69 前々回と前回に述べたことの再考(20220313)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、前々回述べた<命題を統一するのは、問答関係である>ということと、前回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを、それぞれ再考し、その上で両者の関係を考えたいと思います。

#<命題を統一するのは、問答関係である>について再考

前々回には、デイヴィドソンにならって「命題を統一するのは何か」という問題を設定し、この問題に対するフレーゲ的な回答「不飽和な述語によって、命題は統一化される」が不十分であることを示し、「命題を統一化するのは問答関係である」という答えを提案しました。この問題設定が「命題は文未満表現の意味からどのようにして合成されるのか」という問い、つまり「合成性」の問題と同じものとみなすのなら、この問題設定は、推論的意味論を採用する者にとっては、不適切です。なぜなら、「合成性」の問題は、原子論的な意味論を想定していますが、推論的意味論は全体論的意味論を採用するので、このような問題設定を認めないからです。

 以前にこれを論じたとき(カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」の56回、57回の発言)に述べたように、私は、語の意味から出発するのでなく、また命題の意味から出発するのでもなく、それらの成立を問答関係から説明すべきだと考えます。

 問答推論的意味論では、命題の意味は、それの上流問答推論関係と下流問答推論関係によって/として成立すると考えます。従って、命題の統一も、それがこれらの問答推論関係に立つことによって成立すると考えます。<命題を統一するのは、それを答えとする問いとの問答関係である>というのは、この問答推論関係の一部を明示化しものだと言えます。

 ちなみに、疑問文の統一は、(疑問文の意味と同じように)、その疑問文の上流問答推論関係と下流問答推論関係によって説明されることになります。これは、次のことと関係しています。

 

<述語の核心的な部分を問うことはできない>について

 前回は、<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを事実として確認しました。しかし、なぜそうなるのかを説明しませんでした。これを考えたいと思いますが、「核心的な部分」というより、「基底的な部分」と言う方が適切だと思われるので、このように言い換えることにします。

 問いが成立するとは、それが他の命題や問いと問答推論関係に立つということです。問いが、問答推論的関係に立ちうるためには、問いが健全である(真なる答え/適切な答えを持つ)必要はないのですが、健全であり得ることが必要です。なぜなら、問答推論関係が妥当であるとは、前提の問いが健全であり、平叙文の前提が真であるならば、平叙文の結論が真なる答えである、と言うことだからです(ただし、結論が問いになる場合には、別の説明が必要になります)。

 問いが健全なものでありうるためには、それが問いであると理解できなければなりません。「である」や「をする」のような「述語の基底的な部分」を問う問いが、仮にあったとしても、述語の基底的な部分が欠けていれば、それが問いであるかどうかすら不確定です。もしそのような基底的な部分が欠けていれば、語の列は最終的に疑問文になるのかどうか、また肯定疑問文になるのか否定疑問文になるのかどうか、これらも不確定になるでしょう。

 問いが健全であるためには、それが真なる答え(記述や主張)を求める問いであるのか、適切な答え(命令や約束や宣言など)を求めるであるのかを理解できなければなりません。問いは、答えの発語内行為を決定しています。答えの発話は、サールが整理したような様々な発語内行為をおこないます。答えがどのような発語内行為を行うかは、すでにその相関質問によって決定されています(このことは『問答の言語哲学』の第三章で説明しました)。問いは、答えの命題内容に関して、答えの半製品ですが、答えの発語内行為に関しても、答えの半製品です。答えの述語の基底的な部分は、問いにおいて与えられており、答えはそれを継承するからです。問答が、事実に関するものである場合、答えが主張型発話になることは、問いによってすでに決定されているのです。問いが問いになるためには、答えにどのような発語内行為を求めるかを示す必要がありますが、それを表示するのは、述語の最も基底的な部分になると思われます。

以上のように、前々回述べたことは命題についての問答推論的意味論からの帰結の一つであり、前回述べたことは、疑問文についての問答推論的意味論からの帰結の一つです。この二つは共に問答推論的意味論からの帰結です。

次回は「問答関数論」論への反論を検討したいと思います。

68 述語の核心的部分を問うことは出来ない (20220308)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

文が与えられた時、平叙文に限らず命令文や感嘆文などが与えられた時でも、文のほとんどの要素について、それを問うことができます。しかし、その場合でも述語の核心的な部分は、それを問うことができません。なぜなら、述語の核心的な部分は問いが成立するためにも必要だからです。今回はこのことを説明します。

