60 三木さんへの回答(2)  「コミットメント」とは? (20211213) 

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

まず三木さんの質問1(A)「「コミットメント」とは?」に答えたいと思います。三木さんは、コミットメントに関連して、次の3つの問いを上げています。

 「なぜコミットメントを説明責任に局限するのか」

 「コミットメント概念をほかの仕方でなくこの仕方で解釈すべき理由や解釈したい理由があるなら伺ってみたい」

 「なぜ遂行責任を含むような幅広いコミットメント概念ではなく、説明責任へと限定した形でこの概念を用いるのだろうか?」

 合評会でも述べましたが、何かにコミットすることとは、常に、何かを選択することであると考えます。(ただし、動物も選択すると言えるでしょうから、これの逆は言えません。つまり何かを選択することが直ちに、何かにコミットすることではありません。)さらに、何かにコミットすることは、単に何かを選択することではなく、その選択に責任が伴うような選択をすることであると考えます(尤も、人間が行う選択は、つねにその選択に責任が伴うような選択であるかもしれません)。この場合、選択に伴っている責任とは、何でしょうか。

 第一に、「なぜそれを選択したのか」についての説明責任です。第二に、その選択からある義務が帰結するのならば、その義務を引受ける責任があると思います。例えば、その選択からある履行の義務が生じるとすれば、その履行義務を引受けることが選択に伴う責任に含まれると思います。

 一般的に、履行義務(履行責任)があるとは、履行した場合もしない場合も、それについての説明責任があるということだといえるでしょう。なぜなら、「責任(responsibility)」とは、かつて大庭健が強調したように、応答可能性であり、応答の責任、つまり説明責任だからです。(たとえば、政治家が、或ることについて自分に責任があると言ったならば、それについての、またその結果についての説明責任が生じます。)

 発話へのコミットメントに話しを限るとき、ある発話へコミットするとは、その発話の上級問答推論と下流問答推論にコミットすることです。そして、それはこれらの問答推論についての説明責任を引受けることだと考えます。

 以上の説明が、上記の3つの問いに対する答えになるだろうと思います(個別に答えようとすると、重複が多くなってしまうので、このような答え方になりました)。上記の説明をさらに短く次のようにまとめられると思います。

<コミットメントとは、責任をもって選択することであり、それゆえに、コミットメントには、その上流推論や下流推論に関する説明責任がともなう。>

三木さんは「説明責任」に関連して、次の質問もしていました。

「あるひとがある主張をする。そのひとはしかし、その主張の根拠を問われても、答えることはできない。そのひとはただ「自分はそれが正しいと信じている」、「ただそうすべきだと思うのだ」といったことを言うだけなのだ。だがそのひとは確かに、自分が主張していることに従った行動をし続けている。こうした場合に、このひとは自身の発言にコミットしているのだろうか、していないのだろうか?」

私は、人が何かを信じるならば、明示的に根拠を語ることができないとしても、何らかの根拠があると考えます。したがって、そのような場合にも何らかの上流推論があるだろうと考えます。しかし、それを本人が明示できないことはあるでしょう。そのような場合でも、人は発話にコミットしており、発話に対しての責任が生じると思います。つまりその発話から帰結する下流推論の結論にコミットする責任があると考えます。

三木さんは「説明責任」に関連して次のような危惧を述べています。

「社会的マイノリティが被る害や不都合に理由を訊ね、正当化を求めるという実践は、しばしば足を退けるのを後回しにするための言い訳として機能している」また「社会的マイノリティが経験する差別やさまざまなマイクロアグレッションについては、しばしばそれが害や不都合をもたらしていることはわかるが、それをマジョリティにわかる仕方で説明することが困難である」。

これらの危惧を、<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>、また<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>とまとめておきます。この危惧にもとづいて、三木さんは次のような危険性を指摘します。

「もしも(1) コミットメントを伴う発話こそが誠実な発話であると想定し、かつ(2) コミットメントとは説明責任であるとしたならば、社会的マイノリティからの「足を踏まれている」タイプの問題提起が全体として不誠実なものと見なされる可能性があり、ある種の政治的帰結を持つことになるのではないか。」

