60 共有問答と共有知について (20230108)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

2023年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

今年こそ、意識と言語の発生メカニズムが明らかになることを願います。

私は、言語の発生は問答の発生である、と推測します。では、問答はどのように発生するのでしょうか。人はなぜ問うのでしょうか。以下は、私の現在の単なる予測であって、証明できているものではありません。

<知は、個人の知であれ、共有知であれ、相関質問への答えとして成立する、つまり問答として成立すると考えます。最初の問答は、共同問答として成立し、共同問答は、共有された問いとそれに対する答えとしての共有知として成立すると考えます。なぜなら、言語の発生は問答の発生であり、言語は他者との意思疎通のために生じた言えるから、問答も他者との意思疎通のために生じ、共同問答として生じたと思われるからです。問答には自分との自問自答もありますが、個人が行う最初の問答は、他者との問答であろうと思います。他者との問答が成立するとき、それは常に共同問答として成立します。個人の知や自問自答は、共有知や共有問答からの分離によって成立するのだと思われます。>

さて、以上の予測を、もう少し詳しく説明したいと思います。

まず、言語共同体の中で既にその言語を習得している二人が問答する場合を考えましょう。一方が他方に問い、他方がそれに答えること、が成立するには、他者に問われた者が、その問いを理解しなければなりません。答える者がその問いを理解していなければ、その問いに答えることはできません。問われたものがその問いに答えるとき、問うた者は、答える者がその問いを理解したと考えていなければ、その発話を、自分の問いへの答えとして認めることはできません。つまり、問答が成立するには、問いを二人が同じ仕方で理解し、しかもそのことを二人が知っている必要があります。答えについても同様のことが言えます。問うた者は、相手の発話を自分の問いへの答えとして捉えることが必要であり、答える者の発話が、その問いへの答えとなっていることを二人か理解すると同時に、そのことを二人が知っている必要があります。こうして、他者との問答が成立するには、問いと答えと問答関係について、両者が知っており、かつこのことが共有知になっている必要があります。つまり<他者との問答は、共有問答として成立する>のです。

この説明は、共有知の成立を前提とします。しかし、もし共有問答によって、最初の共有知が成立するのだとすると、共有問答の成立が問いの共有知を前提するということと矛盾ます。共有地の説明が共有知を前提とするという循環、あるいは、共有知の無限遡行は、どのようにして回避されるのでしょうか。それは最初の問いの共有知が、予測として成立し、予測誤差最小化メカニズムによってより確かなものになる、と考えることで回避できます。

予測として成立するのは、最初の問いの共有知に限りませんし、また問いの共有知にも限りません。おそらくすべての共有知について成り立つでしょう。

私たちは、共有知をモデルとして想定します。つまり自分と他者がある知を共有していることを想定します。他者の心の中はわからないので、他者が私とある知を要求していることを想定するだけです。ここで想定するのは、知を共有していることと、その知がある然々の内容をもつこと(たとえば、「二人がコップを見ている」という内容です。ここで重要なことは次です。

<共有知を想定をしているのは、個人です。しかし、その想定が間違いなら、これは知ではありません。つまりこれは共有知でもないし個人の知でもありません。他方、この想定が正しいなら、これは共有知であって、個人の知ではありません。したがって、いずれにせよ、これは個人の知ではありません。繰り返しになりますが、共有知の予測が正しければ、これは共有知であり、予測が間違いなら、これは共有知ではありません(個人の知でもありません)。>

共有知を想定するのは個人の頭脳の予測誤差最小化メカニズムです。共有知の予測誤差最小化メカニズムでは、ミラー・ニューロンも働いているだろうと思います(共有知に対するミラー・ニューロンの貢献は別途考察する必要があります)が、それでもそれは確かに個人の頭脳内のメカニズムです。ちなみに、この予測誤差最小化メカニズムは、無意識的なメカニズムだと思います。

では、言語が発生するときの最初の共有問答は、どのような内容になるのでしょうか。これについて、次に考えたいと思います。

59 共同注意は予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する (20221229)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回の最後に次のように書きました。

「<ある事実に注意してほしい>という意図を他者に伝達しようとする意図(伝達意図)は、<ある事実に注意している>という状態を、他者と共有することを目指しています。つまり、共同注意を目指している意図だと思われます。そうだとすると、伝達意図は、(他の対象でも同じ対象でもよいのですが)ある対象への共同注意の経験を前提します。」

ここでは、「伝達意図」「共同注意」の関係について、もう少し詳しく考えたいと思います。

二人の人間AとBがいて、Aが、Bが対象Oに注意することを意図1し、Aがその意図1をBに伝達しようと意図2するとします。この意図2のような意図を「伝達意図」と呼ぶことにします。

