40 世襲と民主主義 (20221012) 

[カテゴリー:日々是哲学]

「親ガチャ」という言葉がはやっています。親を選べないことから帰結する不平等を表す言葉です。岸田首相が、息子を秘書官にしたことが、政治家の世襲として批判されています。岸田首相の息子が将来彼の選挙地盤の後継者となることが決まるならば、実質的に他の候補者が排除されることになるでしょう。これが政界全般、特に自民党に蔓延している文化です。これでは、日本の政治はよくなりません。世襲制度の愚かさは、もし大学教授が世襲ならば、学問研究の水準は落ちてしまう、ということを考えれば、明らかです。

自由競争やその結果の格差が、正当であるためには、競争の機会均等が保証されている必要があります。機会均等が保証されていない情況で、自由競争することは、不当な格差を拡大させます。世襲はその典型例です。しかし、世襲は日本社会にまだまだはびこっています。歌舞伎、茶道、華道、などの世界もそうです。もし歌舞伎の世界が世襲でなければ、歌舞伎はもっと多様な展開をしていたことでしょう。日本の世襲文化の大本にあるのは、天皇制です。天皇制は君主制の一形態であり、民主主義に反します。日本社会の閉塞衰退の一部は、世襲制度に由来するのではないでしょうか。

49 ベイズの定理について (20221011)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

フリストンの「能動推論」とは、生物の知覚と行動(行為)の両方を同じ原理で統一的に説明するものです。その原理は「自由エネルギー原理」と言われています。これの厳密な説明にはベイズ統計学のテクニカルな説明が必要ですが、それによると生物は予測機械であり、その予測は、ベイズ推論によって説明できる、ということです。ただ、そのテクニカルな説明は少し難しいのです。

そこで、もう少しわかりやすく説明してくれている(同じく最近翻訳の出た)ヤコブ・ホーヴィ著『予測する心』(原著2013)(佐藤亮司監訳、太田陽、次田瞬、林禅之、三品由紀子訳、勁草書房,2021)をもとに確認したいと思います。ホーヴィは哲学者ですが、神経科学者であるフリストンたちの影響を受けて、「脳は洗練された仮説テストメカニズムであり、外界から受け取る感覚入力の予測誤差の最小化に常に取り組んでいる」(同訳16)と考えます。フリストンにならってホーヴィもまた、このメカニズムによって知覚、行為、その他を説明します。

このメカニズムを説明するために、まずベイズ推論を説明したいと思います。ベイズ推論というのは、ベイズの定理についての解釈の一つだといえるものなので、まずベイズの定理を説明します。

<ベイズの定理とその証明>

定義1:P(x)は、与えられた条件なしに事象xが生じる確率を表す。「周辺確率(marginal probability)」や「事前確率(prior probability)」と呼ばれている。

定義2:P(x,y)は、事象xとyの両方が生じる確率を表す。

定義3:P(x|y)は、yが真であるとき事象xが発生する確率を表す。これは「条件付き確率(conditional probability)」と呼ばれている。yが与えられた時の、xの「事後確率(posterior probability)」ともいう。(P(y|x)もまた条件付確率であり、xが真である場合にBが発生する確率である。またP(y|x)=L(x|y)であることから、固定されたyに対するxの尤度とも解釈できる)

ベイズの定理:P(x|y)=P(y|x)P(x)/P(y

ベイズの定理の証明:(最初にupしたときに、以下の(1)(2)(4)の式が間違っていたので訂正しました。20221128訂正)

(1) P(x,y)=P(x|y)P(y)   (定義1,2,3,より)

(P(x|y)は、yが起きた時にxが起きる確率です。これを仮に30%とし、yが起きる確率P(y)を仮に40%とすると、xとyが同時に起きる確率は、P(y)=40%の中のさらにP(x|y)=30%であり、12%となります。)

(2)P(y,x)=P(y|x)P(x)   ((1)のxにyを、yにx代入)

(3)P(x,y)=P(y,x)      (定義2より)

(4) P(x|y)P(y)=P(y|x)P(x) ((1)(2)(3)より)

(5) P(x|y)=P(y|x)P(x)/P(y)  ((4)より)

次にベイズ推論を説明したいと思います。

48 <見かけ上の予測>と<問答としての予測> (20221007)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

