56 <言語的な探索(問うこと)>と<非言語的な探索>と<見かけ上の探索>の区別(20221214)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>と<見かけ上の探求>の区別を予測誤差最小化メカニズムの観点から考察したいと思います。

予測誤差最小化メカニズムは、ボトムアップでなく、トップダウンで知覚や行為を説明します。このアプローチを、三種類の探求(<言語的な探索(問うこと)>、<非言語的な探索>、<見かけ上の探索>)の関係に適用すると、左のものから右のものを説明することになります。

#<非言語的な本当の探索>と<見かけ上の探索>の関係について

欲求をもって探索する動物の登場以前にも、すべての動物の運動は、エサやよい環境を探求することとして理解することができます。つまり<本当の探索>の登場以前には、<見かけ上の探索>が成立しています(ただし、それを<見かけ上の探索>として理解するのは、<本当の探索>をする動物です)。

ただし、一旦本当の探求が成立すれば、その動物がおこなう<見かけ上の探索>は(全てではないとしても、その多くが)、その動物によって<見かけ上の探索>として理解され、その動物が行う<本当の探索>のプロセスの一部分として組み込まれることになります。例えば、水を飲もうと欲求して、水を探して、水を飲むとき、その一連の行動は、たくさんの無条件反射や条件反射やオペラント行動を含んでいます。それらは、<見かけ上の探索>です。

ただし、<見かけ上の探索>だけを構成要素とすることによって、<非言語的な本当の探索>を説明することはできません。<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>をするには、何かを求める欲求という情動が必要です。欲求(情動)を持たない動物は、欲求をともなう<本当の探索>をできないからです。<見かけ上の探索>には、走性や無条件反射による行動である場合と、条件反射やオペラント反応による行動である場合があります。そして、後者は前者をその部分として含む場合があります。

ところで、(欲求を含めて)情動と意識は、どう関係しているのでしょうか。情動は常に意識されているのでしょうか。仮に意識されていない欲求(情動)があるとしても、欲求があれば、その意識が伴わなくても、その無意識の欲求にもとづく探索は、<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>だといえるように思えます。

#<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>の関係について

言語を獲得して、問うことができるようになれば、<非言語的な探求>はすべて言語化されて<言語的な探求(問うこと)>に変わるだろうと思います。したがって、言語的な探求が生じるとき、非言語的な探求はほとんど消失するだろうと思います。

 例えば、「芋を食べよう」と思って、芋に手を伸ばして、口元に運ぶとき、「芋に手を伸ばそう」とか「芋を口にもってこよう」とするとき、たいていは、それを明示的に言語化してはいない。しかし、そのとき行為を止められて「何をしているのですか」と問われたら「芋に手を伸ばしています」と答え、「なぜそうするのですか」と問われたら「芋を食べるためです」と答えるだろう。明示的に言語化していないとしても、行為はすでに暗黙的に言語的に分節化されている。言語を持つ以前のサルが、芋を手に取って、口に運ぶとき、その行為は暗黙的にも言語的に分節化されていないが、しかし、それらの非言語的な行為は、言語を持つ動物では、言語化されて構成されることになる。すべての意図的な行為を実現するための手段としてある行為が行われる時、その手段となる行為は、目的となるより上位の行為との<目的-手段>関係のなかに位置づけられており、その限りで言語的に分節化されている。

 ここまでのところで、行為と探索を混同しているように思われたかもしれませんが、すべての行為は同時に探索でもあると考えています。すべての行為には、多くのミクロな調整が必要であり、その意味ですべての行為にはミクロな探索が伴っているからです。

 以上の説明の中で探索を次のように分けました。。

<見かけ上の探索行動>

 遺伝的な探索行動

 学習としての探索行動

<非言語的な本当の探索行動>

 欲求にもとづく探索行動

<言語的な本当の探索行動>

この系列において探索行動が次第に高度なものになっています。よろ高次の探索は、より低次の探索を部分として含みうるが、より低次の探索は、より高次の探索を部分として含みえません。より低次の探索には、より高次の探索に含まれずに機能しているものと、より高次の探索に含まれて機能しているものがあります。