またAとBが対象Oに「共同注意」とは、<AとBがともに対象Oに注意し、かつ両者がそのことに気づいている>ということだとします。では「伝達意図」と「共同注意」はどのように関係するでしょうか。

この二つの関係としては、次の二通りが考えられます。

1,Aが対象Oに注意し、それをBに伝えようとする伝達意図によって、共同注意が成立する。

(ちなみに、Aが伝達意図をもつことは、さまざまな目的を持ちえます。つまり、伝達意図の実現によって共同注意が成立するとしても、そのことは、伝達意図がもちうる目的の一つに過ぎません。伝達意図が実現しても、共同注意が成立しないこともありえます。例えば、教師が複数の生徒に、顕微鏡の中の細胞を見てくださいと言い、一人の生徒がそれを見る前に、隣の生徒に同じように顕微鏡の中の細胞を見て下さいと言う場合です。また、かりに共同注意が成立したとしても、それは目的ではなく、他のことが目的であり、共同注意は付帯的に成立するにすぎないこともありえます。例えば、教師が生徒にあの星を見て、あの星の名前を考えてくださいという場合、生徒と教師がその星にともに注意するとしても、そのことは、この場合の伝達意図の目的ではありません。)

2,AやBが個別に対象Oに注意する前に、したがって個人が対象Oへの注意を伝えようとする伝達意図の成立する前に、AとBの対象Oへの共同注意が成立し、その後に各人の対象Oへの注意が成立する。

幼児の発達過程において、伝達意図も共同注意もできるようになっているとすると、その場合には、上記の1のケースがあるでしょうが、発達過程において、共同注意が最初に成立するときには、上記の2のケースになると思われます。その根拠は、指示行為が、共同注意の後に発生するということです。幼児の発達においては、伝達意図よりも、共同注意の成立が先行するようです。トマセロによると、共同注意は、9か月ころ成立し(これがトマセロの「9か月革命」です)、指さしの成立は、トマセロによれば11か月ころ、アダムソンによれば12か月ころ(cf. ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店、p.21)のようです。指さしは、他者の注意をある対象に向けようとする伝達意図にもとづく行為ですから、伝達意図の成立は、共同注意の成立の後になります。

では、対象への幼児の注意と、対象への幼児と大人の共同注意は、どちらが早く成立するのでしょうか。私には確証と言えるものがまだ見つからないのですが、共同注意が個人の注意に先立つと予想します。アダムソンが引用しているヴィゴツキーの次の言葉を孫引きしておきたいと思います。

「子供の文化的発達に見られる機能はすべて2回出現する。最初は社会的レヴェルで、その次に個人的レヴェルで。最初は人と人との〈間で〉(精神間)、その次に子どもの〈内部で〉(精神内)。」(同上p.38からの孫引き)
(カテゴリー【共同注意と指示】では、

・個人的な注意よりも、共同注意が発達上先行するということ、

・個人による指示よりも、「共同指示」ともよぶべきものが、発達上先行すること、

トマセロの「シミュレーション理論」を批判して、この二点を証明しようしました。トマセロ、アダムソン、大藪の議論を紹介しつつ、考察しましたが、上記の証明としては、不十分なままに、中断しています。それを書いていたのは2008年で、その時私は、ミラーニューロンや能動的推論や予測誤差最小化メカニズムについて知りませんでしたが、今ならそれを考慮してもう少し進んだ議論ができそうな気がします。)

#共同注意は、予測モデルとして成立するのではないでしょうか。

<私は、自分と他者が同じ対象Oについて一緒に共同注意しているというモデルから、自分と他者の対象についての注意の内容を推論する。他者が現実に注意を向ける対象が、私が予測する対象とは異なっているならば、私は当初のモデルを修正する、この新しいモデルから…>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立するのではないでしょうか。共有注意は、<あることを予測し、それから予測する帰結を、現実と比較して、誤差が最小化するように、予測を修正する>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する。

#共有知は予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する

共有知とは、「AもBもpを知っており、そのことをAもBも知っており、そのことを・・・(以下無限に続きうる)」というような知ですが、これは正確な定式化ではありません。実は、それを適切に定式化することは非常に困難です。そこからわかることは、共有知を個人知から構成することはできないということです。では、共有知は存在しないのか、といえば、そうもいきません。なぜなら、私たち他者とコミュニケーションするときには、共有知を想定しているからです。以下は、カテゴリー「世にも不思議な共有知」に書くべきことなのですが、そこには、改めて書き込むことにして、今回思いついた、この問題の解決方法を伝えたいと思います。

