89 主張の両立不可能性と問答  (20230328)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、ブランダムは、主張やコミットメントの両立不可能性は、対象や主体が一つであることを前提して生じていること、また、それらの両立不可能性を修復するプロセスは、対象や主体の統一性を確立するプロセスでもあることを、主張します。

(これによって、対象に関する事実の客観性を証明できているとは言えないと思いますが、ブランダムならば、対象は客観的に然々である、と語ることは、of志向性で語るしかなく、これ以外の仕方で対象の客観性について語ることはできないと言うでしょう。だからこそ、ブランダムは「概念的観念論を最終的に主張するのです。」

主張やコミットメントの両立不可能性が成立するのは、対象や主体が一つであるためである>というブランダムの指摘に対しては、問答の観点から次の批判が可能です。

#コリングウッドの指摘からの展開(2023年3月10日の研究会での発表原稿の一部です)

コリングウッドの指摘によれば、二つの命題が矛盾するのは、それらが同じ問いに対する答えであることによる。これに従うならば、二つの概念関係が両立不可能であるのは、二つの概念関係が同じ対象についてのものであるからではなく、同じ問いに対する答えであるからである。なぜなら、同じ対象であっても、問いが異なれば、答えが異なっていても、両立不可能ではないからである。たとえば、「リコリスはおいしい」と「リコリスはまずい」はそれぞれの相関質問が「チョコレートを食べたあとリコリスを食べると、リコリスはおいしいですか」と、「リンゴを食べた後リコリスを食べると、リコリスはおいしいですか」とであるとき、この二つの答えは両立可能であるかもしれない。

ここで次の反論があるかもしれない。この場合、<「チョコレートを食べた後のリコリス」と「リンゴを食べた後のリコリス」は同一の対象ではないので、二つの答えが両立可能になるのだ>という反論があるかもしれない。この反論をみとめてもよいのだが、しかしこのように考えるときには、対象が同一であるかどうかは、問いが同一であるかどうかに依存することになる。

したがって、主張が両立不可能であることは、問いの同一性を前提としていることになり、問いの同一性を構成することになる。コリングウッドがいうように、二つの命題が両立不可能であるのは、それらの相関質問が同じであることによる。

同様のことは、コミットメント両立不可能性についても言えるだろう。二つのコミットメントが両立不可能であるのは、それが同一の問いに対する答えであることによるのであり、同一の主体のコミットメントであることによるのではない。「コーヒーが欲しいですか」という問いに、「欲しいです」と答えることと「欲しくありません」と答えることが両立しないのは、主体が同一だからではなく、問いが同一だからである。同じ主体であっても、異なる状況で発せられたのであれば、同じ疑問文でも異なる意味をもつ問いとなる。

複数の主張やコミットメントが両立不可能になるのは、たしかにそれらが一つの対象、一つの主体についてのものであることが必要だが、しかしそれではまだ十分ではない。それらが同一の問いに対する答えであることが必要である。(つまり、問いの同一性が、対象や主体の同一性を構成するのである。)

―――――――ここまで

ハイデガーは、『存在と時間』の第二節で、問いが次のような3つの要素からなると考えました。

・問われるもの(Gefragtes)

・問い合わされるもの(Befragtes)

・問い求められること(Erfragtes)

ある対象についての問いに答えるには、何かに何かに問い合わせることが必要です。推論で問いの答えを得るときには、他の知識に問い合わせて、それを推論の前提として使用します。推論によらずに直接に答えをえるときには、例えば、知覚報告で答えると時には、知覚に問い合わせて、知覚報告を得ることになります。推論の前提となる知識は、別の問いの答えとして得られると思われます。では、知覚に問い合わせて、知覚報告を得ることは、どのようにして可能なのでしょうか。

 これについて、次に考えたいと思います。

88 BSDから概念実在論を考える  (20230325)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#BSDから概念実在論を考える

BSDでブランダムが論じるのは、「語用論的に媒介された意味論」であり、具体的には語彙を運用する実践に媒介された語彙と語彙の関係です。BSDが、概念実在論と関係するのは、対象を指示するof志向性の語彙の意味を、語用論的に媒介された意味論で説明するからです。

#of志向性とthat志向性の説明

of志向性とは、「Xさんが、対象Yについて(of)、pと信じる(pと推測する、pかどうか疑う)」(X believes of Y that p)などで表現される志向性である。他方、that志向性とは、「Xが、pということを信じる(pと推測する、pかどうか疑う)」(X believes that p)などで表現される志向性である。Of志向性は、対象Yを指示して、それについてpと信じること(あるいは他の志向的態度をとること)です。

