40 問いと想像 (20210403)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

問いは「適合の方向」を持ちます。問うことが、他者に問うことであれば(つまり、質問発話にその誠実性条件として伴っている問うことであれば)、命令や依頼と同様に、問うことは、相手に答えてもらうことを求めています。命令や依頼が、世界を心に適合させるという「適合の方向」をもつように、問うことは、相手に答えることを依頼するという意味で、世界(問いの相手の行動)を心(問いの内容)に適合させるという「適合の方向」をもちます。問うことが、独りで自問する事であっても、問いは、答えることを求めているのであり、世界(自分の行為)を心(自分の意図)に適合させるという「適合の方向」をもちます。

ところで、質問発話は、答えの発話がどのような発語内行為となるべきかを決定しています。

 つまり、問答関係はつぎのようになるのです。

   ?P → ┣P(あるいは、┣¬p、あるいは¬┣p)

となるのではなく、次のようになるのです。

   ?┣p → ┣P(あるいは、┣¬p、あるいは¬┣p)

(これについては『問答の言語哲学』第三章で説明しました。これが、「問いは答えの半製品である」の一つの意味です。)

これと同じで、質問発話にその誠実性条件として伴っている問うこともまた、返答の発語内行為に伴う志向性(信じる、想起する、意図する、願望する、など)をすでに決定していると思われます。

例えば、「昨日の夜は何を食べましたか?」と問うことは、答えが記憶(想起)となることをすでに決定しています。(もちろん、相手に記憶能力が欠如しており、日記を見て答える必要があることを知っていて問う場合には、事情は異なります。)

さて、このような<問うこと>は<想像>とどう関係するでしょうか。<想像>を答えとするような問いはあるでしょうか。問いに答ええることは、何かコミットすることであり、コミットメントはつねに何らかの適合の方向を持つと言えそうです。そうすると、適合の方向を持たない<想像>は問いの答えにはなりえないことになります。

ところで、何が「想像」と呼べるかはあいまいだと言わざるをえません。

例えば、次の例は、想像なのか、そうでないのか、曖昧です。「サイコロの目が1になっているき、サイコロの下の面の数字はなにでしょうか?」という問いに答える時、両面を合わせて7になるはずなので、1の反対側は6である、と推論して、「6です」と答えるとき、これはおそらく想像ではないでしょう。サイコロが汚れているのを見て、「そこの6の面も汚れているだろう」と考えることもまた、推論しているのであって想像ではないでしょう。この二つの場合には、答えはどちらも「適合の方向」をもちます。

 次のものは、「想像」だと呼べると思われますが、「適合の方向」を持つものです。夜寒いとき、「明日の朝は霜がおりているだろう」と思い、霜に覆われた田んぼを想像するとき、その視覚的な想像は、「適合の方向」を持つでしょう。宝くじが当たって喜ぶことを想像するとき、それもまた「適合の方向」を持つでしょう。試験に受かることを想像するとき、大きな地震が来ることを想像すること、これらもまた「適合の方向」を持つでしょう。これらの適合の方向を持つ想像は、「明日の朝は霜が降りているだろうか?」という問いや、「宝くじにあたるだろうか?」という問いに対する可能な答えとして想像されていると言えるかもしれません。

では、適合の方向をもたない<想像>とはどのようなものでしょうか。サールは、<想像>をつぎのように説明しています。

「雨が降っているという想像は、雨が降っているという信念や、雨が降っていることへの願望とまったく同様に可能である。信念は下向きの適合方向を持ち、願望は上向きの適合方向をもつが、想像の場合、私はその内容が事実であると信じているわけでも、事実であって欲しいとのぞんでいるわけでもない。そうであってほしい事態を空想することはあるにしても、空想なり想像なりにとって、そのように願望の形式をとることは本質ではない。怖いことや嫌なこと、つまり起こって欲しくないことであっても、人はそれを想像することが出来る。またありうることはもちろん、ありえないことであっても想像は可能である。」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)

想像の内容は、信念とも願望とも結びつきうるのですが、それらと結合しないことも可能であるということです。

ここで思い浮かぶのは、次の発話が異なる発語内行為をするが、同じ命題行為(指示と述定)をもつというサールの指摘です(参照、サール『言語行為』坂本百大、土屋俊訳、勁草書房、39)。

 「サムは習慣的に喫煙する」(主張)。

 「サムは習慣的に喫煙するか」(質問)