知覚と行為を統一的に説明する理論として、フリストンの「能動推論」が注目を集めています。

(ここでは、トーマス・パー、ジョバンニ・ペッツーロ、カール・フリストン『能動的推論』乾敏郎訳、ミネルヴァ書房、を参照します。以下の引用のページ数は、とくに断らないか限り、この翻訳のものです。)

フリストン達は、「脳は基本的に予測機械であり、入ってくる刺激を受動的に待つのではなく常に予測している」(11)と考えます。知覚や行為において行われている予測を、ベイズ推論として説明します。つまり、脳は、ベイズ推論を行う機械であるということです。ベイズ推論を行っているものとしては、人間の脳だけでなく、おそらく脳をもつすべての動物の脳が含まれていると思われます。コンピュータによる機械学習も同じ仕方でプログラムされています。この意味の予測機械は、意識をもちませし、(人間が「言語を持つ」というのと同じ意味では)言語を持ちません。

したがって、この能動推論を行う機械は、予測しているように見えますが、人間が「予測する」という意味では予測していません。ですからこれは、<見かけ上の予測>です。

 では、<見かけ上の予測>としての能動推論は、<問答としての予測>である問答推論とどこが違うのでしょうか。以下では、<見かけ上の予測>と<問答としての予測>の違いを、能動推論と問答推論の違いとして考えて、この違いについて考え、どのようにして問答推論が始まるのかを考えたいと思います。

まずは「能動的推論とはどのようなものか」を確認しておきたいと思います。

47 <最初の意識は、問答によって、あるいは問答として成立する>の証明 (20221001)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(しばらく更新できずすみません。11月のフィヒテ協会大会のシンポでの発表要旨の締め切りがあり、それに時間をとられていました。そこでは自由意志の問題を論じる予定です。実は、このカテゴリーの45回から始めたアプローチ、つまり「人はなぜ問うのか」へのトップダウンのアプローチを始めるにあたって、フィヒテによる自己意識の発生論を利用できないかと考えています。しかし、フィヒテの観念論は、現代哲学とは前提が非常に異なるので、フィヒテの議論から始めることはできません。私が利用したいと思っているフィヒテのアイデアは、<自己意識は無前提な自己定立として成立する>ということであり、このアイデアを、現代の認知科学とリンクさせて生かせるようにしたいと思ってます。)

K. J. フリストン、J. ホーウィ、A.クラークなどの近年の認知科学の知見によるならば、<最初の意識は予測として成立する>と思われる。そして「p」を予測し、それが正しいかどうかを確認することは、「pであるか」と問い、それに答えることに他ならないと考えます。つまり、「予測する」とは、問答することなのです。また逆に、問うことは、予測することです。なぜなら、私たちが問うとき、多くの場合には答えについての一定の予測があり、また答えについての予測が全くないときにも、問いの前提についての予測があるからです。

したがって、<最初の意識は予測として成立する>と言えるならば、<最初の意識は、問答によって、あるいは問答として成立する>と言えるでしょう。

<予測から問答へ>

#中枢神経システムは、環境から感覚刺激を受け、その刺激によって走性や無条件反射として行動します。この行動は遺伝子によって決定された行動です。。

#条件反射やオペラント反応は、<環境からの感覚刺激とそれに対する無条件反射行動とその結果についての痕跡記憶>と、環境からの感覚刺激によって、引き起こされた行動です。この条件反射やオペラント反応の結果(つまり反応が引き起こした環境変化からの感覚刺激)は、同様の感覚刺激あったときに、その条件反射やオペラント反応を強化したり弱化したりします。この過程は、経験による学習過程です。

#行動がもたらす結果によって行動を調整するというメカニズムが発達するとき、動物は、行動がもたらす結果を予測するようになるでしょう。予測は外れることがあり、予測と現実の区別が生じます。これが、意識の始まりである可能性があるでしょう。しかし、予測にも様々なレベルのものがあります。では識の始まりと言える予測はどのようなものでなければならないでしょうか。

