13 走性・反射から、条件反射、オペラント行動へ (20201210)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

#走性、反射、本能

 刺激に対する「走性」と呼ばれる反応を探求と呼ぶことは、人間や動物の(後述の)探究行動の投影ないし比喩によって、そこに含まれていない要素を主観的に付与して記述するならば可能であるが、客観的な記述としては成り立たないように思われる。例えば、太陽の方に花や葉を向ける植物の振る舞いも、高速で早回しをすれば、動物の走性による動きのように見えるだろう。この違いは、人間の時間意識にとっての違いであり、対象そのものの機能の違いではないように思われる。つまり、動物の走性と植物の屈性は、どちらも探求行動のように見える。したがって、全ての動物は探求をする生物であるというならば、植物についてもまた探求をする生物であると言わなければならなくなってしまう。したがって、<(動物も植物もふくめて、すべての生物は探求している>と言うか、あるいは、<(すべての動物ではなく)ある種の動物は、探求する生物である>と言うべきか、いずれかであるだろう。私は、後者をとりたい。

 走性は、学習によるのではなく、遺伝によるものである。探索を比喩的でなく、厳密に使用するならば、遺伝で決定している振る舞いは、探索とは言えないだろう。

#反射 reflex(脊椎反射spinal reflex

 「反射」とは、「動物の生理作用のうち、特定の刺激に対する反応として意識される事なく起こるもの」を指す(Cf. Wikipedia)。反射は、機能によって次の三種類に分類されるようだ。。

 1 姿勢反射(姿勢を保つための反射)

 2 体性反射

   ・腱反射(腱や骨の突端を叩くと、そこに繋がっている骨格筋が収縮する反射)

   ・表在反射(皮膚や粘膜刺激を加えることで、その周りの筋が収縮する反射)

   ・病的反射(起こることが異常である反射)

 3 内臓反射(恒常性の維持、全身の活動性の調節、に不可欠なもの)

 脊椎動物の「反射」は、走性と同じように突然変異で生じ、自然選択されたものであり、遺伝子に組み込まれた反応である。したがって、反射もまた探索とは言えないだろう。(走性、反射、本能行動、の関係は複雑であり、論者によって異なるので、ここでは立ち入らないことにする。ここでは、これらはすべて探索行動ではないと考える。)

 では、条件反射はどうだろうか?

#条件反射(conditioned response)

これについては、パブロフの実験が有名である。

 イヌにメトロノームを聞かせる(条件刺激C)

 イヌにえさを与える(刺激S)。

 イヌはえさを食べながらつばを出す(反応R)。

これを繰り返す。すると、イヌはメトロノームの音を聞いただけで、唾液を出すようになる。

 このSとRの関係は(無条件)反射である。「条件反射」とは、このような無条件反射を前提し、それをもとに成立する。刺激Sに対して無条件に反応Rが生じるとしよう。このとき、Sと同時に刺激Cが与えられることが反復すると、刺激Cだけで反応Rが生じるようになる。これが「条件反射」と呼ばれる。無条件反射の反応とならないものを、条件反射の反応にすることはできない。

 このような条件反射は、生存に次のように役立っている。ある音がきこえ、その後、熊を見かけて、熊に恐怖することが何度もあると、その音を聞いたら、熊を見なくとも、熊に恐怖するようになる。この条件反射が成立することによって、熊の出現により早く用心することができ、生存に有利である。

 この条件反射が成立するためには、ある音をきいたあとで、その音の付近で熊を見かけて、熊に恐怖するという体験の記憶が必要である。それは通常の想起できる記憶である必要はない。(なぜなら、条件反射は意識を介さずに成立するからである。例えば、パブロフの犬の唾液の分泌は、無意識的で自動的な調節によるものである。)ただし、その体験を思い出すことができなくても、それの体験は、動物の脳の中に何らかの仕方で痕跡として残っている必要がある。例えば、ある種のシナプス結合が起こりやすくなる状態、というような痕跡であるかもしれない。