 「サムよ、習慣的に喫煙せよ」(命令)

 「サムが習慣的に喫煙してくれたらなあ」(願望)

ここでは、命題行為は、異なる発語内行為を結合しうるが、しかし、どのような発語内行為も行わないで、命題行為だけをおこなうことはできないと言われています。この指摘は正しいでしょう。そうすると、上記の「想像」についても、同じことが言えるのではないでしょうか。同一の想像が、信念や願望と、また、ありうると思うこととや、ありえないと思うことと結合しうるでしょう。しかし、どのようなコミットメントとも結合しないことはありえないのではないでしょうか。

命題行為が適合の方向を持たず、発語内行為が適合の方向を持つ(ただし「表現型発話」だけは適合の方向を持たない)ように、<想像>そのものは適合の方向を持たず、それが他の志向性(想起、信念、先行意図、行為内意図、願望)と結合することによって適合の方向を持つことになるではないでしょうか。

そうすると、<想像>は、適合の方向を持つ志向性の要素となる、と言うことになりそうです。

このとき、適合の方向を持つ<志向性>だけが、志向性であり、適合の方向を持たない<想像>は、<志向性>には含めないということにした方がよいかもしれません。

ここまであいまいな部分をペンディングにしたまま考察してきましたが、以上を踏まえて、志向性全体についてもう一度考えてみたいと思います。

40 志向性としての問い  (20210401)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

問いは、次に見るように志向性の一種だと言えるでしょう。

問いは、何かに<ついて>の問い、例えば、事故の原因に<ついて>の問いであるから志向性と言えそうです。これは、次のように他の志向性と同じような条件を備えています。

問いの志向状態(S)と志向内容(r)は、次のようになります。

    問うこと(事故の原因)

問うことは、質問発話の「誠実性条件」になるでしょう。

問いの充足条件については、二種類考えられます。一つは、主張と類比的に考えることです。主張pの充足条件は、事実<P>が成り立っていることです。問いの充足条件は、問いの前提が、成り立っていることです。「フランス王は禿げていますか?」といは、「フランス王が存在すること」を前提しており、問いの前提が成り立っているとは、フランス王が存在することです。もう一つは、命令と類比的に次のように考えることです。命令の充足条件は、命令が実行されることです。これに倣うならば、問いの充足条件は、問いの答えが与えられることです。この二種類の充足条件を合わせたものが、問いの充足条件になります。

ところで、問いの答えとなるのは、知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望などの志向性です。これらは、「適合の方向」をもち、適合にコミットしています。問うことは、コミットメントを求めることです。問いは、答えがどのような「適合の方向」をもつか、またどのような志向状態をとるか、をすでに決定しています。それは、質問発話が、返答の発語内行為をすでに決定しているのと同様です。発話の意味に関しても、発話行為に関しても、「問いは答えの半製品である」のです(これについては『問答の言語哲学』で説明しました)が、志向性においても「問いは答えの半製品である」と言えます。

では、想像は、問いとどうかかわるのでしょうか?

39 志向性としての「想像」  (20210330)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、(28回目)で示した表で、6種類の志向性を見事に整理している。しかし、この表はおそらく完全なものではありません。この表には含まれていませんが、サールは、「想像」もまた志向性の一種とみなしていると思われます。

 「想像」(imagination) は、「ついて」性をもつ心的状態であるので、志向性の一種だといえます。また想像は、次のように「状態類型Sと内容pの区別」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)をもちます。

    想像する(火星人)

ただし、想像は、適合の方向を持ちません。つまり想像の内容が事実であると考えているのではないし、事実であって欲しいと考えているのでもありません。したがって、これまでの6つの志向性とは異なります。したがって、「想像との適合には責任が存在しない」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)そして、想像は現実と適合する必要がないのですから、何でも自由に想像できます。「想像とは、自由で自発的な行為である」(同所)と言われます。「適合の方向」を持たない「想像」には誠実性条件も充足条件もないでしょう。

 このように「適合の方向」をもたない想像は、他の志向性とどのような関係にあるでしょうか。もし対象や事態を想像できなければ、その対象や事態を、知覚したり、記憶したり、信じたり、その実現を行為内意図したり、先行意図したり、願望したりできないでしょう。なぜなら、これら6つの志向性は、いずれも表象(知覚と行為内意図は、表象ではなく提示だといわれますが、提示も表象の一種です)であり、想像は、その表象から現実へのコミットメントを取り除いたものだからです。逆に言うと、想像している表象に、現実への適合のコミットメントを付け加えると、6つの志向性のいずれかになるのです。