#探索は、予測をともなうでしょう。ランダムな探索もありえますが、しかしそれですら何らかの予測をともないます。蛆が、頭を振って、どちらの方向に暗いところがあるかを探るとき、頭を振ることは暗さの探索をおこなうことです。この探索は、暗いところと明るいところという違いがあることを前提とします。もちろんこの探索は、探索しているように見えるという<見かけ上の探索>です。<暗いところと明かるところという違いがある>ということは、この<見かけ上の探索>の前提です。探索は、その前提が成り立つことこともまた予想しています。これは<こちらが暗いだろう>というような探索によって真であることが発見される予想ではなく、探索の前提となるより確実なものですが、これまた予測であるには違いりません。

#予測することは、未来のある状態を信じることではなく、未来のある状態を考え、それが真となる可能性が高いと考えることです。もしこれだけにとどまらず、予測が真となるかどうか確かめようとすることを伴うならば、それは未来の状態について「pであるか」と問うことです。

(これらのステップは、まだ大まかな道筋を示したにすぎません。)

次に、<見かけ上の予測>と<問答としての予測>の違いについて考えたいと思います。

46 「何をしようか」 (20220926)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「人はなぜ問うのか」という問いは、二つの意味で理解できます。一つは、前回触れたように、「なぜ」の問いを、原因を問うこととして理解することです(これを問うことは、意識や問答の発生についてのボトムアップのアプローチになります)。前回触れなかったもう一つの理解は、「人はなぜ問うのか」という問いを、問うという行為の理由を問う問いとして理解することです。この問いの理由を問うことは、その問いと答えからなる問答をおこなう理由を問うことでもあります。

 さて、理論的問いについても実践的問いについても、この二つの理解が可能ですが、ここでは、実践的問いを最初の意識であると仮定して、その問いの理由を問いたいと思います。進化史上の最初の意識が、行為の意識だとすると、その行為の意識は、(それを言語化すると)、「何をしようか」や「pしようか」という問いとそれに対する答えとして生じるでしょう(ただし最初の意識は、非言語的な探索発見であるかもしれません)。

ところで、進化史上は、認識が発生したのは、行為のためであったといえでしょうが、その反面、行動は、外界の刺激・感覚・知覚なしには不可能です。意識的な行為が問答によって成立するとき、この問答は認識なしには不可能です。「何をしようか」という問いは、これを詳しくいえば、「私は今から何をしようか」という問いになるでしょう。この問いには「私」と「今から」が潜在的に含まれています。これらが省略されるのは、これを問うときの関心(疑問文の焦点)が行為の内容に向かっているからです。この問いないし探索には、「私」や「今から」の潜在的な意識ないし理解を伴っています。この「私」は認識主体ではなく行為主体です。行為主体としての「私」は身体を持つものです。。私の身体の意識、姿勢の意識、行為能力の意識(右を向いたり左を向いたりできる。腕を動かせる。立てる。歩ける、などの意識)が「私」の意識の中身になるでしょう。

これは、「何をしようか」という問いの前提であり、この前提を受け入れ、それにコミットすることで、問うことが可能になります。これらの前提をただ受け入れているだけならば、これらは与えられている客観的なものにすぎません。しかし、これらにコミットすることによって、これらは客観的に与えられるものから、問うこと(主体)を構成するものに変化します。

問うことが、あることを、問いの一部(問いの前提)にするのです。問いの前提は、問うことによって問いの前提として成立します。例えば、「pしようか」と問うことによって、「pすることもpしないこともできること」が問いの前提となり、問いを構成するものの一部となる。

(日常的な例でいえば次のようなことです。ある会社に就職して、その会社の業務をこなし、業務のための問答を行うとき、会社(に関する多くの命題)は、その問いの前提となっています。それらは、会社員として問うことを構成するもの(の一部)となっています。私がここで考えたいことは、最初の問いが発生する場面ですが、しかしそれは上記のような日常的な問いの発生の場面でも、同じようなことが起こっているだろうと推測します。)

上記の考察は、意識哲学的な内省による考察になってしまっています。言語や問答の分析によって、これについて、もう少し明晰な分析をしたいと考えています。

45 ボトムアップのアプローチとトップダウンのアプローチ (20220921)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「人はなぜ問うのか」に答えるのが、このカテゴリーの課題ですが、この問いは、二つの意味で理解できます。

