51 3つの問題の同型性  (20220913)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンは、これらの3つの問題(デイヴィドソンは、記憶についても同様の問題を述べていますが、これは知覚の問題と同型なので、ここでは知覚と記憶を一つ問題と考えます)を説明した後に次のよう言います。

知覚と行為と推論についてのこれらの問題の同型性が明確になるように、表現しなおしたいとおもいます。デイヴィドソンは、これら3つの各々について、それぞれ2つの問題を指摘していました。最初の問題は次のような問題です。

・事実が知覚の原因となって、知覚が生じていること(原因と結果の関係)

・意図が行為の原因(理由)となって、行為が行われていること(理由と行為の関係)

・推論規則が原因(根拠)となって、他の前提から結論が導出されていること(根拠と結論の関係)

そして、これらの問題が解決されてもまだ不十分であり、次の問題が解決されなければならないといわれます。

・事実が知覚の原因となっているだけでなく、それが知覚の十分な条件になっていること

・意図が行為の原因(理由)となっているだけでなく、それが行為の十分な条件になっていること

・推論規則が推論の原因(根拠)となっているだけでなく、それが推論の十分条件になっていること

私は、これらの最初の問題を次のような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「なぜ、その知覚が生じるのか」「なぜなら、あの事実が原因となってその知覚が生じるから。

「なぜ、その行為を行うのか」「なぜなら、あの意図が理由となって、その行為を行うから」

「なぜ、その主張を行うのか」「なぜなら、あの推論規則が根拠となって、その結論を主張するから。」

次に第二の問題をつぎのような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「あの事実は、その知覚が生じるための十分な原因になっていますか?」

「あの意図は、その行為が生じるための、十分な理由になっていますか?」

「あの推論規則は、その結論が生じるための十分な根拠になっていますか?」

このとき、原因や理由や根拠が十分なものであるための条件を一般的な仕方で明示することはできないと、デイヴィドソンはいいます。私もその通りだと思います。しかし、時々の文脈の中では、私たちは、何が十分であるかについての暗黙的な想定をしていると思います。

このブログでの45回からこの回(51回)まで、知覚と行為と推論を正当化する難しさについてのドナルド・デイヴィドソンによる指摘を検討し、問答関係に注目することによってその困難を克服することを提案してきました。

ちなみに、これらの問題の根っこについて、デイヴィドソンは次のように説明しています。

「これらの難問はすべて、思考の因果関係に関わっている。行為の原因としての思考に、知覚の結果としての思考に、そして、他の思考の原因としての思考に関わっている。それらの関係があまりにも多くの難問をはらむという事実は、因果の概念と思考の概念との間に何らかの種類の不和があることを示唆している。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、465)

私の理解は、これとは少し異なります。この分析は、知覚と行為の説明についてはあてはまります。なぜなら、知覚と行為の説明では、心的要素と物的要素の間の因果関係が関わるからです。しかし、推論の説明の困難は、前提と結論の関係の説明の困難であって、これには因果関係は関係しません。

たしかに、因果の概念と思考の概念との間には不和があるとおもいますが、それについては、別の機会に考えたいと思います。

50 規約主義の問題に答える  (20220907)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

まず、前回述べた第一の問題の解決について、補足しておきます。

前回は、第一の問題「われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである」を、<前提がその結論を導くことを可能にしているのは、問答関係である>と考えて、第一の問題への解決と考えました。

しかし、デイヴィドソンが考えていたのは、もっと単純なこと、つまり<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則である>ということを、第一の問題の解決と考えていたのかもしれません。

この二つの解釈を合わせたものとして、第一の問題を理解するときには、<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則と問答関係である>と答えることで解決できます。

さて、第二の問題は、<推論が推論規則の適用によって可能になるとき、さらにその適用の規則が求められ、その場合、適用の規則の適用の規則の適用の規則の … というように無限に反復してしまい、推論の正当化ができなくなる>という問題です。これは「規約主義のパラドクス」と呼ばれているものです。(これを指摘していたのは、クワインの論文 ’Truth by Convention’ (1936)であり、飯田隆の『言語哲学大全II』にこの論文の紹介があります。)

たとえば、<pとp→rからrを導出する>推論は、∀x∀y((x∧(x→y))→y)という推論規則に基づいていることになります[p、rを命題定項とし、xとyを命題変数とします]。そしてさらに、<<pとp→rと∀x∀y((x∧(x→y))→y)からrを導出する>推論は、

