05 共有された言語がないと、どうなるのだろうか (20220805)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

<規則に従うこと>と<規則に従っていると信じること>を区別するには、一人ではなく、二人以上が必要である、つまり社会的相互作用が必要である、と考えるだけなら、ありふれた議論です。

ダメットやクリプキを含めて、多くの場合は、この区別を行うときに共有された言語が必要だと考えますが、デイヴィドソンのユニークなところは、共有された言語は不必要だと考えることです。

#デイヴィドソンのいうように共有された言語がないとするとどうなるのでしょうか。

私たちはコミュニケーションできています。言語的コミュニケーションが、共通のルールから説明できるとするのが、コードモデルです。それに対して、共有された言語コードも用いるが、推論で説明するのが、(関連性理論の)推論モデルです。それに対して、デイヴィドソンは、コードを共有している必要はないと考えます。それぞれの反応に規則性があれば、その規則性が同じ規則によものでなくてもよいと考えます(おそらくブランダムも同じように考えます)。

他者との問答において、問いQにAと答えることを反復するとき、二人の間に安定的な問答関係が出来上がります。例えば、「これは何?」「それはリンゴ」という問答が反復されるとき、その問答は真です。

ところが、同じ対象に「これは何?」と問い、「それはナシ」という答えが返されたとき、それまでの規則性が破られます。この場合、次のことが起こっているかもしれません。返答者には、別の対象を指示しているように見えたとか、同じ対象が別のように見えたとか、「リンゴ」と「ナシ」がその人にとって共指示表現であったとか、かもしれません。あるいは、質問者は同じ対象を指示しているつもりだったけれど間違って別の対象を指示していたとか、「ナシ?」という質問が「ナシ」という断言に聞こえたとか、あるいは「ナシ」ではなく別の語を語ったとか、かもしれません。さらに考えてみると、このように規則性の破れ、齟齬が生じないときにも、たまたま逸脱が重なってうまく行っていただけかもしれません。以上から言えることは、言語を共有していることを確認することはできない、ということです(それ故にこそ、クワス問題が生じるのです)。私たちにできるのは、言語を共有することではなく、互いに相手の言語的反応を予想できるということです。

言語的反応を予想するとは、問いに対する答えを予想することです。相手の発話pを真だとみなしているとは、それを自分の問いQに対する答えとして発話されるべきだと考えているということです。つまり、厳密に言うならば、発話pが真なのではなく、Qとpの問答関係が真だといえます。なぜなら、発話pの意味は、相関質問が変われば変わるからです。問われた者は、相手の問いQをQ’として理解し、Q’に対する答えpを発話します。問う者は、相手の答えpをp’として理解し、Qに対する答えp’という問答関係を理解します。

ここでは各人が互いに異なる個人言語で問答しているのです。コミュニケーションが成立するには、一つの言語を共有しなくても、これだけで十分なのです。そのとき、各人が自分の個人言語の規則に従っており、単に規則に従っていると信じているだけではないことは、上記のような仕方で行われる他者との問答が順調に進むことで確認できるのです。

共有された言語がなくても、コミュニケーションを説明できそうですが、このことは、問答関係の性質として真理をとらえることとどう関係するのか、次に考えたいと思います。

04 問いと答えの組み合わせが真であることと規則遵守問題 (20220804)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

(ブランダムの読書会で担当が当たっていたことと、4回目のワクチンのあと体調を崩したことなどが続いてしばらく更新できずに失礼しました。この間少しデイヴィドソンを読みはじめました。)

命題ではなく問答が真理値を持つと主張しましたが、問答が成り立つためには問いが成立しなければならないので、「問いが成立するとはどういうことかを考えたい」と前回述べました。この問いに取り組む前に、足場固めのために、「問いと答えの組み合わせが真であるとはどういうことか」についてもう少し考えておきたいと思います。

