65 意識の起源は難問です  (20230201)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

意識の起源はやはり難問です。

現在、意識の発生について次のことを推測しています。

・意識することは、自分を意識することである

・最初の自分の意識は、他者に見られることによって生じる

意識の発生は、また次の事柄と結びついているだろうと推測します。

・行為と認識の相対的な分離(知覚のエナクティヴィズムは、知覚が行為と不可分に結合していることを主張します。それは<知覚は、行為の仕方である>と考えます。これを踏まえて言えば、ここでいう<行為と認識の分離>は、<行為と可能な行為の仕方との分離>です。)

・認識が変化しても世界は変化しないということ

・認識と世界の分離

・認識が間違う可能性があること

しかし、現在のところをこれ以上議論するには準備不足なので、最近の神経科学の仕事をもう少し勉強してからこのテーマに戻りたいとおもいます。 

この後は、3月にある研究会で、ロバート・ブランダムの「概念的実在論と問答推論」の検討を発表する予定ですので、その準備を兼ねて、カテゴリー[問答の観点からの認識]に移って、「概念的実在論」について考察したいと思います。

64 相互覚知の一歩前、意識の発生の一歩前  (20230127)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「Aが、Bが川を見ていることを見る」は、多義的です。

その多義性は、「Bが川を見ている」の二義性に由来します。

ある意味では「Bが川を見ている」は、Bが視線を川に向けているという、Bの身体的行動を表現しています。他の意味では「Bが川を見ている」は、Bの心の働きを表現しています。この場合、見ている対象は、心的にイメージされている対象です(川=Bの心的イメージ、ではありません。川=Bが心的イメージで志向している対象、です)。

前者で理解するとき、<Aが、Bが川を見ていることを見ること>は、<AがBの身体行動を見ること>になります。

後者で理解するとき、<Aが、Bが川を見ていることを見ること>は、<AがBの心の働き(心的イメージで対象を志向しているこ)を見ること>になります。この場合のAによる<見ること>は、眼で対象を見ることではありません。なぜならBの心の働きは眼では見えないからです。

ここでのAによる<見ること>は、<Bが川をその心的イメージで志向していること>を心的にイメージして、それが事実であると推測することだろうと思います。このとき、A自身もまたその川の心的イメージを持ち、そのイメージされている川が存在すると推測することが必要です。なぜなら、さもなければ、Bが<川の心的イメージ>でその川について考えていることを理解できないからです。

ここでは少なくとも、Aが、<Bが心的イメージを持つという心的イメージ>をもつことが必要です。そして、他者が心的イメージを持っているとイメージするためには、そのまえに心的メージを理解していなければならないでしょう。つまり、自分自身で何かについての心的イメージを持ち、そのことに気づいていることが必要だろうと推測します。

以上を踏まえて次に、互いに見合うという場合について考えたいと思います。

#相互覚知の一歩前

AとBの目があい、互いに見合ったとします。これは、<AがBを見て、同時に、BがAを見る>ということでだけではありません。<Aが、BがAを見ていることを見て、同時に、Bが、AがBを見ていることを見る>ということです。

これは上の例で見たように多義的です。

<Aが、BがAを見ていることを見る>の部分である<BがAを見ている>の<見ている>は、二義的です。つまり視線を向けるという身体的行動の意味と、心の働きとしての見ること(つまり、Aの心的イメージをもち、それの対象であるAが存在すると想定すること)という意味を持ちます。

<Aが、BがAを見ていることを見て、同時に、Bが、AがBを見ていることを見る>に4回登場する「見る」をすべて、前者の身体的行動の意味に理解するとき、相互覚知は成立していません。4回登場する「見る」をすべて、後者の心の働きとして理解するとき、相互覚知が成立していると言えそうです。

この前者の相互に見合うことから、後者の相互覚知へどのようにしてジャンプするのでしょうか。

<自分が心的イメージを持っていることの意識は、他者に見られることによって生じるだろう>ということが私の推測です。サルトルは、他者に自分を見られるときに、羞恥を感じるといい、熊野純彦さんは、Aが自分の愚かな行為をBさんに見られて羞恥を感じるとき、Aは、Bが見たAさんの愚かな行為について羞恥を感じるのだと解釈しています(熊野純彦『サルトル』)。これにならって、人は、他者に見られることによって、自分の意識(自分が持っている心的イメージ)に気づくのだろうと、推測します。なぜなら、自分の身体が他者に見られているのと同様に、自分の心のイメージまた他者に見られている、と考えることが、人にとっては原初的なことだと推測するからです。

63 相互覚知の諸段階  (20230123)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(発達心理学では、幼児と大人と対象からなる三項関係としての共同注意については多くの研究がありますが、対象を介しない幼児と大人の二項関係としての「相互覚知」についてはあまり研究されていないようです(私の乏しい知見の範囲内で)。あるいは、私は共同注意と相互覚知を区別しているますが、発達研究においては、相互覚知もまた共同注意の一種として扱われているのかもしれません。これについては、もうすこし調べてみる必要があります。)