(しかし、非表象的な知覚、記憶、行為内意図、先行意図があるとすると、それは想像なしにかのうでしょう。たとえば、非脊椎度物の知覚や記憶などは、非表象的だと思われますが、おそらくそれらは心的状態をもたず、志向性を持たないでしょう。)

 ところで、前言を翻すようですが、想像が「適合の方向」を持たないということは、それほど自明なことではないように思われます。想像は、どのようなときに生じるのでしょうか。6つの志向性の中では、サールが言うように、知覚と行為内意図がもっとも基礎的な志向性だと思われますが、想像は、それらと同じ程度に基礎的な志向性だと思われます。なぜなら、知覚や行為内意図が成立するには、想像が必要だからです。例えばサイコロを知覚する場合、私たちは見えている面だけでなく、見えていない面についても想像しています。なぜなら対象がサイコロであるということは、それが立方体であるはずだからです。つまり、見えていない面も平面になっていることを想像しています。ところが、この想像は、知覚と同様に、心から世界への「適合の方向」をもちます。あるいは、このような想像は、知覚の一部に含めるべきかもしれません。

 もしこのよう視知覚を、視覚刺激だけに制限せずに拡張するならば、アフォーダンスの知覚もまた、そこに含めるべきでしょう。例えば、美味しそうなケーキを見た時、その知覚には「おいしさ」の想像が伴い、またおいしさの想像には、食べたいという願望が伴います。この「おいしさ」の想像は、「適合の方向」を持ちます。アフォーダンス理論ならば、その「おいしさの」想像は、知覚とは別のものではなく、知覚に含まれると考えます。

 また、つぎのような想像もあります。知人からクレタ島を訪れた時の話を聞いて、クレタ島の様子を想像し、クレタ島に行きたくなったとしましょう。クレタ島の景色の想像は、「適合の方向」を持っています。しかし、それは知覚的な想像(知覚に似た想像、あるいは知覚の想像)ですが、知覚でも、記憶でも、ありません。

 また、探偵ホームズの年齢を想像する場合はどうでしょうか。それは知覚的な想像ではありませんが、適合の方向を持つでしょう。(英語では、ホームズの年齢を想像するというときに、imaginationとは言わないかもしれません。)

 このように想像には、様々なものがあります。適合の方向を持たない想像もありますが、適合の方向を持つ想像もあるように思います。

 多様な想像をどう理解するかを考えるため、またそれらと問いの関係を考えるために、問いを志向性として考えられるかどうかを、次に考えてみたいと思います。

38 問答としての信念と願望 (20210329)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 今回は、信念と願望が、問いに対する答えとして成立することを説明したいと思います。

私たちが、信じているものは非常にたくさんあります。例えば、私は地球が回っていると信じているし、地震がいつ起こるかもしれないと信じているし、コロナが終息していないと信じています。しかし、常にこのようなことをすべて意識しているのではありません。このような信念を「広義の信念」と呼ぶことにします。では、どうして、これらは信念と呼ばれるのでしょうか。それは、「地球は回っていますか」と問われたら、即座に観察によらずに、「はい、回っています」と答えるからです。「広義の信念」は次の同値性文で定義できるでしょう。

 「Xさんはpを信じている」⟷「もしXさんが「pですか」と問われたら、即座に観察に寄らずに「pです」と答える」

この場合、暗黙的であった信念「p」を明示化しているのですが、これは想起の一種、つまり記憶の一種なのでしょうか。もしそうならば、因果的自己言及性を持つことになります。しかし、明示化された信念は、その充足条件の中に、その信念が暗黙的であったことを意識することを含んでいないので、因果的自己言及性を持ちません。つまり、記憶の一種ではありません。

他方で、私が、暗黙的であることなく最初からある信念を意識していることがあります。このような仕方で信念を持つのは、どのような場合でしょうか。すぐに思いつくは、何かの問いを立て、その答えとして「p」と答える場合です。例えば、「なぜ、太陽や月や星は、東から出て西に沈むのだろうか」と問うて、「地球が西から東に回っているからだ」と答える場合です。この答えを得る時には、ほとんどの場合、何らかの推論が行われます。他の場合はないのではないでしょうか(今のところ私には、思いつきません)。