∀s∀t(s∧s→t∧∀x∀y((x∧(x→y))→y))→tという推論規則に基づいています[s, t, x, yは命題変数とします]、というように無限に反復します。

この反復を避けるためには、pとp→rからrを導出するときに、「pとp→rからrが導出できますか」という問いに「はい、rを導出できます」と答える、という問答が行われていると考えることができます。この答えは、次のように正当化できます。もし「いいえ、rを導出できません」と答えるならば、pからrは導出できないということになり、それはp→rという前提を認めること矛盾します。したがって、この矛盾を避けるためには、「はい、rを導出できます」と答えることが必要になります。こうして「はい、rを導出できます」と答えることを正当化できます。規約主義のパラドクスは、推論「p、p→r┣r」を次の問答推論としてとらえ返すことによって、回避できるのではないでしょうか。

  Q「pとp→rからrが導出できますか」、p、p→r┣r

<規約主義のパラドクスを、推論を問答推論としてとらえ返すことによって解決する>ということが、ここでの提案です。

 

デイヴィドソンは、以上の3つの問題(知覚、行為、推論の説明の問題)が同じタイプの属する問題だと考えています。その点を次に確認したいと思います。

49 第三の問題、推論の説明の困難 (20220904)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが指摘したこれまでの二つの問題、知覚の説明の問題と行為の説明の問題は、どちらも心的な要素と物的な要素の両方を含んでいましたが、同じようなタイプの問題であって、この両方を含んでいないものがある、と彼は言います。それが「推論する」ことの説明の問題です。そして、デイヴィドソンは、ここにも二つの問題があると言います。

第一の問題は次です。

「われわれは推論を完全に心的な過程と見なすことができる。…しかしながら、論理的に関係しあう命題が単に心の中に生起したというだけでは、それ自体、推論であるのに十分ではない。、特定の思想に対する熟慮や是認が、他の思想を生み出して(つまり引き起こして)いなければならないのである。だがここでまた繰り返すことになるが、いかなる因果関係も十分ではない。われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、461)

第二の問題は次です。

「ところがそれでもまだ十分でないだろう。というのも、aとbからcが導かれると信じており、かつ、aを信じ、bを信じていることは、われわれが当のそのケースにさらに論理的導出性を結びつけないかぎり、適切な推論を通じて、われわれがcを信じているということを保証するのに十分でないからである。以上はルイス・キャロルの「亀がアキレスに言ったこと」の心理的類比物である。われわれに必要なのは、前提への信念が推論においてどのように結論への信念を引き起こすのかについての、正しい説明である。」(同所)

私が、問答推論主義を主張するときに出発点としているのは、次のことです。<推論において、前提から論理的に導出可能な命題は常に複数あり、それからどれを選択して結論とするかは、前提だけから決定できないと指摘しました。私たちが推論するのは、問いに答えるためであり、その問いの答えとなりうる命題が、結論として選択されるのだと思われます。>この推論の説明によって、上記の第一の問題を解決できていると思います。つまり、<前提だけが結論を導くのではなく、問いと前提が結論を導く>ということがが、デイヴィドソンへの答えになるでしょう。

では、第二の問題については、どう考えたらよいでしょうか。それを次に説明します。

48 <問答としての行為>による<行為の合理性>の説明 (20220902)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

「なぜそうするのか」という問いに対する「なぜなら、…するためです」という答えは、行為の目的(動能的理由)を説明するものです。そして、本人が目的だと思っている理由が本当の理由ではなく、別の理由が行為の本当の理由、つまり行為を引き起こしているものである可能性があります。

以上は、前回引用したデイヴィドソンが言う通りです。そして、この時点では、行為の正当化が正しく行われているかどうかは、本人にも決定できません。

では、このような間違った行為の正当化(説明)をどうしたら排除できるでしょうか。実は、その行為によって目的が実現されるとき、その目的にはさらにより上位の目的を持つはずです。したがって、もし<本人が行為の動能的理由だと思っている目的1と、本当の動能的理由である目的2が異なっており、当の行為によって、どちらも実現されており、どちらの目的が本当の目的であったがわからない>としても、それに続く行為が異なってきます。したがって、それに続く行為を考察すれば、どちらの目的が本当の能動的理由であったかを知ることができるでしょう。

つまり、動能的理由による行為の説明(合理化、正当化)は、その行為に続く諸行為について「なぜそうするのか」と問うことによって、あるいは、そのような問答を反復することによって、解決できると思われます。

