72 仕切り直し:表象の二つの性格 (20220530)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(しばらく時間が空いてしまったので、最初の問題意識に戻って出直したいとおもいます。このカテゴリーのこれまでの内容については、カテゴリーの冒頭の説明文をご覧ください。)

認識がどのように行われているのかを明らかにするには、表象、知覚、意識などについて、これらの語が何を意味するのか、そしてこれらの語が意味するものがどのようにして生じるのか、を明らかにする必要があります。勿論これらは難問ですが、それができなければ、認識論はほとんど不可能です。

まず「表象」の解明から始めます。ドレツキによれは、「表象する」とは次のようなことです。

「あるシステムSが性質Fを表象するのは、Sがある特定の対象領域のFを表示する(Fについての情報を与える)機能を持つとき、そしてその時のみである。Sは(その機能を果たすときには)、Fのそれぞれ異なる確定した値f1, f2、…fn に対応して、それぞれ異なる状態s1, s2,…snを占めることによって、その機能を果たす。」(Fred Dretske, Naturalizing the Mind, MIT Press, 1995. ドレツキ著『心を自然化する』鈴木貴之訳、勁草書房、2007年、p.2)

「表象(representation)」は、代理、代表などの意味をもつ言葉なので、representationの原義は、このようなものだと言えそうです。表象のこの性格を「表象の代理表示」と呼ぶことにします。

 他方で、日本語の「表象」には、この意味とは別に、像、イメージ、という意味もあります。表象の「代理表示」という性格は、上述の仕方で明確に説明できますが、「像、イメージ」という性格を明確に説明するには、どうしたらよいでしょうか。とりあえず、イメージは、二次元あるいは三次元の空間的広がりと空間内の位置、静止あるいは変化という時間的拡がりと時間内の位置をもつものだといえます。ただし、二次元平面をイメージするには、その平面を一定の距離や位置のところに想像したり知覚したりしなければならないので、その場合にも暗黙的には三次元が必要です。静止した像を想像したり知覚したりするには、一定の時間の中で変化しない状態を想像したり知覚したりしなければならないので、暗黙的には時間経過が必要です。

 表象のイメージという性格は、表象のもう一つの性格、代理表示という表象の性格から生じると考えられます。なぜなら、もともとの世界が4次元であるとき、それを代理表示する表象も4次元の拡がりを持つことになるからです。ただし、世界の表象は、世界全体を表象することは出来ないので、世界のある視点からのみた、世界の断片の表象になります。つまり、この断片は、4次元時空の時間断片である三次元立体になるかもしれません。三次元立体の二次元断片である二次元平面になるかもしれません。あるいは、二次元平面で時間次元を持つ動く映像になるかもしれません。イメージは、世界をある視点、ある時間、ある次元で切り取った、世界の断片(あるいは世界の断片のイメージ)になります。イメージは、空間的な広がりと位置、時間的な広がりと位置をもちます。

 イメージは、4次元世界を代理表示することによって成立するのだと考えられますが、世界の代理表示のイメージが、間違っているときには、その表象はどのような事実も代理表示していないということがありえます。さらには、虚構のように、最初から、事実を表示しないイメージをつくることも可能になります。ただし、動物の進化史における最初のイメージの登場は、世界の代理表示だろうとおもわれます(錯覚については別途論じます)。

 知覚とイメージの関係について言えば、すべての知覚は何らかのイメージですが、すべてのイメージが知覚(知覚像)であるのではありません。では、感覚とイメージ関係についても同様です。感覚もまた空間的な広がりと位置、時間的な広がりと位置をもつので、すべての感覚は何らかのイメージだといえますが、しかしすべてのイメージが感覚であるのではありません。つまり、知覚も感覚もイメージです。また知覚も感覚も何かの代理表示だと言えそうです。したがって、知覚も感覚も表象だと言えそうです。

 ちなみに、ドレツキは、表象について、代理表示の性格だけをのべ、イメージついては述べません。したがって、概念もまた表象に含めることになります。なぜなら、概念もまた「代理表示」という性格を持つからです。ドレツキは、表象を「感覚的表象」と「概念的表象」に分けています(参照、前掲訳12)。ドレツキに限らず「意識の表象理論」という立場では一般的に、概念を表象に含めて考えることになるのかもしれません(この点、私にはまだ不確かです)。これに対して、私は、「表象」を代理表示とイメージという二つの性格を持つものとして考えて、「表象」と「概念」を区別して使用したいと思います(この方針で重大な問題が生じれば、その時に考え直したいと思います)。