#文のほとんどの要素については、それを問うことができます。

ある文ないし命題が与えられたとき、そのどの部分でも問うことができるように見えます。文「フクロウは夕方に森で飛ぶ」が与えられたとき、「何が、夕方に森で飛びますか」、「フクロウはいつ森で飛びますか」とか、「フクロウは夕方にどこで飛びますか」とか「フクロウは夕方に森で何をしますか」など、どの部分でも問うことができるように見えます。ある文が与えられた時、名詞句であろうと、形容詞句であろうと、副詞句であろうと、前置詞句であろうと、問うことができます。(また真理値を持つ主張文ではなく、真理値を持たない文、命令文や約束文や願望文や宣言文などなどであっても、どの部分でも問うことができます。)

 ただし例外があります。

#述語の核心的な部分は、問われることはない。

与えられた文のほとんどの部分について、それを疑問詞に変えて補足疑問文にすることができます。つまりその部分を問うことができます。ただしあたえられた文の述語の核心的な部分については、問うことができません。なぜなら、その部分を疑問詞で置き換えることができないからです。それは次のような部分です。

 「である」を述語とする文の場合、その「である」の部分を問うことはできません。

「である」は、主語と述語をつなぐ繋辞、同一性の表現、存在の表現、という3つの働きがあります。これらの部分を疑問詞に置き換えることは出来ません。つまり広義の述語の中の核心的な部分を問うことは出来ません。

 通常の動詞の場合にはどうでしょうか。

 「フクロウは飛ぶ」

の場合、「飛ぶ」の部分を次のように問うことができます。

 「フクロウは何をしますか」

つまり、これは元の文を

 「フクロウは、飛ぶことをする」

と言い換えることによって、「飛ぶこと」の部分を問うています。元の文の述語「飛ぶ」を「飛ぶことをする」と言い換えることによって、「飛ぶこと」の部分だけを問い、「をする」の部分を問わずに残しています。通常の動詞の場合には、その動詞を、動作を表す一般名+「をする」という述語に変えて、その一般名の部分を問うことができますが、しかし「をする」という述語の核心的な部分を問うことは出来ません。

このように補足疑問文は述語の核心的な部分を含んでおり、その部分は答えの中に継承される。補足疑問の問答は、述語の核心的な部分の継承なしには不可能です

前回<命題を統一するのは、問答関係である>と述べましたが、それは今回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということとどう関係するのでしょうか?

それを次に考えたいと思います。

67「命題の統一性」の問題 (20220307)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「問答関数」の構想は、「命題の統一性」についての新しい説明を前提していますので、まずこれを説明したいと思います。

#「命題の統一性」の問題

デイヴィドソンは、この問題を次のように説明している。

「英語では、「John mortal(ジョン死ぬ運命)」は文ではない。これが文となるのは、語「is」が名詞と形容詞の間に挿入されたときである。これは構文論ないし文法上の事実である。しかし、コプラの意味論的役割りは何であろうか。」(デイヴィドソン『真理と述定』津留竜馬訳、春秋社、2010、p.100)

つまり、命題の統一性の問題とは、<ある語の並びが文となるのはどうしてか>という問題である。この例では、繋辞によって、語の並びが文に変化している。それゆえに、デイヴィドソンは、「命題の統一性」の問題は「述定の問題」であると見なしている。

#命題を統一するのは、問答関係である

ここで提案したいのは、<語の並びが文となるのは、語の並びが問いに対する答えなることによってである>ということです。

例えば、「これリンゴ」は、次の問いの答えとして発話されるなら文となります。

 「これは何ですか」「これはリンゴ」

この場合「これはリンゴ」は「これはリンゴです」と同じ意味をもつでしょう。もし「です」という繋辞によって、語の並びが文になるのならば、それが欠けているのに文になるということは説明できません。

 しかし、次の反論があるかもしれません。ここでは「です」が欠けているのではなく、省略されているだけである、という反論があるかもしれません。私も、この答えは「これはリンゴです」の省略形であることに賛成しますが、しかしそれは最初の提案の反論にはなりません。その省略が可能なのは、それが「これは何ですか」という問いに対する答えだと理解されているからです。つまり<語の並びが文となるのは、語の並びが問いに対する答えなることによってである>が成り立ちます。

#命題を統一するのは、不飽和な概念語ではない。

 例えば、「このフクロウは飛ぶ」は、単称名辞「このフクロウ」と「は飛ぶ」という述語からなるとしよう。この場合、フレーゲならば、述語は不飽和であり、それが単称名辞で補われることによって、主張文となり、統一化された命題になるというでしょう。しかし、もしこの説明が正しければ、次の例を説明出来るでしょうか。