しかし、ここで生じていることを、行為の説明(正当化、合理化)の変化として捉えることは、間違いだとは言えないのとしも、不十分です。なぜなら、ここでは行為(の意味)が変化しているからです。

「なぜそうするのか」と問われて「なぜなら、目的1のためです」と答えた時には、その行為は「目的1を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されていたのです。その後「なぜそうしたのか」と問われて「なぜなら、目的2のためであった」と答えた時には、その行為は「目的2を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されているものとして理解されています。つまり、行為(の意味)が変化しているのです。

行為の説明に関するもう一つの問題、つまり認知的理由による行為の説明(合理化、正当化)が逸脱因果の可能性によって不可能になるという問題については、どう考えたらよいでしょうか。

前回述べた二つの例は、行為者の意図から始まる、当初想定していた因果連鎖によって、意図が実現するのではなく、その意図から始まる逸脱因果連鎖によって、意図していたことが偶然に実現する事例です。確かにこのような場合には、当初想定してた認知的理由(ある因果連鎖)はそこでの出来事の正しい説明にはなりません。その出来事を、その人の「行為」とか「行為したこと」と呼ぶこともできないように思われます。その「出来事の説明」は、その人の「行為の説明」にはなりません。「逸脱因果連鎖」の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

前回述べたデイヴィドソンが挙げていた例は、行為者が、逸脱因果連鎖が生じたことに気づいている場合ですが、行為者が逸脱因果連鎖に気づいていない場合もあります。たとえば、AさんがBさんを毒薬Cで殺そうとしたが、実際には毒薬Cだと思っていたものは毒薬Dであり、それによってBさんは死んだとしよう。このような場合にも、逸脱因果連鎖の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

 

以上の説明から言いたいことは、行為の説明の第一の問題、行為の動能的理由の説明の困難は、行為を「その目的を実現するためにどうするのか」と「…しよう」という問答によって構成されたものとしてとらえることによって、解決することです。つまり、行為の本当の目的が隠されていたことがわかるとき、行為の説明が変化するのではなく、行為が変化するということです。

もう一つは、行為の説明の第二の問題、行為の認知的理由の説明の困難については、それを引き起こす逸脱因果連鎖が生じているときには、行為の説明ではなく、出来事の説明が求められる、ということ、つまり、それは、行為の認知的理由の説明の困難ではない、ということです。

以上の議論が、デイヴィドソンが考えていた行為の説明の困難を正しくとらえて、答えているかどうか自信がありません。私は問題を誤解しているかもしれません。次に、三つ目の問題、推論の説明の問題を取り上げたいと思います。

47 デイヴィドソンの第二の問題:行為の説明の問題 (20220830)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが挙げている第二の問題は、行為の説明の問題です。

意図的な行為は、「なぜそうするの」という問いへの答え(行為の理由)によって説明されます。行為を説明するとは、行為を合理化することであり、行為の理由が行為を合理化します。

「行為の理由は以下の意味で行為を合理化する。すなわち、それらの理由に照らせば、その行為が他の人々にも理解可能になるという意味で。「理由は、行為者が自身の行為のなかに何を見ているか、行為者の目的や狙いが何であるかを、明らかにしてくれる。」(「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳、459)

デイヴィドソンは、「行為の理由」を二種類に分けます。

「理由には二つの主要なカテゴリーがある。認知的なもの(cognitive)と、動能的なもの(conative)の二つである。後者[動能的なもの]は、行為者にとっての価値や目的、到達点であり、問いの行為を行為者から見て実行する価値のあるものにする目標のことである。他方、前者[認知的なもの]は、行為者の信念であり、行為者が目標に置いている価値から、手段、すなわち終極的には、それによって目標が達成されると行為者が考えているところの行為へと移行するよう行為者に促す信念である。」(同訳、459)

この二種類の理由は、「なぜ、そうするのか」という問いに対する二種類の答え方になっています。

「動能的理由」とは、「なぜそうするのか」に行為の目標で答えたものです。「認知的理由」とは、「なぜそうするのか」にその行為(の事前意図)を結論とする実践的三段論法で答えたものです。この実践的三段論法の大前提には、行為の意図ないし目標設定が述べられているので、能動的理由と認知的理由は、密接に結合しています。一方だけでは、行為を合理化するには不十分です。