 「概念」は、空間的時間的な広がりと位置を持ちません。しかし、上述の箇所では、代理表示という性格から、イメージという性格が生じると説明しました。それならば、概念についても、代理表示という性格から、イメージという性格が生じることになりますが、しかし概念はこのイメージという性格を持ちません。この混乱を避けるには、表象がもつ代理表示という性格と概念が持つ代理表示という性格に違いに注目するひつようがあります。

 この違いについて、次に考えたいと思います。

71 ブランダム=ヘーゲルとフレーゲ (20220322)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(体調を崩してしまい更新が遅れてしまいました。今は元気です。)

ブランダムは、フレーゲが論文「思想」で「事実は真なる思想である」と述べたことを高く評価します。フレーゲは、ここで確かに、事実を思想として捉えています。しかしその後フレーゲは、事実と思想の同質性を追求していません。そのことをブランダムは批判します。これに対して、ブランダムは、事実と思想の同質性を追求します。

 ブランダムは、フレーゲのこのSinnとBedeutungの区別を、ヘーゲルの<物が意識にとってあるあり方>と<物がそれ自体であるあり方>の区別に対応させて理解します。ブランダムは、Sinn(意義)とBedeutung(指示対象)の同質性を主張しますが、その同質性とは、それらが共に概念的であるということです。つまり、Bedeutungが概念的であるとは、物がそれ自体であるあり方が概念的であること、つまりそれが他のあり方と両立不可能性および論理的帰結の関係にあるということです。Sinn が概念的であるとは、物が意識にとってあるあり方が、同じような意味で概念的であるということです(ブランダムは、フレーゲのSinnとBedeutungの解釈について、『信頼の精神』の第12章で詳しく説明しています)。

ヘーゲルは『精神現象学』の「緒論」で、知の吟味のプロセスを説明する箇所で、対象についての知が変化すれば、対象そのものも変化すると論じています。ブランダムもまた、これを継承して、物が意識にとってあるあり方が、変化すれば、物がそれ自体であるあり方も変化すると考えますが、彼はこのことを、おそらくこの二つが相互的な意味依存の関係にあるということから説明するのです。フレーゲの用語を使うならば、Sinnが変化すれば、Bedeutungが変化するということになります。ブランダムは、SinnとBedeutungについて、またこれらの関係について全体論的に考えるのに対して、フレーゲと新フレーゲ主義が原子論的に捉えている点を批判します(Robert Brandom, A Spirit of Trust, Harvard UP.,  p.426)。

ブランダムのヘーゲル解釈については、私はまだ勉強不足なのですが、しかし、フレーゲが「事実は真なる思想である」と言ったことを引き継いで、ブランダムが、事実と思想の同質性を追求するとき、事実を客観的に不動のものとしてではなく、思想が変化すればそれに応じて変化するものとして理解していることが解ります。つまり、ブランダムの概念実在論は、クワインが想定していたような事実についての科学理論の変更可能性を想定しているのです。その限りで、概念実在論は、事実を問答関数として理解することと両立可能であると考えます。

70「問答関数」論への予想されるフレーゲからの反論(20220315)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前に(59回で)説明した「問答関数」とは次のようなものでした。

ブランダムの「概念実在論」は、客観的事実(fact)ないし事態(state of affairs)が概念的に構造化(ないし分節化)されていると考えます。事実は確かに、それと両立不可能な他の事実がなければ、一定の規定性をもちません。またある事実は、それから帰結する他の事実がなければ、一定の規定性をもちえません。このような概念的構造(推論的関係)は、無限に多様な仕方で語ることができます。クワインがいうように言語や理論が異なる時、それらは互いに矛盾するかもしれません。そこで、事実そのものが概念構造(推論的関係)を持つのではないと考えた方がよさそうです。つまり、事実が、「これはリンゴである」あるいは「これはリンゴであり、ナシではない」という概念構造を持つのではなく、事実は「これはリンゴですか?」と問われたら「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら「いいえ、これはナシではありません」という答えを返す関数である、と考えた方がよさそうです。

 <事実とは、ある問いの入力に対して、ある答えを出力する関数である>と見なすことができます。そして、このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにしました。

 事実をこのような「問答関数」とみなすことは、フレーゲの関数理解とは矛盾します。なぜなら、フレーゲによれば、関数とは、不飽和なものであり、完結したものである固有名と結合することによって、はじめて完結した意義と指示対象を持つのです。関数は、不飽和なものであり、それに結合する引数(入力)とその結合から結果する値(出力)は完結したものなのです。それに対して、問答関数において入力となる問いは、それ自体では真理値(また適切性)を持たない不飽和な表現だと考えられるからです。(ただし、出力となる文は、真理値(また適切性)をもつ完結したものです。)