それは、<共有知は、予測モデルとして存在しているのではないか>ということです。

共有知は、<共有知というモデルから、私は、自分と他者が同じ知をもっていることを推論する。他者が現実に持つ知がそれと異なることが分かったら、私はモデルを修正して、修正された共有知が共通であることを予測する>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立するのではないでしょうか。

「共同注意」と「共有知」についてのこれらの定式では、それらは、個人が行う予測誤差最小化メカニズムであって、共同で行う予測誤差最小化メカニズムではありません。したがって、これではこれらの説明としては、まだ不十分かもしれません。また、これらの定式化における「予測誤差最小化メカニズム」は、無意識的なものなのか、意識的意図的なものなのか、という問題もあります。

ここでは、言語的探索である<問うこと>がどのようにして生じるのか、そして目下の文脈では、それを予測誤差最小化メカニズムとして説明することです。そのために、共同注意や共有知を予測誤差最小化メカニズムとして説明しようとしています。共有知を予測誤差最小化メカニズムで説明できるのかどうか、さらに考察したいと思いますが、今年はこれで最後になりそうです。

皆様良い年をお迎えください!

58 振り返りの後、伝達意図へ (20221225)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

このカテゴリーの第45回から:現代神経科学における、K.フリストンの「自由エネルギー理論」、「能動的推論」、ヤコブ・ホーヴィの「予測誤差最小化メカニズム」の議論を紹介し、それと問答との関係を考察してきましたが、(議論が錯綜して進んでいないので)これまでの経緯を振り勝っておきたいと思います。

ベイズ推論あるいは能動的推論も、推論である以上は、問答推論になっていると思われます。つまり、その推論は問いによって始まり、問いの答えを見つけることによって完了する、ということです。しかし、能動推論や予測誤差最小化メカニズムが前提する問いというものは、もちろん<見かけ上の問い>であって、意識的な問いではありません。

ベイズ推論を問答推論として説明できることを明確に示めそうとしたのですが、ベイズ推論の理解が不十分なために明確に論じられないので、第54,55回から「「問い」を予測誤差最小化メカニズムによって説明する」ことに取り組み始めました。しかし、言語による「問い」や「問答」は、非言語的な探索とは異質であるために、それらを予測誤差最小化メカニズムによって説明するとしても、<見かけ上の探索>や<非言語的な探索>を予測誤差最小化メカニズムによって説明するのとは違った仕方で説明する必要があることが明らかになりました。

・<見かけ上の探索>を説明する予測誤差最小化メカニズムは、神経組織のメカニズムです。

・<非言語的な本当の探索>は、意識が成立した段階での探索、つまり意識された欲求(情動)を満たすための探索です。したがって、これを説明するには、より高度の神経組織のメカニズムが必要になると思われます。

・<言語的な探索>は、言語的な探索、つまり問いに答えようとする過程であり、さらに高度の神経組織のメカニズムを必要とするはずです。そして、この意識的な問答過程は、意識的な予測誤差最小化メカニズムとして理解することができます。つまり問いが答えの半製品であるという意味で、答えの予測(あるいは予測の半製品)であり、その答えを探求する過程は、予測誤差最小化のプロセスだと理解することもできます。このように問答過程を予測誤差最小化過程としてとらえるとき、それは(究極的には何らかの神経組織のメカニズムに依拠するとしても)ニューロンネットワークの活動ではなく、概念の意味に依拠して理解可能な、あるいは構成可能なプロセスです。

ニューロンネットワークが行う予測誤差最小化メカニズム(ベイズ推論)と、人間が意識的意図的に行う問答推論としての予測誤差最小化過程(意識的なベイズ推論)を区別しなければなりません。

この後者が、前者の基礎の上にどのように成立するのか、またどのように発生するのか、これを明らかにすることが課題(第45回以後の考察の最終課題)です。

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さて、前回の話に戻りたいと思います。

前回見たように、人間の新生児は、無意識的に他者の表情や身振りの模倣をします。そして、<無意識の模倣が身振りや発声の模倣となること>、さらに<模倣の反復からある身振りや発声がパターンとして同定されるようになること>を推測できます。さらに<このような身振りや発声が意識的なものになるとき、それにともなう行為連関を伝えることを予期し、その伝達を意識的に行うようになる>と推測できます。

 ある行為連関を伴う身振りや発声を習得しているとします。では、そこから、身振りや発声によってその行為連関を伝えようとする意図(伝達意図)はどのようにして発生するのでしょうか。これが今回の課題です。

<ある事実に注意してほしい>という意図を他者に伝達しようとする意図(伝達意図)は、<ある事実に注意している>という状態を、他者と共有することを目指しています。つまり、共同注意を目指している意図だと思われます。そうだとすると、伝達意図は、(他の対象でも同じ対象でもよいのですが)ある対象への共同注意の経験を前提します。