以上の分析を踏まえて、デイヴィドソンは、「なぜそうするのか」という問いへの答え(行為の理由)による行為の説明(合理化)には、二つの問題があることを指摘します。

「ところが、ある個別的な理由に基づいて行為することを、「行為者の信念と価値によって合理化される仕方で行為すること」と単純に定義することはできない。というのも、人は、自分の信念と価値のいくつかに照らせば合理的であるような仕方で行為しつつも、しかしまったく別の理由のために、その行為をなすことがあるからである。」(同訳、459)

これについて、デイヴィドソンは次の例を挙げています。

「私はある一人の老人を助けることを欲するかもしれない。しかも私は、その老人に傘を直してもらい修理代を払うことによってその老人を助けられるだろうと信じるかもしれない。」((同訳、459)

ここでは次の実践的三段論法が行われています。

「老人を助けたい」「老人に傘を直してもらって、修理代をはらえば、老人を助けられる」┣「老人に傘を直してもらおう」

「にもかかわらず、それらの理由は、私が傘を彼に修理してもらい代金を支払ったことと無関係でありうる。というのも、私はただ、自分の傘を直したかっただけかもしれないからだ。」

この場合には次の実践的三段論法が行われています。

「傘を直したい」「老人に修理代をはらって傘を直してもらえば、傘を直せる」┣老人に修理代を払って傘を直してもらおう」

この例が示すのは、「老人を助けたい」が行為の理由であると考えるためには、単に「行為の理由」を述べるだけでは不十分であるということです。そこで、デイヴィドソンは次のように言います。

「明らかにわれわれは、理由に基づく行為の分析に、さらなる何かを加えなければならない。つまり、行為を実行するための理由になるものが、行為者による当の実行を説明する理由でもあることを、保証しなければならない。それに対しさしあたり私が正しいと信じる一つの提案は、「理由は、行為を引き起こしたときにかぎり、その行為を説明する」と述べることである」(同訳460)

しかし、「老人を助けたい」という目的と「傘を直したい」という目的のどちらが、行為を引き起こしているのかを、どうやって確認したらよいでしょうか。これが、私が理解する、デイヴィドソンが挙げている行為の説明の問題の一つ目です。これは、行為の動能的理由の特定が困難であるという問題です。

デイヴィドソンはこの特定ができても、別の困難があるといいます。

「とはいえそれではまだ十分条件にならない。なぜなら因果は逸脱した仕方で働きうるからである。いやしくも理由が、行為において行為者がもつ理由たりうるならば、その理由はまさに正しい仕方で当の行為を引き起こすのでなければならない。だが私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」460

この「逸脱」した因果の例について、訳注2で柏端さんは、デイヴィドソンの他の論文‘Freedom to Act’から、逸脱因果の例をふたつ示しています。一つは、ある人Aが別の人Bをライフルで殺そうと意図して、引き金を引いたが、打ち損じてしまし、その銃声に驚いたイノシシの群れが暴走してBを踏み殺した、という例です。もう一つは、仲間のつかまるロープを握っている登山家が、そのロープの重みから解放されたいと思い、ロープを持つ手を緩めれば重みから解放されると考えた瞬間、そのおそろしい考えに狼狽し、手の力が抜けてロープを放してしまう、という例です。

この逸脱因果の例は、「認知的理由」の適切性の条件を定式化する困難を示しています。

「私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」(同訳、460)

行為の合理性の説明に関するこの二つの困難を、問答の観点から考察するとどうなるかを次に論じたいと思います。

46 知識の因果関係と逸脱因果の問題 (20220824)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#原因を誤解する場合

一般的に原因と結果の関係を考えるとき、一つの結果は常に複数の原因を持ちえます。したがって、信念についても、ある信念を引き起こす原因には、常に複数のものがありえます。したがって、信念の原因だと思っている事実が、本当の原因であるとは限りません。このように原因を誤解するとき、その信念がたまたま真であるだけでは、知識を正当化できていません。

例1:時計が3時を指して止まっているのだが、ある人が、たまたまその時計を3時に見て、「今は時だ」と思ったとしよう。このとき、それは真であるが、しかし、時計が3時を指していることの原因は、時刻が3時であることではなく、時計が壊れていてたまたまその針が3時を指していたことである。

この場合、信念はたまたま真ですが、信念が表現している事実がその信念の原因になっていません。これは伝統的な知識の定義「知識=正当化された真なる信念」をみたすが、知識とは言えないという反例です。これを避けるために、Alvin Goldmannは論文A Causal Theory of Knowingで「知識の因果説」を主張しました。