一つは「なぜ」の問いを、原因を問うこととして理解し、「人が問う原因は何か」という問い

として理解することです。この問いは、問うことが何らかの原因を持つことを前提しています。その原因が自然的なものであれば、それは人が問うことの自然主義的な説明になります。これまで試みてきたのは、このようなボトムアップのアプローチでした。(このカテゴリーのここまでの議論については、このカテゴリーの説明文に書き込みました。なお、ボトムアップのアプローチとしては、カール・フリストンの「大統一理論」と「能動的推論」を検討したいと思うのですが、それについてはカテゴリー「問答推論主義へ」で問答推論の観点から考察する予定です。)

ここからしばらく、トップダウンのアプローチを試みたいと思います。ただし「トップダウンのアプローチ」がどのようなものになるのかは、私にはまだよくわかっていません。それも含めて、しばらく試行錯誤が続くとおもいます。

今仮に、<問うことは、自然的条件を必要条件として持つが、それだけでは問うことの成立には不十分である>と仮定してみましょう。この場合には、何かが加わって、問うことが成立したとしても、その何かは自然的条件ではないので、問うことは自然的原因なく生じることになります。

ところで、今まで意識の発生を考えるときに、このカテゴリーでもカテゴリー「問答の観点からの認識」でも、意識的な認識の発生を念頭に考えてきました。しかし、進化史上は、認識の発生はおそらく行為のためであったでしょうし、意識の始まりも行為のためであっただろうと思われます。したがって、意識的な行為の発生が、意識的な認識の発生に先行するだろうと思われます。

そこで次回から、意識的な行為の発生、つまり意識的な意図の発生について、どのような説明が可能であるかを考えてみたいと思います。

51 3つの問題の同型性  (20220913)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンは、これらの3つの問題(デイヴィドソンは、記憶についても同様の問題を述べていますが、これは知覚の問題と同型なので、ここでは知覚と記憶を一つ問題と考えます)を説明した後に次のよう言います。

知覚と行為と推論についてのこれらの問題の同型性が明確になるように、表現しなおしたいとおもいます。デイヴィドソンは、これら3つの各々について、それぞれ2つの問題を指摘していました。最初の問題は次のような問題です。

・事実が知覚の原因となって、知覚が生じていること(原因と結果の関係)

・意図が行為の原因(理由)となって、行為が行われていること(理由と行為の関係)

・推論規則が原因(根拠)となって、他の前提から結論が導出されていること(根拠と結論の関係)

そして、これらの問題が解決されてもまだ不十分であり、次の問題が解決されなければならないといわれます。

・事実が知覚の原因となっているだけでなく、それが知覚の十分な条件になっていること

・意図が行為の原因(理由)となっているだけでなく、それが行為の十分な条件になっていること

・推論規則が推論の原因(根拠)となっているだけでなく、それが推論の十分条件になっていること

私は、これらの最初の問題を次のような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「なぜ、その知覚が生じるのか」「なぜなら、あの事実が原因となってその知覚が生じるから。

「なぜ、その行為を行うのか」「なぜなら、あの意図が理由となって、その行為を行うから」

「なぜ、その主張を行うのか」「なぜなら、あの推論規則が根拠となって、その結論を主張するから。」

次に第二の問題をつぎのような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「あの事実は、その知覚が生じるための十分な原因になっていますか?」

「あの意図は、その行為が生じるための、十分な理由になっていますか?」

「あの推論規則は、その結論が生じるための十分な根拠になっていますか?」

このとき、原因や理由や根拠が十分なものであるための条件を一般的な仕方で明示することはできないと、デイヴィドソンはいいます。私もその通りだと思います。しかし、時々の文脈の中では、私たちは、何が十分であるかについての暗黙的な想定をしていると思います。

このブログでの45回からこの回(51回)まで、知覚と行為と推論を正当化する難しさについてのドナルド・デイヴィドソンによる指摘を検討し、問答関係に注目することによってその困難を克服することを提案してきました。

ちなみに、これらの問題の根っこについて、デイヴィドソンは次のように説明しています。

「これらの難問はすべて、思考の因果関係に関わっている。行為の原因としての思考に、知覚の結果としての思考に、そして、他の思考の原因としての思考に関わっている。それらの関係があまりにも多くの難問をはらむという事実は、因果の概念と思考の概念との間に何らかの種類の不和があることを示唆している。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、465)

私の理解は、これとは少し異なります。この分析は、知覚と行為の説明についてはあてはまります。なぜなら、知覚と行為の説明では、心的要素と物的要素の間の因果関係が関わるからです。しかし、推論の説明の困難は、前提と結論の関係の説明の困難であって、これには因果関係は関係しません。