幼児と大人の間の「相互覚知」がいつ始まり、どのように発達するのか、などについては私にはよくわかりませんが、つぎのような記述があります。

「乳児は誕生直後から、人が放つ感覚刺激に対して鋭敏に反応する。他者が顔を見合わせて語りかけようとするとき、乳児は視線を相手の顔に向け、全身に緊張感をみなぎらせる。一方、出産直後の母親もまた、我が子に対して高い関心と配慮を保持しつづける。乳児は自らが保有する人指向特性と、母親の間主観的な応答特性に支えられて、誕生直後から母親との交流を能動的に開始させる。やがて生後2か月になると、乳児の視線と母親の視線はより一層確実に出会うようになる。こうした母子の体面的交流は、見つめあいや目そらし、母子の交互の発声といった一定のリズム構造を組み込みながら、数カ月にわたって濃密に持続される。」(大藪泰『共同注意』川島書店、2004、p.1)

乳児が2か月ころに母親と見つめあうようになるというこの現象は、乳児の最初の相互覚知かもしれませんが、幼児とチンパンジーに見られるという身振りや表情の模倣の一種のようなきもします(これについて、もしわかる方がおられたら教えていただければありがたいです)。

さて、ここから本日の本論です。相互覚知には、つぎのような諸段階を区別できそうです。

(1) 互いの存在の相互覚知:互いに相手の存在に気付いていることを相互に気づいている

この相互覚知は、基本的なものであり、以下のすべての相互覚知に伴います。

(2) 互いの対称的関係の相互覚知:

例えば、互いの同類性の相互覚知:例えば、互いに人間として、互いの存在に気付いていることを相互に気づいている。

例えば、互いに同一の目的の実現を目指していることに、互いに気づいている。

例えば、同一の目的の実現が、両立不可能であるとき、互いにライバルであることに、互いに気づいている。

例えば、同一の目的の実現が、両立可能であるとき、互いに同士であることに、互いに気づいている。

例えば、互いに対称的な感情の相互覚知:例えば、愛し合っていること、憎みあっていること、などの相互覚知。

(3) 互いの非対称の関係の相互覚知:A

例えば、AとBが、AがBの親であり、BがAの子であることを、互いに理解していることを互いに気づいていること

#相互覚知と共有知についての仮説

これらの相互覚知は、非言語的な気づきです。もし共有知を言語的なものだとすると、共有知とは、言語化された相互覚知だといえるでしょう。私の推測ないし仮説は、意識の始まりは、非言語的な相互覚知であり、言語の始まりは問答ですが、その問答は共有知として成立すると考えます。

#意識の発生

Aが意識を持つとは、Aが対象Oを見ているとき、自分が対象Oを見ていることに気づくということだろう。これは自分の行動に気づくということではない。例えば、自分が歩いているときに、自分が歩いていることに気づいている、ということではない。自分が対象Oを見ていることに気づくということは、自分の心的な働きに気づくということである。では、自分の心的な働きに最初に気づくのは、どのような場合でしょうか。

クマが川を見ているとき、Aはそのことに気づくということがあります。これはまだ、Aはクマが川を見ていることを意識したということではありません。Aが、クマが川を見ていることを見ていることに気づいたとき、Aは、クマが川を見ていることを意識している、と言えるでしょう。

相手がクマではなく人間だとします。

Bが川を見ているとき、Aはそのことを見ているということがあります。これはまだ、Aは<Bが川を見ていること>を意識したということではありません。なぜなら、ここでは、AはBの行動を見ているだけだからです。Aが、<Bが川を見ていることをAが見ていること>に気づいたとき、Aは<Bが川を見ていること>を意識している、と言えるでしょう。なぜなら、ここでは、Aは<Bの行動を見ている>という心の働きを意識しているからです。

では、Aが、<Bが川を見ていることをAが見ていること>に気づく、ということは、どのようにして生じるのでしょうか。このことは、Bが川を見るのではなくAを見るときに生じやすくなるでしょう。

次回、この続きを考えます。

62 相互覚知と予測誤差最小化メカニズム  (20230118)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回述べたように、個人の発達における初語は、食べ物を指す言葉、あるいは近くの重要な他者を指す言葉(名前)であることが高いようです。したがって、人類史における言語の誕生における初語は、食べ物を指す言葉、あるいは近くの重要な他者を指す言葉(名前)である可能性が高いと推測します。重要な他者の注意をひくためにその人を指す言葉を用い、その人の注意を食べ物に向けるためにそれを指す言葉を発するのだろう、と推測します。

個人の発達において、共同注意の成立は言語の習得に先行するようですが、人類史における共同注意の成立もまた言語の成立に先行するだろうと、推測します。

では「共同注意」とは何でしょうか。これについて、次のように考えます。共同注意とは、二人(あるいはそれ以上)の人間が同一の対象に同時に注意を向けることですが、二人がたまたま同一の対象にたまたま同時に注意を向けているだけでは、共同注意が成立しているとは言いません。たとえ偶然に二人が同一対象に同時に注意を向けているのだとしても、二人がそのことに共に気づいていれば、成立しているといえるでしょう。他方で、AとBが対象Oに共同で注意していることが成立するためには、二人がともに、同一対象に同時に注意を向けることを<意図して>注意を向けたのである必要はありません(以前に言及したように、明確な意図が成立するのは共同注意が成立した後です)。したがって、<AとBが対象Oに共同で注意していることは、二人が、偶然であれ意図的であれ、同一対象に同時に注意を向けており、そのことに共に気づいているということです。>

