33 記憶と問答 (20210315)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回触れたように、「記憶」と呼ばれるものには多様なものがあります。但し、全ての記憶は、真理値をもち、心から世界への適合の方向を持ちます。そして、志向性としての記憶は次の構造を持つでしょう。

   思い出す(出来事や対象)

記憶の充足条件については、前回も述べましたが、次のように言うこともできます。

   ①出来事が存在したこと

   ②出来事を記憶内容として思い出すこと

記憶内容である出来事は、記憶内容として思い出される必要があります。さもなければ、その出来事を現実の出来事や単に想像した出来事などと区別できないことになるからです。

 ところで、志向性としての記憶は、単に記憶内容なのではなく、それを思い出すことです。では、なぜある特定の記憶内容を思い出すのでしょう。それには原因や理由があると思われます。例えば、鍵を探していて、「鍵をどこに置いただろうか」と自問して、ズボンのポケットに入れたことを思い出したとすると、問いに対して答えるために、思い出しが行われ、答えとして記憶内容が報告されてているのです。このように記憶の想起に理由がある時には、そこには問いがあるといえるでしょう。

 ただし、単なる連想の場合もあるかもしれません。たとえば、荒れた海の写真を見て、その連想で「3.11の津波」を思い出す場合はどうでしょうか。その写真を見る時に、私たちはその写真を理解するために、「これは何だろう」という問いを立て、これは「3.11の津波に似ている」という答えを得るのかもしれません。習慣的な連想を別にすると、連想もまた無意識問いに促されているだろうと推測できます。さらに習慣的な連想についても、それが習慣になる最初の時には、無意識ないし意識的な問いに促されているだろう推測できます。

 記憶の想起はつねに何かについての記憶の想起であり、その何かの選択は、問いに答えることによって行われていると思います。何の問いもないところで、何かを想起するということはないでしょう。(出来事の記憶には、個人の思い出の記憶もありますが、歴史のように共同体にとっての出来事の記憶もあります。後者の記憶は、サールの言う「集合的志向性」に属すると思いますが、これもまた問い(集合的な問い)に対する答えとして成立するものになると考えますが、これについては個人の志向性を論じた後に論じることにします。)

 ところで、個人の記憶は、(体験や出来事の記憶のように)記憶内容が時間空間上の座標を持つものと、時間空間上の座標を持たないものに分けることができます。後者はほとんどが何らかの規則の記憶であると思われます。この規則には、論理規則、文法規則、意味論的規則(語の意味は、これに属します)、自然法則、社会的規則(法律など)があります。これらの規則の記憶の場合にも、それを想起することは問いに答えるために生じると言えるでしょう。

 これらの記憶は長期記憶であすが、それに対して短期記憶と呼ばれるものがあります。ある作業をしているときの短期記憶は、その作業を遂行するために必要なものです。ある作業を進めるには、作業の全体計画を記憶し、現在その中のどの部分を行っているのかを記憶しておく必要があります。これらの短期記憶は、「この後どうするのか?」「これは何のためであったのか?」などの問いに対する答えとなります。

 このような短期記憶(作業記憶)は、行為内意図や先行意図と深く関係しています。次にこの二つの意図について、それらもまた問いに対する答えとして成立することを確認したいと思います。

32 記憶の志向性について (20210313)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 記憶は、何かについての記憶であり、「ついて」性をもつので志向性の定義にあてはまります。たとえば「3.11の津波」の記憶のように、多くの記憶は知覚の記憶です(私の場合TVの映像の知覚ですが)。しかし記憶には、知覚の記憶だけでなく、出来事の記憶や、名前の記憶や規則の記憶や語の意味の記憶などもあります。そしてこれらすべての記憶には真偽があります。つまり、記憶は事実と一致する必要があります。したがって、記憶は、知覚と同じ「適合の方向」、つまり心的状態を世界に一致させるという「適合の方向」を持ちます。