たしかに、因果の概念と思考の概念との間には不和があるとおもいますが、それについては、別の機会に考えたいと思います。

50 規約主義の問題に答える  (20220907)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

まず、前回述べた第一の問題の解決について、補足しておきます。

前回は、第一の問題「われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである」を、<前提がその結論を導くことを可能にしているのは、問答関係である>と考えて、第一の問題への解決と考えました。

しかし、デイヴィドソンが考えていたのは、もっと単純なこと、つまり<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則である>ということを、第一の問題の解決と考えていたのかもしれません。

この二つの解釈を合わせたものとして、第一の問題を理解するときには、<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則と問答関係である>と答えることで解決できます。

さて、第二の問題は、<推論が推論規則の適用によって可能になるとき、さらにその適用の規則が求められ、その場合、適用の規則の適用の規則の適用の規則の … というように無限に反復してしまい、推論の正当化ができなくなる>という問題です。これは「規約主義のパラドクス」と呼ばれているものです。(これを指摘していたのは、クワインの論文 ’Truth by Convention’ (1936)であり、飯田隆の『言語哲学大全II』にこの論文の紹介があります。)

たとえば、<pとp→rからrを導出する>推論は、∀x∀y((x∧(x→y))→y)という推論規則に基づいていることになります[p、rを命題定項とし、xとyを命題変数とします]。そしてさらに、<<pとp→rと∀x∀y((x∧(x→y))→y)からrを導出する>推論は、

∀s∀t(s∧s→t∧∀x∀y((x∧(x→y))→y))→tという推論規則に基づいています[s, t, x, yは命題変数とします]、というように無限に反復します。

この反復を避けるためには、pとp→rからrを導出するときに、「pとp→rからrが導出できますか」という問いに「はい、rを導出できます」と答える、という問答が行われていると考えることができます。この答えは、次のように正当化できます。もし「いいえ、rを導出できません」と答えるならば、pからrは導出できないということになり、それはp→rという前提を認めること矛盾します。したがって、この矛盾を避けるためには、「はい、rを導出できます」と答えることが必要になります。こうして「はい、rを導出できます」と答えることを正当化できます。規約主義のパラドクスは、推論「p、p→r┣r」を次の問答推論としてとらえ返すことによって、回避できるのではないでしょうか。

  Q「pとp→rからrが導出できますか」、p、p→r┣r

<規約主義のパラドクスを、推論を問答推論としてとらえ返すことによって解決する>ということが、ここでの提案です。

 

デイヴィドソンは、以上の3つの問題(知覚、行為、推論の説明の問題)が同じタイプの属する問題だと考えています。その点を次に確認したいと思います。

49 第三の問題、推論の説明の困難 (20220904)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが指摘したこれまでの二つの問題、知覚の説明の問題と行為の説明の問題は、どちらも心的な要素と物的な要素の両方を含んでいましたが、同じようなタイプの問題であって、この両方を含んでいないものがある、と彼は言います。それが「推論する」ことの説明の問題です。そして、デイヴィドソンは、ここにも二つの問題があると言います。

第一の問題は次です。

「われわれは推論を完全に心的な過程と見なすことができる。…しかしながら、論理的に関係しあう命題が単に心の中に生起したというだけでは、それ自体、推論であるのに十分ではない。、特定の思想に対する熟慮や是認が、他の思想を生み出して(つまり引き起こして)いなければならないのである。だがここでまた繰り返すことになるが、いかなる因果関係も十分ではない。われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、461)

第二の問題は次です。

「ところがそれでもまだ十分でないだろう。というのも、aとbからcが導かれると信じており、かつ、aを信じ、bを信じていることは、われわれが当のそのケースにさらに論理的導出性を結びつけないかぎり、適切な推論を通じて、われわれがcを信じているということを保証するのに十分でないからである。以上はルイス・キャロルの「亀がアキレスに言ったこと」の心理的類比物である。われわれに必要なのは、前提への信念が推論においてどのように結論への信念を引き起こすのかについての、正しい説明である。」(同所)