 前回の説明は次のようなことでした。

例えばQ「これはリンゴですか?」という問いにA「はい、それはリンゴです」と答える時、その答えが真であるとは、誰に問うても、何度問うてもそう答える場合(あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるだろうと考える場合、あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるべきだと考える場合)です。問いに対するある答えが真であるとは、問いに対して<そう答えるべきだ>ということです。例えば、問いQを問うことは義務ではありませんが、その問いを問われたならば、<Aを答えることが義務になる>ということです。この意味で問答は、規範性を持ちます。

今回は、デイヴィドソンの議論を参考にして、問答の真理性と規範性の関係をもう少し解明したいと思います。デイヴィドソンは論文「言語の社会的側面」(1994)(ドナルド・デイヴィドソン著『真理・言語・歴史』柏端達也。立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010)で、次のように述べています。

「たとえば、私が自分の鼻を指さすたびに、あなたが「鼻」と言う場合を考えてみよう。その場合、あなたの理解は正しいし、しかもあなたはそれを以前と同じように続けている。だがなぜ、あなたの言語的応答が「同じ」である――すなわち重要な点で類似している――と見なされるのだろうか。」197

ここで「私が自分の鼻を指さす」ことは、「私が自分の鼻を指さして、「これは何ですか」と問う」ことを意味しているのでしょう。そしてこれを行うたびに、相手が「鼻」と答えるのです。「その場合、あなたの理解は正しいし、しかもあなたはそれを以前と同じように続けている。」

ここに、前回私が述べた「問いと答えの組み合わせが真である」ことが成立しています。つまり、「これは何ですか」という問いに、「鼻です」と答えるとき、この問答関係が真であるのは、誰に問うても、何度問うてもそう答える場合であり、それがここに成立しているのです。しかし、どうしてそのように言えるのでしょうか。ここでのデイヴィドソンの次の問いかけは、この問いと同じものです。

「だがなぜ、あなたの言語的応答が「同じ」である――すなわち重要な点で類似している――と見なされるのだろうか。」197

この後、それにデイヴィドソンの答えが続きます。

「それはきっと、それぞれの事例における刺激を同じものと私が見なし、そしてそれに対する反応も同じであるとみなしているからであろう。あなたもまた、私のそれぞれの指差しを、何らかの原始的な意味で、同じものと見なしているに違いない。その証拠はあなたの反応の類似性である。」197

つまり、同じ問いに同じ答えを返すことを繰り返していると理解することは、問う者と答える者が、互いに相手の発話や反応を同じものと見なしているからである。相手の反応を同じものと見なしていることの証拠は、それに対する他方の側の反応の類似性であると、デイヴィドソンは言います。

彼は、続けてつぎのように問います。

「しかしながら、あなたの反応が重要な点で類似しているかどうかをあなた自身に教えるようなものはここでは現れることがない。刺激がどのようなものであれ、あなたの応答の類似性は、あなたが当の状況において類似する何かを見てとったということを示すであろう。逆にもしあなたが同じ諸刺激に対して明白に異なるような反応をしたなら、それはあなたがその刺激を異なるものとみなしたということをしめしていると解することができるし、あるいはそれと同等に、あなたにとってそれらが類似の反応であるということを示していると解することもできる。」

私は<問答が真であるためには、それを反復することが可能であり、また同じ問いに同じように答えることが責務であらねばならならない>と述べましたが、これを主張するには、同じ問答を反復するということが成立しなければなりません。そのためには、実際に同じ問答を反復することと、ただ同じ問答を反復していると信じていること、を区別できなければなりません。しかし、この区別は、一人ではできません。

デイヴィドソンは、上記に続けて次のように述べます。

「ウィトゲンシュタインがいうように、あなた一人では、状況がおなじものに見えるということと、状況が同じであるということとを、区別することができないのだ。(多くの論者の見解によれば、ウィトゲンシュタインは、この論点は刺激が私秘的であるときにのみ適用できると考えたということだが、私は、この論点がすべての刺激のケースに対して当てはまると考える)」198