 「フクロウはいつ飛ぶのですか」という問いに「フクロウは、夕方に飛ぶ」と答えたとしましょう。上の説明が正しければ、「フクロウは飛ぶ」は統一化された命題です。

「フクロウは夕方に飛ぶ」では統一化された命題に「夕方に」という表現が付加されています。この新要素が付加された命題もまた統一化されています。なぜなら、これは「夕方に」が付加される前の文とは異なる真理条件を持つからです。では、古い命題とこの新要素を統一して新しい命題にするのは何でしょうか。それは「は飛ぶ」という述語ではありません。「は飛ぶ」という述語の不飽和部分はすでに古い命題構成するときに使用されているからです。つまり、新しいこの命題は、不飽和概念語「飛ぶ」によって統一化されていないのです。

 ただし次のように考えることは可能です。もし「フクロウは飛ぶ」に「夕方に」が加わって新命題を作るとき、旧命題は一度解体して、<フクロウ、飛ぶ>という二つの表現に分解され、それに新しい表現を加えて、<フクロウ、飛ぶ、夕方>という3つの要素から改めて命題を作るのであり、そのとき述語は、「()は、()に、飛ぶ」という不飽和な二項関数に変化している、と考えることができます。それならば、新しい命題の統一化を「飛ぶ」という不飽和な概念語で説明出来るでしょう。もし、「()はとぶ」出会った述語が、「()は、()に飛ぶ」という新しい述語に変化するのだとしたら、この変化は、「フクロウはいつ飛ぶのですか」という問いにおいてすでにこの変化は生じています。この新しい問いは、新しい述語を使用しているのです。

 しかしこのように考える時、「飛ぶ」を含む述語がいくつ空所を持つかは、予め決まっていないことになります。例えば、「フクロウは夕方に、どこで飛ぶのですか」という新しい問いを立て、それに「フクロウは夕方に、森で飛ぶ」答えるときには、「飛ぶ」は、「()は、()に()で飛ぶ」という不飽和な三項関数だということになります。私達は、このようにして命題に次々に新しい要素を加え続けることができ、述語の「空所」を増やし続けることができることになります。

 このような事例を考える時、「飛ぶ」という述語がさまざまに変化すると考えるのではなく、<問いにおいて、新しい空所が作られ、それを埋める返答が、命題としての統一性を持つことになる>と説明するほうが、簡潔で説得力があるのではないでしょうか。

66 振り返りと仕切り直し (20220306)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

これまでの経緯を振り返ってから、仕切り直したいと思います。

このカテゴリーの第6パートして56回から始めたのは、ブランダムの「概念実在論」を問答の観点から検討して発展させることでした。(第6パート以前のこのカテゴリーの議論については、このカテゴリーの説明をご覧ください。)

56回において、まず試みたのはブランダムの「概念実在論」を「問答推論実在論」へと展開し、それを吟味することでした。概念実在論とは、<「客観的事実と性質」が概念的である、つまり互いに非両立性や推論的帰結の関係にある>という主張です。もし通常の推論は問答推論の一部として成立すると言えるのならば、非両立的関係と推論的帰結という推論的関係もまた、問答推論関係の部分として成立することになります。したがって、推論的関係の実在性を主張することは、問答推論関係の実在性を主張することになります。<客観的事実と性質が、概念的である、つまり互いに対して問答推論的関係にある>と主張することになります。

57回:問答推論関係は、論理的な関係であって、実際の認識の過程から独立に成立するということを説明しました。ただし、推論が妥当だとしても、その前提や結論が成り立つとは限りません。もし前提が成り立つならば、結論が成り立つという関係が成り立てばよいからです。従って、問答推論関係が成り立つとしても、前提の問いが成り立っている必要はないのです。

58回:ブランダムは、この推論的関係に客観的なものと主観的なものがあり、前者を記述するには、真理様相語彙が必要であり、後者を記述するには義務的規範的語彙が必要であり、この二つの語彙は、互いに意味依存すること、したがって、客観的推論的関係と主観的推論的関係もまた互いに意味依存すると論じていました。このことは、客観的問答推論関係と主観的問答推論関係についても成り立つでしょう。(この相互的意味依存についても、また改めて吟味したいと思っています。)