願望についてはどうでしょうか。願望についても、信念と同じく、人は意識していない多くの願望を持っています。たとえば、「死にたくない」という願望を常に意識しているわけではありませんが、意識していないときにもその願望を持っているといえるでしょう。例えば、ステーキを食べたいとか、ケーキを食べたいという願望をもっていても、常に意識しているわけではありません。それでも、もし私が「死にたくないですか」と問われたら、即座に観察に寄らず「はい、死にたくありません」と答えます。したがって、信念と同じように、この「広義の願望」をもつことは、次のようなことです。

  「Xさんはpを望んでいる」⟷「もしXさんが「pを望みますか」と問われたら、即座に観察に寄らずに「pを望みます」と答える。

このような暗黙的な願望を意識帰する場合にも、その「意識された願望」は、因果的志向性をもたないでしょう。では、このような多くの「広義の願望」の中で、ある願望を意識するとすれば、それはどのような場合でしょうか。一つは、上のような問いに答える場合です。

他方で、私が、暗黙的であることなく最初からある願望を意識していることがあります。このような仕方で願望を持つのは、どのような場合でしょうか。すぐに思いつくは、何かの問いを立て、その答えとして「p」と答える場合です。例えば、「宝くじに当たったら、何がしたいですか」と問われて、「とりあえず貯金したいです」と答えるような場合です。

以上のように、サールのいう6つの志向性(知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望)はすべて、問いに対する答えとして成立します。

ところで「信念」や「願望」と似たものに「想像」があります。ただし、サールによれば、「想像」は適合の方向を持ちません。「想像」とは何か、それを志向性と言えるかどうか、想像もまた問いに対する答えとして成立するのか、を次に検討したいと思います。

37 志向性としての信念と願望 (20210326)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

信念と願望は、次のような心理的様態(志向状態)と表象内容(志向内容)をもつ。

   S(r)

   信じる(r)

   願望する(r)

 また、信念は心を世界へ適合させ、願望は、世界を心へ適合させるという「適合の方向」をもつ。

 また、pを主張するときの「誠実性条件」として、rを信じるという志向性があり、pを表現(表現型発話)するときの「誠実性条件」として、rを願望するという志向性があります。

 また、信念の充足条件は「rが事実である」こと、願望の充足条件は「rが事実になる」ことです。

以上のように、信念と願望は、志向性であると言えます。さらに、サールは、信念と願望の連言による結合によって、次のような複合的な志向性を説明します(参照、サール『志向性』訳40-42)。

  怖れ(p)→ 信(◇p)&願(~p)

  期待(p)⟷ 信(未来p)

  失望(p)→ 現在信(p)&過去信(未来~p)&願(~p)

  悲しむ(p)→ 信(p)&願(~p)

  悔い(p)→ 信(p)&信(pと私の結びつき)&願(~p)

  悔恨(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pに対する私の責任)

  非難X(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pはXの責任)

  喜んでいる(p)→ 信(p)&願(p)

  望む(p)→ ~信(p)&~信(~p)&信(◇p)&願(p)

  誇り(p)→ 信(p)&願(p)&信(pと私の結びつき)&願(pを他人が知る)

  恥じ(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pと私の結びつき)&願(pを他人が知らない)

これは興味深い分析ですが、このように基本的な志向性から、複雑な志向性を合成して見せることは、スピノザの情念の説明を思い出させます。

 他方で、サールは、信念と願望は、因果的志向性を持たないと考えます。そしてこの点において、これまでの述べた知覚、記憶、行為内意図、先行意図と異なると言います。信念と願望は因果的志向性を持たないので、これまで述べた志向性(知覚、記憶、行為内意図、先行意図)を上記のような仕方で合成することはできません。

 サールは、「生物学的に志向性の基本形態」だとするのは知覚と行為であり、信念と願望は志向性の基本的な形態ではない、といいます。信念は知覚の「萎えた形態」であり、願望は意図の「萎えた形態」ないし「色褪せた形態」である(参照、同書47)といいます。

 以上がサールの議論ですが、気になるのは、信念が因果的志向性を持たない、という点です。以下で、これを検討したいと思います。

 「私がpなる言明を行うなら、私はpなる信念を表明していることにある」(同書12)

