20 アフォーダンスと問答    (20201227)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 動物の走性が「方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動」であるとすると、外部刺激は方向性をもっており、つまりゲシュタルトを持っている。そうすると、単細胞動物を含めてすべての動物はゲシュタルトを知覚していると言えそうである。

 この外部刺激のゲシュタルトは、動物の探索行動に応じて成立していると言えないだろうか。これに対しては次の反論が考えられる。<外部刺激に対する反応として走性行動が生じるのだから、ゲシュタルトが、走性行動によって成立するとは言えない。時間的に外部刺激は走性行動に先行するからである。>

 この反論に対して次のように応答できるだろう。外部刺激よる走性行動の解発は、複雑な条件をともなっている。

「動物が環境の変化をどのように知覚でき、またはできないかは、感覚能力の研究によって推論することができるが、観察される反応を解発するものがいったいなんであるのか、については確固たる回答が得られない。このことは、動物は、その感覚器官が受け取る環境の変化すべてに対して反応するのではなく、そのほんの一部に反応するに過ぎないという、特殊な事実に関係している。」(ティンバーゲン『本能の研究』前掲訳27)

「さらにいえることは、感覚器官が反応の解発に含まれている時でさえ、それが感受できる刺激のごく一部だけが実際に効果的なのである。」(同訳、28)

さらに、反応を複雑にする要因の一つは、内的な状態である。私たちも、空腹のときには、食べ物の匂いにより敏感になり、よりおいしそうに感じるだろう。食べ物のにおいのゲシュタルトは、主体の内的状態に依存する。そして内的状態は探索行動へ向かわせるものでもあり、食べ物を探索する反応が、匂いのゲシュタルトに影響を与えることになる。

 以上が反論への応答であるが、この説明では、<走性における外的刺激のゲシュタルトが探索行動の影響を受けている>という可能性を示せただけで、その証明としては不十分である。ただし、ノエが言うように、知覚は、行動に組み込まれており、行動の仕方であるとするならば、そしてまた、全ての行動は探索であると言えるならば、知覚のゲシュタルトは、探索によって規定されていると言えるだろう。

 ノエのエナクティヴィズムによれば、<物を知覚するとき、その対象に関わる可能な行為の集合を認知している>と言えるだろうが、アフォーダンス論によれば、<私たちは、物を知覚するとき、その物が促している(アフォードしている)行動を認知している>。物が何をアフォードするかは、主体のありようによって異なる。体重の重い人にとっては、ゆっくり歩くことを促す折れてしまいそうな板であっても、体重の軽い人にとっては、強く踏んづけても大丈夫な板であるかもしれない。喫煙者には、吸い込みたくなる良い香りでも、タバコ嫌いには、息を止めたくなる匂いかもしれない。このアフォーダンスの違いは、主体が何を求めているかの違いでもある。

 有名な例を挙げよう。ダーウィンのミミズの研究は有名である。翻訳が出たときに読んだダーウィンの『ミミズと土』(平凡社ライブラリー)が家にあるはずなのに、見つからないので、エドワード・S・リード『アフォーダンスの心理学』(細田直哉訳、佐々木正人監修、新曜社)をもとに説明したい。<ミミズは、体が乾燥してはいけないので、穴の出口をものでふさごうとする。その素材としてその松の葉を穴の出口近くにおいておけば、その松の葉で出口をふさごうとするのだが、松の葉の針の方が穴の中を向いているようにしたら、ミミズが外に出る時に刺さってしまうので、ミミズは、松の葉の元の方から穴の中に引っ張り込む。> このようなことをダーウィンは調べた。このミミズの行動を、アフォーダンス論で説明すれば、松の葉の先の針のところは、そこを穴の内側にするな、とアフォードし、松の葉の元の方は、ここをつかんで引き入れよ、とアフォードする、ということになるだろう(リード前掲訳、42-54)。

 このようなアフォーダンスの知覚もまた、ミミズの行動の課題に依存しており、ミミズの<穴をふさぐにはどうすればよいか>の探索(見かけ上の探索)に依存しているといえるだろう。

 ところで、ギブソンのアフォーダンス論は、アフォーダンスを単に<主体と対象の関係において成立するもの>と考えるだけではない。それをエコロジカルな視点から理解するのである。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。