 知覚や注意は、予測誤差最小化メカニズムによって成立するのですが、共同注意もまた予測誤差最小化メカニズムによって成立するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

57 模倣と予測誤差最小化メかニズム (20221222)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回、探索を次のように分けました。。

<見かけ上の探索行動>

 遺伝的な探索行動

 学習としての探索行動

<非言語的な本当の探索行動>

 欲求にもとづく探索行動

<言語的な本当の探索行動>

そこでは、<学習としての探索行動>としては、条件反射とオペラント行動を考えていました。しかし、学習には、これらに加えて<模倣による学習>があるという指摘(ブラックモア『ミーム・マシンとしての私』を読んで、模倣について考えなければならないと思いました。

模倣行動を行うのは、人間だけのようです。マカクは模倣をしないようです。チンパンジーでも模倣することは難しいようです。(以下、明和政子「模倣はいかにして進化してきたのか?」

――比較認知科学からのアプローチ」(『バイオメカニズム学会誌』Vol. 29 No,1,2005)https://www.jstage.jst.go.jp/article/sobim/29/1/29_1_9/_pdf を参考にしました。)

ヒトとチンパンジーの幼児は、自動的に他者の表情を模倣するそうです。その後この模倣はチンパンジーでも人間でも8ケ月のころ消失するそうです。ただし、人間の場合には、しばらくするとそれが再び出現する(これにはトマセロのいう「9か月革命」が関わっていそうです)のに対して、チンパンジーも、9カ月ごろに突然、模倣「らしき」反応を見せるが、一か月程度でなくなるそうです。その後、「チンパンジーは、呈示した行為を、訓練なしに見ただけで再現する(模倣する)ことはほとんどなかった。チンパンジーにとって、模倣はたいへん難しいらしい」ということです。

面白いことに、チンパンジーは、歯ブラシを持った行動など、物を操作する行為の場合には、訓練すれば模倣できるようですが、「「身体の動き」の情報しか含まない(物を操作しない)行為」は困難なようです。

これに対して、ヒトの幼児は、9ケ月以降、他者の身振りや発声の模倣できるようになります。他者の身振りや発声を模倣を反復するとき、それらの身振りや発声は、ある一般的なタイプとして同定されるにようになるでしょう。そして、その身振りや発声をすることは、一定の「行為連関」を持つことになるでしょう。つまり先行する行為や状況、一定の後続する行為と結合することになるでしょう。発声したものの視線の方向に注意するとか、ある身振りをする他者から離れるとか、その他者に接近するとか、戦闘の用意をするとか、です。こうして、身振りや発声の模倣から言語が発生すると予想します。

(マカクやチンパンジーが、他の個体の発声の模倣をしないと述べたのは、私の予想で未確認です、おそらく何か研究があるだろうと思います。イモを洗うサルが有名ですが、マカクも物をもって行う行為は模倣することがあるということだろうとおもいます。しかし(物を持たない)身振りの模倣ができないということなのでしょう。ところで、人間もチンパンジーもミラーニューロンを持つことが知られていますが、人間は他の個体の行為を模倣しますが、チンパンジーは模倣しません。模倣するには、ミラーニューロンが必要だと思われますが、しかしミラーニューロンだけでは不十分だということになりそうです。)

最初に見られる模倣は、無意識的な行動だと思われます。私たちは、教師や先輩のしぐさや話し方を無意識のうちに模倣していて、他者から指摘されてそれに気付くことがあります。(マカクやチンパンジーの模倣行動の研究が、無意識的模倣と意図的な模倣に区別して行われているのかどうか、未確認です。)無意識的な身振りや発声の模倣によって、ある集団の中で多くの身振りや発声が無意識のうちに共通のものになると推測します(まだ共有知になっているとは限りません)。ある身振りや発声の習得には、予測誤差最小化メカニズムが働いていると思います。(行為としての)身ぶりや発声の習得と同時に、それらに伴う一定の「行為連関」を学習することになるでしょう。

これは、身ぶりや発声の意味を学習することです。この学習は、まだ無意識的なものだと思われます。身ぶりや発声の模倣ができるようになると、それをエコー的にではなく、自発的に行うようになるでしょう。それは、身振りや発声にともなっている「行為連関」を自発的に引き受けるということです。例えば、「喜び」の身振りや発声、「怒り」の身振りや発声を自発的に行うとき、それにともなう「行為連関」を自発的に引き受けています。例えば、狩りの成功を喜ぶことは、狩りの成功を仲間と同じように受け取っていることを示し、喜びを共有しようとしていること、狩りのときに緊張していたこと示すことです。獲物をとりあって怒ることは、私によこせと要求することや、さもないと攻撃するぞと威嚇することを伴います。