デイヴィドソンは、しかし二人いれば、反応が同じであることと、同じように見えることの区別ができるようになることを、次のように説明します。

「ところがもし、私とあなたが、共有する刺激の出現を相手の反応にたがいに相関させられるなら、まったく新しい要素が導入されることになる。そしてひとたびそのような相関が確立されれば、相関に失敗したケースを区別する根拠が、われわれの双方に与えられる。自然的帰結の失敗はいまや、正しく理解することと誤って理解することとの違い、以前と同じように続けているのかそれとも逸脱しているのかの違いをあらわにするものとして、受け取ることができる。」198

これをもう少しわかりやすく書き直せば次のようになります。

「私とあなたが、共有する刺激の出現を相手の反応にたがいに相関させられるなら」つまり、「ひとたびそのような相関が確立されれば」、一方は相関が続いていると考えているが、相手は相関が破られたと考えるということは生じうる。つまり「正しく理解することと誤って理解することとの違い、以前と同じように続けているのかそれとも逸脱しているのかの違い」が可能になる。

仮に私が同じように鼻を指さしたのに、相手が「眉間」といったとします。相手は、私が鼻を指さしたのに、もう少し上のほうを指さしたと見間違えたのかもしれません。あるいは、私が指さしたところは、鼻ではなく正確に言えば眉間だと考えたのかもしれません。あるいは、私は同じように鼻を指さしていたつもりだったのですが、私が考えるよりも上の方を指さしていたのかもしれません。私が考える眉間は、ほかの人が眉間と考える部分よりも狭すぎるのかもしれません。あるいは、しては、「眉間?」(「眉間を刺したの?」)と問うたのに、私は「眉間」(「眉間だ」)という主張だと聞き間違えたのかもしれません。このように二人いれば、反応が同じであることと、同じように見えることの区別ができるようになります。

私的言語の問題、つまり<規則に従うことと、規則に従っていると信じることの区別は、一人ではできない>という問題があるので、規則が成り立つには二人以上が必要である、あるいは「社会的相互作用に言及することが必要だ」(197)ということをデイヴィドソンも認めます。もしそれだけなら、それはありふれた議論です。「しかし、その必要性がどのように満たされるのかという点において、私は彼ら[ダメットやクリプキやウィトゲンシュタイン]と一致しない」といいます。

では、上記の彼の議論の新味はどこにあるのでしょうか。それは、命題ではなく問答が真理値を持つという私たちの提案とどう関係するでしょうか。

03 問いと答えの組み合わせが真であるとはどういうことか (20220724)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

・私たちは、次のような場合に、問いと答えの組み合わせを真であると考えます。

例えばQ「これはリンゴですか?」という問いにA「はい、それはリンゴです」と答える時、その答えが真であるとは、誰に問うても、何度問うてもそう答える場合(あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるだろうと考える場合、あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるべきだと考える場合)です。問いに対するある答えが真であるとは、問いに対してそう答えるべきだということです。例えば、問いQを問うことは義務ではありませんが、その問いを問われたならば、Aを答えることが義務になるということです。この問答をすることは義務ではないが、その問いに対して、そう答えることは義務になります。単に文Aを語ることは義務ではないのですが、その問いQを問われたら、文Sを答えることが義務になるのです。

問答が真であるためには、もう一つ条件があります。問Qに対してSを答えることが真になるためには、問いQを問うことが成立しなければならないということです。では、問いが成立するとはどういうことでしょうか。

02 問答が意味の単位であるので、問答が真理値を持つ (20220722)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

前回書いたように、真理について、分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、事実的/規範的、等の区別が可能かどうか、可能だとするとどう区別するのか、を考えたいと思いますが、私は、真理は命題や事実の性質ではなく、問答の性質だと考えます。あるいは、「…は真である」という真理述語は、命題や事実について述定されるのではななく、問答(ないし問答関係)について述定されると考えます。そこで真理の区別の前に、このことを説明したいとおもいます。

