26 経済格差はコミュニケーションを困難にする (20210324)

[カテゴリー:日々是哲学]

 問題を共有していない人とは、コミュニケーションできません。つまり、互いにコミュニケーションする集団は、問題を共有する集団です。私たちは、どのような問題を共有するかに応じて、異なるコミュニケーション集団を形成しています。

・人種の違い、性の違い、年齢の違い、職業の違い、社会的地位の違い、学歴の違い、所得の違い、身体能力の違い、などさまざまな違いがあります。これらが、ときに身を切られるような痛みをもたらすのは、これらが社会の中で大きな意味を持っているからです。これらの違いは、共有する問題の違いを生み出し、そこから異なるコミュニケーション集団が成立するからです。これらの違いは時に差別を生み、社会の分断を生みます。

 私たちがある集団に属してコミュニケーションするときには、その集団の人間関係を分断するような属性については無視します。そして、別の属性の人々が共有している問題にも触れません。コミュニケーション集団の境界に触れないことは、集団の中で暗黙の力として働いています。そのことは、それぞれのコミュニケーション集団の維持にとって必要なことだからです。

 私たちは、複数のコミュニケーション集団に属しています。これが分人主義を呼び起こすのは、属性の差異が、コミュニケーションを集団間、分人間のコミュニケーションを困難にするからです。

 経済格差は、これらの差異の一つですが、それだけにとどまらず、この差異は、他の社会的差異から帰結する差異をより大きなものにします。ちょうど、地震やコロナウィルスなどの災害が、経済格差を大きくするように、大きな経済格差は、これらの社会的属性の差異をより重いものにするのです。したがって、経済格差は、コミュニケーションを困難にし、社会を細かく分断し、社会的相互承認を破壊します。

#「総中流社会」という目標に対しては、次の批判があるかもしれません。

 <総中流社会にすることは、国民や人類を幸福にするためにぜひとも必要だと思われますが、これは一定の「善構想」に基づく立場なのではないでしょうか。これは自由主義と対立することになります。自由主義を採用するならば、何を幸福とするかは、各人の自由な選択にゆだねるべきであり、正義の実現が、幸福に優先すると考えることになるでしょう。>

 この批判に答える一つの方法は、自由主義を批判する事ですが、(もし自由主義を擁護しようとするならば)もう一つの方法は、「総中流社会」を目指すことは、自由主義とは矛盾しないと答えることです。もし中流であることが、幸福追求のための条件であるとすれば、「総中流社会」を目指すことは、「幸福追求の権利」を保証することになりますが、これは特定の「善構想」と結合するものではありません。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

「26 経済格差はコミュニケーションを困難にする (20210324)」への5件のフィードバック

  1. 多くの人々(すべての?)にとって「中流であることは、幸福追求のための条件である」あるいは「中流であることが、幸福追求のための条件となる」という状態に至るにあたっては、障壁があるように思います。
    現実にせよ空想にせよ、「空腹なのに食べるものが何もない」「寒くて仕方がないのに身に着けるものが何もない」という苦痛や、苦痛の予期は、人々を「今のうちに、とにかく蓄えを増やしておこう」という発想へと駆り立てがちです。また、「とにかく蓄えが多ければ、将来的にも安心だ」という経験則は、「今、獲得できる最大限の蓄えを得ておこう(そうすれば安心、そうすれば幸福)」という魂胆に容易に繋がってしまうことも理解できます(例えば、既に孫子の代までが遊んで暮らせるような巨額の富を得ていながら、グローバル企業の経営者が、サプライチェーンからの収奪構造を決して緩めないように…)。
    「貨幣(汎用的・抽象的・無時間的な交換価値)」が無ければ、ほどなく食糧は腐り、衣服は黴びほつれるので、「より多く所有したい」という人々の欲望を幾分、抑えるかもしれません。それでも「より多く持つ者/より少なく持つ者」の差、そして、後者が前者になることを欲する状態は生じるでしょう。
    私たちの社会において「中流であることが、幸福追求のための条件となる」ための道筋、理路を知りたいと思いました。

    1. コメントありがとうございました(コメントに気づくのが遅くなりすみません)。ご質問の趣旨がもう一つ分かってっていない可能性があるのですが、とりあえずコメント最後の二行のご質問にお答えしたいと思います。
      「中流であることが、幸福追求のための条件となる」とは、単に「生活に困窮していれば、幸福追求するゆとりを持てない」という意味です。

  2. ご回答、ありがとうございます。
    お答えくださった、

    > 「中流であることが、幸福追求のための条件となる」とは、単に「生活に困窮していれば、幸福追求するゆとりを持てない」という意味

    というところ、すなわち「生活に困窮している人の所得を増やす」というボトムアップのメリットはよく理解できます。ただ、私が知りたかったのは、そうした状況へと到る「ための」道筋のほうです。

    当初のブログ記事は「経済格差」、すなわち「より多く持つ者/より少なく持つ者」の差をなくすことを目指している、と読みました。ただ現実には「より多く持つ者」がますます多くを持つようになる仕組み、もっと言えば、「より多く持つ者」が「より少なく持つ者」からの搾取により、より富む仕組みが現代社会に染み付いているのではないかと思うのです。

    こうした「現代社会の仕組み」は、欲望をはじめ、ごく人間的なものから自然に形作られたものなので、変更するのは容易ではない、と思うのです。「良い」「善い」とされるものが、必ずしも多くの人に採用される訳ではない私たちの社会で、どのように(ex. どのような「理路」で説得して)人々の行いに変更していくのか、私にはわかりません。

    1. 格差を減らすための方法については、次のような案を考えてみました。
      「カテゴリー:日々是哲学」の
      14 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の検討 (20200915)
      15 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の検討2 (20200920)

      しかし、これらの方法では、底辺を引き上げることができても、中間層をふやすことは出来ないので、別の方法を考える必要があるとおもいます。
      (14、15を書いたときには、中流社会と言う目標設定を考えていなかったので、それを考慮していませんでした。)
      いずれにせよ、税制とベイシックインカムなどが、そうした社会を実現するための「理路」になると思っています。

    2. 木村さんコメントありがとうございます。

      私もまた、格差を拡大する「現代社会の仕組みは…変更するのは容易ではない」と思います。しかし、それが 「欲望をはじめ、ごく人間的なものから自然に形作られたもの」だとは考えていません。これは、歴史的に作られてきたものであり、変えることもまた可能なものだと思います。全ての人が平等に人権を持つことを、説得することはそれほど難しいことではないだろうとおもいます。
       現代日本において、現状を変えることを難しくしている理由の一つは、マスコミが、「放送法」によって放送免許の許認可権を総務大臣に握られているので、政府の意向を忖度する御用マスコミになっていることにあると思います。もう少し自由な報道がなされたら、民意は変わり、政治も変わるだろうと思います。
       第四の権力であるマスコミを、政府が支配しているから、民主主義がうまく機能しないのだとおもいます。

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