このような身振りや発声が、<意識的なものになる>とき、それにともなう行為連関を伝えることを<意識的に行う>ことになります。つまり、<見かけ上の伝達>ではなく<意図的な伝達>になります。(ただし、以上はまだ私の全くの想像ないし思弁です。これを経験的に証明するにはどうしたらよいでしょうか。ここには、飛び越してしまった多くのステップが隠されており、それを明示化していく必要があります。そのなかで、経験的に証明できることも出てくるでしょう。)

次に、「伝達意図」の成立について考えてみようと思います。

56 <言語的な探索(問うこと)>と<非言語的な探索>と<見かけ上の探索>の区別(20221214)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>と<見かけ上の探求>の区別を予測誤差最小化メカニズムの観点から考察したいと思います。

予測誤差最小化メカニズムは、ボトムアップでなく、トップダウンで知覚や行為を説明します。このアプローチを、三種類の探求(<言語的な探索(問うこと)>、<非言語的な探索>、<見かけ上の探索>)の関係に適用すると、左のものから右のものを説明することになります。

#<非言語的な本当の探索>と<見かけ上の探索>の関係について

欲求をもって探索する動物の登場以前にも、すべての動物の運動は、エサやよい環境を探求することとして理解することができます。つまり<本当の探索>の登場以前には、<見かけ上の探索>が成立しています(ただし、それを<見かけ上の探索>として理解するのは、<本当の探索>をする動物です)。

ただし、一旦本当の探求が成立すれば、その動物がおこなう<見かけ上の探索>は(全てではないとしても、その多くが)、その動物によって<見かけ上の探索>として理解され、その動物が行う<本当の探索>のプロセスの一部分として組み込まれることになります。例えば、水を飲もうと欲求して、水を探して、水を飲むとき、その一連の行動は、たくさんの無条件反射や条件反射やオペラント行動を含んでいます。それらは、<見かけ上の探索>です。

ただし、<見かけ上の探索>だけを構成要素とすることによって、<非言語的な本当の探索>を説明することはできません。<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>をするには、何かを求める欲求という情動が必要です。欲求(情動)を持たない動物は、欲求をともなう<本当の探索>をできないからです。<見かけ上の探索>には、走性や無条件反射による行動である場合と、条件反射やオペラント反応による行動である場合があります。そして、後者は前者をその部分として含む場合があります。

ところで、(欲求を含めて)情動と意識は、どう関係しているのでしょうか。情動は常に意識されているのでしょうか。仮に意識されていない欲求(情動)があるとしても、欲求があれば、その意識が伴わなくても、その無意識の欲求にもとづく探索は、<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>だといえるように思えます。

#<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>の関係について

言語を獲得して、問うことができるようになれば、<非言語的な探求>はすべて言語化されて<言語的な探求(問うこと)>に変わるだろうと思います。したがって、言語的な探求が生じるとき、非言語的な探求はほとんど消失するだろうと思います。

 例えば、「芋を食べよう」と思って、芋に手を伸ばして、口元に運ぶとき、「芋に手を伸ばそう」とか「芋を口にもってこよう」とするとき、たいていは、それを明示的に言語化してはいない。しかし、そのとき行為を止められて「何をしているのですか」と問われたら「芋に手を伸ばしています」と答え、「なぜそうするのですか」と問われたら「芋を食べるためです」と答えるだろう。明示的に言語化していないとしても、行為はすでに暗黙的に言語的に分節化されている。言語を持つ以前のサルが、芋を手に取って、口に運ぶとき、その行為は暗黙的にも言語的に分節化されていないが、しかし、それらの非言語的な行為は、言語を持つ動物では、言語化されて構成されることになる。すべての意図的な行為を実現するための手段としてある行為が行われる時、その手段となる行為は、目的となるより上位の行為との<目的-手段>関係のなかに位置づけられており、その限りで言語的に分節化されている。

 ここまでのところで、行為と探索を混同しているように思われたかもしれませんが、すべての行為は同時に探索でもあると考えています。すべての行為には、多くのミクロな調整が必要であり、その意味ですべての行為にはミクロな探索が伴っているからです。

 以上の説明の中で探索を次のように分けました。。

<見かけ上の探索行動>

 遺伝的な探索行動

 学習としての探索行動

<非言語的な本当の探索行動>

 欲求にもとづく探索行動

<言語的な本当の探索行動>

この系列において探索行動が次第に高度なものになっています。よろ高次の探索は、より低次の探索を部分として含みうるが、より低次の探索は、より高次の探索を部分として含みえません。より低次の探索には、より高次の探索に含まれずに機能しているものと、より高次の探索に含まれて機能しているものがあります。