#コミットメントの両立不可能性の客観的側面と主観的側面

BSDでは、主張やコミットメント間の両立不可能性が生じることは、一つの対象を前提することから生じると説明します。また両立不可能なコミットメントを修正しなければならないという規範性は、コミットメントの主体が一つであることから生じると説明します。

これによって、<対象>と<主体>の形而上学的構築が行われると説明します。

・両立不可能な複数の主張を修正して、両立不可能性を解消することは、一つの対象を形而上学的に構築することである。

・両立不可能な複数のコミットメントを修正して、両立不可能性を解消することは、一つの主体を形而上学的に構成することである(cf. BSD193)

主張やコミットメントの両立不可能性を取り除くプロセスがどうじに、対象と主体を構成するプロセスなのです。このプロセスは、事実の概念構造の客観性を説明するプロセス、つまり概念実在論のただしさを説明するプロセスでもあります。このプロセスは、志向性の語彙の運用によって行われます。その運用実践は、「理由を与え求める」実践ですが、問い答えるの実践でもあります。

何かしっくりしない、曖昧な、話ですみません(こういうとき、私は背中がムズムズします)。次回は、主張やコミットメントの両立不可能性の議論を問答の観点から見直したいと思います。

87 疑問文を使わない問答  (20230317)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず、下の図 (BSD46) を説明したいと思います。(いきなりこの図の説明を読んでも、理解するのが難しいかもしれません。ゆっくりと読んでみてください。)

ブランダムは、この図式で、論理的語彙を使用しない推論を考えています。BSDのなかでは一般に、Vは「語彙」、Pは「実践」(実践ないしその能力」を表します。PV-suffは、の出発点のPが、矢印の先のVを運用するのに十分であること(being sufficient to deploy)を示します。PV-necは、矢印元のPが矢印の先のVを運用するのに必要であることを示します。上の図式は、「もし…ならば」という条件文を作る語彙Vconditionalsと、条件法を含まない語彙V1の関係を表現しています。条件法を含まない語彙でもそれが使用される時には、推論を行っています。その推論を行う実践がPinferingであり、それは、V1を運用するのに必要であるので、PV-necの矢印がPinferingからV1へ向かっています。

PP-suffは、矢印元の基礎的Pが矢印先の複雑なPをアルゴリズムに従って作り上げるのに十分であるということを示しています。PADPからV1への矢印がP-suffとなっているのは、ADP (an aoutonomous discursive practice)(自律的言説実践)(これは「他の言語ゲームをすることなくその言語ゲームをすることができるような言説実践」(BSD41)です)が、条件文を含まない語彙V1を運用するのに十分であるということを意味しています。

PAlgEl は、「Pをアルゴリズムに従って作り上げること」(Pをアルゴリズム的に精緻化すること)を意味します。上の図のPAlgEl3:PP-suffは、「もし…ならば」の語彙なしに推論する実践Pinferingから、アルゴリズムによって、「もし…ならば」を含む語彙Vconditionalsを運用する実践Pconditionalsを、構成することができることを示しています。つまり、論理的な語彙を使用しなくても、私たちは推論しているということです。そしてそのような推論を、ブランダムは(「形式的推論」と対比して)「実質的推論」(material inference)と呼びます。ここで重要なのは、Vconditionalsを用いて、Pinferingを特定(specify)ないしコード化(codify)できるといことです。つまり、論理的語彙を使用せずに実質的に行っている推論実践を、論理的語彙をもちいて記述できます。この関係は、VconditionalsからPinferingへの矢印VP-suffで表示されています。このとき、Vconditionalsは、V1の中で実質的に暗黙的に行われている推論を明示化(explicate)するという関係にあります。この明示化の関係は、実践を解する間接的な関係であり、Res:VV(resultantな(結果として成立する)VとVの関係)であり、「語用論的に媒介された意味論的関係」です。このような「語用論的に媒介された意味論的関係」Res:VVは、これ以外にもあるのですが、このようなRes:VVをブランダムは「LX関係」と呼びます。Lは、elaborationの関係を表現し、Xはexplicationの関係を表します。この両方をともなうとき、Res:VVを「LX関係」とよび、それを成立させるVconditionalsのような語彙「LX語彙」と呼びます。