#原因の誤解の可能性に気づいていない場合(逸脱因果の場合)

ある地域には、偽の納屋がたくさんあります。しかしそのことを知らない旅行者が、たまたま本物の納屋を見て、「納屋がある」と考えたとき、その考えは、本物の納屋があるという事実を原因として成立しています。しかしそれが偽物の納屋である可能性に気づいていないので、「納屋がある」という信念は、知識とは言えないと思われます。(これは「知識の因果説」への反例であり、「逸脱因果」と呼ばれます。これは、Alvin Goldmannが論文Discrimination and Perceptual Knowledge指摘しまた。)

#このどちらの場合も、原因と結果の関係が、1対1ではなく、多対1であることによって生じています。因果関係をもとに結果からその原因を推理するとき、原因と結果が、多対1であるために、間違った事実を原因と見なすことがありえますし、また、ある事実を正しく原因と見なしても、偶然にそうなっているだけのことがあり得ます。このような原因の複数性は原理的なものです。では、<私たちはどのようにして、ある事実を原因として想定するのでしょうか>。この場合、原因の特定は、問いに対する答えを求めることとして成立するのだと思われます。

上の例では、その地域に、偽の納屋があることを知っていれば、その人は「あれは本物の納屋だろうか」と問い、仮に本物の納屋を見ていても、それが本物の納屋だと判断できなければ。「あれは納屋だ」とは答えないでしょう。本物の納屋だと判断するには、根拠が必要です。つまり、知識であるためには、対象との間に因果関係が成立しているだけでなく、そのことを知っていなければなりません。そして、その場合に、対象(納屋)との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、偽物の納屋の可能性を排除しなければなりません。本物の納屋との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、対象が偽物の納屋ではないことを知っている必要があります。そのためには、それを確認できるところまで、対象に近づいて見ること、あるいは近づいて触ってみることなどが必要です。

しかし、偽物の納屋の可能性があると思っていないならば、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは、人が住む家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクター、などでなく、納屋だろうか」という問いであり、その対象が、家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクターなどでないことを確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。つまり、「あれは納屋か」と問い、通常の納屋の特徴が見えた時に、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。

それに対して、偽物の納屋の可能性があると思っているときには、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは本物の納屋だろうか、それとも偽物の納屋だろうか」という意味で問われ、偽物の納屋でなく、本物の納屋である特徴を確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。二つの場合では、「あれは納屋だろうか」と問うときの注目点が異なります。それに応じて、答えの「あれは納屋だ」の意味も異なります。一方では、「あれは納屋だ」は、「納屋の特徴を持つ建物だ」という意味であり、他方では、「あれは偽物のなやではなく、本物の納屋だ」という意味になります。

偽物の納屋がある地域で、そのことを知らずに「あれは納屋だろうか」と自問し「あれは納屋だ」と答える者は、間違っているのでしょうか。「あれは納屋だ」が、「あれは納屋の特徴を持つ建物だ」という意味で問われているのならば、それが偽の納屋であったとしても、本物の納屋であったとしても、それは正しい、と言えるかもしれません。

逸脱因果の場合であっても、その問いに対する答えとしては、その答えはある意味では正しい、と言えるのではないでしょうか。人は、問いに応じた厳密さで答えるのあり、偽物の納屋のある地域でそれを知らずに、「あれは納屋だろうか」という問いに、「あれは納屋だ」と答えることは、問いに応じた厳密さを満たした正しい答えであるのではないでしょうか。

逸脱因果の事例は、知識とは言えない、という主張も理解できます。知識を問答ではなく、命題として考えるとき、逸脱因果事例は、知識ではないと言えますが、厳密にいえば、<逸脱因果の可能性をとりのぞくことはおそらく不可能なので、知識は不可能である>ことになります。これを回避するには、<単独の命題ではなく問答のペアを知識としてとらえる>ことが重要です。<逸脱因果の可能性に気づくとき、その問いの意味は変化し、それに対する答えの求め方も変化します>

45 デイヴィドソンが指摘した3つの問題を問答推論主義で解決する試み (20220819

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(このカテゴリーでのこれまでの議論の内容ついては、このカテゴリーの説明文をご覧ください。左のカテゴリーの一覧からこのカテゴリーをクリックすれば、冒頭に説明文が出てきます。今回からしばらくは、デイヴィドソンが指摘している3つの問題を、問答推論主義の立場から解決することを試みたいと思います。)

