06 共有された言語と個人言語の区別 (20220809)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

「共有された言語がなくても、コミュニケーションを説明できそうですが、このことが、問答関係の性質として真理をとらえることとどう関係するのか」に答えたいと思います。

共有された言語がなくても、他者との問答は可能です。(04回で述べた)デイヴィドソンの例、一方が鼻を指さし、他方が「鼻」と答える例では、鼻を指さすことは「これは何ですか」という問いの意味を持つのですが、デイヴィドソンは、質問の発話に言及してはいませんでした。それは、言語を共有していないことを示すためだったのだろうと思います。一方が鼻を指さすとき、「これは何ですか」と質問し、相手が「鼻」と答えるとき、この二つが別の言語であることが可能だということです(この場合、別の言語共同体に属する別の言語である場合もあれば、同一の共同体に属する別の個人言語である場合もあるでしょう)。その場合、問答は二つの言語の間でおこなわれています。もちろん各人は、互いに相手の発話を自分の言語に翻訳して、それぞれの言語による問答として理解しています。

この場合、問いに対する答えが真であることは、二つの言語にまたがる問答が真であり、また同時に各人の言語に翻訳した問答が真であるということです。

このとき、L1におけるQ1にL2におけるA2で答えるとき、答える者は、Q1をL2におけるがQ2として理解して、それに対する答えA2が真なる答えになると考えています。質問したものは、A2をL1におけるA1として理解して、Q1とA1の問答関係を理解しています。ここでQ1とA1、またQ2とA2が、問答関係を構成することは、それらの意味に基づいて可能になります。

ところで、問答関係が成立するだけでなく、それが真なる問答関係となるとき、それらの意味だけによって成立する場合と、意味に加えて事実(世界の在り方)によって成立する場合もあります。

前者の場合の問答関係は、問答の意味に問い合わせて成立します。L1におけるQ1とA1の問答関係が意味に基づいて成立するだけでなく、意味に基づいて真となるとき、その時の問いと答えを結合する問答関数は、L1の意味論的規則に基づいて真となります。返答者の側では、L2におけるQ2とA2の問答関係が意味に基づいて成立するだけでなく、意味に基づいて真となるとき、その時の問いと答えを結合する問答関数は、L2の意味論的規則に基づいて真となります。

この場合、問答がうまく行っている場合には、L1とL2は同一であると想定しても問題ない場合もあるでしょう。ただし、問答がうまく行かないときには、L1とL2の区別によって、うまく行かないことを説明することが必要になるでしょう。

後者の場合の問答関係は、問答の意味と事実に問い合わせて成立します。このとき、問答が異なる言語に属するとき、質問者がQ1とA1の問答において問い合わせる事実と、返答者がQ2とA2の問答において問い合わせる事実は、同一でしょうか、異なるのでしょうか。問答がうまくっている限り、問い合わせる事実が同一であると想定しても問題は生じないでしょう。問答がうまく行かないときは、問い合わせている事実は異なるのでしょうか。例えば、ある人が自分に赤く見えるものを指さして「これは何色ですか」と問い、相手が「赤い色です」と答えることを、いろいろな対象について繰り返してきたとします。ところが赤く見えるある新しい対象について「これは何色ですか」と問うたところ、相手が「緑です」と答えたとしよう。このとき、返答者が問い合わせた対象ないし対象の知覚と、質問者が指示した対象ないし対象の知覚は、異なるのでしょうか。

これについては、次のように考えられると思います。二人が同一の世界に存在しているとすれば、問い合わせる事実(世界の在り方)もまた同一のはずである、と。これは、L1での質問の「これ」とL2でのそれが、同一の対象を指示しているということではありません。なぜなら二つの「これ」の使用法が異なれば、L1とL2でその指示対象が異なることは可能だからです。ここで「問い合わせる事実(世界の在り方)」が同一であるというのは、それが世界の特定の断片ではなく、いわば全体としての世界そのものだと考えるからです。事実に問い合わせるあらゆる真なる問答において、問い合わされている事実は同一のものであるとすると、問いに対する答えが異なるとすれば、それは問いが異なるからだ、つまり問いの意味が異なるからだと思われます。

まとめておきます。問いの意味だけに基づいて、答えが得られるとき、問う者と答える者の言語が異なれば、問い合わせ対象である問いと答えの意味もまた異なります。しかし、問いの意味だけでなく事実に基づいて答えが得られるとき、問う者と答えるものの言語が異なるとしても、問い合わせ対象である事実(世界の在り方)は同一です。

質問者と返答者の言語が異なるとき、問答が真であるとは、このような事情の中で、問答が反復されたとしても、同一の問いに対して同一の答えが反復して成立することであり、その問答関係が規範性を持つということです。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。