ブランダムは、条件法の語彙以外のLX語彙として、「指示詞」の語彙、「様相」の語彙、「規範」の語彙を挙げています。彼によれば、「指示詞」の語彙は照応の語彙に対してLXの関係にあり、「様相」の語彙は「経験的語彙」に対してLXの関係にあり、「規範」の語彙も「経験的語彙」に対してLXの関係にあります。

私がここで指摘したいのは、疑問の語彙もまた「LX語彙」である、ということです。

ブランダムは疑問の語彙については、何も述べていません。また問答関係についても全く言及しません。ブランダムは、よく「理由を与え求めるゲーム」(the game of giving and asking for reasons)について言及するのですが、そのとき彼の念頭にあるのは、問いと答えではなく、ある主張の理由を与える<上流推論>と、その主張を前提として他の命題に理由を与える<下流推論>だと思われます。

しかし、私たちは、ブランダムの語用論に媒介された意味論を、疑問の語彙に適用できると思います。

私が考える「疑問の語彙」とは、「疑問詞」(「どれ」「なに」「なぜ」「どのように」「いつ」「どこ」「だれ」など)と決定疑問文です(ブランダムのいう「語彙」は語の集合を意味するのではなく、「発話」(locution)の集合ですので、決定疑問文(ないしその文形)もまた「疑問の語彙」に含まれると思います)。

上のPinfering が条件法を用いないで推論を行う実践Pを意味していましたが、それと同様に、Pquestioning and answering で、疑問の語彙をもちいないで問答を行う実践Pを意味したいとおもいます。そのような実践とは、つぎのような発話です。

 「これは」「それはリンゴです」

  「リンゴは」「それです」

  「リンゴの色は」「それは赤色です」

このような問答が日常ではよく行われています。多くの場合、これらの問いは、次のような疑問文の省略形だと説明されるでしょう。

  「これは何ですか」「それはリンゴです」

  「リンゴはどれですか」「それがリンゴです」

  「リンゴの色は何ですか」「それは赤色です」

私は、このような疑問文とそれへの答えという問答においては、「疑問の語彙」が用いられていますが、そのような語彙が導入される前に、上のような仕方で問答が成立していただろうと考えます。いったん疑問の語彙の使用を学習したならば、それを使用しない問答は、疑問文による問答の省略形だとみなすことができるでしょうが、しかしそのような語彙の導入前に、上記のような暗黙的な問答が成立しているだろうと考えます。

では、ここから、概念実在論について何が言えるでしょうか。

45 「あり得ない」の意味  (20230320)

[カテゴリー:日々是哲学]

「私の発話は、規則に従っていますか」と問われた者が、「いいえ、あなたの発話は、規則に従っていません」と答えることはあり得ません。なせなら、「いいえ」と答えるとき、相手の問いを理解している必要があり、そのためには、相手の発話が規則に従っているとみなしているからです。

「私は、規則に従っていますか、それとも規則に従っていると思っているだけでしょうか」と問われた者は、「あなたは、規則に従っておらず、規則に従っていると思っているだけです」と答えることはあり得ませんん。なぜなら、この問いに答えるとき、この問いを規則に従ったものとして理解しているからです。問うた者が、規則に従っていないときには、問われた者はその問いを理解できないので、その問いに答えることができないのです。(これは『問答の言語哲学』第4章で論じた問答論的矛盾の一種です。)

 同じことが自問自答の場合にも言えます。「私の発話は、規則に従っているだろう」と自問するとき、「いや、私の発話は従っていない」と答えることはあり得ません。なぜならそう答えるとき、自分の問いを理解して、有意味に使用している、つまり規則に従って使用していると信じているからです。もちろん規則に従っていると信じていても、規則に従っているとはかぎらず、それゆえに私的言語は成立しないのですが、…

次のどれがあり得ないのでしょうか?

  ①規則に従っていて、規則に従っていると信じている

  ②規則に従っていて、規則に従っていると信じていない

  ③規則に従っておらず、規則に従っていると信じている

  ④規則に従っておらず、規則に従っていると信じていない。

  ⑤規則に従っておらず、規則に従っていないと信じている。

その場合「あり得ない」とはどういう意味でしょうか?

