[カテゴリー:問答の観点からの認識]
AIからの批判の要は、「「問答」と「発語内行為」の関係づけが強すぎる」ということである。そこで、今回は、問答と発語内行為の関係、特に、発話が発語内行為を行うのは、それが問いに対する答えとして発語されることによってである、ということをより詳しく説明したい。
*有意味な発話は、問いに対する答えとして成立する
(これについては、拙著『問答の言語哲学』(勁草書房)第一章で論じた。)
発話の意味は、その推論関係として成立する。推論は、<問いに答えるプロセス>の一部として成立する。なぜなら、推論の前提から論理的に帰結する命題は、常に複数ありうるからである。現実の推論は、その中から一つの命題を結論として選択することによって成立する。しかし、どれを選択すべきかは、推論の前提だけから論理的に決定することはできない。複数の命題の中から一つの命題を選択して結論とするのは、問いに答えるためである。私たちは、問いに答えるために推論するのであって、単なる論理機械のように論理計算をするだけでは、一つの命題を結論として選択することは出来ない。その選択のためには、問いの答えになりうる命題を選びだす問答計算が必要である。推論を用いて問いの答えを選び出すそのプロセスを、問答推論と呼ぶことができる。発話の意味は、単なる推論関係ではなく、問答推論関係として成立する。有意味な発話は、問いに対する答えとして成立する。したがって、有意味な発話は、問いに対する答えとして成立する。
*発語内行為は、命題内容よりもより基底的である。
人が話している言葉の内容、命題内容がわからなくても、どのような発語内行為を行っているのかはわかる場合がある(デイヴィドソンも似た指摘をしている)。例えば、「リンゴ」という一語を聞いただけで、それが主張なのか、命令なのかがわかるときがある、それがわかれば、その一語文を「それはリンゴである」や「リンゴをください」として理解できる。もし発語内行為がわからなければ、命題内容(例えば、真理条件や適切性条件)はわからない。では、「なぜ命題内容よりも発語内行為の方が基底的であるのか」を、次に説明しよう。
*推論的意味論と意図論的意味論
「推論的意味論」(Robert Brandom)によれば、命題や発話の意味は、その(問答)推論関係である。他方、「意図論的意味論」(Griceの非自然的意味論や、Sperber&Willsonの関連性理論)によれば、発話の意味とは、発話者が発話によって相手に伝えようとしていること、あるいは相手と共有しようとしていることである。話し手は、相手に発話の内容を伝えて共有しようとしており、さらに発話の内容を伝えようとしていること自体を伝えようとしている。
*この二つの意味論は、両立可能である。
推論的意味論によれば、「これはリンゴだ」の意味は、「これがリンゴならば、これは果物である」「これがリンゴならば、これはバラ科である」などの推論を認めることである。意図論的意味論によれば、「これはリンゴだ」を発話することは、この発話の意味を伝え共有しようとすることである。この二つを組み合わせると、「これはリンゴだ」を発話することは、この発話の推論関係を伝え共有しようとすることである。
ただし、「これはリンゴだ」の意味(推論関係)をすでに知っている人には、「これはリンゴだ」と発話すれば、それを伝えることや共有することができるが、それに対して、「これはリンゴだ」の意味(推論関係)をまだ知らない人には、単に「これはリンゴだ」と発話するだけでは、その推論関係を伝えることは出来ない。その場合にできるのは、何かを伝えようとしていることを伝えることだけである。これが「なぜ命題内容よりも発語内行為の方が基底的であるのか」への答である。そして、この発話の意味、つまり推論関係が何であるかは、この発話を前提や結論として含む多くの推論を知ることによって学習可能である。
*発語内行為の理解もまた、発話の推論関係の理解である
発語内行為は、この推論的意味論の中でどう位置付けられるのだろうか。発話が何かを主張しようとしていたり、何かを命令しようとしていたり、何かを約束しようとしていたりするとは、どういうことだろうか。例えば、「そのリンゴをください」という依頼の発話の場合、人が「そのリンゴをください」と発話するのならば、<「それはリンゴである」という主張を是認すること>、<そのリンゴを受け取ったならば、そのお金を支払うつもりであること>、<それがリンゴでないことが分かったならば、依頼を取り消せること>、<ナシを渡されたら、受け取りを拒否できること>などの推論(条件法)を是認することである。一般に、発語内行為を理解することは、このような推論関係を理解することである。したがって、発話の命題内容の理解だけでなく、発語内行為の理解もまた、発話の推論関係の理解として成立する。
ところで、同一の命題の発話が、異なる発語内行為を行うことがある。例えば、「これはリンゴである」は対象の記述にも使われるが、対象<リンゴ>の定義や、語「リンゴ」の定義にも使える。では、同一の命題の発話が、異なる発語内行為と結合するとき、その発語内行為を決定するのは何だろうか。それは、発話の文脈、つまりこの発話の前後に行われる他の発話との関係である。さらに限定すれば、この発話を聞いた時点で利用できるのは先行する発話だけであるので、発語内行為の決定は、先行する発話との関係によって行われることになる。
さらに言えば、発語内行為の決定は、次に述べるような、先行する発話の発語内行為との相補的な関係によって決定されることが多いだろう。
#発語内行為の相補関係
<質問としての依頼や命令――返答としての約束や拒絶>
「これをあそこに運んでください(くれますか)」
――「はい運びます」「わかりました」「お断りします」
命令したり、依頼したりすることは、相手が受け入れるがどうかを問うことである。
<質問としての約束――返答としての依頼や拒絶>
「明日、それを持ってきます(持ってきましょうか)」
――「はい、持ってきてください」「はい、お願いします」「いいえ、結構です」
約束が成立するには、相手が受け入れることの確認、つまり相手の約束が必要である。
<質問としての宣言――返答としての宣言>
「私は馘ですか」
――「馘だ」「いいえ、馘ではありません」「いいえ、馘にはしません」
<質問への返答としての表現型発話>
「今の気分はいかがですか」
――「とても幸せです」「悪くないです」「良くないです」
<質問としての主張――返答としての主張>
「これはポンカンです」
――「はい、それはポンカンです」「いや、それはデコポンです」
主張することは、相手がそれを受けいれるかどうかを問うことである。」
#相補関係による発語内行為の不可避性
「これをあそこに運んでください(くれますか)」と問われた人は、それを引き受けるか、拒否する、か、無視するか、の何れかを選択せざるを得ない。問われたものは、(無視することも応答の一つだとすると)何らかの答えをせざるを得ない。
つまり、発語内行為は、他の発語内行為と相補関係にあるが、そのとき、先行する発話は、質問の発話にもなっている。
「どのような発話であれ、聞き手がそれを受け入れてくれるかどうか問う暗黙的な質問になっている」(拙著『問答の言語哲学』p. 178)
次回は、発語内行為のこの相補関係と、問いや答えや発語内行為の不可避性について考えたい。