話し手は、ここで言明pと信念pは、同じ充足条件をもち、それはpが事実であることです。

このとき、人がpを言明する(あるいは信じる)ときには、根拠を問われたなら、それに答える用意があるはずです。つまり、何らかの根拠を意識している(あるいは、意識できる)はずです。

pを主張するときに、pを信じていないことは不誠実ですが、pの根拠を示せないことも不誠実です。したがって、主張pにともなう信念pには、「因果的自己言及性」があるように見えるかもしれません。

 無根拠に何かを信じることが全くないとは言いませんが、それは稀です。たいていの場合、何かを信じる時には、何らかの根拠を意識しています。ここで重要なのは、根拠帰結の関係と原因結果の関係の違いです。信念は、根拠を持ちますが、信念と根拠の関係は、論理的な根拠帰結関係であって、因果関係ではありません。したがって、信念が、「因果的自己言及性」を持つとは言えません。それがもつのは「根拠への自己言及性」と呼びたいとおもいます。これもまた「語られてはいないが、示されている自己言及性」(同書68)です。

 他方、願望は、根拠を持ちませんが、理由結果関係をもちます。願望は常に何らかの理由を持ち、その理由はより上位の願望です。この意味で、願望は、「理由への自己言及性」と呼びたいとおもいます。これもまた「語られてはいないが、示されている自己言及性」(同書68)です。

 このような信念と願望と、問いとの関係について次に考察したいとおもいます。

37 問答としての「提示」 (20210323)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

表象と提示の違いは、簡単に言えば、表象は充足条件と間接的に関係し、提示は直接に関係するという違いです。表象が充足条件である対象や事態に間接的に関係するということは、「指示」(場合によっては、表示や表現)の関係にあるということを意味しますが、この「指示」の説明が難問です。私は、指示は、問いに対する答えとして可能になると考えています(これについては、『問答の言語哲学』で説明しました)。ただし、知覚報告における指示は、知覚を介するので、知覚における提示についても考慮する必要があります。サールは、知覚の提示は、対象と直接に関係すると言います。たしかに、物からの因果関係で知覚が生じます。しかし、何を知覚するかは、主体が何を探索するかに依存します。物のどこに注目するかも、主体の探索に依存します。(サールは知覚の因果説に批判的です(cf. これとは別の理由で、サールも知覚の因果説に批判的です。つまり知覚における自己言及的志向性を看過しているという理由です。cf. 『志向性』訳、66) 以前に(30)で述べたように、ここには次のような広い意味での「二重問答関係」(正確には、問答と探索発見の二重関係)が成立しています。

  対象についての問いQ2→主体の探索Q1→知覚A1→知覚報告A2

(Q2とA2は言語的な問答関係、Q1とA1は非言語的な探索と発見の関係になります。)

行為内意図は行為を惹き起こします。物体としての身体の運動が、他の物体を動かします。したがって、行為内意図は身体運動を介して、世界を変化させます。行為内意図が身体運動を惹き起こすのは、行為内意図を形成するニューロン群の発火が、筋肉につながった、運動神経(遠心性神権)とよばれるニューロンを発火させることによるのだと思います。先行意図を形成するニューロン群と行為内意図を形成するニューロン群がどういう関係にあるのか、それぞれのニューロン群の発火同士がどのような関係にあるのはわかりません。行為内意図の意識は、「何をしようとしているのですか」という問いに対する答えとして生じると思いますが、他方では、行為を遂行する間の細かな行為の調整には、対象についての知覚や身体状態についての探索と知覚も利用されているはずです。この行為調整では、言葉にすれば「どうしよう」というような探索が行われているとおもいます。

 とりあえずは、このくらいにして、次に志向性としての「信念」と「願望」の考察に移りたいとおもいます。

37 表象と提示 (20210321)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、知覚と行為内意図は提示であり、記憶と先行意図は表象であると言います。

知覚が「事態の提示」であるとは、次のような意味です。

「たとえば、私が黄色いステーションワゴンを前方に見ている場合、私の有している経験が直接にその対象についての経験である。その経験は単に対象を「表象」しているのみではなく、対象への接近をも与えている。その経験は、ある種の直接性、端的さ、そして意のままにはならないという、眼前にはない対象について信念を抱くような場合には見出されない性質を有している。それゆえ、視覚経験を表象として描写することは不自然であるように思われる。実際、そのように視覚経験を語る場合には、どうしても知覚の表象説へと導かれてしまうだろう。そこで知覚経験のこうした特別な性質のゆえに、私はそれらをむしろ「提示」と呼ぶよう提案したい。私が述べようとしている視覚経験、知覚された事態を単に表象するのみではなく、それが充足されたときにはむしろ事態への直接の接近をわれわれに許すものであり、そのいみでそれは事態の提示なのである。」(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房63、下線と強調は入江)

