84 概念的実在論と問答 (20230221)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、「概念的実在論」とは、「客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(ST3)、言い換えると、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にある」(ST 54)という主張です。

客観的事実や性質について、例えば「これはXである」と言えば、「これはXではない」とは両立不可能ですし、「Xであること」と「Xでないこと」の区別が前提されているし、その区別ができることが前提されています。したがって、客観的事実や性質について何からの記述ができる限りで、<客観的事実や性質は、他の事実や性質に対して、両立不可能性や帰結の関係にある>と言えるでしょう。

問題は、客観的事実や性質についての両立不可能性や帰結の記述がどういう意味で<客観性>を持っているのか、ということです。

例えば「これはリンゴであり、これはナシではない」「これはリンゴであり、したがってこれは食べられる」などの記述がどのような客観性を持っているのかです。それを実際に食べてみて食べれることを確認し、その味がリンゴの味であってナシの味ではないことを確認することで、これらの記述の客観的正しさを確認することができます。

ではこれらの記述が、<客観的事実や性質>の記述であるとは、どういうことでしょうか。それは、「その事実や性質を確認する人がいなくても、つまりそのリンゴを見る人や、そのリンゴを食べる人がいなくても、それらの記述は成り立つだろう」ということです。別の例でいえば、「ニュートンが生まれなくても、また人類が生まれなくても、万有引力の法則は成立していただろう」ということです。このように、客観的事実については、様相概念(可能、必然、など)を用いて語る必要があります。

概念実在論は、客観的事実についての真理様相語彙をもちいた記述の正しさを主張することです。

(念のために言えば、「」は文や命題を表現し、<>は単なる強調を表現しています。)

 

 先ほど、「それを実際に食べてみて食べれることを確認し、その味がリンゴの味であってナシの味ではないことを確認することで、これらの記述の客観的正しさを確認することができます」と述べました。この確認作業において、私たちは次のような問答を行っていると思います。

「これはリンゴだろうか」「これはリンゴだ」。

 「これはナシだろうか」「これはナシではない」

 「これは食べられるだろうか」「これは食べられる」

このような問答なしに、この確認作業を行うということは不可能でしょう。

では、概念実在論において、疑問の語彙や疑問文の文型は、真理様相語彙と同様に必須なものでしょうか。また問答関係や問答推論の論理的関係は、どのように位置づけられるでしょうか。

 これを検討したいと思います。

83 概念的実在論、客観的観念論、概念的観念論  (20230216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

今回はヘーゲル観念論の3つの段階を説明します。

ブランダムは、A Spirit of Trust (STと略記)で「概念的実在論」を、次のように説明しています。

#「概念的実在論」とは何か

・「客観的世界をつねにすでに概念形式の中にあるものとして理解すること」((ST 3)

・「自然科学が物理的実在として露わにする客観的事実と性質が、それ自体、概念的形式の中にある」(ST3)という主張。

・「世界がそれ自体で客観的に存在する仕方は、概念的に分節化されている、という主張」(ST3)

・「概念的実在論は、世界が客観的にあるあり方は、それ自体で、概念的に分節化されている、という主張である。」(ST54) 

ここで「概念形式の中にある」とは、「実質的な両立不可能性と帰結の関係にあること」(SoT 54)です。(<なぜ客観的世界がすでに概念形式の中にあるといえるのか>については後で考察したいと思います。)

#「二様相的質料形相的概念実在論」とは何か

ブランダムによれば、概念的内容は、二つの形式(客観的形式と主観的形式)をとります。

「主観的形式は、義務論的規範的語彙によって明示化され、客観的形式は真理論的様相的語彙によって明示化されます」(ST80)

このように二つの形式をとることを「質料形相的理解(hylomorphic conception):一つの内容と二つの形式」(ST80)であると言います。(ちなみに、概念内容の客観的形式が質料に対応し、主観的形式が形相に対応するというのではなく、同一の内容(質料)が、二つの形相(客観的形式と主観的形式)をとるということです。)そこでかれは「二様相的質料形相的概念的実在論」(bimodal hylomorphic conceptual realism)を主張します。