ドナルド・デイヴィドソンは、論文「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳)(原文1993)(デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010)の冒頭で、知覚と記憶と行為と推論の説明が類似した困難に出会うことを指摘します(この論文は、スピノザがこれらの問題に取りくんで「劇的な解釈」を提案したということを主張するものですが、それについては後で触れることにします)。ここでは、デイヴィドソンが挙げているこれらの問題を、問答推論主義の立場から解決できるということを提案したいのです。

まずは、知覚に関する問題を説明します。

「月が出ているのをだれかが見ているとするならば、まず月が出ていることは真でなければならない。そして知覚者は、月が出ていると信じるに至っているはずである。さらに、月が出ているというその信念は、月が出ていることに引き起こされたにちがいない。」(同訳、458)

この主張は、「知覚の因果説」および「知識の因果説」(この二つは厳密には別のことである)であるが、しかしこれらは知識の必要条件であって、十分条件ではない。「なぜなら、実際に月が出ていることは、月が出ているという信念を、月が出ていることの知覚と見なしえない仕方で、引き起こすかもしれないからである。」(同訳458)例えば、「月が出ていることは、一匹のコヨーテの咆哮を引き起こすかもしれない。さらにある人は、コヨーテとは、月が出ているときにつねに、そしてその時にかぎって吠えるものだと誤って信じているかもしれない。その場合、月が出ていることは、月が出ているという信念を、主体のなかに引き起こすだろう。しかしそのとき主体は、事実月が出ていることを知覚してはいない。」(同訳458)

知識の因果説へのこのような反例は「逸脱因果」の事例と言われている。これらの反例を除外するために、条件を付けることはできるかもしれないが、「反例が生じないほどの厳格さで、そうした諸条件を述べることは、非常に困難――私の考えでは不可能――である。」(同訳459)

これが知覚ないし知覚報告の説明に関して、デイヴィドソンが挙げている問題です。この問題は、真なる知覚報告の定義の問題、知識の定義の問題です。次に、この問題に問答推論主義の立場から答えたいと思います。

08 真なる問答の規範性はどこから生まれるのか (20220813)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

問答の真理性を定義するには、問答の規範性以外にどのような条件が必要でしょうか

真なる問答の規範性と適切な問答の規範性の区別があるのですが、この二つを区別するのは、その規範性が何に基づくのか、あるいはどこから生まれるのか、という違いだといえるでしょう。真なる問答の場合、その問答関係の規範性が生じるのは、次の二つの場合があります。その規範性が<問答を構成する語句の意味だけに基づいている場合>と<問答を構成する語句の意味に加えて事実にも基づいている場合>です。

<問答を構成する語句の意味だけに基づいている場合>の規範性は、分析的な規範性であり、これれによって成立する真理を「分析的真理」と見なすことができます。これに対して<問答を構成する語句の意味に加えて事実にも基づいている場合>の規範性は、綜合的な規範性であり、これによって成立する真理を「綜合的真理」と見なすことができます。

他方で、問いと答えの関係の区別でなく、問いの成立の仕方を次のように区別することができます。<問いの前提の意味を理解すれば、それだけから問いの前提が成立することがわかる場合>と、<問いの前提の意味を理解するだけでは、そこから問いの前提が成立するとは言えず、問いの前提が成立するというためには、事実に依拠する必要がある場合>があります。前者の場合の問答の真理は、経験的認識を必要としないので、これを「アプリオリな真理」と呼び、後者の場合の問答の真理は、経験的認識を必要とするので、これを「アポステリオリな真理」と呼ぶことができます。

このようにして問答の真理について二種類の区別(分析的/総合的とアプリオリ/アポステリオリ)ができます。これの組み合わせによって、4種類の問答の真理を区別することができます。

{この区別について、カテゴリー[『問答の言語哲学』をめぐって]の34回でより詳しく説明しています。]

問答が真であるためには、その問答関係が規範性をもつ必要があり、その規範性が、どこから生じるかによって、一方で問答の適切性と真理性を区別でき、また同時に他方で、真理性の種類を区別することができると考えます。ただし今回は、分析/綜合の区別と、アプリオリ/アポステリオリの区別を説明できただけです。まだ、必然/偶然の区別と、事実的/規範的の区別の考察が残っています。(この二つについては、すこし考えあぐねていますので、もう少し時間をいただきたいとおもいます。)

07 命題ではなく、問答が真であることの説明 (20220810)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