#問答推論的意味論は、言語的意味の最小単位を命題ではなく、問答だと見なす。また、問答推論的語用論は、発語内行為の最小単位も、問答だとみなす。

文の意味は、語や語句の意味の結合によって成立しますが、その結合は、問いと答えの結合として成立します(これについては、『問答の言語哲学』「2.1.3.2 命題内容の理解と問答によるコミットメントの結合」(pp. 101-104)で説明しました。またその後、考察を加えて本ブログのカテゴリー「問答の観点からの認識」第67回で説明しましたので、それらをご参照ください。)。発話は焦点を持ちますが、その焦点は問答の答えの部分におかれるものです。発話が問答の結合によって成立するとき、問いに対する答えの部分に焦点があります(これについては『問答の言語哲学』「2.2 発話が焦点を持つとはどういうことか」(pp.104-132)で説明しました)。焦点は、発話が問答によって成立することを示しています。また、発話の発語内行為も、その問答によって成立します。なぜなら、問いは、返答の発話の発語内行為をすでに規定しているからです(これについては、『問答の言語哲学』「3.1 質問と言語行為」(pp.159-178)を参照ください。

#問答の意味は、問答推論関係によって示される。

・推論的意味論は、主張の意味を推論関係で説明するが、これに対して問答推論的意味論は、問いの意味を、問答推論関係で説明します(これについては『問答の言語哲学』「1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて」(pp.35-82)で説明しました)。しかし、主張や問いが意味の単位ではなく(『問答の言語哲学』では、このような理解をしていました)、問答が意味の単位であるとすると、問答の意味を、つぎのように問答推論関係で説明することができるでしょう。

(以下は、「問い」の意味ではなく、「問答」の意味の説明です)

<問答Aの意味は、問答推論(前提の問いと結論の答えを結合する推論)と、問答Aの上流推論(より上位の問いからそれを解くための問い(問答Aの問い)を導出する推論)と、問答Aの下流推論(より上位の問いに答えるために、問答Aを前提とし、そこからより上位の問いの答えを導出する推論)によって、明示化される。>

#問答は、意味を保存し、真理を保存する。

・論理的語彙は、保存拡大性という特徴を持ちます。つまり、論理的語彙を導入して除去することによって、それ以前に可能であった推論を不可能にしたり、それ以前に不可能であった推論を可能にしたりしない。論理的語彙の保存拡大性は、論理的語彙の使用が、他の語彙の意味を変えないこと、他の命題の真理値を変えないことを示している。問いの語彙と形式もまた、同様の保存拡大性を持つ。つまり問答によって、他の語彙の意味を変えないし、他の命題の真理値を変えない(これについては『問答の言語哲学』「1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて」(pp.35-82)で説明しました。保存拡大性については、このブログでも何度か考察を加えてきました)。

・この議論は、問答を意味の単位とみなすとき、どうなるでしょうか。論理的語彙と問いの語彙の使用によって、それ以前の通常の推論の妥当性に影響を与えず、また、それ以前の問答や問答推論の成立にも影響を与えないとすると、これらの語彙の使用は、それ以前に可能であった問答の成立にも影響を与えないでしょう。つまりこれらの語彙の使用は、問答の意味を変えないし、問答の真理値も変えないでしょう。

#問答が真であるとは、どういうことか?

<問答が真である>とは、従来の表現で言えば、<問いが健全であり(真なる答えを持つものであり)、答えが真である>ということです。従来の考えでは、<問答が真である>つまり<問いと答えの組み合わせが真である>とは、<その問答が、問いと答えの意味に基づいている、あるいはそれに加えて事実に基づいている>ということです。また、<問いが健全である>とは、<問いの意味に基づいて、答えることができる、あるいはそれに加えて、事実に基づいて答えることができる>ということです。

・しかし、問答が意味の最小単位であり、問答が真理値を持つのだとすると、「真なる答え」という表現はできないし、「問いが健全である」ということの上記の定義もできなくなります。なぜなら、真であるのは問答であって、答えではないからです。

・また<問いと答えの組み合わせが真である>とは、<その問答が、問いと答えの意味に基づいている、あるいはそれに加えて事実に基づいている>ということもできなくなります。なぜなら、<問いと答えの意味が、問答推論関係に基づく>のであり、<問答推論関係が、問いと答えの意味に基づく>のではないからです。