もし「共同注意」をこのようなものと見なすならば、その眼目は「共に気づいている」ということにあります。「共に気づいている」ということの最も基本的な形態は、おそらく二人の人間が互いに見合っていることに気づいていることです。ベイトソンはこれを「相互覚知」(mutual awareness) と呼んいます。

「二者システムでは新たな統合が起こるのだ。集団が決定因となるには、参加者が相手の知覚に気づいていることが必要である。相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが知覚している事実をわきまえているとき、この相互覚知は、参加者二人のすべての行為と相互行為の決定因となるのである。このような覚知が樹立すると同時に、こちらと相手で決定因集団を構成し、この大きな実在における集団プロセスの特色が二人を統制するのである。ここでも共有された文化的前提がモノをいう。」(グレゴリー・ベイトソン&ジャーゲン・ロイシュ『コミュニケーション』佐藤悦子、ロバート・ホスバーグ訳、思索社、1989(原書1951)、224)

(ベイトソンは「進化のこの段階は、ホ乳動物、霊長類と家畜にしかみられないものだろう」と述べていますが、その詳しい説明はありません。)

ところで、前に(第59回)に「共同注意」と「共有知」は予測誤差最小化メカニズムによって構成されると述べましたが、「相互覚知」も同じように説明できると思います。

<私は、自分と他者が互いに見合っているという仮定をし、そこから帰結することを予測する。その予測が、現実の現象とずれていれば、その誤差が縮小するように仮定を修正する、というプロセスを繰り返すことによって、相互覚知を実現しようとする>。

このメカニズムは、(まだ意識も意図も明確には成立していない段階なので)意識的意図的なプロセスではありません。ここでは、予測誤差最小化プロセスは、問いに答える意識的意図的なプロセスであり、予測誤差最小化メカニズムは、探索する無意識的非意図的なメカニズムであると区別しておきます。ここでの予測誤差最小化メカニズムでの「仮定」とは、(あえて言語化すれば)「共に気づいているのだろう」というものですが、このメカニズムはその仮定を確認しようとするプロセスであり、その意味では(あえて言語化すれば)「共に気づいているのだろうか?」という探索です。

前にも述べたように、言語は問答として発生すると考えますが、意識はおそらく探索に対する発見の一種として成立するだろうと考えます。「一種」というのは、原始的な生物もまた探索発見をするからです。意識を発生させる探索発見は、おそらく探索と発見が分離しているような探索発見です。探索と発見の分離は、おそらく同時に、行動と認知の分離でもあるだろうと推測します。

(この推測の正しさを確かめるには、この推測を仮定して、「予測誤差最小化プロセス」にかけるしかないだろうと思います。先走って言えば、科学研究もまた、この「予測誤差最小化プロセス」の一種だと推測します。)

 次回は、相互覚知の諸段階について考えたいと思います。

61 共同注意を促すための発声から言葉が誕生した (20230111)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(これまで「予測誤差最小化メカニズム」について語るとき、「予測」の使い方があいまいで、K・フリストンの使い方と違っていたようですので、訂正し、明確にしておきたいと思います。予測誤差最小化メカニズムでは、モデルを「仮定」ないし「想定」し、そのモデルから感覚刺激を推論によって「予測」します。その「予測した」感覚刺激と現実を比較して誤差があれば、「仮定」ないし「想定」していたモデルを修正し、その修正したモデルから生じる感覚刺激を推論によって「予測」し、それを現実の感覚刺激と比較するということを繰り返すします。つまり「予測」とは、モデルを前提としてそれから何が帰結するかを推論(能動的推論)すること、あるいはその推論の結論です。)

前回の課題「言語が発生するときの最初の共有問答は、どのような内容になるのでしょうか」について考えたいと思います。まずは、個人の発達史における最初の共有問答について。

子供が初語を使うとき、それが子供の最初の問答です。子供の「初語」について、つぎのような調査がありました。「子どもの「初語」はいつ?初めての言葉にまつわるエピソード」(https://iko-yo.net/articles/1770)によると

ちなみに初語発生の年齢は、

とのことです。

幼児の初語は、食べ物を指す名詞(「まんま」)、あるいは最も重要な大人を指す名詞(「ママ」「パパ」のようです。これ以外の名詞も初語になりますし、名詞以外のものが初語になることもあります(私の子供の初語は、箸が転がって食卓から落ちた時に発した「落ちた」でした)。これらの単語の発話は、一語文の発話だと考えられます。「まんまが欲しい」「これはまんまだ」「マンがある」「これはまんまですか」などの意味に理解できます。「ママ、見て」「ママ、来て」「あなたはママです」「あなたはママですか」などの意味に理解できます。「落ちた」の場合には、「箸が落ちたよ。見て」というような意味だったと思います。一語文でも、イントネーションで疑問の発話にすることができますが、疑問の発話でなくても、それが近くの大人の反応を期待して発話されていると考えられます。それは、その反応がどのようなものであれ、反応を期待した発話は、暗黙的に問いかけの意味を持っていると考えられます。どのような発話とそれに対すする反応も、問答として暗黙的には問答になっていると考えられます。

