[カテゴリー:問答の観点からの認識]
今回は、前回の復習と補足を行いたい。
#発話は、問いに対する答えとして発語内行為をおこなう。
非遂行文であれ遂行文であれ、その発話が発語内行為を行うのは、それが問いに対する答えとして発話されるからであると考える。発話が問いに対する答えであるとき、その発話は複数の可能な答えの中から正しい答えとして選択されたものである。問いに答えることは、答えの選択にコミットすることであり、「なぜそう答えるのか」と問われたら、「なぜなら、…から」と答える用意がある。もし答える用意がないならば、その答えを正しい答えと選択することはなかっただろう。
以上のことは、答が真理値を持つ問い(記述的問いや方法の問い)の場合には、容易に受け入れられるだろう。この場合には、問いに答えることは、その答えが真であることにコミットすることであり、その根拠を「なぜ」と問われたならば、それに答える用意があるはずである。
ただし、真理値を持たない問い(意思決定の問いや宣言の問い)の場合には、もう少し説明が必要である。これらの問いに答えることも、複数の可能な答えの中から一つを選択することであり、その選択にコミットすることである。なぜなら、これらの問いの答についても複数の可能性があり、その中から一つを選択しなければ、答えることができないからである。ただし、答えが、意思決定の発話や宣言の発話である場合には、その答えにコミットすることは、その真理性にコミットすることではなく、その答えからの帰結にコミットし、責任を持つことである。答えが意思決定の発話であるときには、発話者はそれを実行することに責任を持つ。答えが宣言の発話であるときには、発話者は、宣言内容が事実であること、実現されていることに責任を持つ。
#意思決定の発話は、決定された意図を実行する責任を持つ。宣言の発話は、宣言された内容が実現していることに責任を持つ。
記述と意思決定と宣言の区別について、次のような例を挙げることができる。
「水はH2Oである」が記述であるならば、真である。
「水はH2Oである」が定義(宣言)であるならば、真理値を持たない。
この文が真になるのは、定義が行われた後である。
「「水はH2Oである」は定義である」は記述であり、真である。
「「水はH2Oである」を定義とする」は宣言であり、真理値を持たない。
「「水はH2Oである」と定義しよう」は、意思決定であり、真理値を持たない。
以上の主張についてのAIから次の批判を得られたので、それをupする。
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内容面では、私がまず予想する批判は、日本語上の問題ではなく、「問答」と「発語内行為」の関係づけが強すぎるのではないかというものです。
以下、批判力が強そうな順に挙げます。
1. 「すべての発語内行為が問いへの答えとして成立するのか?」
これは最も強い批判だと思います。
あなたは、
発話が発語内行為を行うのは、それが問いに対する答えとして発話されるからである
という方向で考えています。
しかし、普通の言語行為論の立場からは、
発語内行為は問いへの応答以前に成立している
と言われそうです。
例えば、
火事だ!
という叫びは、
- 主張
- 警告
- 注意喚起
のどれかとして理解できる。
しかし必ずしも「何が起きたのか」という問いへの答えとは見えない。
すると相手は、発語内行為の成立を問答関係に還元しすぎではないか、と言うでしょう。
2. 問答が条件なのか、問答は後付けの説明なのか
例えば、「これはリンゴである」が主張になるのは、「これはリンゴですか」という問いへの答えだからだという説明があります。
しかし相手は、逆ではないか、と言うかもしれません。
つまり、主張であるからこそ、あとから「なぜそう言うのか」
という問いを受けうるのであって、
問答可能性が主張を構成しているわけではない。
むしろ、問答可能性は発語内行為の結果ではないか
という批判です。
これはかなり本質的な争点になります。
3. 「なぜに答える用意がある」を主張の条件にしてよいか
ここも突かれそうです。
あなたは、主張するとは、「なぜそう言えるのか」に答える用意があることである、と考えているようです。
しかし実際には、
- 子供
- 認知症患者
- 酔っぱらい
でも主張はする。
例えば、あれ犬だよ、と言った後、なぜ?、と聞かれて、わからない、と答える人もいる。
それでも普通は、いま主張した、とは認めるでしょう。
だから、、理由提示能力は主張成立の条件ではなく、良い主張者の条件ではないか、という批判がありえると思います。
これはブランダム的な方向との関係でも論点になります。
4. 約束・命令・宣言に共通する構造が弱い
あなたは後半で、
- 主張
- 約束
- 命令
- 宣言
を並べています。
しかし現状では、主張だけが詳しく分析されていて、約束や命令は、それぞれ責任が違う
という説明にとどまっています。
そのため読者は、問答論的説明の核は主張にしか効いていないのでは?、と思う可能性があります。
例えば、「映画に行きましょう」がなぜ約束なのか、を説明する理屈と、「これはリンゴです」、がなぜ主張なのか、を説明する理屈が、まだ対称的に見えません。
5. 宣言の扱いが循環しているのではないか
ここもかなり重要です。
あなたは、遂行文発話は宣言である、として、その理由を、発語内行為を表現しており、その行為を実現するから、と説明しています。
しかし読者によっては、宣言だから実現するのか、実現するから宣言なのか、が分からなくなる。
つまり、、定義が循環しているように見える危険があります。
6. 「問いが発語内行為を要求する」が強すぎる
例えば、「これは何ですか」という問いは、主張を要求している、と述べています。
しかし普通には、この問いは単に情報を要求しているのであって、発語内行為の型までは要求していない、と言われるかもしれません。
例えば、「これは何ですか」に対して、
「リンゴですよ」
「たぶんリンゴです」
「リンゴと呼ばれています」
「リンゴということにしましょう」
は、それぞれ異なる発語内行為を伴いうる。
つまり、問いが要求しているのは発語内行為ではなく、
答えの内容ではないか、という批判です。
7. 真理値と発語内行為を結び付けすぎではないか
後半の、
真理値を持つ主張、
真理値を持たない約束・命令・宣言
という整理について。
これ自体は大きく間違っていないのですが、
現代の発話行為論では、
しばしば
- 文内容
- 発語内行為
を分けて考えます。
したがって、読者によっては、真理値を持つのは発話内容であって、主張という発語内行為そのものではない、と言う可能性があります。
私なら一番気になる論点
私が哲学的に読んで最も興味深いのは、
発語内行為は問いへの答えとして成立する
という中心テーゼです。
ただし現在の文章では、
それが
経験的な主張なのか (実際の言語使用ではそうなっている)のか、
概念的な主張なのか (発語内行為の本質がそうである)のかが少し曖昧です。
もし後者を狙っているなら、読者は必ず、問いに対する答えでない発語内行為の例を探して反例攻撃をしてくると思います。
したがって今後の展開では、「明示的な問い」ではなく、潜在的・仮想的な問答空間としての問いという方向をはっきりさせると、かなり防御力が上がる気がします。
実際、あなたの議論はむしろ、オースティンよりもブランダムやセラーズに近い、
発話とは理由の要求可能性の空間への参加である、という主張として読むと、かなり筋が通っているように見えます。そう読むと、「問いへの答え」という表現をどう精密化するかが、この理論全体の最大の勝負所だと思います。
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AI(copilot,copiさん)の以上の批判には敬服する。そこで、次回は、以上の批判に対してしっかりと答えたい。