探索についての以上の考察をする中で明確になったことの一つは、<知覚も行為も、何かの探索である>ということです。フリストンやホーヴィは、知覚と行為を予測誤差最小化メカニズムで説明するのですが、すべての行為は探索でもあります。そして知覚は、行為を計画したり、実行したり、調整したりするために行われるので、知覚は行為のための探索であると言えそうです。予測誤差最小化メカニズムとしての知覚は、対象(あるいは対象の正しいモデル)を探索するメカニズムだと言えそうです。また予測誤差最小化メカニズムとしての行為は、行為では、モデル(実現しようとする事態)に適合するように入力(感覚刺激)を変更する、つまり実現しようとする事実が、原因となってある感覚刺激(その事実の知覚)が生じるように、行為によってその知覚の原因となっている事実を変更しようとします。行為は、実現したい状態を実現するための方法を探索するメカニズムだと言えます。

以上を踏まえて、言語的な探索(問い)や言語的な知覚や言語的な行為もまた、予測誤差最小化メカニズムであることを説明したいと思いますが、他方で、言語は、集団や他者との関係の中で成立したものです。そこで次に、集団や対他者関係のなかでの予測誤差最小化メカニズムを考えたいと思います。

55 問うことを予測誤差最小化メカニズムで説明する (20221209)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

#問うことを予測誤差最小化メカニズムで説明するなら、次のようになるでしょう。

<問いも、知覚や行為と同様の予測誤差最小化メカニズムによって成立する>という可能性をここで考えたいと思います。まず思いつくのはつぎのような説明です。

<問いを予測し、その問いを原因/根拠として、その答えの候補としていくつかの命題を推論します。それらの答えの候補がどれも、感覚刺激や知覚などによって正当化されれば、それが問いの答えとなり同時に問いは適切なものと見なされます。もしどれも正当化されないとき、問いは不適切なものとして修正されます。>このような問いの予測と結果による問いの修正、これが問いに対する予測誤差最小化メカニズムだと言えそうです。

ところで、知覚や行為の場合には、直接には与えられない対象や行為を、それから帰結していると思われる現実の感覚刺激をもとに推論し、その対象や行為をもとに感覚刺激を予測して、それを現実の感覚刺激と比較します。それに対して、問いはすでに言語化されたものとして与えられているように思われます。この差異を埋めるために、上記のメカニズムを、いまだ明示化されていない<適切な問い>についての予測誤差最小化メカニズムとして捉えたいとおもいます。

#問いの前提の予測:問題設定の反証主義

問いが成立するには、問いの前提が成立する必要があり、問いの前提が成立するには、それを答えとする別の問いが成立する必要があり、そのためには、その別の前提が成立する必要があり、…というように、どこまでもさかのぼる必要が生じるように見えます。これでは最初の問いの成立が説明できません。

では、最初の問いはどのように成立するのでしょうか。最初の問いの前提は、主張として成立するのではなく、成立していると予測されるのです。予測誤差最小化システムの、最初の主観的事前確率のように、最初の問いの前提は主観的に想定されます。つまり、最初の問いの前提は客観的に成立していなくてもよいのです。なぜなら、それが成立しているかどうかは、問いの答えを求める中でチェックされ、答えが見つからなければ、問いの前提を修正し、問いを修正すればよいからです。これを、ポッパーの反証主義にならって「問題設定の反証主義」と呼びたいとおもいます。問いの前提が予測された仮説であるとすると、そのとき問いもまた予測された仮説です。

冒頭にあげた課題、<問いも、知覚や行為と同様の予測誤差最小化メカニズムによって成立する>ことを説明するという課題ですが、適切な問いも、対象や行為と同様に直接に与えられていないという意味では、これらは「同様に」予測誤差最小化メカニズムとして説明できそうです。しかし、問いは言語的であり、その点で知覚や行為とは、異なる点があります。

そこで次に、<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>と<見かけ上の探求>の区別を予測誤差最初化メカニズムの観点から考察したいと思います。

42 サッカーWカップとナショナリズムと世界市民意識 (20221205) 

[カテゴリー:日々是哲学]