では、<問いと答えの組み合わせが真である>とはどのようなことでしょうか。

<真理は、命題の性質ではなく、問答の性質である>と考えようとするならば、この問いにどう答えるかが最も重要なことになります。

15 「同意原則」の廃止に向けて(20220713)

[カテゴリー:平和のために]

#「同意原則」とは次のようなものです。

(以下も、Wikipedia「国際司法裁判所」の項目からの引用です)

「あらゆる国際裁判は[…]当事国の同意なくして管轄権が成立することは決してない。これを同意原則という。 国際司法裁判所における裁判でも同意原則は貫かれている。

国際司法裁判所において管轄権が成立するには、以下の4つの場合がある。

(1) 個別の事件ごとに、両当事国が同意による付託する場合(コンプロミー)

(2) 原告国が被告国の後の同意を待つ形で国際司法裁判所に単独提訴を行い、被告国が同意した場合(応訴管轄、フォールム・プロロガートム)

(3) 一定の事項、事件について包括的に同意をし、条約で当該事件が起こった際に付託することを規定していた場合(裁判条約、裁判条項)

(4) 当事国の双方が国際司法裁判所規程36条2項に基づく選択条項受諾宣言をしていたとき、一方当事国がそれを援用した場合

(1),(2)は事後の同意、(3),(4)は事前の同意である。(2)については、同意原則より、被告国が裁判の開始に同意して初めて管轄権が成立するのであり、単独提訴の段階では管轄権はない。したがって、単独提訴したとしても、被告国が同意しなければ裁判が行なわれることはないし、国際司法裁判所は一切の訴訟手続をしない。」

このように利害当事国双方同意しなければ、裁判は行われません。しかし、裁判で負けそうだと考える当事国は、裁判することに同意しないと思われます。現在のところ、国連の国際司法裁判所は戦争の回避に役立っていないかもしれません。例えば、領土についての争いがある時、裁判に負けそうだとおもえば、裁判に同意せず、裁判に勝てそうだと思うときに裁判しようとするでしょう。双方の同意が必要なので、例えば、領土問題が国際司法裁判所で解決することは無いか、あるいはあっても非常にまれだろうとおもいます。

「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」に、国際司法裁判所による問題解決を実効性のあるものにするには、この「同意原則」を廃止する必要があるのではないでしょうか。ところで、私たちは、理性の公的使用によって、「同意原則は不要である」をつぎのように証明できるのではないでしょうか。

・人権の尊重を理性の公的使用における推論前提に用いることができる。

・殺人は人権侵害であり、戦争もまた人権侵害であり、それゆえに、戦争を回避すべきである。

・「理性の公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」の紛争は、戦争になる可能性がある。

「理性の公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」の紛争を戦争に寄らずに解決するためには、国際司法裁判所によって解決するしかない。

「理性の公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」の紛争は、国際司法裁判所によって解決しなければならない。

・ゆえに、国際司法裁判所による紛争の解決については、「同意原則」は不要である。

以上は、まだ素案ですのでまだブラッシュ・アップの必要があると思いますが、基本的にはこの方向で「同意の不要性」を「理性の公的使用」によって証明できるだろうと考えます。

(国連が、この方向に一歩踏み出すことを願います。)

14「思慮」は理性の「公的使用」か (20220712)

[カテゴリー:平和のために]

「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、国家連合体のなかに設置される国際司法裁判所で、争いを解決するということが考えられます。ここでの裁判官は、

次のようなものに基づいて、争いを解決しようとします。

国際条約で係争国が明らかに認めた規則

・法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習

・文明国が認めた法の一般原則

・法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説

裁判官がこれらの規則に従うとしても、もしこれらが理性の公的使用の結果であるならば、これらに従う理性使用も公的使用だといえます。では、これらは、公的使用の結果でしょうか。