 記憶がサールの言うように「志向的自己言及性」をもつならば、記憶の充足条件は次のようなものになるでしょう。

  ①2011年3月.11日に大津波があった。

  ②2011年3月.11日に大津波があったことが、その記憶を引き起こしている。

津波の記憶が記憶であるためには、①を意識しているだけでなく②を意識していることがひつようです。

 サールは、「志向性の原始的な形式」は知覚と意図的行為(行為内意図)であり、「これより一段階上の水準」に、記憶と先行意図があり、さらに「それより一段階上の水準」に信念と願望があるといいます(参照、サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、60)。これらのすべてについて順番に説明しますが、ここでは、記憶が知覚より一段階上である理由を確認したいと思います。

 サールによれば、知覚においては、「主体となる動物」と「環境」は直接にコンタクトし、環境が原因となって動物の内部に知覚が生じます。これに対して、記憶においては、「知覚を充足条件に含む表象であり」「因果成分それ自体は存在するものの、充足条件との間に直接の因果関係があるわけではない」、記憶が表象するのは過去である、とされる。例えば、「3.11の津波」の記憶は、3.11に津波があったという事実を充足条件としますが、しかし記憶はその事実と直接の関係を持つのではなく、TV映像の知覚を介している。3.11の津波は、過去の事実であり、その記憶は現在のものであり、時間的に隔たりがあります。

 『志向性』では、知覚は「提示」(presentation)であるが、記憶は「表象」(representation)であるという違いも指摘されています(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房133)。知覚は知覚対象の提示ですが、記憶は記憶対象(出来事)を直接に提示するのではなく、その知覚像を介して記憶対象を表象するということでしょう。

 ただし、記憶は知覚の記憶であるとは限りません。たとえば、漢字の書き順の記憶のようなものは、どうでしょうか。漢字の書き順は、出来事や対象のように、時空間上に座標を持ちませんし、過去、現在、未來に妥当するいわば無時間的なものです。この場合でも、この記憶は規則の「表象」だと言えるかもしれませんし、また記憶は、充足条件(規則の存在)と直接にコンタクトするのではないと言えるかもしれません。しかし、記憶は、長期記憶と短期記憶の区別などもあり、とにかく多様です。通常の記憶ですら、超短期の記憶の働きを必要としている可能性があります。知覚と記憶の関係は、サールが考えているよりも、錯綜している可能性があります。

 次回は、その問題と、記憶もまた問いに対する答えとして成立することについて、考察することにします。

31 知覚の因果的自己言及性とは (20210311)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、知覚は「因果的自己言及性」(あるいは「志向的因果性」)を持つと言います。例えば、黄色いステーションワゴンを見るときの「視覚経験の志向内容」は、次のようなものになるといいます。

「私は(そこに黄色いステーションワゴンが存在し、そしてそこに黄色いステーションワゴンが存在することがその視覚経験を引き起こしている)という視覚経験を有している。」(『志向性』前掲訳66)

つまり、志向内容には、

  ①「そこに黄色いステーションワゴンが存在する」

ということだけでなく、

  ②「そこに黄色いステーションワゴンが存在することがその視覚経験を引き起こしている」

ということも含まれます。

 このように②を含むゆえに、知覚経験の志向内容は「因果的に自己言及的」(前掲訳68)であると言われます。もちろんこの自己言及性は語られているのではありません。しかしそれは「示されている(shown)」とサールは言います(前掲訳68)。

 ところで、動物の知覚もこのような因果的自己言及性をもつでしょうか。私は、動物の知覚はこのような因果的な自己言及性をもたないだろうと思います。つまり上の視覚経験で言えば、①をもつが②はもたないだろうと思う。(さらに①についても、動物の場合には、その内容は言語的に分節化された内容ではないでしょう。)

 ②を持つのは、人間の知覚の場合だけだろうとおもいます(それをどうやって証明したらよいのか今のところ分かりませんが…)。確かに、人間の知覚の場合には、②のような意識を伴っているように思われる。つまり、人間がある対象や事実を知覚するときには、知覚していることの意識が伴っているでしょう。では、どうしてそうなるのでしょうか。

人間が知覚しているときには、知覚していることを意識していることが多いとすると、それは次のような事情ではないでしょうか。

 前回述べたことですが、「この車は黄色い」という主張発話が誠実であるための条件として、話し手が<この車は黄色い>という信念(志向性)をもつことを指摘できます。ここでの一連の問答はつぎのような関係にあります。