#客観的観念論とは何か

ブランダムは、概念内容の客観的形式と主観的形式が、相互的(対称的)意味依存の関係にあると主張します。そしてその主張を「客観的観念論」と呼びます。

「彼[ヘーゲル]は、主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存の背後には、<概念の使用の主観的なプロセスを分節化する概念>と<客観的な概念的な関係を分節化する概念>の対称的な意味依存があると考えています。これが私[ブランダム]が「客観的観念論」と呼んだ教義です。」(ST 365)

(なぜ二つの形式が相互的に意味依存するのかについても、後で考察します。)

#概念的観念論とは何か

「概念的観念論」とは、「概念的実在論」による<二様相質料形相的概念的分節化>の主張と、「客観的観念論」による<客観的概念関係と主観的概念関係の相互的意味依存>の主張を、前提としたうえで、<客観的概念関係が主観的概念関係に依存する>と主張する立場です。

「<客観的概念的諸関係>と<主観的概念的実践とプロセス>の配置全体は、客観性の関係的諸範疇の用語で理解されるのか、それとも主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語で理解されるのか?」(ST369)

という問いに、後者で答えるのが「概念的観念論」です。

「概念的観念論は、二様相の質料形相的概念的実在論と客観的観念論に基づいており、それを前提としています。それらは両方とも、概念的内容の主観的形式と客観的形式の間の対称的な関係を示しています。概念的観念論は、志向的結合の2つの極の間の対称関係のこれらの両方の種類に、この想起的活動の非対称的な優先性というアイデアを追加します。」ST373

(この「想起的活動の非対称的な優先性」がどのようなものであるかについては、後で考察します。)

82再びブランダムの「概念的実在論」について  (20230210)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(3月にブランダムに関する研究会で発表する予定ですので、その準備を兼ねて、しばらくブランダムの概念実在論と問答推論の関係について考えたいと思います。)

このカテゴリーの第56回から65回までブランダムの「概念実在論」をめぐって考察しました。そこでは、ブランダムの推論主義を問答推論主義へと展開しようとするとき、ブランダムの概念実在論をどのように変更する必要があるのかを論じようとしましたが、ブランダムについての勉強不足もあって、十分に論じきれませんでした。現在でもまだ勉強不足なのですが、もう一度その問題を論じたいと思います。

まず、ブランダムの『信頼の精神』(A Spirit of Trust、ST)の大枠を確認したいと思います。この本は、ヘーゲルの『精神現象学』の「意味論的読解」(ST p.3)であり、それの「合理的再構成」(ST, p.1)を意図するものです。「意味論的読解」とは、「概念内容」を中心とピックと考える読解です。「合理的再構成」については次回に「概念的観念論」を説明するときに説明します。

ブランダムは、この本で、ヘーゲルの観念論が次の3つの段階(概念的実在論、客観的観念論、概念的観念論)からなると考えます。この構造が、意味論的読解の大枠です。

次にこの3段階を説明します。

81 オペラント行動の失敗から意識が発生する(空想的)物語  (20220619)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「どのようにして意識が発生するのか」という問いへの答えは、物語形式になるでしょう。その物語の証明ないし正当化が必要になりますが、とりあえず、意識の発生の「整合的な物語」(つまり現在の私の知識と矛盾しない範囲で、最も在りそうな物語、空想、妄想、推測、思弁の類)を作ってみたいとおもいます。

オペラント行動は、探索の一種です。探索の失敗から探索の意識が生じるだろうと推測します。

オペラント行動の失敗については、前に次のような場合に分類しました。

(1)弁別刺激の錯覚や誤解の場合

(2)行動の間違いの場合

(3)強化刺激の錯覚や誤解の場合

(4)弁別刺激と行動と強化刺激の三者の結合関係の誤解の場合

これらは、行動の失敗の原因の分類になります。一般的に行動の失敗の原因としては、事実の誤認(知覚の失敗)と行為能力の誤認が考えられますが、原因が何であれ、行動に失敗したときには、もしそれが意識的な行動であった場合には、失敗を切っかけとして、「…しよう」と意図していたことを意識することになるとおもわれます。オペラント行動の失敗もまた、上記のようにいろいろな原因によって生じるでしょうが、原因が何であれ、失敗を切っかけとして、「…しよう」と意図していたことを意識することになるとおもわれます。ただし、それはもともと意識をもつ主体の場合です。