探索についての以上の考察をする中で明確になったことの一つは、<知覚も行為も、何かの探索である>ということです。フリストンやホーヴィは、知覚と行為を予測誤差最小化メカニズムで説明するのですが、すべての行為は探索でもあります。そして知覚は、行為を計画したり、実行したり、調整したりするために行われるので、知覚は行為のための探索であると言えそうです。予測誤差最小化メカニズムとしての知覚は、対象(あるいは対象の正しいモデル)を探索するメカニズムだと言えそうです。また予測誤差最小化メカニズムとしての行為は、行為では、モデル(実現しようとする事態)に適合するように入力(感覚刺激)を変更する、つまり実現しようとする事実が、原因となってある感覚刺激(その事実の知覚)が生じるように、行為によってその知覚の原因となっている事実を変更しようとします。行為は、実現したい状態を実現するための方法を探索するメカニズムだと言えます。

以上を踏まえて、言語的な探索(問い)や言語的な知覚や言語的な行為もまた、予測誤差最小化メカニズムであることを説明したいと思いますが、他方で、言語は、集団や他者との関係の中で成立したものです。そこで次に、集団や対他者関係のなかでの予測誤差最小化メカニズムを考えたいと思います。

55 問うことを予測誤差最小化メカニズムで説明する (20221209)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

#問うことを予測誤差最小化メカニズムで説明するなら、次のようになるでしょう。

<問いも、知覚や行為と同様の予測誤差最小化メカニズムによって成立する>という可能性をここで考えたいと思います。まず思いつくのはつぎのような説明です。

<問いを予測し、その問いを原因/根拠として、その答えの候補としていくつかの命題を推論します。それらの答えの候補がどれも、感覚刺激や知覚などによって正当化されれば、それが問いの答えとなり同時に問いは適切なものと見なされます。もしどれも正当化されないとき、問いは不適切なものとして修正されます。>このような問いの予測と結果による問いの修正、これが問いに対する予測誤差最小化メカニズムだと言えそうです。

ところで、知覚や行為の場合には、直接には与えられない対象や行為を、それから帰結していると思われる現実の感覚刺激をもとに推論し、その対象や行為をもとに感覚刺激を予測して、それを現実の感覚刺激と比較します。それに対して、問いはすでに言語化されたものとして与えられているように思われます。この差異を埋めるために、上記のメカニズムを、いまだ明示化されていない<適切な問い>についての予測誤差最小化メカニズムとして捉えたいとおもいます。

#問いの前提の予測:問題設定の反証主義

問いが成立するには、問いの前提が成立する必要があり、問いの前提が成立するには、それを答えとする別の問いが成立する必要があり、そのためには、その別の前提が成立する必要があり、…というように、どこまでもさかのぼる必要が生じるように見えます。これでは最初の問いの成立が説明できません。

では、最初の問いはどのように成立するのでしょうか。最初の問いの前提は、主張として成立するのではなく、成立していると予測されるのです。予測誤差最小化システムの、最初の主観的事前確率のように、最初の問いの前提は主観的に想定されます。つまり、最初の問いの前提は客観的に成立していなくてもよいのです。なぜなら、それが成立しているかどうかは、問いの答えを求める中でチェックされ、答えが見つからなければ、問いの前提を修正し、問いを修正すればよいからです。これを、ポッパーの反証主義にならって「問題設定の反証主義」と呼びたいとおもいます。問いの前提が予測された仮説であるとすると、そのとき問いもまた予測された仮説です。

冒頭にあげた課題、<問いも、知覚や行為と同様の予測誤差最小化メカニズムによって成立する>ことを説明するという課題ですが、適切な問いも、対象や行為と同様に直接に与えられていないという意味では、これらは「同様に」予測誤差最小化メカニズムとして説明できそうです。しかし、問いは言語的であり、その点で知覚や行為とは、異なる点があります。

そこで次に、<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>と<見かけ上の探求>の区別を予測誤差最初化メカニズムの観点から考察したいと思います。

42 サッカーWカップとナショナリズムと世界市民意識 (20221205) 

[カテゴリー:日々是哲学]

サッカーWカップで日本は盛り上がっています。それはプチ・ナショナリズムの高揚です。(オリンピックの盛り上がりも、同様です。自民党がオリンピックをやりたがるのも、ナショナリスムを求めるからかもしれません。)サッカーのクラブチームの世界大会では、このような盛り上がりはうまれないでしょう。それを考えると少し気が滅入ります。

