05 誰にとっての「人生の意味」か? (20201201)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

 私の言葉や行為は、その上流推論において、他者の行為や言葉および社会の影響を受け、また下流推論において、他者の行為や言葉および社会に影響を与える。この影響関係の中には、私の言葉や行為についての評価も含まれている。それゆえに、私の言葉や行為の「意味」が、このような推論関係ないし影響関係によって明示化されるとき、そこには私の言葉や行為についての評価も含まれている。私の人生が、私の言葉や行為の集積であるとすると、私の「人生の意味」は、このような推論関係の集積であると言えるのではないだろうか。

そして、「人生の意味」についての語りは、多くの場合、このような推論関係の集積についての語りになっているのではないだろうか。

 この説明に気がかりな点があるとすると、それが「私の人生」を「私の言葉と行為」の集積と考えている点である。ここで考えられている推論関係は、主として実践的推論の関係であるが、実践的推論の大前提と結論は、一人称命題である。私の人生は、確かに、私にとっては一人称で表現される私の言葉と行為の集積である。しかし他者にとっては、三人称で語られる出来事の集積である。ここで02に述べたことを再掲する。

「ある人の人生がその行為の全体であるとしても、他人から見ればその行為の全体は、一連の出来事に過ぎない。それゆえに、人の人生を一連の出来事として捉えることができる。このとき、人生の意味は、出来事の意味の一種である。」

このように考える時、ある人の「人生の意味」は、誰にとっての意味であるかによって異なるものになるだろう。例えば、

  ・Xさんにとっての、Xさんの人生の意味

  ・他者にとっての、Xさんの人生の意味

  ・社会(所属集団、共同体、人類)にとっての、Xさんの人生の意味

などを区別できる。

 これらすべてを合わせたものが、「Xさんの人生の意味」だといえるだろう。