前に、知覚が意識されるのは、探索に対する答えとしてであろうと言いました。行動が意識されるのも、探索に対する答えとしてであろうと思います。ただし、その場合に、その探索が意識されていることが必要です。意識的な探索の答えとして、知覚や行為(ないし行為内意図)が意識されるのだろうと思います。

では、探索が意識されるのは、どのような場合でしょうか。探索が意識されるのもまた、探索が失敗した時だろうと思います。前に、知覚の失敗によって、知覚を意識すると言いました。それは、知覚の失敗によって探索が失敗し、探索が意識的になるので、知覚の失敗が意識され、その結果知覚が知覚として意識されるのだろう、と推測します。また前に行動の失敗によって、行為内意図を意識することになるとどこかで述べたような気がします。行動の失敗によって、探索が失敗し、探索が意識的になることによって、行動の失敗が意識され、意図(行為内意図)が意識されるようになるのだろう、と推測します。

このように、意識の発生は探索の失敗、オペラント行動の失敗によると推測します。しかし、オペラント行動に失敗しても、鶏やネズミや猫や犬が、意識を持つようには見えません。もし鶏やネズミや猫や犬がオペラント行動に失敗しして、意識的になるのならば、失敗を何度が経験すれば、最初から意識的にオペラント行動や試行錯誤をするようになるでしょう。意識的に試行錯誤するとは、考えてから行動(試行)するということです。しかし、鶏やネズミや猫や犬は、(私には)試行の前に考えているように見えません。

意識をもたない動物がオペラント行動をするときに、試行錯誤するとき、それは意識なしの試行錯誤(意識なしの探索)です。つまり、不快な状況にある時それを変えようとして、動き回り、たまたまある行動の後に快適な状態になったとすると、その時のきっかけになった行動を行うようになるというのが、オペラント行動の始まりだろうとおもいます。

これに対して意識的に探索する動物が、試行錯誤するときには、おそらく目的を意識し、状況を意識的に知覚し、そこから可能な候補を一つ(場合によっては、複数)考えて、それを試行するでしょう。つまり実際に行動にとりかかる前に、一旦停止し、その後で行動を始めるのではないでしょうか。(それは、ちょうど突然の物音や光に静止し、その方を注視する「定位反射」に似ていると思います。下等動物では、定位反射の後に続くのは、別の反射行動でしょう。たとえば、外敵をみつけたなら逃げる、などです。)では、猫や犬は、ソーンダイクの試行錯誤の実験において、試行にとりかかる前に、「一旦停止」するでしょうか。ネットにある動画では、それが編集されているために、そのあたりがよくわかりません。

ただし、オペラント行動の失敗から意識を獲得する動物はいます。少なくとも人間はそうですし、マカクやチンパンジーもそうかもしません。猫やイヌも、可能性は低いですが、そうかもしれません。しかしオペラント行動をするが、意識を持たない動物がいます。例えば、鶏など。オペラント行動の失敗から意識的になるかどうかどうかを分けるのは、おそらく脳の構造の違いにあるのだろうとおもいます。では、意識を持つためにはどのような脳の構造が必要でしょうか。次回は、これについて(思弁的に)考えてみます。

80 試行錯誤とオペラント条件付け  (20220616)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(オペラント行動の失敗について考察中ですが、今回は、ソーンダイクの試行錯誤論への寄り道です。)

ソーンダイクの試行錯誤理論の実験で、檻に閉じ込められた犬が、檻から出るために、何をしたらよいのかわからないとき、まずいろいろ動きます。そのなかでたまたまレバーに前足がかかって、檻の扉があきます。この経験から、犬は、レバーを引いて、檻の扉を開けようとするようになります。そして、何度もするうちに、レバーの引き方が次第に上達して、より少ない試行と時間で扉を開けられるようになります。この過程で、レバーをひく行動に上達します。試行錯誤の中で、必要な行為や知覚の精緻化が生じています(この実験については、https://www.youtube.com/watch?v=y-g2OmRXb0gをご覧ください)。