・まず、国際条約が理性の公的使用の結果であるとは限りません。当事国が理性の私的使用によって、互いに合意すれば、国際条約は成立するからです。しかし、係争国がどの国際条約を締結しているかは、国際司法裁判所の裁判官にとって、事実の問題であって、自分が従うべき規範ではありません。

・次に、「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」についても、これらが認められているということを、裁判官が前提すべき、事実に属すると考えることができます。

・残りの「文明国が認めた法の一般原則」も「法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説」も、それらが認められていることを、裁判官が前提すべき、事実であると考えることができます。

では、国際司法裁判所の裁判官が、従うべき規範とは何でしょうか。それは裁判を行うための規範であり、なかでも最も重要なものは、「ある期限の内に結論を出さなければならない」ということではないでしょうか。

「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」は、上記の「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」に含まれているかもしれません。もしそうならば、上記「国際慣習」の中の一部「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」だけは、裁判官にとって、単なる事実(規範が存在するという事実)ではなく、従うべき規範であることになります。

では、この「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」は、アプリオリな命題でしょうか、アポステリオリな命題でしょうか。公正な裁判のやり方については、(別途、具体的に考える必要がありますが)、理性の公的使用によって合意が可能だろうと思われます。もしそうだとすると、裁判官が、当事国がどのような条約や規則を受け入れているか、を前提した上で、理性の公的使用によって、裁判を進めることができます。

ただし、「ある期限の内に結論を出さなければならない」という規則を公的使用によって認めることができるとしても、最終的にどのような結論を出すべきかを、公的使用によって決定できるとは限りません。そこにはアリストテレスのいう「思慮」(phronesis, prudence, Klugheit)のようなものが必要かもしれません。では、この「思慮」もまた「理性の公的使用」だと言えるでしょうか(カントはどう考えるのでしょうか、今のところ分かりません)。少なくとも「思慮」は「理性の私的使用」ではないとおもいます。しかし「思慮」の場合には、二人の人の思慮の結果が一致するとは限りません。つまり「思慮」では合意できない可能性が残ります。そうすると、この裁判官の出す判決の正当性が問題になります。

この点をさらに考えたいと思いますが、その前に、もう一つの問題を考えておきたいと思います。それは、利害当事国が裁判にかけることに同意していなければならない、という「同意原則」です。

13 国際司法裁判所について (20220710)

[カテゴリー:平和のために]

前回触れた「世界全体」は、世界のすべての人が参加してつくる世界共和国になるか、あるいは、すべての国家が参加して作る国家連合体のどちらかになるでしょう。国家連合体を作り、次第に国家の主権の制約を進めて、最終的に世界共和国をつくるというのがよいかもしれません(ここにも議論すべきことがありますが、話の拡散を避けるために今は論じません。)

とりあえず、「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、国家連合体のなかに設置される国際司法裁判所で、争いを解決するということが考えられます。

ところで、現在の国連の中には、すでに国際司法裁判所があります。

(以下、Wikipediaの「国際司法裁判所」の項目からの引用)
「国際司法裁判所規程
38条1項は、「裁判所は、付託される紛争を国際法に従って裁判することを任務とし、次のものを適用する」と規定する。すなわち、ICJが紛争の平和的解決のために適用するのは国際法である。

そして適用されるものとして、同条同項には以下が列挙されている。

・一般又は特別の国際条約で係争国が明らかに認めた規則を確立しているもの

・法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習

・文明国が認めた法の一般原則

・法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説

すなわち条約慣習法法の一般原則に基づき裁判がなされ、そしてそれらを明らかにするために判例学説が援用される。

また同条第2項では、当事国の合意がある場合には、「衡平と善 (ex aequo et bono)」に基づき裁判することができると規定している[20]。この場合の「衡平と善」とは、「法に反する衡平」(Equity contra legem) のことである。英米法のエクィティと同じものと考えて良い。 」

しかし、この裁判での裁判官の判断は、(カントの定義に従うならば)理性の公的使用ではなく、私的使用です。ただし、利害当事者による理性の私的使用ではありません。

 これはどのようなものになるのでしょうか?

