[カテゴリー:問答の観点からの認識]
更新が遅れてすみません。3回目のコロナワクチンを2月28日に打ったあと熱が出て、2日ほど寝込んでいました。
しかし、更新が遅れたもっと大きな理由は、フレーゲの概念語の意義と指示対象について調べているうちに、袋小路に入ってしまったということがあります。フレーゲにとって「概念語」の指示対象は概念であり、真理値を値とする単項関数であるということは言えるのですが、概念語の意義がよくわかりません。指示対象である概念の与えられ方であるだろうと推測できますが、彼がそれを明示している箇所を見つけることができません。たしかに、フレーゲは次のように言います。ふれ
「ある論文(「意義と意味について」)において私は、さしあたり固有名(ないしはそういったければ単称名の場合だけ意義と意味を区別した。同じ区別を概念語の場合にも行うことができる。」(論文「意義と意味詳論」『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年103)
「固有名は意義を介して、しかも意義を介してのみ対象に関係するのである。
概念語もまた一つの意義を持たねばならず、科学的使用には一つの意味をも持たねばならない。」(同書111)。
このようにフレーゲは、概念語がBedeutung(指示対象)として概念をもつことに加えて、Sinn(意義)を持つことを明言しているのですが、しかし概念語のSinn(意義)が具体的に何であるのかを語っていません。しかし、よく考えれば、固有名についてもその意義は、指示対象の与えられ方と述べているだけで、それ以上の説明はなかったと思います。
というわけで、フレーゲは、思想が異なる真である文の、認識価値の違いを、思想の違いで説明するのですが、しかし、前回例に上げた次の二つの文が真であるとき、何が違うのかはよくわからないのです。
「このリンゴは、赤い」
「このリンゴは、バラ科である」
この二つの文が真であるとき、どちらも同一の指示対象(真なるもの)をもちます。この二つの主語は同一の指示対象を持ちます。二つの文の違いは、概念語にあります。「赤い」と「バラ科である」という二つの述語ないし概念語は、異なる概念を指示対象とします。またこれらの意義も異なるはずです。この概念語の違いが、二つの文の意義(思想)の違いになるはずです。前回述べたようにフレーゲは、「一つの真理値に属しているそれぞれの[文の]意義は、[真理値(真なるもの)の]固有の分解方法(eine eigene Weise der Zerlegung)に対応している」(Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik, NF100, 1892, S.35、[ ]と強調文字は入江の付記)と述べています。
上の二つの文で言えば、一方は、真なるものを、対象であるリンゴと概念<赤いこと>に分解し、他方は、真なるものを、対象であるリンゴと概念<バラ科であること>に分解することに対応している、ということになります。これは、<文の思想>と<文の指示対象(真理値)の分解方法>の対応関係であって、文の思想が事実と対応しているということではありません。
このようなフレーゲ理解をさらに吟味しようとすると、不明な点が多くてフレーゲを読み直さなくてはならず、泥沼に入ってそこから出られなくなってしまいました。