「提示は、われわれが表象に与えた定義的条件(すなわち、志向内容、充足条件、適合の方向、志向対象、などを有する)をすべて満たしている」

「提示」は「表象の一種」だとされます。これが、それ以外の表象と異なるのは、「それが充足されたときにはむしろ事態への直接の接近をわれわれに許すもの」であるとされます。

では、行為内意図が「提示」であるとは、どういう意味でしょうか。行為内意図が行為を惹き起こしているので、行為内意図が行為の原因だと言えるでしょう。先行意図もまた行為の原因になりますが、先行意図は行為と時間的に離れているので、直接の原因ではなく間接的な原因となります。先行意図が行為の原因になるためには、行為内意図になる必要があります(先行意図自身が、時間経過によって行為内意図に変化すると考えるのか、それとも先行意図は消えて行為内意図が生じるのか、について議論があるようですが、今は踏み込みません)。先行意図は行為の表象を含みますが、行為内意図は、行為そのものを含むといえるでしょう。行為内意図は行為そのものを提示するのです。

サールは、共に提示である知覚と行為内意図の類似性を、次のように説明しています。

「テーブルを見ることの場合には二つの構成要素、つまり、志向的構成要素(視覚経験)とその充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)がそこに含まれていたのとちょう同じように、私が自分の腕を上げるという行為にも志向的構成要素(行為経験)とその充足条件(私の腕の運動)という二つの構成要素が含まれているのである。志向性に関する限り、視覚経験と行為経験との相違は、適合の方向と因果作用の方向とにある。」(同書123f)

つまり、知覚の場合には、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)が原因となって、志向的構成要素(視覚経験)が生じるのに対して、行為の場合には、志向的構成要素(行為経験)が原因となって、充足条件(私の腕の運動)が生じます。

ちなにみ、知覚と行為には、経験と充足条件の片方だけが欠けている場合がある。知覚の場合、志向的構成要素(視覚経験)があるが、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)が欠けている場合(幻影肢の場合)と、志向的構成要素(視覚経験)が欠けているが、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)がある場合(これは盲視の場合)がある。

これと同様に、行為の場合、志向的構成要素(行為経験)があるが、その充足条件(私の腕の運動)が欠けている場合(コーヒーを飲んでいるつもりだったが、その代用品を飲んでいた場合)と、志向的構成要素(行為経験)が欠けているが、その充足条件(私の腕の運動)がある場合(行為しているが行為内意図を意識していない場合)がある(参照、同書125f)。

 さて、このように志向性が単なる表象ではなくて、提示であるとき、それを答えとする問いないし探索は、表象を答えとする問いないし探索とどのように異なるのでしょうか。

36 行為内意図と実践的知識は同一か? (20210319)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 前々回(34)に、「実践的知識」と「行為内意図」の違いを説明しました。前者は記述であり真理値を持つのに対して、後者は意図表明であり真理値を持ちません。「何をしているのですか?」と問われて、観察によらずに即座に「コーヒーを飲んでいます」と答える時の答えが「実践的知識」です。その時のコーヒーを飲む行為に内在する「行為内意図」は、「コーヒーを飲もう」となると説明しました。

 しかし今回サールがこの二つを同一視していることに気づきました(私は以前にその個所に傍線を引いて読んでいたのに、不思議なことにその内容を忘れてしまっていたのです)。サールは次のように言います。

「われわれは次の事実がいみするところに強く印象づけられるのを認めざるをえない。すなわち意識生活のいかなる場合においても人は「君はいま何をしているのか」という問いに対する答えを観察によらずに知っているという事実である。多くの哲学者がこの事実に気づいていたが、私の知る限り誰もその事実が志向性にとって意味するところを追求しては来なかった。自分がしたことに結果について誤解している場合でさえも、人は自分が何をしようとしているか知っている。」127(強調と下線は入江の付加)

実践的知識は「自分が何をしているのか」への答えであり、行為内意図は、「自分が何をしようとしているのか」への答えである。行為内意図の表明が答えとなる問いは次のようなものになるでしょう。