12戦争によらない争いの解決方法 (20220709)

[カテゴリー:平和のために]

人を殺してはいけない、と言えるならば、人を殺すことによる争いの解決は避けるべきだといえます。戦争は人を殺すことですから、戦争による争いの解決は避けるべきです。

では、「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、どうすべきでしょうか。

ある国の内部で、二つの集団の利害が対立し、話し合いで解決しないとき、彼/彼女らは、裁判で争うことができます。それは暴力による解決を避けるための方策です。ただし、そのためには、その国の人々が、その裁判制度を承認していなければなりません。もし、その裁判制度を認めず、判決を受け入れない人が、判決に従わない場合には、その行為は国家に対する犯罪になり、国家によって裁かれることになります。

同様の制度を、世界全体で作れば次のようになるでしょう。

<国家間の争いが話し合いで解決しない場合には、国際司法裁判所で争い、当事国がその判決を引受けるならば、戦争による争いの解決を避けることができます。もし、その国際的な裁判制度を認めず、判決を受け入れない国が、判決に従わない場合には、その行為は世界全体に対する犯罪になり、世界全体によって裁かれることになります。>

では、この「世界全体」は、どのようなものになるでしょうか。

11別の側面から理性の公的使用と私的使用の区別について(20220708)

[カテゴリー:平和のために]

理性は推論の能力であり、公的使用と私的使用の区別は、推論の区別であることを前の9回と10回に説明しました。その推論の区別では、真理についての、事実的/規範的、アプリオリ/アポステリオリ、分析的/綜合的、必然的/偶然的、という区別が前提となっていること、そしてそれらの区別については再検討・再定義が必要であることを指摘し、とりあえず真理の区別の考察に向かうことにしました。これについては、カテゴリー「問答の観点からの真理」で行うことにしました。

今回は、別の側面から、理性の公的使用と私的使用の区別について考えたいとおもいます(本来は、この区別の再定義が終わってからすべき議論かもしれません。)

カントは、次のように述べています。

「自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない。これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩は格別妨げられるものではないと。」(たぶん、カント『啓蒙とは何か』岩波文庫、p. 10。今手元に本がなく確認できないので間違っているかもしれません。)

ここから言えることは、<公的使用は常に私的使用に対して優先されなければならない>、<公的使用では決定できない場合に限って、私的使用が行われる>ということです。したがって、<「自国第一」に考えてよいことは、理性の公的使用では決定できないことに限られる>ということです。

二つの国の間に、利害の対立があるとき、それぞれの国民が自国第一で考えたら戦争になる可能性があります。しかし、それぞれの国民である人々が、それぞれの国民としてではなく、世界市民として考える時には、その利害の対立について、それぞれの国民に限らず、すべての人が自由に参加できる、自由な理性的な議論(すべての前提を自由に理性的に吟味する議論)を行うことになるでしょう。そのとき、理性的な議論だけでは決定できない問題に行き当たる時(つまり公的使用では答えられない問題に行き当たる時)は、その決定の利害当事者たちが協議して決定する必要があるでしょう。なぜなら、その決定に責任を負えるのは、利害当事者だけだからです。たとえば、領土問題の場合、どのように国境線を引くかは、利害当事者の協議に任せるしかない部分があるかもしれません。そのような利害当事者の協議で合意ができないときは、どうしたらよいでしょうか。「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合にどうすべきか」という問題は、利害当事者だけの問題でなく、理性を持つすべての人の一般的な問題です。つまり、これは理性の公的使用によって解決すべき問題です。

これは、決して利害当事者間の戦争によって解決すべき問題ではありません。なぜでしょうか。

この問題に理性の公的使用は、どう答えればよいでしょうか。

これらを次に考えたいと思います。

01 真理の4つの区別 (20220705)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

(これはupのテストです。)

#真理の4つの区別 分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、事実的/規範的

真偽が、命題の性質ではなく、問答関係の性質であるとすれば、分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、事実的/規範的、などの区別も、命題の区別ではなく、問答関係の区別です。