つまり、この(1)と(2)の前提に、上記の危惧<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>あるいは<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>という前提が加われば、「社会的マイノリティからの「足を踏まれている」タイプの問題提起が全体として不誠実なものと見なされる可能性があり、ある種の政治的帰結を持つことになる」ということが帰結するということです。

この懸念は重要ですが、そのとき重要になるのは、前提の(1)(2)の見直しというよりも、追加される前提<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>あるいは<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>ということが成り立たないようにすることであり、そのためにはその状況について問答を重ねるしかないだろうとおもいます。ここでは、社会の中でのコミュニケーションのメカニズムの分析が重要になります。『問答の言語哲学』では、第三章で差別発言について少し考察しましたが、社会関係の中でコミュニケーションの分析には、立ち入っていません。(それについてはいつか『問答の社会哲学』(仮題)で論じたいと思います。)

59 三木さんへの回答(1) 三木さんの質問の要約 (20211213) 

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三木さんの質問資料は、以下にupされています。

https://researchmap.jp/nayutamiki/presentations/35803115

三木さんの質問は大きくは二つに分かれています。質問1は、「(問答)推論主義のプロジェクト」に関するもので、質問2は「問答論的超越論的論証」に関するものです。

質問1:(問答)推論主義のプロジェクトについて

この質問は、ブランダムの議論にも向けられた質問で、3つの質問に分かれています。

1(A):「コミットメント」とは?

「コミットメント」を説明責任として理解することは狭すぎるのではないか、例えば遂行責任も含まれるのではないか?

1(B):語句へのコミットメントとは何か?

「「指示するということへのコミットメント」といった語りかたを取り入れるのは、ブランダムの反表象主義の立場とは異なる見方であるように思える。入江さんが指示などの表象主義的概念についてどういった見解を採用しているのかも訊いてみたい。」

1(C):(問答)推論主義的意味論について

「(問答)推論主義的意味論を意味論の方針として採用したとき、いったい意味論の研究者はどういう研究をすることになり、またそれによって言語についてどのような知識が得られることが期待されているのだろうか?」

質問2:問答論的超越論的論証について

2(A):この背後にはどのような思想的な広がりがあるのか?

「言語現象を説明して終わり」に尽きない、何らかの目論見があるのではないか? 何かもっと大きな目標があったうえでのコミュニケーションを可能にする条件の探求なのではないか? もしそうしたものがあるなら、教えてほしい。」

2(B):問答論的矛盾とは何なのか?

「問答論的に矛盾しているというときの矛盾とは何なのか、そしてそれに関わっていると思われる「文字通りの意味」とは何なのかということを伺いたい。」

2(C):規範的超越論的条件はどのように導出されているのか?

「問答論的矛盾という概念が特にうまく掴みにくくなるのは、規範的超越論的条件の導出に関する議論においてであった。」

次からこれらに順番に答えたいとおもいます。

58  朱喜哲さんへの回答(9)朱さんの「提案」について (20211212)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

朱さんは、問答主義と推論主義は両立しないとみなし、『問答の言語哲学』では、語の意味から文の意味を説明する「合成的意味論」と文の意味から語の意味を説明する「推論的意味論」が混在していると見なします。そこで、「問答主義」をメタ意味論として、そのもとで、合成的意味論と、推論的意味論の両方を使い分ければよいのではないか(あるいは、すでにその方向をとっている)という提案をしています。

 たしかに、『問答の言語哲学』は、2.1では、語句の意味を「真理条件意味論」ないし「合成的意味論」で説明し、1.2では、ある種の語彙の意味(論理的語彙、疑問表現の語彙など)や文の意味を「推論的意味論」で説明し、二つを使い分けている、と見られても仕方がないところがありました。

 しかし、『問答の言語哲学』で暗黙的に目指していたことを、朱さんの質問に答える中で前回、明示化できました。それは<意味の原子論と命題主義的全体論の対立問題を棲み分けによって解決するのではなく、その対立問題を問答推論的全体論によって解消する>というプログラムです。(この場合、朱さんが想定していた、ゲリマンダリング問題は生じません。二種類の言語表現の区別が解消するからです。)