59回:このように拡張した上で、ブランダム=ヘーゲルの「概念実在論」を受け入れることができるかどうか、特に存在論的な問題を考えようとしました。。

 問答推論的関係は、言語や理論が変われば異なるので、ほとんど無限に多様なものが考えられます。事実は、無限に多様な仕方で語れる無限に多様な構造を暗黙的にもっているのかもしれませんが、次のように考えることもできます。

 私たちは、「これはリンゴですか?」と問われたら、事実に問い合わせ、「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら、事実に問い合わせて、「いいえ、これはナシではありません」という答えます。このとき、事実とは、さまざまな問いの入力に対して、それぞれ一つの答えを出力する関数であると見なすことができます。このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにしました。(このように考える時、問答推論関係は、事実から得られるものですが、事実そのものが持つものではありません。その意味では、概念実在論から少し離れるかもしれません。)

 <事実は問答関数である>というこのアイデアの吟味から、仕切り直して始めたいとおもます。

65 I am stuck in Frege. (20220304)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

更新が遅れてすみません。3回目のコロナワクチンを2月28日に打ったあと熱が出て、2日ほど寝込んでいました。

しかし、更新が遅れたもっと大きな理由は、フレーゲの概念語の意義と指示対象について調べているうちに、袋小路に入ってしまったということがあります。フレーゲにとって「概念語」の指示対象は概念であり、真理値を値とする単項関数であるということは言えるのですが、概念語の意義がよくわかりません。指示対象である概念の与えられ方であるだろうと推測できますが、彼がそれを明示している箇所を見つけることができません。たしかに、フレーゲは次のように言います。ふれ

「ある論文(「意義と意味について」)において私は、さしあたり固有名(ないしはそういったければ単称名の場合だけ意義と意味を区別した。同じ区別を概念語の場合にも行うことができる。」(論文「意義と意味詳論」『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年103)

「固有名は意義を介して、しかも意義を介してのみ対象に関係するのである。

 概念語もまた一つの意義を持たねばならず、科学的使用には一つの意味をも持たねばならない。」(同書111)。

このようにフレーゲは、概念語がBedeutung(指示対象)として概念をもつことに加えて、Sinn(意義)を持つことを明言しているのですが、しかし概念語のSinn(意義)が具体的に何であるのかを語っていません。しかし、よく考えれば、固有名についてもその意義は、指示対象の与えられ方と述べているだけで、それ以上の説明はなかったと思います。

 というわけで、フレーゲは、思想が異なる真である文の、認識価値の違いを、思想の違いで説明するのですが、しかし、前回例に上げた次の二つの文が真であるとき、何が違うのかはよくわからないのです。

「このリンゴは、赤い」

「このリンゴは、バラ科である」

この二つの文が真であるとき、どちらも同一の指示対象(真なるもの)をもちます。この二つの主語は同一の指示対象を持ちます。二つの文の違いは、概念語にあります。「赤い」と「バラ科である」という二つの述語ないし概念語は、異なる概念を指示対象とします。またこれらの意義も異なるはずです。この概念語の違いが、二つの文の意義(思想)の違いになるはずです。前回述べたようにフレーゲは、「一つの真理値に属しているそれぞれの[文の]意義は、[真理値(真なるもの)の]固有の分解方法(eine eigene Weise der Zerlegung)に対応している」(Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik, NF100, 1892, S.35、[ ]と強調文字は入江の付記)と述べています。

 上の二つの文で言えば、一方は、真なるものを、対象であるリンゴと概念<赤いこと>に分解し、他方は、真なるものを、対象であるリンゴと概念<バラ科であること>に分解することに対応している、ということになります。これは、<文の思想>と<文の指示対象(真理値)の分解方法>の対応関係であって、文の思想が事実と対応しているということではありません。

このようなフレーゲ理解をさらに吟味しようとすると、不明な点が多くてフレーゲを読み直さなくてはならず、泥沼に入ってそこから出られなくなってしまいました。

64 真なる文の述語は何を表示するのか (20220223)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べましたが、フレーゲによれば、異なる真なる判断は、真なるものの諸部分を異なる仕方で分解するのだと思われます。この解釈は、次の引用に基づいています。

「判断とは、真理値の内部で諸部分を区別することである」(『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年82、下線引用者)

「一つの真理値に属するすべての意義は、それぞれの固有の分解方法に対応することになるかもしれない。」(同書、82、下線引用者)

例えば「このリンゴは、パラ科である」という真なる判断が、真なるものの諸部分を区別するとは、「このリンゴ」の指示対象を他の部分から、あるいは真なるもの全体から区別することだと言えそうです。