  「君は何をしようとしているのか」

  「私はいま何をしようとしているのか」

しかし、サールは、ここでそれらを区別していません。つまり、アンスコムの言う実践的知識を行為内意図の表現であると考えています。そのように考える時、彼は次の二つを区別しないことになります。

  「コーヒーを飲んでいる」

  「コーヒーを飲もうとしている」

ところで、サールは、先行意図の言語形式を

      “I will do A”「私はAしよう」ないし

   ”I am going to do A”.「私はAするつもりだ」

行為内意図の言語形式を

   ”I am doing A”「私はAしている」

と説明しています。行為内意図のこの言語形式は、実践的知識の表現形式にもなるものです。

 もし「私はAしている」を実践的知識の表現であり同時に行為内意図の表現でもあると考えると、この発話の適合の方向は両方向になるでしょう。これは宣言型発話の一種であることになります。この場合には、行為内意図の表明が答えとなる先述の問い

  「君は何をしようとしているのか?」

  「私はいま何をしようとしているのか?」

これらはともに、宣言を答えとする問いであることになります。

(行為内意図と実践的知識を区別するべきかどうかについて、私はいま決定することができません。ここではペンディングとします。これまでは、いろいろなところでこの二つを区別して論じてきましたので、あるいは修正の必要があるかもしれません。)

いずれにせよ、先行意図と行為内意図がともに(暗黙的な問いであれ)ある問いに対する答えとなること、そして、それらの意図が明確に意識されるのは、それらが、意識的な問いへの答えとなるときあることを主張したいと思います。(以上が、まだ十分な論証と言えるものになっていないことは認めます。)

 次に、志向性としての「信念」の考察に移りたいところですが、その前にサールによる「表象」と「提示」の区別について検討したいと思います。

35 行為内意図と先行意図 (20210318)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(6種類の志向性(知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望)がすべて問いに対する答えとして成立することを論証することが、現在の課題です。知覚と記憶についてそれを確認した後、行為内意図についてその相関する問いを考えようとしましたが、少し難しいので、先行意図と比較しながら、それを考えることにしました。)

 「先行意図」(prior intention)とは、未来においてある行為をしようとする意図です。例えば「信号が青になったら、横断歩道を渡ろう」とか、「卵に火が通ったら、火を止めよう」とかいうような意図です。

 これらは、<横断歩道を渡ること>や<火を止めること>「について」という構造を持つ心的内容であるので、志向性の定義に当てはまります。そしてこれらのS(r)構造は次のようになります。

  しよう(横断歩道を渡ること)

  しよう(火を止めること)

 先行意図は、次のような発話の誠実性条件となります。典型的なのは約束の発話です。「Aします」という約束の発話が誠実であるとは、「Aしよう」という先行意図を持っているということです。独り言や内語(inner speech)には、「いつ横断歩道を渡ろうか?」「信号が青になったら、横断報道を渡ろう」というような問答の答えの発話の誠実性条件として、先行意図が考えられます。これによって、先行意図は相関する問いに対する答えとして成立すると言えるでしょう。別の論証の仕方をするならば、次のようになります。先行意図は、実践的推論の結論として成立するものであり、実践的推論は問いの答えを求める過程として成立するのだから、先行意図は問いに対する答えとして成立するのです。

 (ちなみに、独語(独り言)や内語(inner speech)には、6つの志向性(知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望)のそれぞれを表現するものがあります。ただしこれら以外に、「ラッキー!」とか「チクショウ!」とかの表現型発話が、独語ないし内語として語られる場合もあります。独語や内語の発語内行為について、まとめて考察する必要があると思いますが、いつか別途おこないたいです。)

 では、「先行意図」の充足条件は、どのようなものになるでしょうか。

 サールが言うように、知覚と記憶の志向性と同様に、行為内意図と先行意図の志向性もまた「因果的自己言及性」を持つと言えます。なぜなら「Aしよう」という意図が満たされるには、<Aが実現すること>だけでなく、その実現が「Aしよう」という意図によって引き起こされることが必要だからです。この意味で、意図の充足条件には、「因果的自己言及性」が含まれています。行為内意図と先行意図のそれぞれにについて充足条件の例を挙げると次のようになるでしょう。