(試行錯誤は、より原始的な生物が、刺激の方向性が解らないとき、よりよい状態を求めて、ランダムに動き回るという「動性(kinesis)」と似ています。そのとき、たまたまその行動がより快適な状態をもたらすこともあるでしょうが、そこから学習することはありません。学習する高等な動物は、その成功の経験の痕跡(記憶)をもとに、オペラント行動するようになったのでしょう。)

犬が檻から出ようとしていろいろ行動するのは、檻からでたいと欲求しているからであり、そのいろいろな行動は欲求を実現するための試行錯誤であり、探索だといえるでしょう。

つまり、試行錯誤(trial and error)は、失敗から学ぶ(learn by mistake)ということでしょうが、もちろん成功から学ぶことも含まれています。

スキナーのオペラント行動論は、ソーンダイクの試行錯誤論の影響を受けていると言われています。オペラント行動には、成功から学ぶ場合と、失敗から学ぶことの両方があります。つまり、オペラント行動もまた、失敗と成功という行動の結果から学ぶことです。

では、オペラント行動と試行錯誤は何が違うでしょうか。試行錯誤理論にかけているのは、行動のきっかけとなる弁別刺激への明示的な言及ではないかとおもいます。ソーンダイクのイヌの実験で、レバーを引くという行動が起きるまえには、檻の中に閉じ込められていることの知覚、レバーの知覚などがあります。この二つが弁別刺激になっていると考えることができます。

このように試行錯誤論には、弁別刺激への言及がないのですが、しかし他方で、オペラント行動論には、試行錯誤過程、つまり適切なオペラント行動の発見の過程への言及がありません。オペラント条件付けにおけるこの弁別刺激は、行為を誘発する刺激(条件反射における誘発刺激のようなもの)ではないとされます。しかし、弁別刺激が与えられた時(たとえば、檻に閉じ込められたことが解った時)に、試行錯誤したり、過去の行動の結果から学んだりするのは、ある刺激や状態を求めているからではないでしょう。つまり、弁別刺激とは別に、ある刺激や状態を求めているという条件がなければ、そのための探索をするということはありえません。それがなければ、試行錯誤も、オペラント行動も成立しません。確認するまでもないことかもしれませんが、試行錯誤もオペラント行動も探索です。

次回は、オペラント行動の失敗から意識が生じるという話に戻りたいと思います。

79  注:自然の斉合性原理と走性や無条件反射(20220613)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(オペラント行動の失敗について考察中ですが、自然の斉合性原理と走性や無条件反射の関係について注を付けさせてください。)

走性や無条件反射は、過去の経験の痕跡(記憶)を必要としないので、自然の規則性ついての予期を必要としません。したがって、それらの失敗は、事実と感覚刺激とのズレの意識を生じさせず、もっぱら事実が変化した場合として処理されるだろうと推測ます。

ただし、走性や無条件反射もまた、自然が規則的であることによって、生存に有利に機能するメカニズムです。なぜなら、走性や無条件反射は、刺激に対してつねに同じ仕方で反応するからです。刺激に対して常に同じ仕方で反応することで、良い結果が得られるとみなすことは、自然の規則性を想定しています。ただし、これらの生物は、刺激に対して常に同じ仕方で反応することでよい結果が得られると見なしているのではありません。刺激に対してつねに同じように反応する生物が、自然選択で生き残ったということです。

同じ刺激に対してつねに同じように反応することが可能になるためには、あたえられた刺激を他の刺激と同じ刺激としてみなす必要があります。

無生物(たとえばビリヤードの球)も同じ刺激に対して同じように反応します。これは、無生物がある法則に従っているということです。物理法則や化学法則に従っているということです。

走性や無条件反射の生物が、同じ刺激に同じように反応するというのは、物理法則や化学法則とは少し異なります。正の走光性は、光の刺激が来たら、そちらの方向に移動するという反応をするということです。

生物の法則を物に当てはめることは、アニミズムであり、物の法則を生物に当てはめると唯物論ないし物理主義になります。ダーウィンは、唯物論+「自然選択」で生物の法則を説明しました。自然の規則性を想定した反応が、生存に有利であったということです。しかし、なぜそれは生存に有利だったのでしょうか。