 合評会でお答えしたように、問答推論主義は、ブランダムの「推論主義」のフルパッケージ(推論的意味論+規範的語用論)を採用し、それを拡張することを意図するものです。

 もし、私の主張とブランダムの主張の間にズレがあるとすれば、それは言語の中心部(downtown)の内部にあります。ブランダムは中心部を次のように説明します。

「プラグマティックな合理性は、言語が中心部をもつという見解である。その中心部は、主張をし、主張の理由を与え求めることからなる。」(BSD, 43)

この中心部には、「主張」と「その理由を与え求めるゲーム」があります。後者は問答推論になると思いますが、この問答推論よりも「主張」を先行させるのがブランダムです。それに対して、私は主張よりも問答推論が先行しており、主張は問いに対する答えとして成立すると考えています。

 次に三木さんからの質問に答えたいと思います。

57  朱喜哲さんへの回答(8)原子論と全体論の対立を「問答推論」で無効化する (20211209)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回述べたように、ブランダムは、カントにならって、命題を意味の単位と考えました。その理由は文(命題)の発話によって発話行為が可能になるからであり、言い換えると現実へのコミットが可能になるからです。私もまた、文未満表現の発話ではなく、文の発話が現実にコミットすることになると考えます。その理由は、文が意味を持つのは問いに対する答えとしてですが、問いに対して答えるときに、その答えにコミットすることになるからです。したがって、正確に言うならば、命題が意味の単位となるのではなく、問答が意味の単位になります。また文の発話が現実にコミットするのではなく、問答が現実にコミットします。文の発話が発語内行為を行うのではなく、相関質問への返答が発語内行為を行います。コミットメントがあるところには、明示的な問答がなくても、暗黙的な問答があります。

 『問答の言語哲学』は、ここまで明示的に語っていませんでしたが、その準備はおこなっていました。

 「2.1.3.1 語句のみ内容の理解とコミットメント」(90~101)では、文を構成する語句の意味内容の理解とコミットメントが、命題の中ではなく、問答の中で明示化され、成立することを説明しました。「2.1.3.2 命題内容の理解と問答によるコミットメントの結合」(101~104)では、命題は、相関質問との関係で明確な意味を持つのであり、命題内容は、問答において成立し、その命題内容へのコミットメントもまた、問答関係において成立することを説明しました。この二つの事柄(命題内容とそれへのコミットメント)は密接に結合しており、それはサールがすでに示唆していたことにも触れました。

 以上のように、「2.1.3」で説明しようとしたことは、語句の意味とその使用のコミットメントも、文の命題内容とそれへのコミットメントも、いずれも問答関係の中で生じるということです。(ただし、この問答関係もこれだけで完結しているのではなく、他の問答へとの関係の中で成立します。)

 文の合成性をめぐる原子論と全体論の論争は、<語句の意味から文の意味が合成される>と考えるか、<文の意味がまず成立して、それからの抽象によって、語句の意味を理解できる>と考えるか、という立場の論争でした。原子論にとっては、語句の意味からどうやって命題が合成されるかを説明することが難問でした。なぜなら語句の意味を集めても、それだけでは命題を構成することにならないからです。例えば、なぜ語句の意味の集まりが、真理値や主張可能性を持つことになるのかを説明することができないからです。後者にとっては、語を組み合わせて新奇な文を作れることや、語の意味の変化や、語の学習を説明することが難問でした。

 これに対して私は、<語句の意味も文の意味もそれらへのコミットメントもともに、問答の中で成立する>と言えるだろうと思います。

 語句を使ってなされるのは問答であるとすると、語句の意味(使用)やそれへのコミットメントは、問答によって明示化され、成立することになります。それが、命題への意味やコミットメントから抽象される場合にも、その過程を精細にみれば、それが問答推論によって行われいることが分かります。例えば、「ある文pの中の表現AにBを代入すると、文の意味が変化するかどうか、変化するとすれば、どう変化するか」、「そのとき、文の真理値が変化するかどうか、変化するとすれば、どう変化するか」などの問答を繰り返して、表現Aの意味を明示化していくことになります。