私は、<命題ではなく、問答が真理値を持つ>と考えます。02回でもこれを説明しましたが、もう一度少し詳しく説明しておきたいと思います。

 文が意味を持つことは、問答によって可能になります。なぜなら、文は文を構成する文未満表現(語や句)を統合することによって成立し、その統合は、問いに答えるという仕方で成立するからです。文は問答によって成立するのです。したがって、文が意味をもつことは、問答によって可能になるのです。厳密にいえば、意味を持つのは問答であるということです。(これについては、カテゴリー[問答の観点からの認識]第67回~69回をご覧ください)。

 同じことを、ここで焦点の観点から説明しておきたいと思います。焦点構造をもつ命題の意味は、相関質問に応じて異なるので、問答関係において成立する、あるいは問答関係として成立するといえます。では、焦点構造を持たない命題の意味は、相関質問とは無関係に成立するといえるでしょうか。命題が成立するためには、文の統一が必要であり、そのためには問答関係が必要です。したがって、命題が成立するときには、相関質問との関係が不可欠です。では、そのようにしていったん命題の統一が成立した後は、どうでしょうか。その文が異なる問いの答えとなるとき、その意味(命題)は、焦点構造を持ちますが、それらの命題の間には、共通部分もあるでしょう。それは相関質問とは無関係な命題の意味だといえるでしょう。それを私たちは「これはリンゴである」のような文で表現できるかもしれませんが、しかしそれを理解することはできません。なぜなら、この文を理解するときには、つねにどこかに焦点を置かねばならないからです。焦点なしに文を理解することはできません。それは、ゲシュタルト構造のない知覚をもつことができないのと同様です。

 ちなみにブランダムは、文を構成する文未満表現の意味を、文の意味からの置換推論によってとらえることができるといいます(例えば、『推論主義序説』第4章)が、彼は、語が文を離れて意味をもち、語の意味から文の意味が合成されるとは考えていません。焦点構造を持つ命題の意味と焦点構造を持たない命題の意味の関係もこれと同じだと考えます。

 このように<文ではなく、問答が意味を持つ>と言える時、ここから、<文ないし命題ではなく、問答が真理値を持つ>が帰結します。

 ところで03回では、<問答が真である>つまり<ある問いに対するある答えが真である>とは、<その問いに対してその答えをすることが、規範性を持つ>ことと説明しました。例えば、問い「それは何ですか」に対して、答え「それはリンゴです」が真であるとすれば、何度尋ねられても、そう答えるべきですし、だれに問うてもそう答えるだろうと予測できますし、また誰に問うても、相手はそう答えるべきだといえます。

 しかしこのような問答の真理性の定義については、<問答が真であるならば、問答は規範性を持つ>には同意できるが、<問答が規範性を持つならば、問答は真である>には同意できないという反論があるだろうと思います。私はその反論を受け入れたいとおもいます。なぜなら、(『問答の言語哲学』で述べたことですが)問いを、理論的問いと実践的問いに分けることができるからです。理論的な問いの答えは事実の記述であり、実践的な問いの答えは意思決定です。『問答の言語哲学』「1.1.1. 推論は問いに答えるプロセスである」では、理論的な問いの答えは真理値を持ち、実践的な問いの答えは適切性をもつと説明しました。現在は、厳密にいうならば、理論的な問答が真理値を持ち、実践的な問答が適切性を持つ(その答えが真理値を持つ問い)と考えます。そして、実践的な問答が適切性持つ場合、例えば、問い「私が血圧を下げるには、どうすべきだろうか」に対して、答え「私は塩分を減らすべきだ」が適切であるとすれば、何度問うても、誰に問うても、答えは同じであり、その問答関係は規範性を持ちます。したがって、規範性を持つ問答関係は、真なる問答関係に限りません。したがって、<問答が真であること>を、<問答が規範性を持つこと>として定義することはできません。これは必要条件でしかありません。

 では、問答の真理性を定義するには、問答の規範性以外にどのような条件が必要でしょうか

これを次に考えたいと思います。(他方で、実践的な問答についてはさらに詳しい説明が必要ですが、それは別の機会に行いたいと思います。)

06 共有された言語と個人言語の区別 (20220809)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

