です。いずれにせよ、私たちは「私は何のために生きるのか?」と自問するのです。(唐突かもしれませんが、映画、アニメなどを含めた広義の文学作品は、そのことを証示していると思います。)

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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