アダムソンは初語について次のように言います。

「生後10~13ヶ月のあいだに、ほとんどの子どもは慣習的な語を喃語と原始語に混ぜ始める。一つには、大人がしばしば「ダダ」とか「ママ」のような子どもの発明を大人自身の語彙に同化してしまうので、正確にいつ子どもが初語を言ったかにぴったりと照準を合わせるのはしばしば困難である。このようなことばに惑わされるのを避けるため、たいてい初語は見過ごし、10語の産出語彙が安定した指標として選択されている。子どもは大抵この発達指標に13~19か月のあいだに到達する。」(ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店、212)

「要約すると、子どもの初語はコミュニケーションの慣習化に向けて重要な一歩を印す。10語の産出語彙を蓄えるまでには、子どもは典型的には語の象徴的自律性への洞察も得る。この洞察により、異なるコミュニケーションのコンテクストで語を柔軟に用いることが出来るようになる。」(同訳、216)

人類史における言語の誕生における初語も、食べ物を指す名詞、知覚の重要な他者を指す名詞、などが初語である可能性が高いと思われます。そこでも、それらは、暗黙的な問いであると推測します。

食べ物を表示する言葉は、食べ物への共同注意を促すための発声から成立したかもしれません。トマセロが言うように共同注意が、9か月ごろに成立し、アダムソンいうように初語が、13カ月~19カ月ごろに成立するのだとすると、<共同注意を促すための発声から言葉が誕生した>可能性が高いでしょう。初語が成立し、暗黙的な問答が成立し、暗黙的な共有知が成立するのだろうと推測します。

言語は(あるいは問答は)、共有知をモデルとして仮定し、予測誤差最小化メカニズムによって成立するとして、それには共同注意の成立が先行していると推測します。では、共同注意はどのようにして成立するのでしょうか。その成立は、意識の成立と同時なのでしょうか。推測の域を出ないのですが、次にこれらについて考えたいと思います。

60 共有問答と共有知について (20230108)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

2023年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

今年こそ、意識と言語の発生メカニズムが明らかになることを願います。

私は、言語の発生は問答の発生である、と推測します。では、問答はどのように発生するのでしょうか。人はなぜ問うのでしょうか。以下は、私の現在の単なる予測であって、証明できているものではありません。

<知は、個人の知であれ、共有知であれ、相関質問への答えとして成立する、つまり問答として成立すると考えます。最初の問答は、共同問答として成立し、共同問答は、共有された問いとそれに対する答えとしての共有知として成立すると考えます。なぜなら、言語の発生は問答の発生であり、言語は他者との意思疎通のために生じた言えるから、問答も他者との意思疎通のために生じ、共同問答として生じたと思われるからです。問答には自分との自問自答もありますが、個人が行う最初の問答は、他者との問答であろうと思います。他者との問答が成立するとき、それは常に共同問答として成立します。個人の知や自問自答は、共有知や共有問答からの分離によって成立するのだと思われます。>

さて、以上の予測を、もう少し詳しく説明したいと思います。

まず、言語共同体の中で既にその言語を習得している二人が問答する場合を考えましょう。一方が他方に問い、他方がそれに答えること、が成立するには、他者に問われた者が、その問いを理解しなければなりません。答える者がその問いを理解していなければ、その問いに答えることはできません。問われたものがその問いに答えるとき、問うた者は、答える者がその問いを理解したと考えていなければ、その発話を、自分の問いへの答えとして認めることはできません。つまり、問答が成立するには、問いを二人が同じ仕方で理解し、しかもそのことを二人が知っている必要があります。答えについても同様のことが言えます。問うた者は、相手の発話を自分の問いへの答えとして捉えることが必要であり、答える者の発話が、その問いへの答えとなっていることを二人か理解すると同時に、そのことを二人が知っている必要があります。こうして、他者との問答が成立するには、問いと答えと問答関係について、両者が知っており、かつこのことが共有知になっている必要があります。つまり<他者との問答は、共有問答として成立する>のです。

この説明は、共有知の成立を前提とします。しかし、もし共有問答によって、最初の共有知が成立するのだとすると、共有問答の成立が問いの共有知を前提するということと矛盾ます。共有地の説明が共有知を前提とするという循環、あるいは、共有知の無限遡行は、どのようにして回避されるのでしょうか。それは最初の問いの共有知が、予測として成立し、予測誤差最小化メカニズムによってより確かなものになる、と考えることで回避できます。

予測として成立するのは、最初の問いの共有知に限りませんし、また問いの共有知にも限りません。おそらくすべての共有知について成り立つでしょう。

私たちは、共有知をモデルとして想定します。つまり自分と他者がある知を共有していることを想定します。他者の心の中はわからないので、他者が私とある知を要求していることを想定するだけです。ここで想定するのは、知を共有していることと、その知がある然々の内容をもつこと(たとえば、「二人がコップを見ている」という内容です。ここで重要なことは次です。

<共有知を想定をしているのは、個人です。しかし、その想定が間違いなら、これは知ではありません。つまりこれは共有知でもないし個人の知でもありません。他方、この想定が正しいなら、これは共有知であって、個人の知ではありません。したがって、いずれにせよ、これは個人の知ではありません。繰り返しになりますが、共有知の予測が正しければ、これは共有知であり、予測が間違いなら、これは共有知ではありません(個人の知でもありません)。>