サッカーWカップで日本は盛り上がっています。それはプチ・ナショナリズムの高揚です。(オリンピックの盛り上がりも、同様です。自民党がオリンピックをやりたがるのも、ナショナリスムを求めるからかもしれません。)サッカーのクラブチームの世界大会では、このような盛り上がりはうまれないでしょう。それを考えると少し気が滅入ります。

しかし他方で、サッカーのWカップは、(厳密言えば、幻想ですが)世界のすべての国が参加している大会という意味があります。したがって、それは世界全体の催し物functionという意味を持ち、世界全体を意識することができます。したがって、サッカーワールドカップを、世界市民意識を発揚する機会にすることも可能だろうと思います。マスコミの方には、これを機会に世界市民意識を発揚させることをお願いしたいです。そのためには、自国のチームの勝ち負け以外についても沢山報道してほしいです。

54 「ベイズの定理と問答」の考察の行き詰まり (20221201)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

49回目からベイズ推論と問答推論の関係を考察しています。証明したいことは、<ベイズ推論は、問答推論として成立する>ということでした。

52回で述べたように、ベイズ推論も推論である以上は、前提と結論からなるものです。したがって、通常の推論と同じく、与えられた前提から論理的の帰結する結論は複数可能です。その中の一つを結論として選び出すことによって実際の推論が可能になるのですが、その選択を決定するものが何であるのかは、ベイズ推論の中には与えられていません。それはその推論が行われる文脈の中にあるはずです。私は、問いないし問いに答えようとすることがそれであると考えます。

しかし、フリストンたち神経科学者が主張するように、ベイズ推論によって、知覚や行為やその心の働きが説明可能であるとしても、その場合のベイズ推論は、人間が意識的に行っていることではありません。彼らが主張するのは、知覚や行為における脳の働き(の一部)をベイズ推論によって説明できる、ということです。意識を持たない動物の見かけ上のその探索もまた、ベイズ推論によって説明できるのかもしれません。では、これらのベイズ推論はどのようにして可能になるのでしょうか。その場合、結論となりうる可能な複数の候補から、一つを選び出すのは何でしょうか。そこには問うことと似た働きをするものがあるのでしょうか。

 <ベイズ推論は、問答推論として成立する>を証明することは、可能だろうと今も推測しているのですが、(今の私には)非常に難しいのでもう少し時間がかかりそうです。そこで逆方向からのアプローチ、つまり「問い」を予測誤差最小化メカニズムによって説明することを考えたいと思います。

 

53 神経科学と超越論的観念論 (20221128)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(一か月ぶりに戻ってきました。少し前のupを読み直していたら、第49回のベイズの定理の証明に間違いが見つかりましたので、それを訂正しました。基本的な間違いですみません。正直なところ、ベイズ推論についてはにわか勉強で、十分に使いこなせるほどわかっていません。それでも取り上げるのは、ベイズ推論は人間や動物の脳の機能の説明や人工知能の作成にとって重要であり、それゆえにまた、それが問答推論として成立することを確認することが重要だと思うからです。)

この一か月フィヒテについて考えていたのですが、フィヒテの超越論的観念論と近年の神経科学の理論との親近性を感じました。日本フィヒテ協会のシンポジウムの発表原稿の最後に次のように書きました。

「神経科学における知覚や行為の説明理論として登場したカール・フリストンの「能動的推論」やヤコブ・ホーヴィの「予測誤差最小化メカニズム」やアニル・セスの議論は、フィヒテによる、物や自我や時間についての超越論的な反実在論的な議論や、自由についてのデフレ的理解と親和性があるように見えます。例えばアニル・セスは、「私たち一人一人にとって、意識的な経験がそこにあるすべてなのだ。意識がなければ、世界も、自己も、内面も、外面もない」(参考文献6,p. 9)と主張していますが、これはフィヒテの超越論的観念論を想起させます。もちろ彼らは神経システムを自然科学で説明します。しかし心を推論によって構成された予測モデルとして捉えるので、心の説明としては構成主義的ないし反実在論的な説明になります。フィヒテが「知識学」で苦心した試み、「事行」から出発して認識や行為を説明する試みが、現代の神経科学の試みに貢献できるかどうかは未知数ですが、親和的であることは確かです。(注8)