もし自然に規則性があるのなら、その規則性を想定した上で行動することが、自然の規則性を想定しない行動よりも、生存に有利になるでしょう。なぜなら、ある刺激に対して生存に有利な反応があるなら、同様の刺激に対して同様の反応をすることがまた生存に有利なものになるからです。自然の規則性を想定する反応が、生物の生存に有利な反応であったとすると、そのことは自然に規則性があることの証左となります(証明にはなりません。p→r,p┣rは、rの証明になりますが、p→r、r┣pは、pの証明ではなく、pの証左となるだけです)。

78 オペラント行動の失敗による意識の発生 (20220611)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#動物の行動の進化をつぎのように分けてみたいと思います。

1 遺伝的行動のみ段階:走性や無条件反射の段階

2 学習行動の段階(1):条件反射とオペラント条件付けの段階

3 学習行動の段階(2):推論による行為の段階

3の推論による行為の段階のためには、概念形成が必要であり、そのためには知覚や行為や欲求を意識すること、つまり事実と区別された知覚表象、行為の表象、欲求の表象が必要になると考えます。つまり、3の段階に進むためには、2の段階において、知覚表象、行為表象、知覚表象が成立する必要があります。

これらの表象が成立するのは、オペラント行動の失敗をきっかけにしているのではないかと推測します。なぜなら、錯覚などの知覚の失敗において、事実と知覚の区別が意識することになり、同時に知覚を知覚表象として意識することになると推測できます。

オペラント条件付けは、弁別刺激(ブザー音)とオペラント行動(レバー押し)と強化刺激(餌が出てくる)という3つの「三項随伴性」として成立する。ちなみに、「弁別刺激」と「強化刺激」は次のようなものです。

「弁別刺激」は、「オペラントに先行・同伴するけれども、誘発刺激がレスポンデントを誘発するような形ではオペラントを誘発することができないような刺激である。そのかわり、弁別刺激は、以前、その刺激の下で、強化子の後続により出現格率が高められたオペラントがある場合、そのオペラントの出現率を増大させる。」7

「強化刺激(reinforcing stimuli)または強化子(reinforcers)という刺激クラスは、反応出現の後に起こる環境事象である。強化刺激はそれに先行した反応の出現頻度を増大させる。」7

・オペラント行動では、良い結果が生じることによって、行動が強化され、良い結果が生じないことによって、行動が弱化される。そこで、オペラント条件付けでは、行動の結果となる刺激を「強化刺激」と呼ぶ。

#オペラント行動の失敗の分類

オペラント行動の失敗は次のような場合に分類できるでしょう。

・弁別刺激の錯覚や誤解の場合

・行動の間違いの場合

・強化刺激の錯覚や誤解の場合

・弁別刺激と行動と強化刺激の三者の結合関係の誤解の場合

ここではわかりやすい「弁別刺激の錯覚」の場合を考えてみたいとおもいます。

#知覚の失敗

一般に知覚に失敗するとは、見間違いや見落としをすることです。では、それに気づくのは、どういうことでしょうか。例えば、蛇を縄だと見間違えたとき、その見間違えに気づくのはどのようにしてでしょうか。

縄だと思っていたものが、蛇であると分かるようになるという場合に、次の二つの考え方があると思われます。

①<事実は一定であり、見ていた対象は蛇であったのであり、それ縄だと見ていたが、蛇だと正しく見るようになったのだ>

②<事実が変化したのであり、縄であったものが蛇になったのだ>

➀は知覚が間違っている場合であり、②は正しい知覚の場合です。

ここで、どちらの考え方をするかを決めるのは何でしょうか。

➀の場合には、<縄であるものが蛇にかわることはない(ほとんどない)>と考えるのでしょう。

②の場合には、<縄であるものが蛇に変わることは、有り得る(少なくとも、見間違いをすることよりも可能性が高い)>と考えるのでしょう。

私たちは多くの場合、対象そのものを見ているのであり、知覚の変化は、対象の変化である、と考えます。例えば、私たちが夕日が山の向こうに沈むのを見る時、知覚が変化するのではなく、対象が変化すると考えますが、それは、太陽が西に沈むことが自然法則に合致していると考えるからです。