しかし他方で、サッカーのWカップは、(厳密言えば、幻想ですが)世界のすべての国が参加している大会という意味があります。したがって、それは世界全体の催し物functionという意味を持ち、世界全体を意識することができます。したがって、サッカーワールドカップを、世界市民意識を発揚する機会にすることも可能だろうと思います。マスコミの方には、これを機会に世界市民意識を発揚させることをお願いしたいです。そのためには、自国のチームの勝ち負け以外についても沢山報道してほしいです。

54 「ベイズの定理と問答」の考察の行き詰まり (20221201)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

49回目からベイズ推論と問答推論の関係を考察しています。証明したいことは、<ベイズ推論は、問答推論として成立する>ということでした。

52回で述べたように、ベイズ推論も推論である以上は、前提と結論からなるものです。したがって、通常の推論と同じく、与えられた前提から論理的の帰結する結論は複数可能です。その中の一つを結論として選び出すことによって実際の推論が可能になるのですが、その選択を決定するものが何であるのかは、ベイズ推論の中には与えられていません。それはその推論が行われる文脈の中にあるはずです。私は、問いないし問いに答えようとすることがそれであると考えます。

しかし、フリストンたち神経科学者が主張するように、ベイズ推論によって、知覚や行為やその心の働きが説明可能であるとしても、その場合のベイズ推論は、人間が意識的に行っていることではありません。彼らが主張するのは、知覚や行為における脳の働き(の一部)をベイズ推論によって説明できる、ということです。意識を持たない動物の見かけ上のその探索もまた、ベイズ推論によって説明できるのかもしれません。では、これらのベイズ推論はどのようにして可能になるのでしょうか。その場合、結論となりうる可能な複数の候補から、一つを選び出すのは何でしょうか。そこには問うことと似た働きをするものがあるのでしょうか。

 <ベイズ推論は、問答推論として成立する>を証明することは、可能だろうと今も推測しているのですが、(今の私には)非常に難しいのでもう少し時間がかかりそうです。そこで逆方向からのアプローチ、つまり「問い」を予測誤差最小化メカニズムによって説明することを考えたいと思います。

 

53 神経科学と超越論的観念論 (20221128)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(一か月ぶりに戻ってきました。少し前のupを読み直していたら、第49回のベイズの定理の証明に間違いが見つかりましたので、それを訂正しました。基本的な間違いですみません。正直なところ、ベイズ推論についてはにわか勉強で、十分に使いこなせるほどわかっていません。それでも取り上げるのは、ベイズ推論は人間や動物の脳の機能の説明や人工知能の作成にとって重要であり、それゆえにまた、それが問答推論として成立することを確認することが重要だと思うからです。)

この一か月フィヒテについて考えていたのですが、フィヒテの超越論的観念論と近年の神経科学の理論との親近性を感じました。日本フィヒテ協会のシンポジウムの発表原稿の最後に次のように書きました。

「神経科学における知覚や行為の説明理論として登場したカール・フリストンの「能動的推論」やヤコブ・ホーヴィの「予測誤差最小化メカニズム」やアニル・セスの議論は、フィヒテによる、物や自我や時間についての超越論的な反実在論的な議論や、自由についてのデフレ的理解と親和性があるように見えます。例えばアニル・セスは、「私たち一人一人にとって、意識的な経験がそこにあるすべてなのだ。意識がなければ、世界も、自己も、内面も、外面もない」(参考文献6,p. 9)と主張していますが、これはフィヒテの超越論的観念論を想起させます。もちろ彼らは神経システムを自然科学で説明します。しかし心を推論によって構成された予測モデルとして捉えるので、心の説明としては構成主義的ないし反実在論的な説明になります。フィヒテが「知識学」で苦心した試み、「事行」から出発して認識や行為を説明する試みが、現代の神経科学の試みに貢献できるかどうかは未知数ですが、親和的であることは確かです。(注8)

注8 彼らによれば、心は、外界からの感覚刺激から世界の表象を作るのではなく、まず世界についてのモデルを作り、そのモデルから感覚刺激を予測し、その予測を実際の感覚刺激と比較して、誤差があれば、モデルを修正するということを繰り返します。彼らは、知覚を推論として捉える心理学者ヘムホルツの影響を受けており、ヘルムホルツはカント認識論の影響を受けていると言われているので、彼らの主張が超越論的観念論と親和的であることは偶然ではありません。彼らは、知覚や行為をベイズ推論によって構築された予測モデルとして説明することを超えて、自我や自由意志などもベイズ推論によって構成される予測モデルである見なす取り組みを始めています。」

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR47%2020221120%20Spinoza%20and%20Fichte.pdf

私たちが外界について知ることは、すべて脳内で予測モデルとして作られ、それが感覚刺激によるチェックと修正を繰り返して成立している、と想定できます。すると、外界は、脳が構成したものです。脳が構成したものだけが私にとって存在するのです。私もまた脳が構成したものです。

