22 アフォーダンスの生態学 (20201230)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(動物の知覚と探索行動の関係を考察していたのに、前回は、郵便ポストのアフォーダンスの話しをしてしまって、議論が拡散しすぎたとおもいます。郵便ポストのアフォーダンスは、言語を持つ人間にとってのアフォーダンスと問答の関係として、考察すべき話題でした。いずれはそこに向かいたいと思いますが、そのまえに、無脊椎動物にとってのアフォーダンスと探索行動の関係の考察を続けたいと思います。)

 知覚を考察するとき、主体と対象の関係だけでなく、環境を考える必要があるというアフォーダンス論の主張は正しいだろう。そのとき、アフォーダンスを、主体と環境(対象は環境の一部である)の関係として考えるのではなく、環境の中での動物と対象の関係と考えるのが正しいだろう。その関係は環境の中に含まれていると言ってもよいだろう。では、その環境とは何だろうか。

 ギブソンによれば、動物や人間の環境は、「媒質(medium)」と「物質(substances)」と「両者を分かつ面(surfaces)」の3つにわけられる(ギブソン『生態学的視覚論』訳17)。

 地上環境の「媒質」は、空気という気体であり、水中環境の「媒質」は、水や海水という液体である。

 ギブソンが「物質」というのは固体ないし半固体(植物や動物は、この半固体の一部であろう)であり、媒質の中にある。

 この「媒質」と「物質」の間には「面」がある。面の中でも地面は、「陸生動物の知覚や行動の基盤である。すなわち、地面は動物の支持面である。水と空気の境界は、水面である。水と個体の境界は、海底、湖底、川底などである。この場合、陸上生物にとっては、海や川は媒質ではなく、物質であるあろう。つまり、水面もまた、媒質(空気)と物質(海水、水)の境界である。(逆に水中生物にとって、水は媒質であり、空気は物質になるのかもしれない。)

 さて、動物は、媒質のなかを移動する生物である。そして、その移動は、でたらめなものではなく、多くの場合誘導ないし制御されている。媒質は、光、音、匂いなどの化学物質を伝えるものである。そして、動物は、光や音や匂いなどに誘導されて媒質のなかを移動する生物である。「走性」もまた、このような移動である。媒質のもう一つの特性は、それが酸素を含み、呼吸を可能にするということである(前掲書19)。また媒質は、おおよそ均質であり、重力による上下という絶対的関係軸を有する。このような媒質が提供する様々なもの(情報)をギブソンは「アフォーダンス」と名付けた(前掲書20)。

 動物はこのような媒質の中で対象を知覚する。(物質(動物とその対象)と媒質と面からなる)このような環境の中で「アフォーダンス」が成立している。

 ここでもう一度問いを繰り返そう。動物の探索行動はこのようなアフォーダンスとどう関係しているのだろうか?

21 ゲシュタルト心理学とアフォーダンス理論    (20201229)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?](見出しタイトルだけ変えました)

『生態学的視覚論』において、ギブソンは、アフォーダンスを単に<主体(動物/人間)と対象の関係において成立するもの>と考えるだけでなく、それをエコロジカルな視点から理解する。つまり、<主体(動物/人間)と環境の関係において成立するもの>とみなす。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。

 まず「アフォーダンス論」とゲシュタルト心理学の違いを確認しておきたい。ゲシュタルト心理学もまた、アフォーダンスに似た知覚を認めていた。

「コフカの『ゲシュタルト心理学の原理』1935(福村出版)から引用すると、「果物は『食べて下さい』といい、水は『飲んで下さい』と語り、雷は『恐がって下さい』と、また女性は『愛して』と語りかけている」(p.7)」150

これらを、コフカは「要求特性demand character」とよび、クルト・レヴィンは「誘発特性(invitation character)」とか「誘発性(valence)」と呼んでいた。

 ゲシュタルト心理学は、形や色などの性質と同様に、これらの誘発性が直接に知覚されることを認めていたが、しかしこれらを物理的なものと区別して現象的なものとみなした。つまり「対象の誘発特性は、経験を通じて対象に付与されるものであり、観察者の要求により付与されるものである。」(『生態学的視覚論』151) と考えた。

 これに対して、ギブソンは、アフォーダンスを誘発性から明確に区別する。

「アフォーダンスの概念は、誘発性、誘因性、要求の概念から導き出されてはいるが、それらとは決定的な違いがある。ある対象のアフォーダンスは、観察者の要求が変化しても変化しない。観察者は、自分の要求によってある対象のアフォーダンスを知覚したり、それに注意を向けたりするかもしれないし、しないかもしれないが、アフォーダンスそのものは、不変であり、知覚されるべきものとして常にそこに存在する。アフォーダンスは、観察者の要求や知覚するという行為によって、対象に付与されるのではない。」(同書、151)

「コフカにとっては、手紙を郵送することを誘いかけるのは現象的な郵便ポストであり、物理的な郵便ポストではなかった。しかし、この二元性は、有害である。そこで私は以下のように言う方がよいと思う。つまり、実際の郵便ポストが(これだけが)。郵便制度のある地域では手紙を書いた人間に、手紙を郵送することをアフォードする。このことは郵便ポストが郵便ポストとして同定されるときに知覚され、そして郵便ポストが視野内にあってもなくても理解される。投函すべき手紙を持っているときに、郵便ポストへの特殊な誘引力を感じるということは、驚くべきことではないが、しかし、重要なことは、その誘引力が環境の一部として――我々が生活している環境の一つの項目として――知覚されることである。…郵便ポストのアフォーダンスの知覚は、それゆえ、郵便ポストがもちうるそのときどきの特殊な誘引力と混同されるべきではない。」(同書、151f)

ギブソンは、アフォーダンスは、主体が対象に投影したものではなく、対象の形や色と同じように客観的に実在している、と考える。郵便ポストは、手紙を入れることを促している。郵便制度がない社会に、ポストをおいてもポストは手紙を入れることを促さないだろう。しかし、郵便制度がある社会では、ポストは手紙を入れることを促す。それは、私たちの生活環境の一部として知覚される。それは、郵便制度がある社会では、誰がいつみても知覚できるアフォーダンスである。その意味で、アフォーダンスは客観的に存在する。アフォーダンスは、主体と対象(郵便ポスト)の関係として成立するのではなく、郵便制度という環境の一部として成立している。

 この場合、郵便制度もまた客観的に成立していることになる。そうすると、ギブソンは「社会構築主義」、しかも自然も社会的に構築されていると考える「強い意味の社会構築主義」を採用するように見える。彼は、<自然は社会的に構築されていないが、社会制度(社会制度、社会規範)は社会的に構築されている>と考える「弱い意味の社会構築主義」ではなく、<自然も社会も同じように社会的に構築されている>と考える「強い意味の社会構築主義」であるように見える。しかしはたして、このギブソン理解は正しいのだろうか。言い換えると、生態学的アプローチは、強い社会構築主義と結びつくのだろうか。(この問題を追及すると、話がそれてしまうので、この問題はペンディングにしておきます。)

 動物と対象との関係においてアフォーダンスが成立するのだとすると、アフォーダンスは動物の探索活動に対応していると言えそうなのだが、もし生態学的な環境の中でアフォーダンスが成立するのだとすると、その場合にも、アフォーダンスは探索によって規定されているといえるのだろうか。その場合、アフォーダンスと問いは、どう関係するのだろうか。