[カテゴリー:問答の観点からの認識]
「素朴実在論は、脳科学による真正な知覚の説明と両立するのでしょうか?」
今回は、これを考えたいと思います。
素朴実在論とは、<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>とする立場です。(有名な論者としては、例えば、パトナム、マクダウェル、日本では大森荘蔵、野矢茂樹、などです。)
他方、「知覚は、どのようなものであり、それはどのようにして成立するのか」という問いに対してまず思い浮かぶ答えは、自然科学による次のような説明でしょう。例えば、黄色の花に太陽光が当たって、そこで反射した光の一部が目に入り、網膜に黄色の花の像を結ぶ。そのとき網膜にある多くの視神経が発火してその信号が脳の視覚野に伝わり、別の神経細胞を発火させる。その後はなぞですが、脳における多数のニューロン発火のあるパターンが、黄色の花の知覚イメージをつくることになります。この説明で問題になるのは、脳内のニューロン発火のパターンと「知覚イメージ」の関係です。多くの場合これは「付随」関係として語られますが、それは現象を記述するための語彙であり、説明するための語彙ではありません。「付随」関係そのものはいまだ謎です。
この二つの知覚的認識の説明は、多くの場合、両立しないものとして捉えられているのかもしれません。しかし、もし次のように定式化できるならば、それらは両立可能だろうと思います。
・脳科学による知覚の説明:<知覚は、感覚器官、求心性神経、大脳のニューロンネットワークを介して、対象を捉えることである>
・素朴実在論:<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>
このように捉える時、この二つは両立可能です。なぜなら、脳科学の説明では、知覚は、「知覚的表象」や「センスデータ」を介して対象を捉えることではないからです。
論者がこの二つの説明方式を両立不可能なものとみなすときには、脳におけるニューロンの発火パターンに付随する「知覚イメージ」を、素朴実在論が批判する「知覚的表象」や「センスデータ」だと見なしているのです。その「知覚イメージ」を、素朴実在論が理解する「知覚」と同一視できれば、両者を両立可能なものとして理解できます。
次にこれを説明したいと思います。