44 個人言語が成立するには二人必要  (20230319)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回、私的言語も公的言語も存在しないといいました。(なぜなら、それらが存在するとは言えないとすれば、それらは存在しないからです。この地下にミミズが存在するとは言えないとしても、それは存在するかもしれませんが、私が話す言語については、私がそれが存在すると言えないのならば、それは存在しないのです。)

 では、それでもコミュニケーションができていると言えるのはどういうことでしょうか。

クワインの「翻訳の不確定性」、「指示の不可測性」によって、他者の言語の規則を解釈する方法は無限に存在し、それゆえに、どれが正しい解釈なのかを決定することが出来ません。「翻訳の不確定性原理」(principle of indeterminacy of translation)とは、「ある言語を別の言語に翻訳するための手引きには、種々のことなる手引きが可能であり、いずれの手引きも言語性向全体とは両立しうるものの、それら手引き同士は互いに両立し得ないということがありうる。」(『ことばと対象』邦訳42)ということです。「指示の不可測性(inscrutability)」とは、不確定性(indeterminacy)」とは、名詞や名詞句の指示対象を、一つに確定することが不可能であるということです。

他者の言葉の翻訳の仕方、理解の仕方が複数あるとすれば、互いに相手の言葉を、相手が理解するような仕方では理解していないのかもしれませんが、それでもコミュニケーションが成り立つことはありえます。例えば、相手がドイツ語を話し、私がそれを理解して日本語で話し返し、相手は私の日本語を話して、ドイツ語で話し返すとき、コミュニケーションは成り立ちます。これと同じことが、日本語を話す二人の間でも生じています。AとBがいて、AがBに日本語Aで話し、Bはその日本語Aを理解して、日本語Bで話し返し、Aはその日本語Bを理解して日本語Aで話し返す、ということが可能です。二人の日本語が同一ではなく、それぞれの個人言語である日本語AとBであることが可能です。むしろ、二人の日本語が同一であること、同一の規則をもつことを、証明することはむしろ不可能です(これは規則遵守問題が示していることです)。

 しかし、この個人言語が成立するには、すくなくとも話し手とその解釈者の二人が必要です。その解釈者とのコミュニケーションが可能であることによって、個人言語の話し手は、<自分が規則に従って話していること>と<規則に従って話していると信じていること>を区別できるようになるからです。

43 個人言語だけがあり、私的言語も公的言語もない?  (20230318)

[カテゴリー:日々是哲学]

最近こんなことを考えました。

#個人言語だけが存在し、私的言語も公的言語も存在しない。

「私的言語はありうるか?」という問いを問うとき、大抵は公的言語があることを前提しているように見えます。しかし「公的言語があることは確実なことだろうか?」とか「共通な言語を公的に共有していることを確認できるだろうか?」という問いには、「いいえ」と答えるほかないでしょう。

 Wittgensteinは、独り孤独にいるときには、<言語の規則に従っていること>と<言語の規則に従っていると信じていること>の区別ができない(『哲学探究』§202)、ということから、私的な言語は存在しないと考えましたが、これと似た仕方で次のように考えることができます。ある気心の知れた仲間たちの中にいるとき、あるいは、ある言語を共有していると思っている共同体の中にいるいとき、<私たちが一つの言語を共有していると信じていること>と<私たちが一つの言語を共有していること>を区別できないでしょう。つまり、言語を共有していることを確認することはできません。なぜなら、二人が共にある言語の規則に従っていると信じているとき、<二人が共にある言語の規則に従っていること>と<二人が共にある言語の規則に従っていると信じていること>を区別できないからです。そしてこれと同じことが、三人でも、四人でも、n人でも生じます。そうすると、私的言語も公的言語も存在しないことになります。

しかし、ある言語を共有していることを確認できないとしても、私たちは、ある程度あるいはほぼ十分に、コミュニケーションできることを確認することはできます。それは、私や相手の問いかけや答えにたいして、互いに予測する通りに、ほぼ反応するということです。私と相手が同じ言語を話しているかどうかは確認できませんが、コミュニケーションできるということは確認できます。

デイヴィドソン(論文「第二人称」)やブランダムは、公的言語、共有された言語があることを確認できなくても、互いにコミュニケーションできていれば、お互いがそれぞれ、それぞれの言語の規則に従っていると言えると考えました。これは正しいのではないでしょうか。

そうすると、私たちは、私的言語が成立するとは言えないし、公共言語が成立するとも言えませんが、個人言語は成立すると言えるでしょう。(私はここで「私的言語」と「個人言語」を次のように理解しています。「私的言語」とは、ある個人だけが使用の規則を理解できる言語であり、「個人言語」とは、ある個人がその使用規則を理解しているが、他者もその使用規則を理解可能である言語です。)なぜなら、それについては、規則に従っていることをテストすることができるからである。

87 研究会がおわって  (20230317)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(更新が遅れてしまい、すみません。)