また、フレーゲならば、事実を不飽和なもの(関数)とみなすことにも反対しそうです。

 フレーゲのこの反論は、関数を、完結したものを入力として必要とする不飽和なものという理解に基づいています。しかし、関数については、他の理解もありえます。例えば、ラッセルは関数を、1対多(1対1を含む)の関係として捉え、不飽和な表現とは考えません。

 フレーゲが、関数(述語)を不飽和なものとして理解したのは、完結した記号が並ぶだけでは、完結した記号を構成できないと考えたからです。完結した記号が集まって一つの完結した記号を作るには、接着剤が必要であり、それが不飽和な関数(述語)だと考えたのです。それに対して、私は<命題を統一するのは、問答関係である>と考えたいと思います。

 述語の基底的な部分が、フレーゲの言う意味で不飽和であるように見えます。しかし、それは問いを構成するために必要なのです。「フクロウは飛ぶ」を前提して「フクロウはいつ飛びますか」と問うために、必要なのです。この問いは「フクロウはいつ飛ぶことをしますか」といい換えられます。この言い換えによって「をしますか」という述語の基底的な部分を明示化できます。この基底的な部分は、「飛ぶこと」と結合しますが、また「夕方に」という返答と結合します。私たちは、ある文について、さらに様々な条件を問う子ことができますから、述語の基底的な部分は、あらかじめ決められた一定の項をもつ関数であるとはいません。問いと答えの関係が、答えを統一性を持つ完結した表現にするのです。答えとなる表現が、統一性を持つのは、それが問いに対する答えとして理解されることによってです。その意味では、命題の統一性は、それが問いの答えとして理解されることによってあり、命題の統一性は、問答の統一性に基づいています。(その意味で、問答こそが、言語的意味および言語行為の最小単位であると言えそうです。)

 ブランダムの「概念実在論」は、上記のクワインからの予想される反論に対して、おそらく、事実の概念的構造を常に修正に開かれているものとして主張すると思われます。概念実在論をそのように理解するとき、それは事実についての「問答関数」論と両立するかもしれません。

 この点を明らかにするために、ブランダムが、新フレーゲ主義について論じている点を確認しておきたいとおもいます。

69 前々回と前回に述べたことの再考(20220313)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここでは、前々回述べた<命題を統一するのは、問答関係である>ということと、前回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを、それぞれ再考し、その上で両者の関係を考えたいと思います。

#<命題を統一するのは、問答関係である>について再考

前々回には、デイヴィドソンにならって「命題を統一するのは何か」という問題を設定し、この問題に対するフレーゲ的な回答「不飽和な述語によって、命題は統一化される」が不十分であることを示し、「命題を統一化するのは問答関係である」という答えを提案しました。この問題設定が「命題は文未満表現の意味からどのようにして合成されるのか」という問い、つまり「合成性」の問題と同じものとみなすのなら、この問題設定は、推論的意味論を採用する者にとっては、不適切です。なぜなら、「合成性」の問題は、原子論的な意味論を想定していますが、推論的意味論は全体論的意味論を採用するので、このような問題設定を認めないからです。

 以前にこれを論じたとき(カテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」の56回、57回の発言)に述べたように、私は、語の意味から出発するのでなく、また命題の意味から出発するのでもなく、それらの成立を問答関係から説明すべきだと考えます。

 問答推論的意味論では、命題の意味は、それの上流問答推論関係と下流問答推論関係によって/として成立すると考えます。従って、命題の統一も、それがこれらの問答推論関係に立つことによって成立すると考えます。<命題を統一するのは、それを答えとする問いとの問答関係である>というのは、この問答推論関係の一部を明示化しものだと言えます。

 ちなみに、疑問文の統一は、(疑問文の意味と同じように)、その疑問文の上流問答推論関係と下流問答推論関係によって説明されることになります。これは、次のことと関係しています。

 

<述語の核心的な部分を問うことはできない>について

 前回は、<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということを事実として確認しました。しかし、なぜそうなるのかを説明しませんでした。これを考えたいと思いますが、「核心的な部分」というより、「基底的な部分」と言う方が適切だと思われるので、このように言い換えることにします。

 問いが成立するとは、それが他の命題や問いと問答推論関係に立つということです。問いが、問答推論的関係に立ちうるためには、問いが健全である(真なる答え/適切な答えを持つ)必要はないのですが、健全であり得ることが必要です。なぜなら、問答推論関係が妥当であるとは、前提の問いが健全であり、平叙文の前提が真であるならば、平叙文の結論が真なる答えである、と言うことだからです(ただし、結論が問いになる場合には、別の説明が必要になります)。