ところで、次のふたつの文が真であるとしましょう。

「このリンゴは、パラ科である」

「このリンゴは、赤い」

このとき、この二つの文がそれぞれ「固有の分解方法」を持つのだとすると、分解方法の違いは、述語の違いによることになります。フレーゲは、述語の意義と指示対象について、論文「意義と意味詳論」(1892-95)で次のように説明しています。

 述語は、概念語であるとされます。固有名の指示対象が、対象であるのに対して、概念語の指示対象は概念であると言われます(同書、103)。

フレーゲは、概念のBedeutung(指示対象)と概念の外延を区別します。例えば、「これはリンゴである」における「リンゴ」は固有名ではなく、概念語(述語)です。「リンゴはバラ科である」は、正確に言えば、「あるものがリンゴであるならば、それはバラ科である」となります。概念語「リンゴ」の指示対象は、概念であって、その外延とは、区別されます。概念「リンゴ」の外延は<リンゴであるものの集合>です。

フレーゲによれば、「概念は、その値が常に真理値であるような、単項関数なのである。」(104)。例えば概念「リンゴ」は、「( )はリンゴである」という一つの空所を持つ関数なのです。その空所に対象を入力することによって、真理値を出力する関数なのです。

このような概念については、次のことが成り立ちます。

「同一対象の固有名が、真理を損なうことなく互いに代替となりうるのと同様、概念の外延が同じならば、同じことが概念語にも当てはまる。」(104)

「二つの概念語の意味するものが同じであるのは、当の概念に付属する外延が合致するときそのときに限る」(109)

ここで次に3つの文を真であるとしましょう。

①「このリンゴは、赤い」

②「このイチゴは、赤い」

③「このリンゴはバラ科である」

このときこれらの文のBedeutung(指示対象)は同じ真理値「真なるもの」となります。

しかし、意義(思想)は異なりますので、真なるものの「固有の分解方法」は異なるはずです。では、それらはどのように異なるのでしょうしょうか。

①と②は、異なる対象を取り出している。

①と③は、異なる概念を取り出している。

②と③は、異なる対象と異なる概念を取り出している。

フレーゲをこのように解釈してもよいでしょうか。「取り出している」というのは、私のなりの表現ですが、これをどう理解したものでしょうか。次にこれらを考えます。

63 文は何を表示するのか (20220219)

(訳語について:以下では、フレーゲのSinnとBedeutungをそれぞれ「意義」と「指示対象」と訳します。これらは通常は、それぞれ「意義」と「意味」と訳されています。しかし、これでは違いが曖昧である。英訳ではSinnはsenseとかmeaningと訳され、Bedeutungはreferenceとかreferentとかdenotationと訳されます。私はこれに倣って『問答の言語哲学』では、Sinnを「意味」、Bedeutungを「指示対象」と訳しました。ここでもSinn「意味」と訳したいところですが、フレーゲ論文の邦訳を引用したいので、ここではSinnを「意義」と訳します。また邦訳では、Bedeutugnが「意味」と訳されいるのですが、それだと私がこれまで「意味」と呼んできたものとの区別できなくなるので、ここでは「指示対象」と訳することにし、引用する訳文には「意味(Bedeutung指示対象)」と付記することにします。)

前回、論文「思想」(1918)をもとに述べたように、文のSinn(意義)が思想であるとしましょう。では、文にはBedeutung(指示対象)はあるのでしょうか。これについて、フレーゲは論文「意味と意義について」(1892)で述べています。

フレーゲは、文に含まれる固有名を、Sinn(意義)は異なるが、同じBedeutung(指示対象)を持つものに交換したとき、文のSinn(意義)=思想は変化するが、文のBedeutung(指示対象)は変化しないだろうと考えます。そこから彼は、文のBedeutung(指示対象)は、文の真理値であると言います(参照、『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年、80)。

彼は、真理値については、次のように説明します。

「文の真理値とは、その文が真であったり、偽であったりするという事情(Umstand)である。…一方を真(das Wahre)、他方を偽(das Falsche)と名付ける。」80

この場合、

「すべての真なる文は同一の意味(Bedeutung指示対象)を持ち、他方ではすべての偽なる文も同一の意味(Bedeutung指示対象)を持つことになる。」82

「このことから、文の意味においてはすべての個別的なものが消えることがわかる。したがって、我々にとっては、文の意味だけが問題になるのではなく、また、単なる思想のみで認識が与えられるのでもない。思想は意味すなわち真理値といっしょになってはじめて認識を当たられるのである。判断するということは思想から真理値への前進として理解されうる。」82