「共有された言語がなくても、コミュニケーションを説明できそうですが、このことが、問答関係の性質として真理をとらえることとどう関係するのか」に答えたいと思います。

共有された言語がなくても、他者との問答は可能です。(04回で述べた)デイヴィドソンの例、一方が鼻を指さし、他方が「鼻」と答える例では、鼻を指さすことは「これは何ですか」という問いの意味を持つのですが、デイヴィドソンは、質問の発話に言及してはいませんでした。それは、言語を共有していないことを示すためだったのだろうと思います。一方が鼻を指さすとき、「これは何ですか」と質問し、相手が「鼻」と答えるとき、この二つが別の言語であることが可能だということです(この場合、別の言語共同体に属する別の言語である場合もあれば、同一の共同体に属する別の個人言語である場合もあるでしょう)。その場合、問答は二つの言語の間でおこなわれています。もちろん各人は、互いに相手の発話を自分の言語に翻訳して、それぞれの言語による問答として理解しています。

この場合、問いに対する答えが真であることは、二つの言語にまたがる問答が真であり、また同時に各人の言語に翻訳した問答が真であるということです。

このとき、L1におけるQ1にL2におけるA2で答えるとき、答える者は、Q1をL2におけるがQ2として理解して、それに対する答えA2が真なる答えになると考えています。質問したものは、A2をL1におけるA1として理解して、Q1とA1の問答関係を理解しています。ここでQ1とA1、またQ2とA2が、問答関係を構成することは、それらの意味に基づいて可能になります。

ところで、問答関係が成立するだけでなく、それが真なる問答関係となるとき、それらの意味だけによって成立する場合と、意味に加えて事実(世界の在り方)によって成立する場合もあります。

前者の場合の問答関係は、問答の意味に問い合わせて成立します。L1におけるQ1とA1の問答関係が意味に基づいて成立するだけでなく、意味に基づいて真となるとき、その時の問いと答えを結合する問答関数は、L1の意味論的規則に基づいて真となります。返答者の側では、L2におけるQ2とA2の問答関係が意味に基づいて成立するだけでなく、意味に基づいて真となるとき、その時の問いと答えを結合する問答関数は、L2の意味論的規則に基づいて真となります。

この場合、問答がうまく行っている場合には、L1とL2は同一であると想定しても問題ない場合もあるでしょう。ただし、問答がうまく行かないときには、L1とL2の区別によって、うまく行かないことを説明することが必要になるでしょう。

後者の場合の問答関係は、問答の意味と事実に問い合わせて成立します。このとき、問答が異なる言語に属するとき、質問者がQ1とA1の問答において問い合わせる事実と、返答者がQ2とA2の問答において問い合わせる事実は、同一でしょうか、異なるのでしょうか。問答がうまくっている限り、問い合わせる事実が同一であると想定しても問題は生じないでしょう。問答がうまく行かないときは、問い合わせている事実は異なるのでしょうか。例えば、ある人が自分に赤く見えるものを指さして「これは何色ですか」と問い、相手が「赤い色です」と答えることを、いろいろな対象について繰り返してきたとします。ところが赤く見えるある新しい対象について「これは何色ですか」と問うたところ、相手が「緑です」と答えたとしよう。このとき、返答者が問い合わせた対象ないし対象の知覚と、質問者が指示した対象ないし対象の知覚は、異なるのでしょうか。

これについては、次のように考えられると思います。二人が同一の世界に存在しているとすれば、問い合わせる事実(世界の在り方)もまた同一のはずである、と。これは、L1での質問の「これ」とL2でのそれが、同一の対象を指示しているということではありません。なぜなら二つの「これ」の使用法が異なれば、L1とL2でその指示対象が異なることは可能だからです。ここで「問い合わせる事実(世界の在り方)」が同一であるというのは、それが世界の特定の断片ではなく、いわば全体としての世界そのものだと考えるからです。事実に問い合わせるあらゆる真なる問答において、問い合わされている事実は同一のものであるとすると、問いに対する答えが異なるとすれば、それは問いが異なるからだ、つまり問いの意味が異なるからだと思われます。

まとめておきます。問いの意味だけに基づいて、答えが得られるとき、問う者と答える者の言語が異なれば、問い合わせ対象である問いと答えの意味もまた異なります。しかし、問いの意味だけでなく事実に基づいて答えが得られるとき、問う者と答えるものの言語が異なるとしても、問い合わせ対象である事実(世界の在り方)は同一です。

質問者と返答者の言語が異なるとき、問答が真であるとは、このような事情の中で、問答が反復されたとしても、同一の問いに対して同一の答えが反復して成立することであり、その問答関係が規範性を持つということです。