共有知を想定するのは個人の頭脳の予測誤差最小化メカニズムです。共有知の予測誤差最小化メカニズムでは、ミラー・ニューロンも働いているだろうと思います(共有知に対するミラー・ニューロンの貢献は別途考察する必要があります)が、それでもそれは確かに個人の頭脳内のメカニズムです。ちなみに、この予測誤差最小化メカニズムは、無意識的なメカニズムだと思います。

では、言語が発生するときの最初の共有問答は、どのような内容になるのでしょうか。これについて、次に考えたいと思います。

59 共同注意は予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する (20221229)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回の最後に次のように書きました。

「<ある事実に注意してほしい>という意図を他者に伝達しようとする意図(伝達意図)は、<ある事実に注意している>という状態を、他者と共有することを目指しています。つまり、共同注意を目指している意図だと思われます。そうだとすると、伝達意図は、(他の対象でも同じ対象でもよいのですが)ある対象への共同注意の経験を前提します。」

ここでは、「伝達意図」「共同注意」の関係について、もう少し詳しく考えたいと思います。

二人の人間AとBがいて、Aが、Bが対象Oに注意することを意図1し、Aがその意図1をBに伝達しようと意図2するとします。この意図2のような意図を「伝達意図」と呼ぶことにします。

またAとBが対象Oに「共同注意」とは、<AとBがともに対象Oに注意し、かつ両者がそのことに気づいている>ということだとします。では「伝達意図」と「共同注意」はどのように関係するでしょうか。

この二つの関係としては、次の二通りが考えられます。

1,Aが対象Oに注意し、それをBに伝えようとする伝達意図によって、共同注意が成立する。

(ちなみに、Aが伝達意図をもつことは、さまざまな目的を持ちえます。つまり、伝達意図の実現によって共同注意が成立するとしても、そのことは、伝達意図がもちうる目的の一つに過ぎません。伝達意図が実現しても、共同注意が成立しないこともありえます。例えば、教師が複数の生徒に、顕微鏡の中の細胞を見てくださいと言い、一人の生徒がそれを見る前に、隣の生徒に同じように顕微鏡の中の細胞を見て下さいと言う場合です。また、かりに共同注意が成立したとしても、それは目的ではなく、他のことが目的であり、共同注意は付帯的に成立するにすぎないこともありえます。例えば、教師が生徒にあの星を見て、あの星の名前を考えてくださいという場合、生徒と教師がその星にともに注意するとしても、そのことは、この場合の伝達意図の目的ではありません。)

2,AやBが個別に対象Oに注意する前に、したがって個人が対象Oへの注意を伝えようとする伝達意図の成立する前に、AとBの対象Oへの共同注意が成立し、その後に各人の対象Oへの注意が成立する。

幼児の発達過程において、伝達意図も共同注意もできるようになっているとすると、その場合には、上記の1のケースがあるでしょうが、発達過程において、共同注意が最初に成立するときには、上記の2のケースになると思われます。その根拠は、指示行為が、共同注意の後に発生するということです。幼児の発達においては、伝達意図よりも、共同注意の成立が先行するようです。トマセロによると、共同注意は、9か月ころ成立し(これがトマセロの「9か月革命」です)、指さしの成立は、トマセロによれば11か月ころ、アダムソンによれば12か月ころ(cf. ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店、p.21)のようです。指さしは、他者の注意をある対象に向けようとする伝達意図にもとづく行為ですから、伝達意図の成立は、共同注意の成立の後になります。

では、対象への幼児の注意と、対象への幼児と大人の共同注意は、どちらが早く成立するのでしょうか。私には確証と言えるものがまだ見つからないのですが、共同注意が個人の注意に先立つと予想します。アダムソンが引用しているヴィゴツキーの次の言葉を孫引きしておきたいと思います。

「子供の文化的発達に見られる機能はすべて2回出現する。最初は社会的レヴェルで、その次に個人的レヴェルで。最初は人と人との〈間で〉(精神間)、その次に子どもの〈内部で〉(精神内)。」(同上p.38からの孫引き)
(カテゴリー【共同注意と指示】では、

・個人的な注意よりも、共同注意が発達上先行するということ、

・個人による指示よりも、「共同指示」ともよぶべきものが、発達上先行すること、

トマセロの「シミュレーション理論」を批判して、この二点を証明しようしました。トマセロ、アダムソン、大藪の議論を紹介しつつ、考察しましたが、上記の証明としては、不十分なままに、中断しています。それを書いていたのは2008年で、その時私は、ミラーニューロンや能動的推論や予測誤差最小化メカニズムについて知りませんでしたが、今ならそれを考慮してもう少し進んだ議論ができそうな気がします。)

#共同注意は、予測モデルとして成立するのではないでしょうか。

<私は、自分と他者が同じ対象Oについて一緒に共同注意しているというモデルから、自分と他者の対象についての注意の内容を推論する。他者が現実に注意を向ける対象が、私が予測する対象とは異なっているならば、私は当初のモデルを修正する、この新しいモデルから…>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立するのではないでしょうか。共有注意は、<あることを予測し、それから予測する帰結を、現実と比較して、誤差が最小化するように、予測を修正する>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する。