 他方、命題の意味が、語句から合成されるとしても、その合成は、それらの語句を用いた問答によって行われます。その合成は、問答推論によって行われるのであり、命題の意味は、それを合成する問答推論(上流問答推論)と、その命題を前提にして他の命題を合成する問答推論関係(下流問答推論)によって構成され、明示化されます。<命題の意味を語句の意味から合成すること>と<命題の意味を推論関係によって明示化すること>は、精細にみればどちらも問答推論によって行われています。

 朱さんの指摘は、この「2.1.3.2」で合成性の問題をコミットメントの結合によって解こうとした点を取り上げたものでした。確かに、文未満表現の理解とそれへのコミットメメントの問答による結合によって、命題の理解とそれへのコミットメントを説明したことは、コミットメントに関する要素主義であるように見えてしまうので、説明不足でした。(ご指摘によって、これまでおぼろげに考えていたことを、今回明確にできたことに感謝します。)

ご指摘へのこのような応答は、ブランダムの意味の全体論を批判しているように見えるかもしれません。ただし、上記の問答推論による語句や文の意味の説明それ自体は、全体論的です。「原子論と全体論の対立を問答推論で無効化する」という今回の見出しは、「原子論と全体論の旧来の対立を問答推論で無効化する」とするのがより正確です。これは、新しいタイプの意味の全体論を提案するものとなっています。

 問答推論主義による意味の全体論は、ブランダムによる推論主義による意味の全体論とも両立するだろうと思います。この両立可能性について、次の点を補足しておきたいと思います。

#「理由を与え求める言語ゲーム」=「理由に関する問答」

ブランダムは、「理由を与え求める実践(practice of giving and asking for reasons)」や「理由を与え求めるゲーム(game of giving and asking for reasons)」という表現をMIEでもBSDでも多用します。例えば、つぎのように言います。

「言語ゲームは、理由を与え求める実践を含まなければならない。」(BSD, 43)

「プラグマティックな合理性は、言語が中心部をもつという見解である。その中心部は、主張をし、主張の理由を与え求めることからなる。」(BSD, 43)

この「理由を与え求めること」とは「理由に関する問答」に他ならないでしょう。従って、ブランダムは、問答を言語の中心部においているのであり、問答主義ないし問答推論主義と、ブランダムの推論主義が両立しないということはありえないだろう、と考えます。また、問答や問答推論に注目することで、ブランダムが「理由を与え求める実践」と呼んでいたものをより精細に分析できると考えます。

 次に、朱さんからの「提案」について、考えたいとおもいます。

56  朱喜哲さんへの回答(7)「合成性」ではなく「回帰性」(20211207)

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(最初のupのあと「考案性」を「考案可能性」に修正しました。)

(おそくなってすみません。田舎(丸亀)から奈良に戻ってきました。)

ここから最後のご指摘に応答したいとおもいます。

(5)朱さんは、脚注8で、「推論主義ならば扱わなくてよい課題」の典型が「合成性の説明」であると指摘する。その理由は、ブランダムがBrandom(2010), p.336.で述べているという。

この指摘もまた私にとって非常に啓発的でした。確かに私は『問答の言語哲学』の2.1.3.2で、命題の意味の「合成性」を証明しようとしました。そして、それはブランダムが採用する「意味の全体論」では、不適切な問題設定となるように思われます。そうすると、問答主義と推論主義は異質であるということになるかもしれません。

 まずは、ブランダムが「合成性」について、どう考えているのかを確認したいとおもいます。朱さんが言及しているブランダムのFodorとLeporeに対する応答の文章(Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Foder and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.))を読んでみました。

 それによると、Fodor とLeporeは、<言語の考案可能性(projectibility、これはおそらく、無限の文を考案できることだとおもいます。「考案可能性」がよい訳語だとは思わないのですが、他に思いつかないのでこうしました。すでに何らかの定訳があるかもしれません)、体系性、学習可能性は、合成性を前提し、合成性は意味論的原子論を要求する>と考えます。これに対して、ブランダムは、考案可能性、体系性、学習可能性を説明するのに、「合成性」は不要であり、「回帰性」で説明できると指摘します。

 ここでの議論の中心部分は、ブランダムがBSD(『語ることと成すことの間』)の第5章(特に第6節)が語っていることでした。彼は、ここで、「回帰的であるけれども全体論的な意味論」(BSD, xiix)を提案します。この第6節のタイトルはまさに「意味論的全体論:合成性のない回帰的な考案可能性(recursive projectibility without compositionality)」です。

