64 三木さんへの回答(5) 形式意味論に対するブランダムの批判(20211220)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

・Fodor and LeporeとBrandomの間に次のような論争があることがわかりました。

1,Fodor and Lepore からのBrandomへの批判1:

Brandom’s Burdens: Compositionality and Inferentialism

Jerry Fodor; Ernie Lepore, Philosophy and Phenomenological Research, Vol. 63, No. 2. (Sep., 2001), pp. 465-481. (この論文は後に、Fordor and Lepore, The Compositionality Papers, Oxford U.P., 2002 に収録されています。)

2,Brandomからこの批判への応答

Brandom, Inferentialism and Some of Its Challenges,in Philosophy and Phenomenological Researh, vol.74-3(2007), pp.651-676. (この論文は、Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010、に収録されています。)

3,Fodor、Lepore からBrandomへの批判2

Fordor, J. & Lepore, E.(2007)“Brandom Beleaguered” in Philosophy and Phenomenological

Researh, vol.74-3, pp.677-691. (この論文も、Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010、に収録されています。)

4,Brandomからこの批判への応答

Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Fodor and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in

Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010.

(あるいは、この後も両者の間で応酬があるかもしれません。)

この論争をはじめからチェックするには時間がかかりそうです。三木さんへの回答から離れてしまいそうなので、ここでは要点だと思われる点だけを、上記の4と、『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』から紹介します。

 上記の4で、ブランダムは、FodorとLeporeの「形式意味論」を「哲学的意味論」の立場から批判します。ブランダムは、FodorとLeporeがが、意味論と認識論を峻別することに賛同しますが、しかし「意味についての議論から、理解の考慮を取り除くこと」には反対し、次のように言います。

「Fodor とLeporeと異なり、私は意味と理解が連係した概念であるという点でダメットに同意する。これらの一方を他方を理解することなく理解することは出来ない。この関係は、私たちが形式意味論のプロジェクトを追究するときには、無視される。」(Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Fodor and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010. 332)

意味と理解を分けられないということが、ブランダムによる形式意味論に対する批判です。彼は、同様のことを『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』でも述べています。

「意味についての語りなるものは、意味を把握する、あるいは理解するとはどのようなことか、ということについての語りと分断されてしまっては無益なのである。マイケルダメット、ドナルド・デイヴィドソン、クリピン・ライトらは、意味についての思想の中心にこの原理をおいた言語哲学者だ。もしこれを受け入れるならば、意味論は広い意味での認識的問題と分離不可能な仕方で結びつくことになる。」(ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、勁草書房、下巻、171) 

これに対して「ジェリー・フォーダーは、この〔広い〕意味で認識的な問題と、本来の意味で意味論的である関心との混ぜ合わせを、現代の心の哲学、言語哲学における大悪だとみなしている。」(同所)

わたしも、意味と理解を分けられないというダメットやブランダムに賛成です。それゆえに、前回、形式意味論において、語句の意味をどのように設定するのかを問題にしたのです(ただし、ブランダムは、認識論を慎重に避けようとしているので、私の前回の議論にブランダムが賛同するかどうかは、わかりません)。FodorやLeporeがブランダムのこの議論にどう応答するのか大いに気になるところです。FodorとLeporeからのBrandom批判は、問答推論的意味論にも、そのまま当てはまりそうなので、この論争については、別途詳しく検討した方がよさそうです。

  次に、三木さんの後半の質問に答えたいと思います。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。