#共有知は予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する

共有知とは、「AもBもpを知っており、そのことをAもBも知っており、そのことを・・・(以下無限に続きうる)」というような知ですが、これは正確な定式化ではありません。実は、それを適切に定式化することは非常に困難です。そこからわかることは、共有知を個人知から構成することはできないということです。では、共有知は存在しないのか、といえば、そうもいきません。なぜなら、私たち他者とコミュニケーションするときには、共有知を想定しているからです。以下は、カテゴリー「世にも不思議な共有知」に書くべきことなのですが、そこには、改めて書き込むことにして、今回思いついた、この問題の解決方法を伝えたいと思います。

それは、<共有知は、予測モデルとして存在しているのではないか>ということです。

共有知は、<共有知というモデルから、私は、自分と他者が同じ知をもっていることを推論する。他者が現実に持つ知がそれと異なることが分かったら、私はモデルを修正して、修正された共有知が共通であることを予測する>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立するのではないでしょうか。

「共同注意」と「共有知」についてのこれらの定式では、それらは、個人が行う予測誤差最小化メカニズムであって、共同で行う予測誤差最小化メカニズムではありません。したがって、これではこれらの説明としては、まだ不十分かもしれません。また、これらの定式化における「予測誤差最小化メカニズム」は、無意識的なものなのか、意識的意図的なものなのか、という問題もあります。

ここでは、言語的探索である<問うこと>がどのようにして生じるのか、そして目下の文脈では、それを予測誤差最小化メカニズムとして説明することです。そのために、共同注意や共有知を予測誤差最小化メカニズムとして説明しようとしています。共有知を予測誤差最小化メカニズムで説明できるのかどうか、さらに考察したいと思いますが、今年はこれで最後になりそうです。

皆様良い年をお迎えください!

58 振り返りの後、伝達意図へ (20221225)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

このカテゴリーの第45回から:現代神経科学における、K.フリストンの「自由エネルギー理論」、「能動的推論」、ヤコブ・ホーヴィの「予測誤差最小化メカニズム」の議論を紹介し、それと問答との関係を考察してきましたが、(議論が錯綜して進んでいないので)これまでの経緯を振り勝っておきたいと思います。

ベイズ推論あるいは能動的推論も、推論である以上は、問答推論になっていると思われます。つまり、その推論は問いによって始まり、問いの答えを見つけることによって完了する、ということです。しかし、能動推論や予測誤差最小化メカニズムが前提する問いというものは、もちろん<見かけ上の問い>であって、意識的な問いではありません。

ベイズ推論を問答推論として説明できることを明確に示めそうとしたのですが、ベイズ推論の理解が不十分なために明確に論じられないので、第54,55回から「「問い」を予測誤差最小化メカニズムによって説明する」ことに取り組み始めました。しかし、言語による「問い」や「問答」は、非言語的な探索とは異質であるために、それらを予測誤差最小化メカニズムによって説明するとしても、<見かけ上の探索>や<非言語的な探索>を予測誤差最小化メカニズムによって説明するのとは違った仕方で説明する必要があることが明らかになりました。

・<見かけ上の探索>を説明する予測誤差最小化メカニズムは、神経組織のメカニズムです。

・<非言語的な本当の探索>は、意識が成立した段階での探索、つまり意識された欲求(情動)を満たすための探索です。したがって、これを説明するには、より高度の神経組織のメカニズムが必要になると思われます。

・<言語的な探索>は、言語的な探索、つまり問いに答えようとする過程であり、さらに高度の神経組織のメカニズムを必要とするはずです。そして、この意識的な問答過程は、意識的な予測誤差最小化メカニズムとして理解することができます。つまり問いが答えの半製品であるという意味で、答えの予測(あるいは予測の半製品)であり、その答えを探求する過程は、予測誤差最小化のプロセスだと理解することもできます。このように問答過程を予測誤差最小化過程としてとらえるとき、それは(究極的には何らかの神経組織のメカニズムに依拠するとしても)ニューロンネットワークの活動ではなく、概念の意味に依拠して理解可能な、あるいは構成可能なプロセスです。

ニューロンネットワークが行う予測誤差最小化メカニズム(ベイズ推論)と、人間が意識的意図的に行う問答推論としての予測誤差最小化過程(意識的なベイズ推論)を区別しなければなりません。

この後者が、前者の基礎の上にどのように成立するのか、またどのように発生するのか、これを明らかにすることが課題(第45回以後の考察の最終課題)です。

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さて、前回の話に戻りたいと思います。

前回見たように、人間の新生児は、無意識的に他者の表情や身振りの模倣をします。そして、<無意識の模倣が身振りや発声の模倣となること>、さらに<模倣の反復からある身振りや発声がパターンとして同定されるようになること>を推測できます。さらに<このような身振りや発声が意識的なものになるとき、それにともなう行為連関を伝えることを予期し、その伝達を意識的に行うようになる>と推測できます。

 ある行為連関を伴う身振りや発声を習得しているとします。では、そこから、身振りや発声によってその行為連関を伝えようとする意図(伝達意図)はどのようにして発生するのでしょうか。これが今回の課題です。

<ある事実に注意してほしい>という意図を他者に伝達しようとする意図(伝達意図)は、<ある事実に注意している>という状態を、他者と共有することを目指しています。つまり、共同注意を目指している意図だと思われます。そうだとすると、伝達意図は、(他の対象でも同じ対象でもよいのですが)ある対象への共同注意の経験を前提します。