「このリンゴはバラ科である」と「このサクラはバラ科である」はどちらも真であり、これらの意味(Bedeutung指示対象)は同一です。そうすると、これだけでは、この二つの認識価値の違いを説明できません。この二つの文は意義(思想)において異なります。しかし、彼は、思想を理解するだけで、認識が得られるのではないといいます。

  「このリンゴはバラ科である」

  「このリンゴはバラ科でない」

  「このリンゴは、机である」

  「このリンゴは、机でない」

確かに、これらの文の意義(思想)を理解しても、それだけでは何の認識にもなりません。従って、「このリンゴはバラ科である」と「このサクラはバラ科である」の思想を理解するためでは、この二つの認識価値の違いを説明できません。

そこでフレーゲは、

「思想は意味すなわち真理値といっしょになってはじめて認識を与えるのである。判断するということは思想から真理値への前進として理解されうる。」82

と言います。文の意義(思想)と、意味(Bedeutung、指示対象)すなわち真理値が一緒になって初めて、認識価値の違いを説明出来るというのです。これは、文の思想と真理値が一緒になるとは、判断するということです。前回も引用しましたが、フレーゲは、論文「思想」で次のように述べていました。

  1 思想を把握すること――考えること

  2 思想の真理性の承認――判断すること

  3 この判断の表明-―――主張すること (209)

つまり、思想の真理性を承認することが、判断することです。ここ(「意味と意義について」)では、判断することについて、次のように大変興味深いことを述べています。

「さらに、判断とは、真理値の内部で諸部分を区別することであるとすら言い得る。この区別は、思想に立ち戻ることによってなされる。ゆえに一つの真理値に属するすべての意義は、それぞれの固有の分解方法に対応することになるかもしれない。」82

ところで、構文論的には、語は文の部分です。フレーゲは、これに対応する仕方で、意味論的には、語の指示対象は、文の指示対象の部分であると考えて、次のように述べます。

「ここで私はしかし「部分」という語をかなり特別な意味で使っている。すなわち、私は、語そのものがこの文の部分をなす場合について、語の意味を、文の意味の部分と呼ぶことによって、文の全体と部分の関係を、文の意味にまで移したのである。」82

(フレーゲは、ここでは明示していませんが、おそらく意義についても同様に、語の意義は、文の意義の部分であると考えるでしょう。)

ところで、もし語のBedeutung(指示対象)が、対象であるとすると、文のBedeutugn(指示対象)は、それを部分として含む対象です。そのような対象「真なるもの」は、真なる文に登場するすべての固有名の指示対象を部分として含むことになります。それは物や事実の総体だと言えるかもしれません。

 次回は、フレーゲの「真なるもの」についてのこの解釈の吟味を進めます。(もしこの解釈が正しいならば、フレーゲの議論と「認識の三角形」が整合的である可能性があるでしょう。)

62 フレーゲの「思想」概念と疑問文(20220216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

フレーゲは、論文「思想」において、文の「意義」(Sinn、意味)を、「表象」ではなく「思想」であると説明します。そこでのフレーゲの「思想」概念を説明し、それと疑問文との関係を考察したいと思います。

(論文「思想」の日本語訳には、『フレーゲ哲学論集』藤村龍雄訳、岩波書店、1988と『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年があります。ここでは、後者の訳文とページ数を使用します。)

フレーゲは、「文の意義こそ、そもそも真であることが問題になりうる当のものである」206と考えます。そしてそれは表象ではないと言います。なぜなら、表象は、「ひとがもつもの」215であり、そのひとの「意識内容に属する」ものであり、「担い手を必要とする」216ものであり、それゆえに、ひとは表象を他者と共有できないからです。「どの表象も唯一人の担い手をもつ。二人の人間が同じ表象をもつということはない」217のです。この場合には、例えばピタゴラスの定理の把握が、表象ならば、複数の人は同じピタゴラスの定理を共有できないことになり、人々に共有される学問が不可能になります。

 これに対して思想は「いかなる担い手も要しない」219。「ちょうどある惑星がそれを誰かが見つける以前に既に他の惑星との相互関係にあるのと同様に、思想はそれが発見されてはじめて真となるのではない。」219。ひとは思想を把握しますが、しかし、思想は誰もそれを把握しなくても成立していると考えます。