3月10日に「概念実在論と問答」と題して「推論主義研究会」で発表しました。

その時の原稿を以下にアップします。

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20230310研究発表%20「概念実在論と問答」(Ver2).pdf

もう少し時間をもらって、その後の質疑を受けて考えたことも追加してVer.3としてupする予定です。

このカテゴリーでは82回目から、ブランダムの概念実在論と問答推論の関係を論じてきました。

その過程で、A Spirit of Trust(ST)の議論が、Between Saying and Doing (BSD)の叙述と密接に関係していることがわかりました。研究発表でもそのことを説明しました。概念の客観的形式と主観的形式、言い換えると真理様相語彙と義務規範語彙が相互に意味依存するというSTの主張を、BSDでは、「語用論的に媒介された意味論」をもちいて説明していました(この説明については、上記の発表原稿をご覧ください)。

ここでは、概念実在論が主張する事実の概念構造の「客観性」について、MIE、AR、BSD、STの議論を参照しながら、検討したいとおもいます(研究会の発表後、MIE、ARにも同様の議論があることに気づきました。それは、MIEの「8章 命題的態度を帰属すること:推理することから表象することへのみちすじ」やARの「第五章 推論から表象への社会的なみちすじ」での議論です。こうしてみると、ブランダムがMIEから同じ基本的な枠組みで論じてきたことがわかります。私が気づいていなかっただけ、というべきかもしれません。)

私はブランダムの概念実在論を問答推論の立場から検討することを目指しているので、次回からBSDの議論に問答の語彙をどう組み込みことができるのかを考えたいとおもいます。残念ながら、BSDには問答の語彙への言及が全くないのです。

86 概念的観念論の非対称性  (20230302)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#概念的観念論とは

「概念的観念論は、事物を解釈する二つの仕方はともに妥当で本質的であるが、それらの間には説明上の重要な非対称性があるというアイデアである。」ST369

ここでいう「事物を解釈する二つの仕方とは、「客観的概念的諸関係」と「主観的概念的実践とプロセス」ST369です。もう少し詳しくいえば、

「世界の概念構造を分節化する実質的な両立不可能性(および、したがって帰結)の客観的関係を表象する概念」ST369

「(実質的に両立不可能なコミットメントの是認に反応して、(いくつかのコミットメントを同定したり、他のコミットメントを犠牲にすることによって)自己意識的な個人的自己を構成する)主観的実践とプロセスを表現する概念」ST369 

です。

ここでブランダムは次の問いを立てます。

「<客観的概念的諸関係と主観的概念的実践とプロセス>の配置全体は、客観性の関係的諸範疇の用語で理解されるのか、それとも主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語で理解されるのか?」ST369

この問いに対して、ブランダムは、この配置全体は、「主観性の実践的-プロセス的諸カテゴリーの用語」で理解することが、説明上優先されるべきだと答えます。そしてこの主張を、概念的観念論をと呼びます。この主張は二つの説明方式の間に非対称性を認めます。(ちなみに、「実体は主体である」というヘーゲルの言葉は、この概念的観念論を表現していると言われます。)

実はまだSTの第三部を読めていないので、今の段階では「概念的観念論」については、まだよくわかりません。しかし、STが概念実在論、客観的観念論、概念的観念論がという三段階でヘーゲル『精神現象学』を捉えようとしていることとそのおおよその内容はわかりました。この三段階は、おそらくヘーゲル『大論理学』の三部とも次のように対応するのだろうと推測します。

「存在論」は概念的実在論に対応し、

「本質論」は客観的観念論に対応し、

「概念論」は概念的観念論に対応する。

この理解の根拠は、次の個所です。

「『大論理学』で「本質論理学」(これは論理学の第二部)は、何処であれ、存在と仮象の間の区別、実在性と現われの区別があるところで、適用される。(第三の最後の段階「概念論理学」は、人が存在と仮象の区別の発展的連鎖(これは私たちの解明が向かっているところである)を見る時に、適用される。)」ST424

さらに、この三段階は、Between Saying and Doing (BSD)の内容と次のように関係するだろうと推測します。

「概念的実在論」に対応するのが、BSD第2章(或いは第2,4章)

「客観的観念論」に対応するのが、BSD第4章(或いは第2,4章)

「概念的観念論」に対応するのが、BSD第6章

さらに、ブランダムは、「概念的実在論」を完全に理解するには「概念的観念論」まで進まなけれならないと考えているだろうと推測します。

以上の推測を踏まえて、次回から「概念的実在論」と問答(ないし問答推論)の関係をBSDを参照しながら考察したいと思います。