私が、問答推論主義を主張するときに出発点としているのは、次のことです。<推論において、前提から論理的に導出可能な命題は常に複数あり、それからどれを選択して結論とするかは、前提だけから決定できないと指摘しました。私たちが推論するのは、問いに答えるためであり、その問いの答えとなりうる命題が、結論として選択されるのだと思われます。>この推論の説明によって、上記の第一の問題を解決できていると思います。つまり、<前提だけが結論を導くのではなく、問いと前提が結論を導く>ということがが、デイヴィドソンへの答えになるでしょう。

では、第二の問題については、どう考えたらよいでしょうか。それを次に説明します。

48 <問答としての行為>による<行為の合理性>の説明 (20220902)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

「なぜそうするのか」という問いに対する「なぜなら、…するためです」という答えは、行為の目的(動能的理由)を説明するものです。そして、本人が目的だと思っている理由が本当の理由ではなく、別の理由が行為の本当の理由、つまり行為を引き起こしているものである可能性があります。

以上は、前回引用したデイヴィドソンが言う通りです。そして、この時点では、行為の正当化が正しく行われているかどうかは、本人にも決定できません。

では、このような間違った行為の正当化(説明)をどうしたら排除できるでしょうか。実は、その行為によって目的が実現されるとき、その目的にはさらにより上位の目的を持つはずです。したがって、もし<本人が行為の動能的理由だと思っている目的1と、本当の動能的理由である目的2が異なっており、当の行為によって、どちらも実現されており、どちらの目的が本当の目的であったがわからない>としても、それに続く行為が異なってきます。したがって、それに続く行為を考察すれば、どちらの目的が本当の能動的理由であったかを知ることができるでしょう。

つまり、動能的理由による行為の説明(合理化、正当化)は、その行為に続く諸行為について「なぜそうするのか」と問うことによって、あるいは、そのような問答を反復することによって、解決できると思われます。

しかし、ここで生じていることを、行為の説明(正当化、合理化)の変化として捉えることは、間違いだとは言えないのとしも、不十分です。なぜなら、ここでは行為(の意味)が変化しているからです。

「なぜそうするのか」と問われて「なぜなら、目的1のためです」と答えた時には、その行為は「目的1を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されていたのです。その後「なぜそうしたのか」と問われて「なぜなら、目的2のためであった」と答えた時には、その行為は「目的2を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されているものとして理解されています。つまり、行為(の意味)が変化しているのです。

行為の説明に関するもう一つの問題、つまり認知的理由による行為の説明(合理化、正当化)が逸脱因果の可能性によって不可能になるという問題については、どう考えたらよいでしょうか。

前回述べた二つの例は、行為者の意図から始まる、当初想定していた因果連鎖によって、意図が実現するのではなく、その意図から始まる逸脱因果連鎖によって、意図していたことが偶然に実現する事例です。確かにこのような場合には、当初想定してた認知的理由(ある因果連鎖)はそこでの出来事の正しい説明にはなりません。その出来事を、その人の「行為」とか「行為したこと」と呼ぶこともできないように思われます。その「出来事の説明」は、その人の「行為の説明」にはなりません。「逸脱因果連鎖」の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

前回述べたデイヴィドソンが挙げていた例は、行為者が、逸脱因果連鎖が生じたことに気づいている場合ですが、行為者が逸脱因果連鎖に気づいていない場合もあります。たとえば、AさんがBさんを毒薬Cで殺そうとしたが、実際には毒薬Cだと思っていたものは毒薬Dであり、それによってBさんは死んだとしよう。このような場合にも、逸脱因果連鎖の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

 

以上の説明から言いたいことは、行為の説明の第一の問題、行為の動能的理由の説明の困難は、行為を「その目的を実現するためにどうするのか」と「…しよう」という問答によって構成されたものとしてとらえることによって、解決することです。つまり、行為の本当の目的が隠されていたことがわかるとき、行為の説明が変化するのではなく、行為が変化するということです。

もう一つは、行為の説明の第二の問題、行為の認知的理由の説明の困難については、それを引き起こす逸脱因果連鎖が生じているときには、行為の説明ではなく、出来事の説明が求められる、ということ、つまり、それは、行為の認知的理由の説明の困難ではない、ということです。

以上の議論が、デイヴィドソンが考えていた行為の説明の困難を正しくとらえて、答えているかどうか自信がありません。私は問題を誤解しているかもしれません。次に、三つ目の問題、推論の説明の問題を取り上げたいと思います。