06 人生は物語か?   (20201203)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「人は、自分の人生物語の作者である」と言えるだろうか? ハンナ・アーレントは、そうではない、という。

「誰一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。言い換えると、活動と言論の結果である物語は、行為者を暴露するが、この行為者は作者でも生産者でもない。言論と活動をはじめた人は、確かに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり、受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。」(アーレント『人間の条件』志水速雄訳、中央公論社、25節「関係の網の目と演じられる物語」p. 211)

その理由は、私たちは自分で物語を書くように、自由に自分の人生をつくることができないからである。

「活動と言論によって人間は自己自身を暴露するのであるが、その場合、その人は自分が何者であるのか知らないし、いかなる「正体」を暴露するか、まえもって予測することもできない。」(同書、「27節 ギリシャ人の解決」

この理由は正しい。しかしそこから結論「人は自分の人生物語の作者ではない」を導出するためには、「物語作者は物語を自由に作ることができる」という前提が必要である。しかし、物語作者は物語を自由に作ることができるだろうか。

 小説家がある賞を取ろうと思っても取れるとは限らないのと同様に、小説家がある賞をとれるような素晴らしい小説を書こうと思っても書けるとは限らない。小説を書くことは、人生と同じように、ままならない。この点で、人生と小説を書くことは同じだ。

 これに対して、人生が思うようにならない原因は外的な要因であるが、小説を思うように書けない要因は内的な要因である、という反論があるかもしれない。では、自分が貧しい家庭に生まれたことはままならない人生の外的要因で、自分に小説家の才能がないことは内的要因なのだろうか。では、自分は英語で小説を書きたいのだが、英語のネイティヴ・スピーカーではないので、英語でうまく小説を書くことができないとすると、これは外的要因なのか、内的要因なのだろうか。このように外的要因と内的要因の区別は曖昧である。したがって、それによって、人生と小説を書くことを区別することはできない。

 では、「人は、自分の人生物語の作者である」と言えるのだろうか。私はアーレントが言うのとは別の意味で、「人は、自分の人生物語の作者ではない」と言いたい。その理由は、「人生は、そもそも物語ではない」ということである。Xさんの人生について、伝記を書くことができるし、死ぬ間際に自伝を(その完成直前までなら)書き上げることはできるだろう。しかし、自伝も伝記も、Xさんの人生そのものではない。Xさんの人生について、私たちは(互いに両立しない)複数の物語を語ることができるだろう。

 人生が物語でないとすれば、人は自分の人生物語の作者ではない。人生は豊穣であり、前回まで示してきたように、人生の推論関係は無限の豊かさと広がりを持っている。

 (次のような反論があるかもしれない。<小説もまた、作家が書き終えたことによって完結するのではなく、読者に読まれてはじめて成立するのである。小説の意味もまた、上流問答推移論関係と下流問答推論関係によって明らかになるのであり、その点で人生の意味と似ている。> その通りである。そのように問答推論主義の観点から芸術作品の意味を語ることができるだろう。しかし、このことは「人は自分の人生物語の作者ではない」への反論とはならない。)