 「この車は何色か」という言語的問い 探索(この問いの発話の誠実性条件となる心的状態)→知覚(視覚経験)→「この車は黄色い」という知覚報告(この報告の誠実性条件は、<この車は黄色い>という信念をもっていることです)。

 <人間が行う知覚が、このような言語的な問答(言語的な問いと答えとしての知覚報告)のプロセスを成立させるために、問いから答えを導出するプロセスの中で成立するのだとすると、「探索」という心的状態は意識されており、したがってそれに対する答えとしての知覚(知覚経験)も意識されており、その知覚は、因果的自己言及性をもつことになる>と言えるのではないでしょうか。

(人間はつねにこのように意識的に知覚を行っているとは限らず、知覚しても因果的自己言及性を持っていないように見える場合もあります。しかし逆に、原始的な動物の知覚を含めて知覚プロセスはつねにこのような因果的自己言及性を持っていると見なすことも可能かもしれないもおもいます。そのためには、現代の脳神経科学の知覚論やディープラーニング論を考慮する必要があると考えています。いずれ別の機会に述べるつもりです。)

 同様のことが、因果的自己言及性を持つ他のタイプの志向性(記憶、先行意図、行為内意図)についても言えるかどうかを、次に確認したいと思います。

30 知覚に関する問答と探索の関係 (20210309)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

言語的な信念と同じく、知覚もまた問い(または非言語的な探索)に対する答えとして成立すると仮定してみましょう。では、その問いはどのようなものになるでしょうか。例えば「その車は何色ですが?」の答えは「それは黄色です」となります。ただし、この答えは、知覚報告であって、知覚そのものではありません。知覚そのものは、この問いへの答えではなく、問いに答えるための手がかりです。知覚は、この問いを問う者が<問い合わせるもの(Befragtes)>であって、<問いも求められるもの(Erfragtes)>ではありません。

 では、「この車は黄色い」が「この車は何色ですか?」や「この車は黄色ですか?」への答えとして成立するとき、何が起こっているのでしょうか。

 サールは、発話行為の誠実性条件が、志向性の心的内容になることを述べていました。たとえば、「r」を主張することが誠実であるための条件は、rを信じるという志向性が成立する事であり、rを命令することが誠実であるための条件は、rの実現を願望しているという志向性が成立することでした。これに倣って言えば、「この車は何色か?」という問いの発話の誠実性条件は、この車の色を探索しようとする心的状態、あるいはこの車の色を知りたいという願望(心的状態)であるでしょう。この探索に対する答えとして知覚ないし視覚経験があると考えられます。

「この車は黄色い」という主張発話が誠実であるための条件は、<この車は黄色い>という信念(心的状態)をもつことです。ここでの一連の問答はつぎのようになります。

<「この車は何色か」という言語的問い → 探索(この問いの発話の誠実性条件となる心的状態)→知覚(視覚経験)→「この車は黄色い」という知覚報告(この報告の誠実性条件は、<この車は黄色い>という信念をもっていることです)>

 「この車は何色ですか?」という問いに答えるには、この問いを理解していなければならず、そのためには、次の二つが必要です。

  ①「黄色」が色を表示していることを理解していること、

  ②「黄色」が表示する色がどのようなものであるかを理解していること、

さらに、この問いを理解した上で、「この車は黄色だ」と答えうるためには、「この車は青色だ」と他の誰かが答えた時に、「いいや、この車は青色ではない」と言える必要があります。つまり、「黄色」を「青色」(また「赤色」や「白色」や「銀色」など)から区別できる必要があります。そして、「この車は青色だ」が偽であると分かるためには、「この車は青色である」という知覚報告を理解し、またそれに対応する視覚経験を想像できることが必要です。

 つまり、「これは黄色い」を認識できるためには、「黄色」の視覚経験をもつだけでなく、「青い」の視覚経験を想像できることが必要です。そして、「これは青くない、これは黄色だ」とおもう(信じる)ことが必要です。つまり、「これは黄色い」という知覚的信念の志向性が成立するには、知覚だけでなく、想像と信念の志向性も同時に必要です。これは「複合的志向性」だといえるでしょう。