 問いが健全なものでありうるためには、それが問いであると理解できなければなりません。「である」や「をする」のような「述語の基底的な部分」を問う問いが、仮にあったとしても、述語の基底的な部分が欠けていれば、それが問いであるかどうかすら不確定です。もしそのような基底的な部分が欠けていれば、語の列は最終的に疑問文になるのかどうか、また肯定疑問文になるのか否定疑問文になるのかどうか、これらも不確定になるでしょう。

 問いが健全であるためには、それが真なる答え(記述や主張)を求める問いであるのか、適切な答え(命令や約束や宣言など)を求めるであるのかを理解できなければなりません。問いは、答えの発語内行為を決定しています。答えの発話は、サールが整理したような様々な発語内行為をおこないます。答えがどのような発語内行為を行うかは、すでにその相関質問によって決定されています(このことは『問答の言語哲学』の第三章で説明しました)。問いは、答えの命題内容に関して、答えの半製品ですが、答えの発語内行為に関しても、答えの半製品です。答えの述語の基底的な部分は、問いにおいて与えられており、答えはそれを継承するからです。問答が、事実に関するものである場合、答えが主張型発話になることは、問いによってすでに決定されているのです。問いが問いになるためには、答えにどのような発語内行為を求めるかを示す必要がありますが、それを表示するのは、述語の最も基底的な部分になると思われます。

以上のように、前々回述べたことは命題についての問答推論的意味論からの帰結の一つであり、前回述べたことは、疑問文についての問答推論的意味論からの帰結の一つです。この二つは共に問答推論的意味論からの帰結です。

次回は「問答関数論」論への反論を検討したいと思います。

68 述語の核心的部分を問うことは出来ない (20220308)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

文が与えられた時、平叙文に限らず命令文や感嘆文などが与えられた時でも、文のほとんどの要素について、それを問うことができます。しかし、その場合でも述語の核心的な部分は、それを問うことができません。なぜなら、述語の核心的な部分は問いが成立するためにも必要だからです。今回はこのことを説明します。

#文のほとんどの要素については、それを問うことができます。

ある文ないし命題が与えられたとき、そのどの部分でも問うことができるように見えます。文「フクロウは夕方に森で飛ぶ」が与えられたとき、「何が、夕方に森で飛びますか」、「フクロウはいつ森で飛びますか」とか、「フクロウは夕方にどこで飛びますか」とか「フクロウは夕方に森で何をしますか」など、どの部分でも問うことができるように見えます。ある文が与えられた時、名詞句であろうと、形容詞句であろうと、副詞句であろうと、前置詞句であろうと、問うことができます。(また真理値を持つ主張文ではなく、真理値を持たない文、命令文や約束文や願望文や宣言文などなどであっても、どの部分でも問うことができます。)

 ただし例外があります。

#述語の核心的な部分は、問われることはない。

与えられた文のほとんどの部分について、それを疑問詞に変えて補足疑問文にすることができます。つまりその部分を問うことができます。ただしあたえられた文の述語の核心的な部分については、問うことができません。なぜなら、その部分を疑問詞で置き換えることができないからです。それは次のような部分です。

 「である」を述語とする文の場合、その「である」の部分を問うことはできません。

「である」は、主語と述語をつなぐ繋辞、同一性の表現、存在の表現、という3つの働きがあります。これらの部分を疑問詞に置き換えることは出来ません。つまり広義の述語の中の核心的な部分を問うことは出来ません。

 通常の動詞の場合にはどうでしょうか。

 「フクロウは飛ぶ」

の場合、「飛ぶ」の部分を次のように問うことができます。

 「フクロウは何をしますか」

つまり、これは元の文を

 「フクロウは、飛ぶことをする」

と言い換えることによって、「飛ぶこと」の部分を問うています。元の文の述語「飛ぶ」を「飛ぶことをする」と言い換えることによって、「飛ぶこと」の部分だけを問い、「をする」の部分を問わずに残しています。通常の動詞の場合には、その動詞を、動作を表す一般名+「をする」という述語に変えて、その一般名の部分を問うことができますが、しかし「をする」という述語の核心的な部分を問うことは出来ません。

このように補足疑問文は述語の核心的な部分を含んでおり、その部分は答えの中に継承される。補足疑問の問答は、述語の核心的な部分の継承なしには不可能です

前回<命題を統一するのは、問答関係である>と述べましたが、それは今回述べた<述語の核心的な部分を問うことはできない>ということとどう関係するのでしょうか?