 彼はまず、「両立不可能性」という概念を用いて、「伴立(意味論的帰結)」と「否定」を次のように定義します。

・qと両立不可能なもの全てがpと両立不可能であるときに限り、pを、qを両立不可能性-伴立するものとして定義すること、

pの否定を推論的に最もよわい両立不可能なものとして、つまり、pと両立不可能なすべてのものによって、両立不可能性-伴立されているものとして理解すること」(BSD, 133)

さらにpの「可能性」や「必然性」もまた「両立不可能性」を用いて定義します(cf. BSD, 134)。

 

ここからブランダム、<これらの論理結合子を適用して作られる複雑な論理式の意味は、その部分論理式の意味からは合成されない>といいます。

「これらの結合子のための両立不可能性意味論は、合成的ではない。それは、[…] 全体論的意味論である。」(同所)なぜなら、「そこにおいてnot-p ないしnecessarily-p ないしpossibly-pと両立不可能であるものは、他の命題qと両立不可能であるものに依存している」(同所)からです。

このようにブランダムも言語の考案可能性、体系性、学習可能性を認めます。これらは意味の全体論を批判するときによく挙げられる論点です。これらは文の意味の「合成性」で説明されることが多いのですが、ブランダムは、文の意味を部分の意味から合成しません。ここでは、「両立不可能」という概念を回帰的に反復して使用することによって、しかも全体論的に、文の意味を説明します。

私の議論がこれとどう関係するのか、それについて、次回に説明したいとおもいます。

55 朱喜哲さんへの回答(6)第三と第四の指摘について(20211203)

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まず第三の指摘に答えたいと思います。

(3)脚注5では、「すべての発話は暗黙的に依頼(質問)である」(『問答の言語哲学』197)という主張は、「~せよ」という発話を「~してくれませんか?」にパラフレーズ可能なものとにしてしまうため、「「規範性」の明示化というプログラムにとっては採用できない(かメリットのない)提案」であると指摘する。

前に合評会の準備のために書いた43回「第3章を振り返る (20211122)」で説明したのですが、

3.1.2.2では、質問型発話は、返答の発語内行為を決定しており、その意味で他の発語内行為とは全く異なる特異な発語内行為であることを説明しましたが、他方3.1.3では、全ての発話が質問の意味を持つことを次のように説明しました。「どのような発話であれ、聞き手がそれを受け入れてくるかどうかを問う暗黙的な質問になっている。この暗黙的な質問が、会話を継続させるように機能している。」(『問答の言語哲学』178)

 この二つは、前者の質問は発語内行為としての質問であり、後者の質問(全ての発話がもつ依頼や質問の働き)は「発語媒介行為の一部である」(197)、という関係にあります。従って、「〜せよ」「〜すべし」「〜せねばならぬ」等がすべて「〜してくれませんか?」にパラフレーズされるということはありません。確かに、「~せよ」や「~すべし」などの発話もまた、暗黙的に依頼(質問)であると考えます。しかしそれは「~せよ」が「~してくれませんか?」と同義であるということではありません。例えば、「校則を守れ」は、「校則を持ってくれませんか?」とか「校則は守るべきですか?」と同義ではありませんが、しかし、「校則を守れ」という発話が、同時に暗黙的に「校則を守らなくていいのですか?」「校則は守るべきではないですか?」などの問いを含みとして持つことは可能ですし、また現実にそうだと考えています。(例えば、朱さんの今回のご質問の中での個々の指摘も、暗黙的には質問になっているのではないでしょうか。)

 朱さんは、実質推論が修正に対して開かれていることを指摘されていました。私もまた「問答推論」が実質問答推論として成立すると考えており、その限りで、問答推論もまた修正に対して開かれていると考えています。推論やその結論が修正に対して開かれていることは、その発話が暗黙的に依頼(質問)になっている、ということだと考えています。この意味で、「すべての発話は暗黙的に依頼(質問)である」という主張は、ブランダムの「実質推論」の主張と両立するだろと思います。