 ある視覚経験を「黄色」の視覚経験として持つことは、「複合的志向性」として成立します。ここには、推論関係も働いています。「黄色」の視覚経験であることを理解しているとき、それが「青色」や「赤色」や「白色」や「黒色」の視覚経験ではないことの理解を伴っています。さらに、そのような消極的な関係の理解だけでなく、積極的な関係の理解、つまり、その車が黄色いという事実からその「黄色」の視覚経験が生じているという理解を伴っています。

 より一般的に言うと、ある知覚経験が、言語的に分節化された(あるいは、概念的な内容を持つ)知覚経験であるためには、知覚だけでなく、想像、信念、などの志向性から複合されている必要があり、他の志向性と推論関係にある必要があります。

 次回は、上記の知覚の考察が、サールの「志向的因果性」の概念とどう関係するかを、考えたいとおもいます。

29 知覚の志向性と問答 (20210308)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

まず、前々回説明しておくべきだった説明を補足しておきます。

サールは『志向性』の冒頭で「志向性」をつぎのように定義します。「志向性」とは、「心的な状態ないし出来事の特性」(『志向性』邦訳1)であり、その特性とは、「向性(directedness)ないし関与性(aboutness)なる特徴」(同所)です。

ただし、第一に、すべての心的状態が、志向性という特性を持つのではなく、志向性を持たない心的状態もあります。例えば、志向性を持たない心的状態としては、「緊張感、高揚感、方向づけられていない不安」(同書2、訳語を変えました)があります。

第二に、志向性は意識とは異なります(同書2)。志向性をもたない意識(例えば緊張感や高揚感のように)もありますし、逆に意識されていない志向性(今まで意識したことのない信念(私の祖父が月に行ったことがないという信念)などもあります。

さて、知覚は心的状態であり、関与性(aboutness、「ついて」性)をもつ心的状態であるので、知覚は志向性を持つといえます。なぜなら、知覚はつねに、何かについての知覚であると言えるからです。たとえば、それは黄色い自動車についての知覚です。知覚がつねに「ついて」性を持つことは、言い換えると、知覚がつねにゲシュタルト構造(図と地の構造)をもつということです。

 ここで、知覚と感覚の区別について次のような区別を提案したいと思います。感覚は、知覚を構成している要素です。しかし、感覚が集まって知覚を構成するという要素主義を採用するのではありません。感覚は、知覚から抽象して切り出された要素であり、抽象的ものであり、それだけで自存するものではなく、あくまでも知覚の要素として存在するものです。感覚には、ゲシュタルト構造はないのにたいして、知覚はゲシュタルト構造ないし「として」構造を持つものです。例えば、「このバラの赤さ」として理解されるものは、として構造を持っており、その赤さは、感覚されているのではなく、知覚されていると考えられます。(知覚と感覚についてのこのような区別の提案は、私の考えであり、サールの主張ではありませんが、それと矛盾しないだろうと思います。)

 サールは、志向性(をもつ心的状態)は、つぎのような構造を持つと述べていました。

   S(r)

(ここで「S」は心理的様態、「r」は表象内容を表します。)

この構造は、志向性の特性(「ついて」性)と次のように関係するでしょう。志向性は、何かについてのものであるという特性ですが、ここでの表記に当てはめると、志向性は「rについての」Sであるということになるでしょう。

 他方で私たちは、知覚はつねに「として」構造をもちます。つまり、知覚はゲシュタルト構造をもち、それは<AをBとして知覚する>という構造を持つといいかえることができるでしょう。AをBとして捉える時には、Aの中のある部分に注目し、他の部分に注目しないということによって可能になります。つまり、注目される部分が地となり、注目されない部分が地となるという<図地-構造>が成立することになります。この<図地-構造>が、知覚のゲシュタルトを構成し、「として」構造を構成しているのです。

 では、知覚の「ついて」性と「として」構造は、どう関係するのでしょうか。ある対象を「黄色い自動車」として知覚する心的状態は、「黄色い自動車について」の心的状態だと言えそうです。つまり、Aを「Bとして」知覚するとき、それは「Bについて」の知覚だといえるでしょう。「ついて」性」と「として」構造は、このような関係にあるでしょう。