 ところで、主張文と疑問文の意義は、このような思想ですが、命令文、希願文、依頼文の意義は思想ではありません。何故なら、それらの意義は「真理が問題となりうるような種類のものではない」208からです。

 では、疑問文はどうでしょうか。フレーゲは、疑問文を「語疑問[疑問詞で始まる疑問文]」208と「文疑問[はい、またはいいえを求める疑問文]」208に分けます。(『問答の言語哲学』で私は、「語疑問」を「補足疑問」、「文疑問」を「決定疑問」と呼んでいます。)

 彼は、文疑問は思想を含む、と考えます。その理由は次の通りです。

「「はい」という回答は、主張文と同じことを語っている。というのは、疑問文中にすでに完全に含まれていた思想が、その回答により真と評価されるからである。だから、どの主張文に対しても一つの文疑問を形成しうる」208。

(ここでのフレーゲの説明には、全ての決定疑問への「然り」の答えが断定文になると考える誤り(記述主義的誤謬)が含まれています。なぜなら、「これを持っていきましょうか」「これが欲しいですか」などの決定疑問への「はい」の答えは、「命令文」や「願望文」になるからです。決定疑問の答えは、主張文であるとは限りません。これについては、『問答の言語哲学』で強調しました。)

フレーゲは、同じ思想を含む疑問文と断定文の違いを次のように説明します。

「疑問文と主張文は同じ思想を含む。しかし、主張文はなおそれ以上のあるもの、すなわち、まさに主張、を含む。疑問文もまたそれ以上のあるもの、則ち[応答への]要求を含む。したがって、主張文においては、二つのことが区別されるべきである。すなわち、対応する文疑問と主張文が共有する内容と、主張とである。前者は思想である、ないし、少なくとも思想を含んでいる。」209

「かくして我々はつぎのような区別をする。

  1 思想を把握すること――考えること

  2 思想の真理性の承認――判断すること

  3 この判断の表明-―――主張すること」209

フレーゲは「語疑問」が思想を含むかどうかについて、次のように述べています。

「語疑問[疑問詞で始まる疑問文]においては、我々は不完全な文を発話しているのであり、我々の求めている補足[疑問詞「誰」「何」への回答]によって初めて一つの本当の意義を得ることにある。従って語疑問は個々では考慮の外におかれる。」208

フレーゲは、語疑問(補足疑問)は、疑問詞に何かの表現が代入されたときにはじめて思想を持つので、語疑問は、思想を含まない、と述べているのだと思います。しかしそうでしょうか。確かに、補足疑問の意義は、通常の意味では思想(「真理が問題となるもの」)を含みません。しかし、思想の半製品を含むのではないでしょうか。

 例えば、「これは何ですか」という問いは、「これは○○です」という形式の答えを予想します。「○○」に適切な語が入れば、適切な答えとなり、それは完全な思想となります。つまり「真理が問題となるもの」になります。勿論、補足疑問文のままでは、完全な思想を含みません。

 しかし、補足疑問の意義を表象と考えることは出来ないのです。もし補足疑問の意義が、それを問うた人の表象であるとすると、問われた人がそれを理解することができないことになるからです。なぜなら、問われた人が理解する補足疑問は、問われた人の表象であり、問うた人が表象した補足疑問とは異なることになるからです。フレーゲが言うように、科学が可能であるためには、科学的主張の共有が必要です。そのためには科学的な問いの共有もまた必要なのではないでしょうか。したがって、補足疑問の意義の共有が必要です。

それゆえに、補足疑問の意義は、表象だとは見なせません。それは完全な思想ではないとしても、思想の半製品として共有される必要があるのです。

 補足疑問が思想(ないし思想の半製品)を含むというこの指摘が、フレーゲ思想にどのような変更を要求するのかを検討するためにも、次回は、フレーゲが、主張文のBedeutung(指示対象)についてどう考えるのかを考察したいと思います。

61 少し足踏み (20220213)

(アップが遅くなりすみません。)

「認識の三角形」についてより詳しく説明することが次の課題でした。「認識の三角形」について、前回の最後に次のように説明しました。

「ある事実の表示のためには、少なくとも二つの命題がそれを表示する必要があります。二つ以上必要です。つまり、一つの事実と二つの命題からなる認識の三角形が成立する必要があります。

ここでは、「命題が事実を表示している」ということが前提となっています。事実を問答関数と考えることによって、「命題が事実を表示(あるいは表現)する」という捉え方を避けていたのに、ここで不用意にその言い方を採用してしまっていたことに気づきました.これは再考の必要がありそうです。