注8 彼らによれば、心は、外界からの感覚刺激から世界の表象を作るのではなく、まず世界についてのモデルを作り、そのモデルから感覚刺激を予測し、その予測を実際の感覚刺激と比較して、誤差があれば、モデルを修正するということを繰り返します。彼らは、知覚を推論として捉える心理学者ヘムホルツの影響を受けており、ヘルムホルツはカント認識論の影響を受けていると言われているので、彼らの主張が超越論的観念論と親和的であることは偶然ではありません。彼らは、知覚や行為をベイズ推論によって構築された予測モデルとして説明することを超えて、自我や自由意志などもベイズ推論によって構成される予測モデルである見なす取り組みを始めています。」

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR47%2020221120%20Spinoza%20and%20Fichte.pdf

私たちが外界について知ることは、すべて脳内で予測モデルとして作られ、それが感覚刺激によるチェックと修正を繰り返して成立している、と想定できます。すると、外界は、脳が構成したものです。脳が構成したものだけが私にとって存在するのです。私もまた脳が構成したものです。

(さらに言えば、神経科学が説明している脳もまた、脳が構成したものです。そうするとどうなるのかは、別途(おそらく科学哲学の問題として)考えることにします。)この考えは、「自我が自己の中に定立するもの以外には何ものも自我に所属しない」(『知識学の特性要綱』(『フィヒテ全集』第4巻360)と似ています。

(次回からは、ベイズ定理と問答の考察に戻ります。)

07 インフレ的自由概念とデフレ的自由概念 (20221125)

[カテゴリー:自由意志と問答]

(前々回の宿題「自由意志が成り立つかどうかは、最終的に社会的サンクションに依存するのか?」を論じる前に、自由概念の再検討をしておきたいとおもいます。)

フィヒテの自由論を検討する中で、「自由」についてのインフレ主義とデフレ主義の区別を思いつきました(フィヒテの主張については、前回のリンクをはった学会発表の原稿で説明しました)。

ここではフィヒテ解釈を離れて、この区別の可能性を追求したいと思います。

自由を、(とりあえずは人間の)ある種の能力やある種の活動性の性質として捉えることを「自由のインフレ主義」、あるいは「インフレ的自由概念」と呼ぶことにします。これに対して、自由を、 <意識的に考えたり行為したりすること>として捉えることを「自由のデフレ主義」あるいは「デフレ的自由概念」と呼ぶことにします。

「意識的に」という限定によって、無条件反射や条件反射のように、それを意識していても意識していなくとも成立する心の働きを除外するためです。人間が意識的に考えることは、すべて問答によって成立しているだろうと思います。また自由な行為は、意図的な行為だけであり、かつ意図的な行為はすべて自由な行為だと考えます。そしてこの意図は、問答によって成立すると思います(なぜなら、意図は意図表明の発話として成立し、意図表明の発話は問いに対する答えとして意味を持ちうるからです)ので、自由な行為もまた問答に基づいていることになります。したがって、自由とは<意識的に考えたり行為したりすること>であり、言い換えると<問答すること>です。

 このようなデフレ的自由概念を提案する理由の一つは、インフレ的な自由概念を説得的なものとして主張できないということです。

#インフレ的自由概念の欠点:出来事因果の不十分性と行為者因果の曖昧さ

自由な行為や自由な心の働きを出来事因果で説明しようとすると困難です。もし自由な行為(出来事1)が別の出来事(出来事2)を原因として生じ結果であるとすると、「出来事2が生じたから、出来事1が生じた」と語れるはずです。そしてこれを認める者は、「出来事2に似た出来事が生じたならば、出来事1に似た出来事が生じる」を認めるでしょう。出来事2と出来事1の因果関係が成立するのは、何らかの一般的な因果法則があるからだ、ということになります。しかし、この場合には、この出来事1は、自由な行為ではなく必然的な行為です。