 知覚や注意は、予測誤差最小化メカニズムによって成立するのですが、共同注意もまた予測誤差最小化メカニズムによって成立するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

57 模倣と予測誤差最小化メかニズム (20221222)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回、探索を次のように分けました。。

<見かけ上の探索行動>

 遺伝的な探索行動

 学習としての探索行動

<非言語的な本当の探索行動>

 欲求にもとづく探索行動

<言語的な本当の探索行動>

そこでは、<学習としての探索行動>としては、条件反射とオペラント行動を考えていました。しかし、学習には、これらに加えて<模倣による学習>があるという指摘(ブラックモア『ミーム・マシンとしての私』を読んで、模倣について考えなければならないと思いました。

模倣行動を行うのは、人間だけのようです。マカクは模倣をしないようです。チンパンジーでも模倣することは難しいようです。(以下、明和政子「模倣はいかにして進化してきたのか?」

――比較認知科学からのアプローチ」(『バイオメカニズム学会誌』Vol. 29 No,1,2005)https://www.jstage.jst.go.jp/article/sobim/29/1/29_1_9/_pdf を参考にしました。)

ヒトとチンパンジーの幼児は、自動的に他者の表情を模倣するそうです。その後この模倣はチンパンジーでも人間でも8ケ月のころ消失するそうです。ただし、人間の場合には、しばらくするとそれが再び出現する(これにはトマセロのいう「9か月革命」が関わっていそうです)のに対して、チンパンジーも、9カ月ごろに突然、模倣「らしき」反応を見せるが、一か月程度でなくなるそうです。その後、「チンパンジーは、呈示した行為を、訓練なしに見ただけで再現する(模倣する)ことはほとんどなかった。チンパンジーにとって、模倣はたいへん難しいらしい」ということです。

面白いことに、チンパンジーは、歯ブラシを持った行動など、物を操作する行為の場合には、訓練すれば模倣できるようですが、「「身体の動き」の情報しか含まない(物を操作しない)行為」は困難なようです。

これに対して、ヒトの幼児は、9ケ月以降、他者の身振りや発声の模倣できるようになります。他者の身振りや発声を模倣を反復するとき、それらの身振りや発声は、ある一般的なタイプとして同定されるにようになるでしょう。そして、その身振りや発声をすることは、一定の「行為連関」を持つことになるでしょう。つまり先行する行為や状況、一定の後続する行為と結合することになるでしょう。発声したものの視線の方向に注意するとか、ある身振りをする他者から離れるとか、その他者に接近するとか、戦闘の用意をするとか、です。こうして、身振りや発声の模倣から言語が発生すると予想します。

(マカクやチンパンジーが、他の個体の発声の模倣をしないと述べたのは、私の予想で未確認です、おそらく何か研究があるだろうと思います。イモを洗うサルが有名ですが、マカクも物をもって行う行為は模倣することがあるということだろうとおもいます。しかし(物を持たない)身振りの模倣ができないということなのでしょう。ところで、人間もチンパンジーもミラーニューロンを持つことが知られていますが、人間は他の個体の行為を模倣しますが、チンパンジーは模倣しません。模倣するには、ミラーニューロンが必要だと思われますが、しかしミラーニューロンだけでは不十分だということになりそうです。)

最初に見られる模倣は、無意識的な行動だと思われます。私たちは、教師や先輩のしぐさや話し方を無意識のうちに模倣していて、他者から指摘されてそれに気付くことがあります。(マカクやチンパンジーの模倣行動の研究が、無意識的模倣と意図的な模倣に区別して行われているのかどうか、未確認です。)無意識的な身振りや発声の模倣によって、ある集団の中で多くの身振りや発声が無意識のうちに共通のものになると推測します(まだ共有知になっているとは限りません)。ある身振りや発声の習得には、予測誤差最小化メカニズムが働いていると思います。(行為としての)身ぶりや発声の習得と同時に、それらに伴う一定の「行為連関」を学習することになるでしょう。

これは、身ぶりや発声の意味を学習することです。この学習は、まだ無意識的なものだと思われます。身ぶりや発声の模倣ができるようになると、それをエコー的にではなく、自発的に行うようになるでしょう。それは、身振りや発声にともなっている「行為連関」を自発的に引き受けるということです。例えば、「喜び」の身振りや発声、「怒り」の身振りや発声を自発的に行うとき、それにともなう「行為連関」を自発的に引き受けています。例えば、狩りの成功を喜ぶことは、狩りの成功を仲間と同じように受け取っていることを示し、喜びを共有しようとしていること、狩りのときに緊張していたこと示すことです。獲物をとりあって怒ることは、私によこせと要求することや、さもないと攻撃するぞと威嚇することを伴います。

このような身振りや発声が、<意識的なものになる>とき、それにともなう行為連関を伝えることを<意識的に行う>ことになります。つまり、<見かけ上の伝達>ではなく<意図的な伝達>になります。(ただし、以上はまだ私の全くの想像ないし思弁です。これを経験的に証明するにはどうしたらよいでしょうか。ここには、飛び越してしまった多くのステップが隠されており、それを明示化していく必要があります。そのなかで、経験的に証明できることも出てくるでしょう。)