それに対して、この縄が蛇に変わる例では、①の理解が多いように思います。それは、縄が蛇に変わることは、自然法則に反すると考えるからでしょう。つまり、知覚が間違えたと考えるのためには、知覚の対象(自然)についての一定の理解が必要なのです。

見間違いをしたときに、事実と知覚表象を区別するためには、自然のある規則性の理解が前提として必要なのです。条件反射やオペラント行動は、過去の経験がくりかえされるということを前提しています。したがって、これらは、自然の規則的な振る舞いについての予期(これは当初は心的な予期ではないはずです)を学習として獲得しているはずです。したがって、行動が失敗した時、自然のある規則的な振る舞いの予期に依拠して、知覚が間違っていであることへの気づき、つまり事実と知覚の区別への気づき、知覚が知覚表象であることの気づきが生じるだろうではないでしょうか。

走性や無条件反射は、過去の経験の記憶を必要としないので、自然の規則性ついての予期を必要としません。したがって、それらの失敗は、事実と感覚刺激とのズレの意識を生じさせず、もっぱら事実が変化した場合として処理されるだろうと推測します。

77 オペラント行動における学習と探索 (20220609)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

スキナー箱のネズミは、ブザーが鳴ったあと偶然にレバーを押した後に餌が出てくることを何度が経験することによって、ブザーが鳴ったあとにレバーを押すことによって餌を手に入れることを学習します。この学習は、反復によって強化されます。これがオペラント行動の代表例です。ところで、ブザーが鳴ったあと偶然にレバーを押せば、餌が出てくることを何度が経験した後で、ネズミが、ブザーが鳴った後でレバーを押したとき、それは「餌を手に入れるためであった」と言えるようにも思われますが、実際にネズミが「餌を手に入れよう」と思うのかどうかよくわかりません(ネズミは言語を持ちませんから、言語なしにそのように思うことは、おそらく不可能でしょう)。ただそう思っているのように人間に見えるだけです。もっと詳しく言えば次のように見えるのです。

<ネズミは、餌を手に入れたいと思っており、「どうすれば、餌が手に入るだろう」と思っており、それゆえに、ブザーがなったとき、前にそうだったようにレバーを押せば、餌が手に入るかもしれない、とおもって、レバーを押した>

しかし、もしネズミが実際にこのように考えて、レバーを押したのだとすると、それはオペラント行動ではありません。なぜなら、この場合のレバーを押す行為は、推論によって行われているからです。

 オペラント行動は、探索に見える行動(見かけ上の探索行動)を行っているだけです。しかし、走性や反射が見かけ上の探索行動に見えるのとはことなり、それらよりも一層本当の探索行動に近づいているように見えます。走性や反射との大きな違いは、その行動が学習によって成立することです。オペラント行動を学習するその学習過程が、探索に見えるのです。

 オペラント行動は、行為を学習しているように見える「見かけ上の学習」である、ということは出来ません。なぜなら、オペラント行動は、遺伝的に決定した行動ではないからです。ところで、オペラント行動が「見かけ上の学習」でなく、本当の学習であるとすると、それはまた「見かけ上の探索」でなく、本当の探索であると言えるのではないでしょうか。

本当の探索行動であるいうことを妨げるのは、そこに推論が行われていないことでした。オペラント行動と推論による探索の間には、感覚刺激や知覚表象や欲求の意識の有/無の違い、言語を持つ/持たないの違いあります。

 次に、感覚刺激、知覚表象、欲求、などについての意識が、どのように発生するのかを考えたいと思います。

76 走性と無条件反射とクオリア (20220607)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(オペラント行動を考察するまえに、走性と無条件反射における外部刺激についての補足します。)

走性とは、方向性を持つ外部刺激に対する動物の反応です。前々回話したように、ウジは負の走光性をもちます。ウジが明るさを「感じている」と言うことはできないでしょうが、明暗の刺激に反応していることは間違いありません。走性を引き起こす外部刺激には、明るさとか、水とか、水流とか、温度とか、湿度などがありますが、もしこれらを感じるとしたら、その感覚内容な非常に単純なものであり、クオリアと呼ばれているものにあたります。