 次に第四の指摘に答えたいと思います。

(4)脚注5では、問答主義では、知覚報告の扱いが、超推論主義になっていると指摘します。

まず、ブランダムによる「3つの推論主義」の区別を紹介します。

「弱い推論主義は、<推論的分節化が概念的内容の必要なアスペクトである>という主張である。」(『推論主義序説』前掲訳299、下線や< >は、入江の付記です。)

「強い推論主義は、<広い意味の推論的分節化が、概念的内容(その表象的な次元を含む)を決定するのに十分である>という主張である。」(同所)

「超推論主義は、<狭い意味の推論的分節化が、概念的内容を決定するのに十分である>という主張である。」(同所)

ブランダム自身は、「強い推論主義」を採用します。例えば、知覚報告は、何らかの前提からの推論によって導出されるのではなく、知覚から直接に帰結すると考えるのですが、しかし、その知覚報告は、知覚から直接に帰結するだけでなく、何らかの仕方で正当化される必要があります。その正当化を説明するのが、「広い意味の推論的分節化」です。これについて、次のように説明しています。

「広い意味の推論的分節化とは、(一方ないし他方が非推論的であるとしても)状況と適用の帰結の間の関係を推論的なものとして含む。なぜなら、概念の適用において、一方が、状況から適用の帰結への推論の性質を保証するからである。」(同所)

これに対して、「狭い意味の推論的分節化とは、セラーズが「言語ー言語」動きと呼ぶもの、つまり命題的内容の間の関係に限定されている。」(同所)です。このような「超推論主義が尤もらしいのは、せいぜい抽象的な数学の概念のうちのあるものについて考えるときくらいである。」(同所)

もう一度言いますが、ブランダムは強い推論主義をとります。それは知覚と知覚報告の関係、および行為と発話の関係を、ともに「広い意味の推論的分節化」とみなすからです。

私は、『問答の言語哲学』では、ブランダムと同じく「強い推論主義」をとているつもりでいました。なぜなら、問答関係によって知覚報告は正当化されるのですが、しかし、問答関係は、ブランダムの理解では、「広い意味の推論的分節化」に属すると思われるからです。したがって、私の知覚報告の扱いは、推論主義と両立すると考えます。

 ただし、もし「推論」という語を「問答推論」にまで拡張して理解するならば、拙著での知覚報告の扱いは、この拡張された意味での「推論」に基づいて区別した「弱い推論主義」「強い推論主義」「超推論主義」のなかの「超推論主義」になると思います。

 

 このように考える時、本書の「問答主義」(問答推論主義)とブランダムの「推論主義」が両立するかしないかの分かれ目は、「問答推論」を「推論」を拡張したものだと考えるか、「推論」を拡張したものではなく、推論を異質な関係と結合したものだと考えるか、という違いになりそうです。(この二つの考えのどちらをとることも可能であり、どちらを採るかは有用性の問題である、と言えるのか、それとも、この考えのどちらをとるべきかについて客観的な基準があるのか。これについては、少し時間をください。)

 次回は、最後の指摘を取り上げます。

54 朱喜哲さんへの回答(5)問答の観点からの「真理」と「問答推論の妥当性」(20211203

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#「真理」概念について

 現代哲学では、「真理」概念は、「命題」の性質と考えられています。「真理」のインフレ主義はそれを命題の実質的性質(事実との対応や他の命題との整合性)として理解しますし、真理のデフレ主義は、「…は真である」という真理述語が形式的性質ないし論理的性質(引用符解除機能や同値性原理や代文機能)だけをもつことを主張します。

 これに対して私は、「真理」概念は、命題の性質ではなく、問答関係の性質であると見なすことを提案したいと思っています。その理由は、知識(ないし認識)は問答として捉えられるべきだということにあります。

 知識については、伝統的な「正当化された真なる信念」という定義が不十分だと指摘されて以来、内在主義、外在主義、信頼性主義などの論争がありますが、この論争において、知識とは、命題知のことでした。しかし、私は、知識(認識)は、命題としてではなく、問答として成立することを提案したいのです。これを簡単に説明すると次のようになります。