次に、「伝達意図」の成立について考えてみようと思います。

56 <言語的な探索(問うこと)>と<非言語的な探索>と<見かけ上の探索>の区別(20221214)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>と<見かけ上の探求>の区別を予測誤差最小化メカニズムの観点から考察したいと思います。

予測誤差最小化メカニズムは、ボトムアップでなく、トップダウンで知覚や行為を説明します。このアプローチを、三種類の探求(<言語的な探索(問うこと)>、<非言語的な探索>、<見かけ上の探索>)の関係に適用すると、左のものから右のものを説明することになります。

#<非言語的な本当の探索>と<見かけ上の探索>の関係について

欲求をもって探索する動物の登場以前にも、すべての動物の運動は、エサやよい環境を探求することとして理解することができます。つまり<本当の探索>の登場以前には、<見かけ上の探索>が成立しています(ただし、それを<見かけ上の探索>として理解するのは、<本当の探索>をする動物です)。

ただし、一旦本当の探求が成立すれば、その動物がおこなう<見かけ上の探索>は(全てではないとしても、その多くが)、その動物によって<見かけ上の探索>として理解され、その動物が行う<本当の探索>のプロセスの一部分として組み込まれることになります。例えば、水を飲もうと欲求して、水を探して、水を飲むとき、その一連の行動は、たくさんの無条件反射や条件反射やオペラント行動を含んでいます。それらは、<見かけ上の探索>です。

ただし、<見かけ上の探索>だけを構成要素とすることによって、<非言語的な本当の探索>を説明することはできません。<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>をするには、何かを求める欲求という情動が必要です。欲求(情動)を持たない動物は、欲求をともなう<本当の探索>をできないからです。<見かけ上の探索>には、走性や無条件反射による行動である場合と、条件反射やオペラント反応による行動である場合があります。そして、後者は前者をその部分として含む場合があります。

ところで、(欲求を含めて)情動と意識は、どう関係しているのでしょうか。情動は常に意識されているのでしょうか。仮に意識されていない欲求(情動)があるとしても、欲求があれば、その意識が伴わなくても、その無意識の欲求にもとづく探索は、<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>だといえるように思えます。

#<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>の関係について

言語を獲得して、問うことができるようになれば、<非言語的な探求>はすべて言語化されて<言語的な探求(問うこと)>に変わるだろうと思います。したがって、言語的な探求が生じるとき、非言語的な探求はほとんど消失するだろうと思います。

 例えば、「芋を食べよう」と思って、芋に手を伸ばして、口元に運ぶとき、「芋に手を伸ばそう」とか「芋を口にもってこよう」とするとき、たいていは、それを明示的に言語化してはいない。しかし、そのとき行為を止められて「何をしているのですか」と問われたら「芋に手を伸ばしています」と答え、「なぜそうするのですか」と問われたら「芋を食べるためです」と答えるだろう。明示的に言語化していないとしても、行為はすでに暗黙的に言語的に分節化されている。言語を持つ以前のサルが、芋を手に取って、口に運ぶとき、その行為は暗黙的にも言語的に分節化されていないが、しかし、それらの非言語的な行為は、言語を持つ動物では、言語化されて構成されることになる。すべての意図的な行為を実現するための手段としてある行為が行われる時、その手段となる行為は、目的となるより上位の行為との<目的-手段>関係のなかに位置づけられており、その限りで言語的に分節化されている。

 ここまでのところで、行為と探索を混同しているように思われたかもしれませんが、すべての行為は同時に探索でもあると考えています。すべての行為には、多くのミクロな調整が必要であり、その意味ですべての行為にはミクロな探索が伴っているからです。

 以上の説明の中で探索を次のように分けました。。

<見かけ上の探索行動>

 遺伝的な探索行動

 学習としての探索行動

<非言語的な本当の探索行動>

 欲求にもとづく探索行動

<言語的な本当の探索行動>

この系列において探索行動が次第に高度なものになっています。よろ高次の探索は、より低次の探索を部分として含みうるが、より低次の探索は、より高次の探索を部分として含みえません。より低次の探索には、より高次の探索に含まれずに機能しているものと、より高次の探索に含まれて機能しているものがあります。

探索についての以上の考察をする中で明確になったことの一つは、<知覚も行為も、何かの探索である>ということです。フリストンやホーヴィは、知覚と行為を予測誤差最小化メカニズムで説明するのですが、すべての行為は探索でもあります。そして知覚は、行為を計画したり、実行したり、調整したりするために行われるので、知覚は行為のための探索であると言えそうです。予測誤差最小化メカニズムとしての知覚は、対象(あるいは対象の正しいモデル)を探索するメカニズムだと言えそうです。また予測誤差最小化メカニズムとしての行為は、行為では、モデル(実現しようとする事態)に適合するように入力(感覚刺激)を変更する、つまり実現しようとする事実が、原因となってある感覚刺激(その事実の知覚)が生じるように、行為によってその知覚の原因となっている事実を変更しようとします。行為は、実現したい状態を実現するための方法を探索するメカニズムだと言えます。

以上を踏まえて、言語的な探索(問い)や言語的な知覚や言語的な行為もまた、予測誤差最小化メカニズムであることを説明したいと思いますが、他方で、言語は、集団や他者との関係の中で成立したものです。そこで次に、集団や対他者関係のなかでの予測誤差最小化メカニズムを考えたいと思います。