脊椎動物の無条件反射(脊椎反射)もまた、それを引き起こす刺激は単純なものであり、脊椎反射では、脳を介さずに(つまり感覚刺激が脳に伝わって、そこで感覚として感じられることを介さず)行動が行われているので、刺激が感じられる前に反応が行われているのですが、しかしもしそれが感じられたとしたら、その多くはクオリアとみなされている非常に単純な感覚になるでしょう。

これらの走性や無条件反射の外部刺激は、一定の反応を引き起こすのですから、機能主義で説明できます。私は、ギルバートハーマンが、クオリアを機能主義で説明することに賛成します(ハーマン「経験の内在的質」)。もちろん、走性や反射を引き起こしている刺激を発達した動物が脳で感じるときに持つことになるであろう(走性や反射より以上の)機能を明示できなければ、いわゆるクオリアを機能主義的に説明したことにはならないのかもしれません。ただし、クオリアを経験の対象の性質だとするならば、走性や反射を引き起こす外部刺激はクオリアだといえるでしょう。クオリアは、対象の性質ですが、動物にとっては、その性質は動物の探索に相関して現象する性質だといえます。

 動物の進化における初期の外部刺激は、クオリアに相当するものであり、それは明確な機能をもっていました。それは「見かけ上の探索」に対する答え(外部刺激)として成立し、機能主義で説明できそうです。

75 オペラント行動は、探索の始まりである (20220605)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

走性の場合にも、動性の場合にも、運動と感覚刺激は結合しており、その運動は快適な環境を求める探索行動だと説明しました。

走性において運動と感覚刺激は結合しており、その運動は、快適な状態を探索する行動のように見えます。しかし、それは探索しているように見える行動であって、通常の意味で探索しているのではありません。「通常の意味の探索」とは、<求める対象を表象し、その対象を見つけようと意図しつつ、その対象を見つけようとし、その対象を見つける>というプロセスです。これに対して、走光性のために、光源の方に向かう昆虫は、光源の方に向かおうと意図して、向かっているのではありません。それは光源の方に向かおうとしているように見えるだけです。それは、お掃除ロボットがごみを集めようとしているように見えるのと同じです。

走性よりも高度な行動としては、無条件反射があります。ただし、無条件反射は、脊椎反射であって、刺激は脳を経由しないで反射行動になります。刺激は脳で感覚として感じられるのだとすると、無条件反射は、刺激に対する反応であっても、いわゆる「感覚」に対する反応ではありません。走性は、方向性を持つ刺激に対する反応なので、刺激の受容器があるのですが、それが受け取る刺激を「感覚」と呼んでよいかどうか迷います。少なくとも痛みを感じるというような感覚ではないだろうと思われます。たんに刺激、あるいはせいぜい感覚刺激と呼ぶのがよいかもしれません。

無条件反射よりも行動な行動として、条件反射とオペラント行動があります。この二つは次のような関係にあります。条件反射は、過去の自己に生じた出来事・経験の痕跡(ないし記憶)を必要とします。オペラント行動は、過去の自己の行動とその帰結の痕跡(ないし記憶)を必要とします。これらの過去の痕跡(ないし記憶)は、脊椎ではなく、脳にあると思われます。それゆえに、それらを引き起こす刺激は、脳で処理されており、感覚ないし知覚として機能しているかもしれません。犬が、「お手!」という誘導刺激に対してお手(反応)をしたときに、角砂糖をもらった(結果)、という記憶が、しつけの成立には不可欠ですが、その場合、角砂糖の記憶は、甘さの感覚として記憶されているかもしません。

下等な動物の行動は、遺伝的に決定されており、学習による行動が始まるのは、条件反射やオペラント行動からです。学習することは、探索することです。ちなみに「高等動物が示す行動の内、レスポンデント(条件反射)の占める割合はわずかであり、大部分がオペラントである」(レイノルズ著『オペラント心理学入門』浅野俊夫訳、サイエンス社、1978年、p. 9)ようです。したがって、探索していると見える「見かけ上の探索行動」ではなく、本来の探索行動は、主としてオペラント行動に始まると言えそうです。

一方で、オペラント行動において探索が始まると言え、他方で、オペラント行動において、感覚ないし知覚が始まると言えるとすれば、この二つには深い関連があるのではないでしょうか。オペラント行動における、探索と感覚・知覚の関係をもう少し考えたいと思います。