 ①命題知は命題の理解を前提するのですが、命題の理解は、相関質問との関係において可能になります。

 ②原初的には<命題の理解>と<命題の真理性へのコミットメント>は融合しています。つまり、(問いの答えとなる)命題へコミットすることは、(問いにおいて既に表現されている)ある文未満表現へのコミットメントと(答えの中で新たに加えられる)ある文未満表現へのコミットメントを結合することです。

 ③したがって、知識(命題の真理性へのコミットメント)は、ある命題を答えとする問答関係へのコミットメントして成立します。

 それゆえに、「真理」もまた、「命題」が持つ性質ではなく、知識(認識)としての「問答(ないし問答関係)」がもつ性質であると考えます。

(この真理論については、二年前の世界哲学の日記念講演会「真理について――問答の観点から――」(20191116)で論じました。その時の資料は、以下のURLにあります。

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20191116世界哲学の日記念講演会.pdf )

したがって、私は、「命題」についての「真理性」概念の原初性を主張することはありません。「問答」についての「真理性」概念の原初性を主張するかどうかについては、「推論の妥当性」を考察した後に、考えます。

「真理」が問答関係の性質であるとするとき、問答推論の妥当性は次のように説明できます。

#「問答推論の妥当性」について

問答推論の妥当性については、『問答の言語哲学』第1章の最後に説明しました。そこでは、問答推論を4つの型にわけて説明したのですが、全ての形に共通する部分は、次のようになります。

  「(Ci)前提にコミットするならば、常に結論にコミットすること。(前提や結論が平叙文であれば、それにコミットするとは、もしそれが真理値を持つ文ならば、真であることにコミットする。もしそれが真理値を持たない文ならば、その適切性にコミットすることである。前提や結論に問いが含まれるならば、その問いにコミットするとは、問いが健全であること、言い換えると、問いが真なる(ないし適切な)答えをもつことにコミットすることである。)」

 要するに、<問答推論が妥当である>とは、<前提の中の問いの健全性(真なる/適切な答えを持つこと)にコミットし、他の平常文前提の真理性/適切性にコミットするならば、常に結論の真理性/適切性にコミットすること>です。

 ところで例えば、「Q,r,s┣p」という問答推論がある時に、平叙文前提のrとsの真理性にコミットするとは、(rの相関質問をQrとし、sの相関質問をQsとするとき)Qr-rという問答関係にコミットし、Qs-sという問答関係にコミットすることです。そしてここが重要なのですが、結論pの真理性にコミットすることは、前提の問いQとpの問答関係Q-pにコミットするということです。(これによって、問答推論全体が一つの纏まりとして結合されます。)

 そして、<問答推論「Q,r,s┣p」が妥当である>とは、<Qの健全性にコミットし、Qr-rにコミットし、Qs-sにコミットするならば、つねにQ-pにコミットすること>です。

 では、「問答推論の妥当性」のこの説明は、問答関係へのコミットメントを問答推論に対してより原初的なものとみなしているでしょうか。そうではないことを、例を挙げて説明したいと思います。たとえば、一つの前提rについて言えば、Qr-rへのコミットするためには、「Qr,Γ┣r」(Γは平叙文の列)という形式の何らかの問答推論にコミットすることが必要です。問答へのコミットメントは、問答推論の妥当性へのコミットメントを前提しており、この二つ(問答へのコミットメントと問答推論の妥当性へのコミットメント)は互いに入り組んでいます。したがって、「問答」へのコミットメントの原初性を主張することはできません。

 前回も述べましたが、朱さんが引用された箇所での、私の「真理」や「真」の使用は、明らかに説明不足で不用意でした。前回のべた修正を行うだけでなく、今回述べた「真理」概念についての新しい理解を説明として加える必要があるとおもいます。そして、このような修正を行うならば、そのとき私の議論は、ブランダムの「推論主義」と両立すると考えます。

 この第二の指摘は、重要でかつ有益なものであったので、回答が長くなってしまいましたが、次回は第三の指摘に回答したいとおもいます。

53 朱喜哲さんへの回答(4)「命題」の原初性と「真理」の原初性(20211201)