 行為内意図「コーヒーを飲もう」の充足条件は、次の二つになります。

  ①実際にコーヒーを飲むこと

  ②コーヒーを飲むことが行為内意図によって引き起こされていること

先行意図「横断歩道を渡ろう」の充足条件は、次の二つになります。

  ①(未来において)横断歩道を渡ることが実現すること

  ②横断歩道をわたることが先行意図によって引き起こされること

この二つには、<現在の行為>の意図と<未来の行為>の意図の違い以外にも次のような違いがあります。前に(32)で述べたように、サールは、は知覚と行為内意図は「志向性の原始的な形式」であり、記憶と先行意図は、一段階上の志向性であるみなします(参照、サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、60)。志向性の原始的形式では、「主体となる動物」と「環境」は直接にコンタクトし、「行為内意図の場合は、動物が原因となって環境に変化をもたらす」(同所)といいます。これに対して、「先行意図は行為内意図を充足条件に含む表象」だと言われます。「この水準では、因果成分それ自体は存在するものの、充足条件との間に直接の因果関係があるわけではない。[…]先行意図が表象するのは未来だからである。」(同所)

 行為内意図において、人間は環境に直接に働きかけ、先行意図においては、未来の行為内意図を介して環境に働きかける、という違いがあります。

 以上の考察を踏まえて、行為内意図の問答関係の考察に戻りたいと思います。

34 行為内意図と問答 (20210316)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 サールは、意図を、行為内意図(intention in action)と先行意図(prior intention)に区別します。

行為内意図とは、その時進行中の行為について、それをしようとする意図です。コーヒーを飲んでいるときの「コーヒーを飲もう」という意図です。この意図がなければ、行為は成り立ちません。

この意図は、アンスコムいう実践的知識と深く関係しています。アンスコムの言う実践的知識とは、「何をしているの?」と問われたとき、観察に寄らずに即座に例えば「コーヒーを飲んでいます」と答えられるときの答えです。これが知識と呼ばれるのは、これは行為の記述であり、真偽があり、偽の可能性もあるからです。例えば、本人がコーヒーだと思って飲んでいたものが、麦を焦がして作った飲料であるということがあり得るからです。言われてみると、確かにコーヒーとは少し違った味だと気付くということがあるかもしれません。実践的知識は大抵は正しいとおもわれますが、正しいとき、それは行為内意図と次のように関係します。

  「コーヒーを飲んでいます」という実践的知識

  「コーヒーを飲もう」という行為内意図

これらは、「(私は)…しています」と「(私は)…しよう」との違いです。前者は真理値を持ちますが、後者は記述ではないので真理値を持ちません。前者は「何をしているの?」という問いの答えですが、後者はどのような問いの答えとなるのでしょうか。言い換えると、後者はどのようなときに意識されるのでしょうか。これを考えたいと思います。

 行為内意図は、コーヒー(あるいはコーヒーを飲むこと「について」の心的状態であり、志向性の定義に当てはまります。これのS(r)構造(「S」は心理的様態、「r」は表象内容)(『志向性』訳8)は、次のようになるでしょう。

   しようとする(コーヒーを飲むこと)

 行為内意図は、世界を心的内容に適合させるという適合の方向を持ちます。では、この行為内意図の存在を誠実条件とする発話行為は何でしょうか。

 「約束」の発話の誠実性条件は、次に論じる「先行意図」になるでしょう。約束は、未来の行為を約束することであり、その意味でそれは未来の行為を意図する先行意図になりそうです。これに対して、現在の行為を意図しているものに、宣言があります。確かに「開会します」と宣言するものは、「今開会する」ことを意図しています。しかし、宣言型発話の「適合の方向」は、両方向です。つまり「開会します」と宣言することによって開会が実現するのです。宣言型発話が、答えとなる質問としては、「そろそろ開会しませんか?」と問われて、然るべき資格のある人が「開会します」と宣言する場合がありえます。宣言が行われる多くの場合に明示的な質問がなされていないとしても、宣言の発話は、質問への答えとして発話されることが可能です。しかし、これと類比的に、「そろそろコーヒーをのみませんか」と問われて「コーヒーを飲もう」と答える時には、それは先行意図の表明であって、行為内意図の表明ではありません。では、「行為内意図」については、これを誠実性条件とする発話行為がないのでしょうか(ここでは、まだ最終的な答えを出せません。)。

 行為内意図だけを取り上げて考察することは難しいので、次回は「先行意図」との対比によって、明確にしたいと思います。