それを次に考えたいと思います。

67「命題の統一性」の問題 (20220307)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「問答関数」の構想は、「命題の統一性」についての新しい説明を前提していますので、まずこれを説明したいと思います。

#「命題の統一性」の問題

デイヴィドソンは、この問題を次のように説明している。

「英語では、「John mortal(ジョン死ぬ運命)」は文ではない。これが文となるのは、語「is」が名詞と形容詞の間に挿入されたときである。これは構文論ないし文法上の事実である。しかし、コプラの意味論的役割りは何であろうか。」(デイヴィドソン『真理と述定』津留竜馬訳、春秋社、2010、p.100)

つまり、命題の統一性の問題とは、<ある語の並びが文となるのはどうしてか>という問題である。この例では、繋辞によって、語の並びが文に変化している。それゆえに、デイヴィドソンは、「命題の統一性」の問題は「述定の問題」であると見なしている。

#命題を統一するのは、問答関係である

ここで提案したいのは、<語の並びが文となるのは、語の並びが問いに対する答えなることによってである>ということです。

例えば、「これリンゴ」は、次の問いの答えとして発話されるなら文となります。

 「これは何ですか」「これはリンゴ」

この場合「これはリンゴ」は「これはリンゴです」と同じ意味をもつでしょう。もし「です」という繋辞によって、語の並びが文になるのならば、それが欠けているのに文になるということは説明できません。

 しかし、次の反論があるかもしれません。ここでは「です」が欠けているのではなく、省略されているだけである、という反論があるかもしれません。私も、この答えは「これはリンゴです」の省略形であることに賛成しますが、しかしそれは最初の提案の反論にはなりません。その省略が可能なのは、それが「これは何ですか」という問いに対する答えだと理解されているからです。つまり<語の並びが文となるのは、語の並びが問いに対する答えなることによってである>が成り立ちます。

#命題を統一するのは、不飽和な概念語ではない。

 例えば、「このフクロウは飛ぶ」は、単称名辞「このフクロウ」と「は飛ぶ」という述語からなるとしよう。この場合、フレーゲならば、述語は不飽和であり、それが単称名辞で補われることによって、主張文となり、統一化された命題になるというでしょう。しかし、もしこの説明が正しければ、次の例を説明出来るでしょうか。

 「フクロウはいつ飛ぶのですか」という問いに「フクロウは、夕方に飛ぶ」と答えたとしましょう。上の説明が正しければ、「フクロウは飛ぶ」は統一化された命題です。

「フクロウは夕方に飛ぶ」では統一化された命題に「夕方に」という表現が付加されています。この新要素が付加された命題もまた統一化されています。なぜなら、これは「夕方に」が付加される前の文とは異なる真理条件を持つからです。では、古い命題とこの新要素を統一して新しい命題にするのは何でしょうか。それは「は飛ぶ」という述語ではありません。「は飛ぶ」という述語の不飽和部分はすでに古い命題構成するときに使用されているからです。つまり、新しいこの命題は、不飽和概念語「飛ぶ」によって統一化されていないのです。

 ただし次のように考えることは可能です。もし「フクロウは飛ぶ」に「夕方に」が加わって新命題を作るとき、旧命題は一度解体して、<フクロウ、飛ぶ>という二つの表現に分解され、それに新しい表現を加えて、<フクロウ、飛ぶ、夕方>という3つの要素から改めて命題を作るのであり、そのとき述語は、「()は、()に、飛ぶ」という不飽和な二項関数に変化している、と考えることができます。それならば、新しい命題の統一化を「飛ぶ」という不飽和な概念語で説明出来るでしょう。もし、「()はとぶ」出会った述語が、「()は、()に飛ぶ」という新しい述語に変化するのだとしたら、この変化は、「フクロウはいつ飛ぶのですか」という問いにおいてすでにこの変化は生じています。この新しい問いは、新しい述語を使用しているのです。

 しかしこのように考える時、「飛ぶ」を含む述語がいくつ空所を持つかは、予め決まっていないことになります。例えば、「フクロウは夕方に、どこで飛ぶのですか」という新しい問いを立て、それに「フクロウは夕方に、森で飛ぶ」答えるときには、「飛ぶ」は、「()は、()に()で飛ぶ」という不飽和な三項関数だということになります。私達は、このようにして命題に次々に新しい要素を加え続けることができ、述語の「空所」を増やし続けることができることになります。

 このような事例を考える時、「飛ぶ」という述語がさまざまに変化すると考えるのではなく、<問いにおいて、新しい空所が作られ、それを埋める返答が、命題としての統一性を持つことになる>と説明するほうが、簡潔で説得力があるのではないでしょうか。