そこで登場するのが、行為者因果です。行為者因果は、出来事間の因果関係ではなく、行為者と出来事の間の因果関係です。たとえば、主体が原因となって意志決定(出来事)が結果するとしましょう。このとき、似たような主体があれば、似たような意志決定をする、ということであれば、そこに一般的な因果法則があります。その場合には、それは必然的な意志決定になります。

行為者因果によって自由な心の働きや行為を説明するのであれば、その場合の原因と結果は因果法則以外のものによって決定していなければなりません。それは何でしょうか。それは行為者の力のようなものでしょうか。しかし、力がどのようなものであるかは、力が実現する因果関係によってしか理解できず、その因果関係は法則としてしか理解できないように思われます。そうだとすると、力の結果は、必然的なものであり自由なものではないことになります。このように行為者因果の概念は曖昧ですから、これによってある種の能力やある種の作用を自由なものとして説明することはできません。

#デフレ的自由概念の必要性

このようにインフレ的自由概念は整合的に考えることができないとしても、「自由」という概念は、不要ではありません。なぜなら「自由」概念が不要であるとしたら、すべての出来事が、物理的な因果法則と量子論的な偶然性によって決定していることになり、それでは心の自立的な働きを説明できないからです。私には、心の働きは、物理的な決定を超えた自立性を持っているように思われます。そして心の「自立性」を「自由」と呼びたいと思います。インフレ的な自由概念もこの心の「自立性」を説明しようとするものでしたが、それは失敗していると思われます。そこで、自由を別の仕方で説明すること、つまりデフレ的な自由概念を提案したいとおもいます。

 このデフレ的自由概念の有効性を示すには、自然的決定性からの問答の「自立性」ないし「自由」を証明しなければなりません。これを示すのは、問答に関する別のカテゴリーの課題になると思います。それ進展したのちに、またこのカテゴリーに戻ってきたいと思います。

06 自由意志に対するスピノザの批判とフィヒテの擁護 (20221122)

[カテゴリー:自由意志と問答]

しばらく更新できず失礼しました。11月20日の日曜日に、日本フィヒテ協会第32回大会(同志社大学開催)のシンポジウム「フィヒテとスピノザ」の提題者の一人として発表しました。

タイトルは「自由意志に対するスピノザの批判とフィヒテの擁護」です。

当日の発表原稿とその後の質疑については、

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR47%2020221120%20Spinoza%20and%20Fichte.pdf

を御覧ください。

05 自由に意志していると思っていること(20221111)

[カテゴリー:自由意志と問答]

<「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであるならば、意志することと決定論をともに真と見なすことは、は両立しない>という主張に対して、スピノザならば、次のように答えるでしょう。

<「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであると思われるとしても、それは何かを意志し、かつ「何かを意志している」と考えているときに、自由に意志しているのではなく、「自由に意志している」と考えている、ということに過ぎない。>

例えば、食堂でうどんを食べるかそばを食べるかを考えて、うどんを選択したとき、そばを選択することもできたという意識がともなうが、選択できたと思っているだけであり、本当は未知の原因によってうどんを選択することが決まっていたということはありうるかもしれません。行為や意志作用に、つねに他行為可能性の幻想が伴うようになっているのかもしれません。

たしかに、一人で何かを意志したり行為したりするときに伴う他行為可能性の意識は、幻想である可能性を排除できません。では二人の時はどうでしょうか。

例えば、私が友人に電話して、明日の正午にどこかで会おうと誘い、友人もそれに同意し、学生食堂で会おうという友人の提案に同意して、あす正午に学生食堂であることを約束したとしましょう。私が、明日の午後に会うことを提案したとき、私は他の日時を提案することも可能であったと考えていますが、それが幻想である可能性はあります。その提案に友人が同意したとき、友人は、同意しないこともできたという他行為可能性の意識を持つでしょうが、その他行為可能性もまた幻想である可能性があります。ここで、私は、<私が友人と明日正午に学生食堂であうことを約束するとき、この約束は、別の内容になっていた可能性もある>と考えていますが、それもまた幻想である可能性があるのでしょうか。その場合、私の提案も友人の同意も最終的に成立した約束も、決定していたということになりそうです。