 さて、ここからが本題です。知覚の<図地-構造>は、命題の焦点構造に似ているのではないでしょうか。『問答の言語哲学』で詳しく述べたのですが、すべての発話は、焦点を持ちます。それは話し手が発話する命題の中で注目しているところですが、それはその個所が強く発音されたり高く発話されることによって示されます。例えば、「これはりんごです」という文が発話されるとき、

「(他でもなく)これが、リンゴです」といういみで発話される場合と、「これは、(他でもなく)リンゴです」という意味で発話される場合とがあります。前者では「(他でもなく)これが」に焦点があり、後者の発話では「(他でもなく)リンゴ」に焦点があります。(「は」と「が」が入れ替わっていますので、正確には同じ文ではありません。この「は」と「が」の使い分けは、焦点位置の違いの影響を受けていると思われます。この点も、『問答の言語哲学』で詳しく説明しましたので、興味を持っていただけた方は、ぜひご覧ください。)

 私たちは、このどちらかに焦点をおいて話したり理解したりするひつようがあります。両方に焦点を置くことはできないし、どちらにも焦点をおかないでこの文を理解することはできません。そのことは、ゲシュタルト心理学で有名な「アヒルとウサギの反転図形」の場合と似ています。私たちはその図形を「アヒル」として見るか、「うさぎ」として見るかのどちらかの見方しかできず、両方を同時に見ることはできませんし、どちらでもないものとして見ることもできません。

 発話の焦点構造は、それがどのような問い(相関質問)の答えとして発せられるかに依存しています。「リンゴはどれですか?」と問われたときの答えは、「(他でもなく)これが、リンゴです」という発話になり、「これは何です?」と問われたときの答えは、「これは、(他でもなく)リンゴです」となります。ここから、発話は相関質問との関係において成立するということになります。

これを『問答の言語哲学』で論じたのでが、ここでの目標は、これと同様のことを、全ての種類の志向性について論証する事です。つまり、志向性は、言語的な問い(ないし非言語的な探索)への王として成立する、ということです。

 次回、知覚について、この点をもう少し詳しく論じたいと思います。

28 志向性の分類 (20210306)

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サールは、『志向性』では、知覚と意図的行為について主として述べており、志向性全体の分類は示されていない。記憶、信念、事前意図、行為内意図、願望、も取り上げられているが、全体として分類整理されてはない。しかし、サールはMaking the Social World, Oxford U.P. 2010(『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房)では、全体をきれいに整理している。

(邦訳では、知覚の「適合の方向」の矢印が↑となっていますが、これは誤植です。正しくは上記のように↓ですので、混乱しないようにしてください。)

適合の方向が。↓であるのは、心を世界にfitさせるということことであり、↑は、世界を心にfitさせるということです。因果の方向↑は、世界の状態が心的状態を引き起こすということであり、↓は、心的状態が世界の状態を引き起こすということになります。因果の方向が「非該当not aplicable」なのは、信念と願望の場合には、世界と心の間に因果関係がないということです。

因果の方向があると場合には、「因果的自己言及」(Causallly self-referential condition)をもつとされます。

 この因果的自己言及性を持つかどうかは、それぞれの志向性の特性を考察するときに、重要な違いになります。

 次に、信念と知覚の違いを考えたいと思います。

27 志向性と発話行為の類似点 (20210303)

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サールは『志向性』では、動物の意識や志向性についてはほとんど言及せず、もっぱら人間の志向性について論じています。人間の志向性の中には、非言語的なものも、言語的なものもありますが、サールは志向的状態を発話行為との4つの類似性にもとづいて、明確にしようとします。(念のための確認ですが、仮に志向性が言語的なものであったとしても、その言語的な志向性と発話行為は別のものです。次の4つの類似性において、同時に両者の区別も明確になると思います。)

第一に、発話行為は、F(p)で表示され、発話内的力「F」(主張、命令、約束、など)と命題内容「p」から構成されていますが、それと同様に、志向的状態は、S(r)という心理的様態「S」(信じる、恐れる、欲する、望む、など)と表象内容「r」からなるものです。ただし、志向的状態の表象内容は、命題で表現されるものだけでなく、対象である場合もあります。