66 振り返りと仕切り直し (20220306)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

これまでの経緯を振り返ってから、仕切り直したいと思います。

このカテゴリーの第6パートして56回から始めたのは、ブランダムの「概念実在論」を問答の観点から検討して発展させることでした。(第6パート以前のこのカテゴリーの議論については、このカテゴリーの説明をご覧ください。)

56回において、まず試みたのはブランダムの「概念実在論」を「問答推論実在論」へと展開し、それを吟味することでした。概念実在論とは、<「客観的事実と性質」が概念的である、つまり互いに非両立性や推論的帰結の関係にある>という主張です。もし通常の推論は問答推論の一部として成立すると言えるのならば、非両立的関係と推論的帰結という推論的関係もまた、問答推論関係の部分として成立することになります。したがって、推論的関係の実在性を主張することは、問答推論関係の実在性を主張することになります。<客観的事実と性質が、概念的である、つまり互いに対して問答推論的関係にある>と主張することになります。

57回:問答推論関係は、論理的な関係であって、実際の認識の過程から独立に成立するということを説明しました。ただし、推論が妥当だとしても、その前提や結論が成り立つとは限りません。もし前提が成り立つならば、結論が成り立つという関係が成り立てばよいからです。従って、問答推論関係が成り立つとしても、前提の問いが成り立っている必要はないのです。

58回:ブランダムは、この推論的関係に客観的なものと主観的なものがあり、前者を記述するには、真理様相語彙が必要であり、後者を記述するには義務的規範的語彙が必要であり、この二つの語彙は、互いに意味依存すること、したがって、客観的推論的関係と主観的推論的関係もまた互いに意味依存すると論じていました。このことは、客観的問答推論関係と主観的問答推論関係についても成り立つでしょう。(この相互的意味依存についても、また改めて吟味したいと思っています。)

59回:このように拡張した上で、ブランダム=ヘーゲルの「概念実在論」を受け入れることができるかどうか、特に存在論的な問題を考えようとしました。。

 問答推論的関係は、言語や理論が変われば異なるので、ほとんど無限に多様なものが考えられます。事実は、無限に多様な仕方で語れる無限に多様な構造を暗黙的にもっているのかもしれませんが、次のように考えることもできます。

 私たちは、「これはリンゴですか?」と問われたら、事実に問い合わせ、「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら、事実に問い合わせて、「いいえ、これはナシではありません」という答えます。このとき、事実とは、さまざまな問いの入力に対して、それぞれ一つの答えを出力する関数であると見なすことができます。このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにしました。(このように考える時、問答推論関係は、事実から得られるものですが、事実そのものが持つものではありません。その意味では、概念実在論から少し離れるかもしれません。)

 <事実は問答関数である>というこのアイデアの吟味から、仕切り直して始めたいとおもます。

65 I am stuck in Frege. (20220304)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

更新が遅れてすみません。3回目のコロナワクチンを2月28日に打ったあと熱が出て、2日ほど寝込んでいました。

しかし、更新が遅れたもっと大きな理由は、フレーゲの概念語の意義と指示対象について調べているうちに、袋小路に入ってしまったということがあります。フレーゲにとって「概念語」の指示対象は概念であり、真理値を値とする単項関数であるということは言えるのですが、概念語の意義がよくわかりません。指示対象である概念の与えられ方であるだろうと推測できますが、彼がそれを明示している箇所を見つけることができません。たしかに、フレーゲは次のように言います。ふれ

「ある論文(「意義と意味について」)において私は、さしあたり固有名(ないしはそういったければ単称名の場合だけ意義と意味を区別した。同じ区別を概念語の場合にも行うことができる。」(論文「意義と意味詳論」『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年103)

「固有名は意義を介して、しかも意義を介してのみ対象に関係するのである。

 概念語もまた一つの意義を持たねばならず、科学的使用には一つの意味をも持たねばならない。」(同書111)。

このようにフレーゲは、概念語がBedeutung(指示対象)として概念をもつことに加えて、Sinn(意義)を持つことを明言しているのですが、しかし概念語のSinn(意義)が具体的に何であるのかを語っていません。しかし、よく考えれば、固有名についてもその意義は、指示対象の与えられ方と述べているだけで、それ以上の説明はなかったと思います。

 というわけで、フレーゲは、思想が異なる真である文の、認識価値の違いを、思想の違いで説明するのですが、しかし、前回例に上げた次の二つの文が真であるとき、何が違うのかはよくわからないのです。