(ちなみに、仮に自由が幻想だとするとき、自然主義的な描像のなかで、なぜ自由意志という幻想が必要なのか、を説明する必要あります。また、人は自由に意志していると思っているだけだ、というスピノザの主張を、真であると証明するには、実際に自由な意志決定であると思われているものについての因果的な説明を、実際に示す必要があります。それができない限りは、可能性の提示にとどまります。しかし他方、自由意志の存在証明に関しては、そのために何を示したらよいのすら、よくわかりません。それを考えたいと思います。)

ところで、<自由に意志しているのか、それとも自由に意志していると思っているだけなのか>という問題は、以下のように、言語の規則遵守の問題と似ています。

#自由意志の問題は、言語の規則遵守問題と似ている。

私が言語を話すとき、私は言語規則に従っていると信じていますが、言語規則に従っていると信じているだけで本当はそうではないかもしれません。

一人では、

<言語の規則に従うこと>

<言語の規則に従っていると信じていること>

この二つを区別できません。少なくとも二人の人が必要です。もし二人いれば、一人の人が、言語の規則に従っていると信じているときに、他の人が、言語の規則に従っていないと指摘できる可能性があるからです。

 しかし、二人いれば確実に判定できる問いことでもないし、三人いれば確実に判定できるといことでもありません。とりあえずは、社会的なサンクションが必要であるという曖昧な言い方しかできません。

これと同様に、一人では、自由な意志決定を行うことはできません。なぜなら、自由な意志定が成立しているかどうかは、一人では判定できないからです。なぜなら、一人では、

  自由な意志決定ができていること

  自由な意志決定ができていると信じていること

このふたつの区別ができないからです。もし二人いれば、一人の人が、自由な意志決定ができていると信じているときに、他の人が、自由な意志決定ができていないと指摘できる可能性があるからです。

 自由意志についても、二人いれば確実に判定できるということでもないし、三人いれば確実に判定できるということでもありません。とりあえずは、社会的なサンクションが必要であるという曖昧な言い方しかできません。

以上から次のように言えるでしょう。

・<何かを話すことは、何かを言語の規則に従って話すことです>。そして、<言語の規則に従う>ということは、話すことが持ったり持たなかったりする性質ではありません。

・<何かを意志決定することは、何かを自由に意志決定することです>。そして、<自由に>ということは、意志決定することが持っていたり持っていなかったりする性質ではありません。

このように、自由意志の問題は、言語の規則遵守の問題と似ています。ところで、言語の規則遵守の問題は、最終的には社会的サンクション(言語共同体の同意)の問題になるように思われるのですが、では、自由意志の問題も、社会的サンクションの問題になるのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

04 スピノザの「意志」とは何か (20221104)

[カテゴリー:自由意志と問答]

前回述べたように、私の理解では、「…を意志する」は「…を自由に意志する」ことであるので、意志することと決定論をともに真と見なすことは、両立しないと思われるのですが、スピノザの「意志」の理解は、これとは異なるようです。そこで(意志することと決定論の関係をさらに考えるまえに)、スピノザが、意志をどのようにとらえているのかを確認しておきたいと思います。

スピノザによれば、すべての個物は物体も身体も精神も自己の有に固執しようとする「努力」(conatus)を持っており、彼はこの「努力」を個物の「現実的本質」として捉えています。

「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力は、そのものの現実的本質に他ならない。」(第3部定理7、強調は入江)

彼は、この「努力」の二つの在り方として、意志と衝動を区別します。

「この努力が精神だけに関係するときには意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係するときには、衝動とよばれる。」(第3部定理I9備考)

この説明は、わかりにくいのですが、とりあえず次のように理解しようと思います。

物体であれ、身体であれ、精神であれ、おのおのの物が、自己の有に固執する努力を持つのですが、精神が持つ努力は思惟であり、身体が持つ努力は物質的なものであり、両者は常に一致するとしても、別のものです。したがって、精神に関係する努力は、身体には関係しえません。また身体に関係する努力は、精神に関係しえません。したがって、「同時に精神と身体とに関係する」努力というものはあり得ません。一つの可能な読み方としては、同一人物の身体に関係する努力と精神に関係する努力は、観念とその対象が一致するのと同じように一致するので、そのようにして<二つの努力が一致したもの>として理解することです。