  信ずる(雨が降っている)

  愛する(サリー)

サールは、志向的状態の構成要素である「表象内容」を、雨が降っているという事実や、サリーという対象ではなくて、それらの表象の内容として考えていると思います。

第二に、発話行為と同様に志向的状態も「適合の方向」をもちます。例えば、主張型発話では、言葉を世界に適合させることが求められており、命令や約束の発話では、世界を言葉に適合させることが求められています。これと同様に、知覚、記憶、信念という志向的状態では、心(表象内容)を世界に適合させることが求められており、欲望、事前意図、行為内意図という志向的状態では、世界を心(表象内容)に適合させることが求められています。

第三に、発話行為は誠実性条件を持ちますが、その誠実性条件は、志向的状態です。例えば、pを主張している時には、pを信じているという志向的状態が、pの主張の誠実性条件です。Aをおこなうと約束するときには、Aを行うことを意図していることが、約束の誠実性条件です。Aを行うことを命ずるときには、Aをしてもらいたいという願望(志向的状態)が、命令の誠実性条件です。「命題内容を伴う各発話内行為の遂行に際して、われわれがその命題内容をともなうある種の志向的状態を表明しているということ、しかもその志向的状態が当のタイプの発話行為の誠実性条件であるということである。」(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房、11f)

志向的状態は、発話行為の誠実性条件である。

第四に、発話行為は次のように充足条件をもつのですが、同様に、志向的状態も充足条件をもちます。

例えば「言明は、それが真なる時に限って充足されている。命令はそれが順守されたときに限って充足されている。約束はそれが守られたときに限って充足されている」(前掲書13)

このような「充足概念は、明らかに志向的状態に対しても当てはまる。私の信念は物事が私の信ずるとおりになっているときにかぎって充足されるであろうし、私の願望はそれが満たされたときに限って充足されるであろうし、私の意図はそれが遂行されたときに限って充足されるであろう。」(前掲書13f)

私は、『問答の言語哲学』で発語内行為が、それを返答とする相関質問の発話と対応していること、言い換えると、質問発話において、すでに返答となる発話の発語内行為が指示されていることを指摘しました。そこから予測できることなのですが、志向性が発話行為に似ているとすれば、志向性もまた相関質問をもち、相関質問に対する答えとして、成立するのではないか、と思われます。

次回からそれを検討したいと思います。

26 志向性と問答推論の関係 (20210302)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

久しぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。少し、志向性と問答(ないし問答推論)の関係を考えたいと思います。今回私が論証したいのは、サールが区別している6つの志向性は、すべて問いに対する答えとして、しかも問答推論によって成立するということです。さらに、問うことは、この6つの志向性とは異なる特殊な志向性であることを明らかにしたいと思います。(これを通して、私が目指しているのは、「志向性」を解明することではなく、問答および問答推論を解明することです。なぜなら、志向性や意識や表象などの概念が非常にあいまいで多義的であるので、問答に注目した方が、より有効だろうと思われるからです。)

 サールは、まず、心的状態がすべて志向的であるのではない、といいます。例えば、「信念、恐れ、希望、願望」は、志向的であると言いますが、「神経過敏、得意、対象なき不安」は志向的ではないといいます。それは、志向性が、何か「について」という性質であることによります。

サールは、蛇と蛇の経験は、別のものですが、不安と不安の経験は区別できないので、不安は志向性を持たないと言います。

 つぎに、志向性intentionality と意図intentionは似ているのですが、しかし、意図することは、志向性の一種に過ぎないと言います。信じること、欲することは、意図することではないが、志向的であるといいます。

 つぎに、志向性は状態ないし出来事であって、行為ではないと言います。「あなたは今何をしているのか」という問いに対して、「私はいま雨がふっていることを信じている」とか「税金の安くなることを望んでいる」とか「映画に行きたいと思っている」とかいうような答えをしない(参照サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房、5)

 このような志向性が意識や意図や行為と異なるという指摘はただしいとしても、「志向性」は曖昧なままです。サールはそれを言語行為との類似性にもとづいて、明確にしようとします。