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#「命題」の原初性と「真理」の原初性

前回の最後に、次のように書きました。

「「命題」へのコミットメントを原初概念にすることと、「真理」概念を原初概念にすることの間には、大きな違いがある、という指摘があるかもしれません。」

 ブランダムによれば、カントは「判断」を「経験の最小単位」とみなし、フレーゲは「判断可能な概念内容」を「語用論的な力を付与できるもの」とみなし、後期ウィトゲンシュタインは、「文の発話」を「言語ゲーム中の一手」とみなし、これら三者と同じくブランダムは、「命題」へのコミットメントを、言語の使用を考察する語用論における原初的なものと考える「命題主義」を採用する。(『推論序説』前掲訳、18f)。

 他方で、ブランダムにとって「真理」は意味論的な概念です。そして、ブランダムは意味論において「真理」を原初概念とは見なしません。彼の意味論における原初的概念は、「実質推論」であると思われます。

 したがって、ブランダムから見ると、「命題」へのコミットメントを原初概念にすることと、「真理」を原初概念にすることには大きな違いがあります。そのような意味論は、推論主義とは相いれないものです。

 

 このように考える時、朱さんが引用された箇所での、私の「真理」や「真」の使用は、明らかに説明不足で不用意でした。では、どのように修正したらよいでしょうか。

 一つの修正方法は、「真なる推論」の説明を「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論が真であることだと定義できる」(『問答の言語哲学』] 122)から「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論にコミットしていることだと定義できる」へ書き換え、さらに「推論が妥当であるとは、前提にコミットするならば、常に結論にコミットすることである」という説明を補うことです。

 ただし、合評会での応答で言ったように、「真である」を「コミットする」に置き換えるだけでは、「真理」概念の原初性を否定出来たとしても、推論の妥当性(正しさ)をそれを構成する命題の性質(真理性や適切性やコミットメントなど)から説明するという要素主義的アプローチであることに変わりはなく、「実質推論」の原初性を主張することとは両立しないと言われる可能性があります。

 

 「推論の正しさ」ついて、ブランダムならばどう考えるでしょうか。ブランダムの「推論的意味論」と「規範的語用論」の間に齟齬はないでしょうか。「推論的意味論」では、命題の意味はその推論関係によって明示化されるものです。そしてその場合の推論とは「実質推論」であって、最終的には社会的サンクションによって正当化されています。他方「規範的語用論」では、「命題」へのコミットメントが原初的なものであって、「命題主義」をとります。前に述べたように「雨が降っている」という命題を主張するとき、「道路が濡れている」という命題へコミットすることが責務となります。「推論的意味論」は全体論的であり、「規範的語用論」は要素主義的である、という齟齬があるのではないでしょうか。

 「雨が降ったら、道路が濡れる」という実質推論を受け入れることは、<主張発話することが、どのような前提を持つか(それ発話する資格はなにか)(上流推論)、それからどのような発話にコミットすることが責務となるか(下流推論)、どのような主張と非両立であるか(何が禁止されるか)(下流推論)、など>を受け入れることと同じことです。 

 もしこのように言えるならば、「規範的語用論」では、発話行為の意味を、発話行為の規範的推論関係で説明できることになるでしょう。つまり、発話行為の意味を推論主義で説明できそうです(これは「内容紹介と補足説明」で言及したように、ハーバーマスが「語用論的意味論」として指摘していることです)。このような「規範的語用論」は、「命題」へのコミットメントを原初的なものとみなす「命題主義」ではなく、「発話行為の推論主義」とでもいうべきものになります。

 もしブランダムの言う「命題主義」を、規範的語用論における「命題」へのコミットメントの原初性の主張、というように強い意味に理解するならば、それは発話行為の意味の推論主義的な理解と両立しないように見えます。(これ以上議論できる用意がないので、ここでは、このような疑問点を述べるにとどめます。おそらくは、何らかの仕方で整合的にブランダムを読めるのでしょう。)

 さて、上記の「修正」のように、推論の妥当性を「コミットメント」という語用論的概念を用いて説明するならば、語用論に関して要素主義的なところがみられるブランダムの議論と両立可能になるのではないか、と期待します。

 これまでの話は錯綜していて、私の立場が曖昧になってしまっているので、次回は、私が考えている「推論の妥当性」と「真理」について、直截に説明します。