二つの努力が一致したこの努力を、スピノザは「衝動」と呼びますが、さらにこの衝動が意識されたものを「欲望」と呼びます。

「衝動と欲望との相違はといえば、欲望は自らの衝動を意識している限りに於いてもっぱら人間ついて言われるというだけのことである。このゆえに、欲望とは意識を伴った衝動であると定義することができる。」(第3部定理I9備考)

欲望は、三つの根本感情(欲望、喜び、悲しみ)(第3部定理59備考)の一つですから、観念の一種であり精神に属します。 欲望は、衝動が意識されたのでした。そして衝動とは、私の理解では、精神における努力と身体における努力が致している場合の努力でした。したがって、欲望とは、おそらく<精神における努力の意識と、身体における努力の意識と、それら二つの努力の一致の意識からなるもの>なのでしょう。

意志は、このような欲望とは異なり、<精神だけに関係する努力>でした。ところで、身体に関係する努力が、「自己の有に固執する」ということは、自己保存しようとすることとして理解できますが、精神に関係する努力が、「自己の有に固執する」とはどういうことでしょうか。これに答えるには、意志と欲望を区別した次の文が役立ちそうです。

「ここで注意せねばならぬのは、私が意志を欲望とは解せずに、肯定し・否定する能力と解することである。つまり私は意志を、真なるものを肯定し、偽なるものを否定する精神の能力と解し、精神をして事物を追求あるいは忌避させる欲望とは解しないのである。」(第2部定理48備考)。

意志とは、<真なる観念を肯定し、偽なる観念を否定する精神の能力>だといわれています。

例えば、おそらく「このリンゴは食べごろだ」という命題を真として肯定することが意志なのでしょう。しかしこれだけでは、リンゴを食べるという行為は始まりません。この意志が行為に向かうためには、欲望が働く必要がありそうです。

 もしスピノザの「意志」がこのようなものだとすると、「…を意志する」は「…を自由に意志する」とは言えないかもしれません。これについて次に考えようと思います。(話がややこしくてすみません。もっとシンプルに語りたいのですが、スピノザについて素人なので、シンプルに語ることができません。)

03 決定論とある行為をしようと意志することは両立するのか (20221031)

[カテゴリー:自由意志と問答]

決定論と、何かをしようと意志することは、(その意志が自由意志ではない限り)両立する、とスピノザは考えているようです。これに賛成する人は多いかもしれません。

例えば、私が、食堂で、うどんを頼むかそばを頼むかを迷って、うどんを食べようと決めたとししたとします。決定論者は、私が、そのように迷うことも、またそのあとうどんを食べようと決めること、あるいはうどんを食べようと意志することも、決まっていたと考えます。ここに矛盾はないと思います。そして、私自身が、うどんを頼むかそばを頼むか迷って、その後うどんを食べようと意志したとき、それを後から振り返って、そう意志することが決まっていたと考えることにも、矛盾はないかもしれません。

しかし、私自身が、うどんを頼むかそばを頼むか迷った後、うどんを食べようと意志するときに、同時にそのことが決まっていると考えることは、できないように思います。私が、うどんを食べようと意志し、同時にそう意志することに決まっていると考えることは矛盾するように思います。なぜなら、私は、何かを意志することは、それを自由に意志すること、それを意志ないことも可能であると考えることを伴っていると考えるからです。

ちなみに、欲求の場合には、他行為可能性の意識を伴わないと考えます。例えば、のどが渇いて、水を飲みたいと思うとき、水を飲みたいと思わないことも可能である、とは考えられません。これに対して、意志の場合には、他行為可能性の意識が伴うだろうと思います。これが、欲求と意志の重要なの違いです。

繰り返しになりますが、もしあることを意志することが、あることを自由に意志することであり、他行為可能性の意識を伴うことであるとすると、あることを意志することと決定論を信じることは両立しないでしょう。

スピノザが、あることを意志することと決定論が両立すると考えるのは、意志の理解が、私が考えるものと違うからだと思われます。では、スピノザの考える「意志」とはどのようなものでしょうか。