25 問いと推論の関係 (20200812)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 問答推論主義にとって、もっとも基本となることは、このカテゴリーの始めに01と02で述べたように、<推論の前提から論理的に導出される命題は、複数あるが、現実に推論が成立するためには、その中から一つの命題が結論として選ばなければならない。その選択は、ある問いに対する答えを選ぶという仕方で行われている>ということである。この背景にあるのは、<推論は問いの答えを求めるプロセスである>という理解である。これに対しては、「推論の結論となりうる複数の命題から一つを選択する方法は、これ以外にはありえないのだろうか?」という疑問が生じるだろ(私の最終講義でも、森田邦久さんからそのような質問を受けた。そのときには、他の解決策が思いつかないというような不十分な返答しかできなかったのだが、以下では、もうすこしだけ説得力のある説明をしたい。)

 問いの答えを見つけるプロセスには、次の二通りがある。一つは、これまで念頭に説明してきたものであり、<ある問いに対する答えを見つけようとして、すでに知っている知識を前提として、そこから推論によって答えを求めようとする場合>である。もう一つは、これまで言及してこなかったものだが、<問いに対するある暫定的な答え、ないし答えの予想をえて、それを証明しようとして、それを結論とする推論を考える場合>である。この後者の場合には、推論の結論は最初にまだ不確実なものとして与えられており、それを証明するために前提を求め、推論によって当初の答えを証明しようとすることになる。このどちらにおいても、<推論は問いの答えを求めるプロセスである>といえるだろう。

 私たちが推論するのは、この二通りしかないのではないだろうか。いま私はこれ以外の場合を思いつかないのだが、そのことを論証する方法も思いつかないので、まだ不十分であるかもしれない。もしその他のケースを思いつく方がおられたら、教えて欲しい。

24 四肢構造と二重問答関係 (6) (0200708)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 今日の課題は、実践の四肢構造を二重問答関係と関係づけることである。

 実践の四肢構造は、次のように表記できる。

能為者誰某は役柄者或者として、実在的所与を意義的価値として、扱う(感じる、欲する、評価する、扱う)>

実践的行為主体は、<能為的誰某―役柄的或者>という二肢性をもつ。この主体の二肢性は、対象の二肢性に対応している。とりわけ、主体の役柄と財態の価値は対応するだろう。例えば、人は教師として、相手を生徒として扱う。より細かく言えば、生徒を勉強の良くできる生徒として、あるいはできの悪い生徒として、あるいは問題児として、あるいは協力的な生徒として、などと教師にとってある価値を持つものとして扱う。ひとは教師として、教室をよく整頓された教室として、あるいは、荒れた教室として、設備の整った教室として、狭い教室として、などと教師にとってある価値をもつものとして扱う。ひとは教師として、黒板を、書きやすい/書きにくい、消しやすい/消しにくい、読みやすい/読みにくい、大きい/小さい、などと教師にとっての価値をもつものとして認識する。このように、主体の役柄と財態の価値は対応するだろう。

実践的態度は、行為を基本とするだろう。例えば、

   ひとは、教師として、生徒たちに数学を教える。

   ひとは、夫と父親として、妻と子供の生活のためのお金を稼ぐ。

数学を教える行為を、お金を稼ぐためにおこなうのだとすると、次の四肢構造がある。

   <ある教師は、夫と父親として、数学を教える行為を、お金を稼ぐこととして、おこなう>

ここでは、教師にとって、数学を教えることは、お金を稼ぐための手段であるが、もちろん場合によっては、数学を教えることは、教師の生きがいであり、生活費を稼ぐことは、その目的のための手段になっている、ということもあるだろう。

 実践的態度の中心は行為である。一般に、行為は目的を持ち、行為はその目的を実現するための手段となる。様々な行為が集まって、一つの〈役割行為〉を構成するとき、個々の行為の目的は、この役割行為の実現だということができる。例えば、「リンゴを売る」という〈役割行為〉は、リンゴを磨く、リンゴを分類する、リンゴを並べる、リンゴを勧める、リンゴを袋に入れて手渡す、代金を受け取る、などの多くの行為からなる。さらに、リンゴを含む多くの果物を売る、多くの果物を仕入れる、売り上げをみて仕入れ量を決定する、などの多くの〈役割行為〉をすることが、「果物屋」という〈役柄〉をこなすことである。これは次のように表現できるだろう。