そこで、認識の三角形を説明する前に、「命題が事実を表示している」と言えるのかどうかを検討したいと思います。どこから手を付けるべきか迷うのですが、フレーゲの論文「思想」の議論を紹介し、それを問答推論の観点から検討することを手掛かりにしようと思います(フレーゲは、そこで文のSinn(意義)は「思想」であり、文のBedeutung(指示対象)は、(事実ではなく)真理値であると主張していました)。それを踏まえて、事実についての問答関数論をもう一度考察して、それから「認識の三角形」について改めて論じなおしたいと思います。

「概念実在論」に対する代案をどう考えるかは、認識論と存在論にとってとても重要な基礎なので、しばらく足踏みにお付き合いください。

60 多重チェック問答関係 (20220208)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

問答関数実在論を仮定するとき、認識内容のチェックは、次のように行われることになると思われます。

問いQ1の答えを得ようとして、ある事実に問い合わせて、答えA1を得たとします。

この問答の正しさをチェックするには、別の事実に問い合わせて、答を得て、その答えを先のA1と照合することができます。もし二つの答えが一致していれば、A1の正しさをとりあえず正当化できたことになります。もし二つの答えが一致しなければ、少なくともどちらか一方を変更しなければなりません。

ただし、仮に一致したとしても、この正当化は完全なものではありません。さらに別の事実に問い合わせたときに得られた答えとA1が一致しなければ、どちらかを変更しなければならなくなるからです。このような仕方で、問答を繰り返すことによって、認識の正当化はより安定したものになるでしょう。

問いに対する答えの正しさ、あるいは問答の正しさをチェックするときに、私たちが問い合わせるものは、客観的事実とは限りません(ここで、客観的事実に問い合わせるとはどういうことか、についてもより明確に答える必要がありますが、それは後で行います)。多くの場合、私たちは、事実そのものに問い合わせるのではなく、すでに受け入れている仮説(一般的な理論、個別的な主張、信頼している伝聞内容、など)に問い合わせて答えを得る場合があります。また知覚表象に問い合わせて、知覚判断を答えとして得ることもあります。

このような複数の「問い合わされるもの」(問答関数)による問答関係のチェックを「多重チェック問答関係」と呼びたいと思います。

理論的な問いの場合の「問い合わされるもの」=「問答関数」には、次のようなものがあります(以下は暫定的な分類です)。

①問いの意味や論理

②他の信頼する命題に問い合わせて、その命題から問いの答えを推論しようとする

③仮説や法則に問い合わせて、答えを得ようとする。

④知覚表象に問い合わせて、答えを得ようとする。

⑤事実ないし感覚刺激に問い合わせて、答えを得ようとする。

ところで、ある問いを立て、その問いに答えるために、何かに問い合わせて、答えをえたとしても、多くのばあい私たちはその一回だけの問答で十分だとは考えません。なぜなら、私たちはその問答をチェックする必要があるからです。なぜなら、他ものに問い合わせて、どの問答をチェックしなければ、問答の正しさを正当化できないし、それに加えて、他のものに問い合わせてチェックできないとすれば、その答えを主張することができなくなるからです。それは、つぎのような理由のためです。

#指示の三角形と認識の三角形

 語「Xさんの車」の指示対象を確定にするには、同一対象を指示する異なる意味の表現「あの赤い車」が必要です。もしある単称名辞Aがある対象を指示するとしても、その対象を指示する仕方が他になければ、単称名辞Aが何を指示しているのか、その指示が成功しているのかどうか、は確認できません。したがって、指示は成立しません。ある対象の指示のためには、単称名辞が二つ以上必要です。指示のためには、指示対象と二つの単称名辞からなる三角形が成立する必要があります。

 それと同じことが命題pによる事実の表示の場合にも成り立ちます。命題pがどのような事実を表示しているのかを確定するには、同一の事実を表示する異なる意味の命題が必要です。もし命題pが表示している事実を表示する他の命題が存在しないとすると、その命題がどのような事実を表示しているのか、その表示が成功しているのかどうか、を確認できません。したがって、事実の表示は成立しません。

ある事実の表示のためには、少なくとも二つの命題がそれを表示する必要があります。二つ以上必要です。つまり、一つの事実と二つの命題からなる認識の三角形が成立する必要があります。

次回は、この「認識の三角形」についてより詳しく説明したいと思います。