「このリンゴは、赤い」

「このリンゴは、バラ科である」

この二つの文が真であるとき、どちらも同一の指示対象(真なるもの)をもちます。この二つの主語は同一の指示対象を持ちます。二つの文の違いは、概念語にあります。「赤い」と「バラ科である」という二つの述語ないし概念語は、異なる概念を指示対象とします。またこれらの意義も異なるはずです。この概念語の違いが、二つの文の意義(思想)の違いになるはずです。前回述べたようにフレーゲは、「一つの真理値に属しているそれぞれの[文の]意義は、[真理値(真なるもの)の]固有の分解方法(eine eigene Weise der Zerlegung)に対応している」(Zeitschrift für Philosophie und philosophische Kritik, NF100, 1892, S.35、[ ]と強調文字は入江の付記)と述べています。

 上の二つの文で言えば、一方は、真なるものを、対象であるリンゴと概念<赤いこと>に分解し、他方は、真なるものを、対象であるリンゴと概念<バラ科であること>に分解することに対応している、ということになります。これは、<文の思想>と<文の指示対象(真理値)の分解方法>の対応関係であって、文の思想が事実と対応しているということではありません。

このようなフレーゲ理解をさらに吟味しようとすると、不明な点が多くてフレーゲを読み直さなくてはならず、泥沼に入ってそこから出られなくなってしまいました。

64 真なる文の述語は何を表示するのか (20220223)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べましたが、フレーゲによれば、異なる真なる判断は、真なるものの諸部分を異なる仕方で分解するのだと思われます。この解釈は、次の引用に基づいています。

「判断とは、真理値の内部で諸部分を区別することである」(『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年82、下線引用者)

「一つの真理値に属するすべての意義は、それぞれの固有の分解方法に対応することになるかもしれない。」(同書、82、下線引用者)

例えば「このリンゴは、パラ科である」という真なる判断が、真なるものの諸部分を区別するとは、「このリンゴ」の指示対象を他の部分から、あるいは真なるもの全体から区別することだと言えそうです。

ところで、次のふたつの文が真であるとしましょう。

「このリンゴは、パラ科である」

「このリンゴは、赤い」

このとき、この二つの文がそれぞれ「固有の分解方法」を持つのだとすると、分解方法の違いは、述語の違いによることになります。フレーゲは、述語の意義と指示対象について、論文「意義と意味詳論」(1892-95)で次のように説明しています。

 述語は、概念語であるとされます。固有名の指示対象が、対象であるのに対して、概念語の指示対象は概念であると言われます(同書、103)。

フレーゲは、概念のBedeutung(指示対象)と概念の外延を区別します。例えば、「これはリンゴである」における「リンゴ」は固有名ではなく、概念語(述語)です。「リンゴはバラ科である」は、正確に言えば、「あるものがリンゴであるならば、それはバラ科である」となります。概念語「リンゴ」の指示対象は、概念であって、その外延とは、区別されます。概念「リンゴ」の外延は<リンゴであるものの集合>です。

フレーゲによれば、「概念は、その値が常に真理値であるような、単項関数なのである。」(104)。例えば概念「リンゴ」は、「( )はリンゴである」という一つの空所を持つ関数なのです。その空所に対象を入力することによって、真理値を出力する関数なのです。

このような概念については、次のことが成り立ちます。

「同一対象の固有名が、真理を損なうことなく互いに代替となりうるのと同様、概念の外延が同じならば、同じことが概念語にも当てはまる。」(104)

「二つの概念語の意味するものが同じであるのは、当の概念に付属する外延が合致するときそのときに限る」(109)

ここで次に3つの文を真であるとしましょう。

①「このリンゴは、赤い」

②「このイチゴは、赤い」

③「このリンゴはバラ科である」

このときこれらの文のBedeutung(指示対象)は同じ真理値「真なるもの」となります。

しかし、意義(思想)は異なりますので、真なるものの「固有の分解方法」は異なるはずです。では、それらはどのように異なるのでしょうしょうか。

①と②は、異なる対象を取り出している。

①と③は、異なる概念を取り出している。

②と③は、異なる対象と異なる概念を取り出している。

フレーゲをこのように解釈してもよいでしょうか。「取り出している」というのは、私のなりの表現ですが、これをどう理解したものでしょうか。次にこれらを考えます。

63 文は何を表示するのか (20220219)

(訳語について:以下では、フレーゲのSinnとBedeutungをそれぞれ「意義」と「指示対象」と訳します。これらは通常は、それぞれ「意義」と「意味」と訳されています。しかし、これでは違いが曖昧である。英訳ではSinnはsenseとかmeaningと訳され、Bedeutungはreferenceとかreferentとかdenotationと訳されます。私はこれに倣って『問答の言語哲学』では、Sinnを「意味」、Bedeutungを「指示対象」と訳しました。ここでもSinn「意味」と訳したいところですが、フレーゲ論文の邦訳を引用したいので、ここではSinnを「意義」と訳します。また邦訳では、Bedeutugnが「意味」と訳されいるのですが、それだと私がこれまで「意味」と呼んできたものとの区別できなくなるので、ここでは「指示対象」と訳することにし、引用する訳文には「意味(Bedeutung指示対象)」と付記することにします。)