  <人は、果物屋(役柄)として、ある行為をリンゴを売ること(役割行為)として行う>

ここでは、〈役柄〉は「役柄的或者」を示し、役割行為は「意味的価値」を示している。

 前回、行為の束が〈役割〉をつくり、〈役割〉の束が〈役柄〉をつくると説明しました。これに基づいて実践の四肢構造を表現すると次のようになる。

  <主体は〈役柄〉的或者として、ある行為を〈役割行為〉として行う>

 では、この四肢構造を二重問答関係と関連付けるにあたって、問答関係について振り返っておきたい。私たちは、問答関係を二種類に区別できる。一つは、理論的な問いと理論的な答えである。理論的な問いとは、真理値を持つ命題を答えとする問いである。理論的な答えとは、真理値を持つ答えである。もう一つは、実践的な問いと実践的な答えである。実践的な問いとは、ある目的を実現するためにどうするか、あるいはどうすべきかを問うものである。この答えは真理値を持たない。ただし、適/不適、正/不正の区別を持ちうるが、これらの区別を持たない場合もある。

 このような問答の区別を導入する時、二重問答関係は、次の4種に区別される。まず二重問答関係を一般的に次のように表示する。

   Q2→Q1→A1→A2

これは、<問Q2を解くために、問Q1を設定し、その答えA1を得る。このA1の前提の一つとする推論によって、Q2の答えA2を得る>ということを示している。

 ここで理論的問いをTQ、実践的問いをPQと表記する時、二重問答関係は、次の4種類になる。

   ①TQ2→TQ1→A1→A2

   ②PQ2→TQ1→A1→A2

   ③PQ2→PQ1→A1→A2

   ④TQ2→PQ1→A1→A2

(④のケースについては、「17 理論的問いは、実践的問いの上位の問いになりうる? (20200618)」で論じた。)

Q1に焦点を当てて、理論的な問いTQ1の二重問答関係は①と②となり、実践的な問いPQ1の二重問答関係は③と④となる。

 ここでは、実践的問いの二重問答関係、③PQ2→PQ1→A1→A2について、それと四肢構造の関係を考察しよう。例えば、ある人が果物屋として行為する目的が、家族持ちとして生活費を稼ぐことにあるとすると、次の二重問答関係があると言える。

  PQ2「私は、家族持ち〈役柄〉として、生活費を稼ぐためにどうすればよいのか?」

  暫定的A2「私は、家族持ち〈役柄〉として、果物屋を営めばよい」

(これは不完全な答えである。なぜなら、果物屋を営むためにどうすればよいのか分からなければ、答えとして役立たないからである。)

  PQ1「私は、果物屋〈役柄〉として、果物屋を営むためにどうすればよいのか?」

  A1「私は、果物屋〈役柄〉として、リンゴを売るという〈役割行為〉をすればよい」

(もしリンゴを売るためにどうすればよいのか分かるならば、これは完全な答えである。もしこれがPQ1への完全な答えであるならば、PQ2の完全な答え(A2)でもある。)

 これで 四肢構造<私は、果物屋〈役柄〉として、リンゴを売るという〈役割行為〉をする>と二重問答関係は、明確だろうか。以上から、次のように言える。

<認識や行為は、理論的問いや実践的問いの答えと理解できる。したがって、認識や行為の四肢構造は、理論的問いや実践的問いへの答えがもつ四肢構造でもある。これらの問いはより上位の問いをもち、それを考慮する時、二重問答関係にある>

問題は、これから何が言えるか、である。「四肢構造」と「二重問答関係」のこの関係から何が明らかになるのだろうか。

 廣松の四肢構造は、私には、まだあいまいな点がおおいが、しかしそれでもそれは重要な指摘だという感じがある。他方で、二重問答関係があらゆるところに見られることは明らかであり、ここの問答を認識活動や実践活動の中に位置づけようとするとき、有用な指摘になるだろう。そして、この二つは、上記のような必然的な関係にある。

 ただし、この関係から何が言えるのかは、まだ明瞭ではない。