(さらに言えば、神経科学が説明している脳もまた、脳が構成したものです。そうするとどうなるのかは、別途(おそらく科学哲学の問題として)考えることにします。)この考えは、「自我が自己の中に定立するもの以外には何ものも自我に所属しない」(『知識学の特性要綱』(『フィヒテ全集』第4巻360)と似ています。

(次回からは、ベイズ定理と問答の考察に戻ります。)

07 インフレ的自由概念とデフレ的自由概念 (20221125)

[カテゴリー:自由意志と問答]

(前々回の宿題「自由意志が成り立つかどうかは、最終的に社会的サンクションに依存するのか?」を論じる前に、自由概念の再検討をしておきたいとおもいます。)

フィヒテの自由論を検討する中で、「自由」についてのインフレ主義とデフレ主義の区別を思いつきました(フィヒテの主張については、前回のリンクをはった学会発表の原稿で説明しました)。

ここではフィヒテ解釈を離れて、この区別の可能性を追求したいと思います。

自由を、(とりあえずは人間の)ある種の能力やある種の活動性の性質として捉えることを「自由のインフレ主義」、あるいは「インフレ的自由概念」と呼ぶことにします。これに対して、自由を、 <意識的に考えたり行為したりすること>として捉えることを「自由のデフレ主義」あるいは「デフレ的自由概念」と呼ぶことにします。

「意識的に」という限定によって、無条件反射や条件反射のように、それを意識していても意識していなくとも成立する心の働きを除外するためです。人間が意識的に考えることは、すべて問答によって成立しているだろうと思います。また自由な行為は、意図的な行為だけであり、かつ意図的な行為はすべて自由な行為だと考えます。そしてこの意図は、問答によって成立すると思います(なぜなら、意図は意図表明の発話として成立し、意図表明の発話は問いに対する答えとして意味を持ちうるからです)ので、自由な行為もまた問答に基づいていることになります。したがって、自由とは<意識的に考えたり行為したりすること>であり、言い換えると<問答すること>です。

 このようなデフレ的自由概念を提案する理由の一つは、インフレ的な自由概念を説得的なものとして主張できないということです。

#インフレ的自由概念の欠点:出来事因果の不十分性と行為者因果の曖昧さ

自由な行為や自由な心の働きを出来事因果で説明しようとすると困難です。もし自由な行為(出来事1)が別の出来事(出来事2)を原因として生じ結果であるとすると、「出来事2が生じたから、出来事1が生じた」と語れるはずです。そしてこれを認める者は、「出来事2に似た出来事が生じたならば、出来事1に似た出来事が生じる」を認めるでしょう。出来事2と出来事1の因果関係が成立するのは、何らかの一般的な因果法則があるからだ、ということになります。しかし、この場合には、この出来事1は、自由な行為ではなく必然的な行為です。

そこで登場するのが、行為者因果です。行為者因果は、出来事間の因果関係ではなく、行為者と出来事の間の因果関係です。たとえば、主体が原因となって意志決定(出来事)が結果するとしましょう。このとき、似たような主体があれば、似たような意志決定をする、ということであれば、そこに一般的な因果法則があります。その場合には、それは必然的な意志決定になります。

行為者因果によって自由な心の働きや行為を説明するのであれば、その場合の原因と結果は因果法則以外のものによって決定していなければなりません。それは何でしょうか。それは行為者の力のようなものでしょうか。しかし、力がどのようなものであるかは、力が実現する因果関係によってしか理解できず、その因果関係は法則としてしか理解できないように思われます。そうだとすると、力の結果は、必然的なものであり自由なものではないことになります。このように行為者因果の概念は曖昧ですから、これによってある種の能力やある種の作用を自由なものとして説明することはできません。

#デフレ的自由概念の必要性

このようにインフレ的自由概念は整合的に考えることができないとしても、「自由」という概念は、不要ではありません。なぜなら「自由」概念が不要であるとしたら、すべての出来事が、物理的な因果法則と量子論的な偶然性によって決定していることになり、それでは心の自立的な働きを説明できないからです。私には、心の働きは、物理的な決定を超えた自立性を持っているように思われます。そして心の「自立性」を「自由」と呼びたいと思います。インフレ的な自由概念もこの心の「自立性」を説明しようとするものでしたが、それは失敗していると思われます。そこで、自由を別の仕方で説明すること、つまりデフレ的な自由概念を提案したいとおもいます。

 このデフレ的自由概念の有効性を示すには、自然的決定性からの問答の「自立性」ないし「自由」を証明しなければなりません。これを示すのは、問答に関する別のカテゴリーの課題になると思います。それ進展したのちに、またこのカテゴリーに戻ってきたいと思います。