前回、論文「思想」(1918)をもとに述べたように、文のSinn(意義)が思想であるとしましょう。では、文にはBedeutung(指示対象)はあるのでしょうか。これについて、フレーゲは論文「意味と意義について」(1892)で述べています。

フレーゲは、文に含まれる固有名を、Sinn(意義)は異なるが、同じBedeutung(指示対象)を持つものに交換したとき、文のSinn(意義)=思想は変化するが、文のBedeutung(指示対象)は変化しないだろうと考えます。そこから彼は、文のBedeutung(指示対象)は、文の真理値であると言います(参照、『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年、80)。

彼は、真理値については、次のように説明します。

「文の真理値とは、その文が真であったり、偽であったりするという事情(Umstand)である。…一方を真(das Wahre)、他方を偽(das Falsche)と名付ける。」80

この場合、

「すべての真なる文は同一の意味(Bedeutung指示対象)を持ち、他方ではすべての偽なる文も同一の意味(Bedeutung指示対象)を持つことになる。」82

「このことから、文の意味においてはすべての個別的なものが消えることがわかる。したがって、我々にとっては、文の意味だけが問題になるのではなく、また、単なる思想のみで認識が与えられるのでもない。思想は意味すなわち真理値といっしょになってはじめて認識を当たられるのである。判断するということは思想から真理値への前進として理解されうる。」82

「このリンゴはバラ科である」と「このサクラはバラ科である」はどちらも真であり、これらの意味(Bedeutung指示対象)は同一です。そうすると、これだけでは、この二つの認識価値の違いを説明できません。この二つの文は意義(思想)において異なります。しかし、彼は、思想を理解するだけで、認識が得られるのではないといいます。

  「このリンゴはバラ科である」

  「このリンゴはバラ科でない」

  「このリンゴは、机である」

  「このリンゴは、机でない」

確かに、これらの文の意義(思想)を理解しても、それだけでは何の認識にもなりません。従って、「このリンゴはバラ科である」と「このサクラはバラ科である」の思想を理解するためでは、この二つの認識価値の違いを説明できません。

そこでフレーゲは、

「思想は意味すなわち真理値といっしょになってはじめて認識を与えるのである。判断するということは思想から真理値への前進として理解されうる。」82

と言います。文の意義(思想)と、意味(Bedeutung、指示対象)すなわち真理値が一緒になって初めて、認識価値の違いを説明出来るというのです。これは、文の思想と真理値が一緒になるとは、判断するということです。前回も引用しましたが、フレーゲは、論文「思想」で次のように述べていました。

  1 思想を把握すること――考えること

  2 思想の真理性の承認――判断すること

  3 この判断の表明-―――主張すること (209)

つまり、思想の真理性を承認することが、判断することです。ここ(「意味と意義について」)では、判断することについて、次のように大変興味深いことを述べています。

「さらに、判断とは、真理値の内部で諸部分を区別することであるとすら言い得る。この区別は、思想に立ち戻ることによってなされる。ゆえに一つの真理値に属するすべての意義は、それぞれの固有の分解方法に対応することになるかもしれない。」82

ところで、構文論的には、語は文の部分です。フレーゲは、これに対応する仕方で、意味論的には、語の指示対象は、文の指示対象の部分であると考えて、次のように述べます。

「ここで私はしかし「部分」という語をかなり特別な意味で使っている。すなわち、私は、語そのものがこの文の部分をなす場合について、語の意味を、文の意味の部分と呼ぶことによって、文の全体と部分の関係を、文の意味にまで移したのである。」82

(フレーゲは、ここでは明示していませんが、おそらく意義についても同様に、語の意義は、文の意義の部分であると考えるでしょう。)

ところで、もし語のBedeutung(指示対象)が、対象であるとすると、文のBedeutugn(指示対象)は、それを部分として含む対象です。そのような対象「真なるもの」は、真なる文に登場するすべての固有名の指示対象を部分として含むことになります。それは物や事実の総体だと言えるかもしれません。

 次回は、フレーゲの「真なるもの」についてのこの解釈の吟味を進めます。(もしこの解釈が正しいならば、フレーゲの議論と「認識の三角形」が整合的である可能性があるでしょう。)