 このような条件反射は、遺伝によって成立するのではなく、記憶によって可能になるので、学習されたものだといえるだろう。(ただし、記憶のメカニズムは、遺伝によって成立している。)条件反射は、経験によって獲得された行動である。しかし探索する行動でも、探索の結果得られた行動でもない。探索は自発的な反応でなければならないだろう。

#オペラント条件付け(Operant Conditioning)

「オペラント行動」とは、「その行動が生じた直後の、刺激の出現もしくは消失といった環境の変化に応じて、頻度が変化する行動」をいう。また「オペラント条件づけ」とは、「自発的に行動された直後の環境の変化に応じて、その後の自発頻度が変化する学習」をいう(Cf. Wikipedia)。

 スキナー箱の実験では、ネズミは、レバーを押したら餌が出てくる経験を繰り返すことによって、レバーを押す自発頻度が増えていく。これは、餌の探索行動である。「オペラント行動」は探索行動の一種である。このオペラント行動が成り立つためには、レバーを押したら餌が出てきたという経験の記憶が必要である。オペラント行動は、推理に基づく行動ではなく、条件付けられた反応であるので、この記憶も、想起される必要はない。何らかの仕方で脳の中にその経験の痕跡があり、その痕跡がはたいて、その行為の自発頻度の増大が生じている必要がある。このようにみてくると、動物の探索行動は、オペラント行動に始まることがわかる。そしてそのためには、記憶の成立が必要であることが分かる。

 では、動物のオペラント行動と人間の探索行動の違いは何だろうか?

12 動物の走性と探索 (20201207)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(このカテゴリーの目標は、「人はなぜ問うのか?」に答えることです。そしてこれに答えるために、まず、「問うとはどういうことか?」を問うことにしました。これに答えるために、まず自然主義の立場からこの問いに答える可能性を追求することにしました。そのために、01から04まで動物の探索について明らかにしようとしました。その過程で、「04 動物は表象を持つのか (20200928)」で、動物の探索と人間の探索の違いを明確にするために、「動物は表象を持つのか?」という問いを立てました。ところで、動物の知覚もまたゲシュタルト構造を持つことが報告されています。つまり、人間の知覚と同じく、動物の知覚もまた地図構造を持つということです。そこで、知覚についてのNoeの議論をしたくなりましたが、そのとき彼の本が手元になかったので、05から人間が理論的問いと実践的問いを問うのは、どういう場合であるかを、考察しました。

 今回から、動物の探索と人間の探索の比較の考察に戻りたいと思います。Noeの知覚論(動物の知覚も人間の知覚も表象ではないと主張しています)にも言及しますが、動物の探索について、「走性」からもう一度考察したいと思います。)

 動物の探索と人間の探索の違いは、探索しているときに、探索していることを同時に意識しているかどうかの違いにある。人間の探索行為は、探索しようと意図することなしには成立しないし、探索しようとする意図を意識していることなしには、成立しない。これは探索行為に限らない。人間の行為は、行為のしていることの反省、行為の意図(行為内意図)の反省なしには、成立しない。

これに対して、動物の場合には(チンパンジーなどが例外になる可能性はあるが)、このような自己意識はない。このような自己意識的な探索がどのように始まるかを検討しよう。

 01で、次のように書いた。「動物は感覚し、そして動き回ることができる」ということにある。動物とは、動き回る生物であるが、動き回るためには感覚が必要である。動物は、動き回って餌をとる。餌を取るためには、餌を感覚する必要がある。動物の運動と知覚は、主として餌の探索のためのものである。つまり、生物が動物となったときから、生物は探索するのであり、動物とは探索する生物なのである。」

 「動物とは探索する生物である」これは正しいだろう。単細胞生物である「原生動物」からすでに栄養を求めて運動するが、そのメカニズムは、おそらく「走性」といってよいのだろう。これが正しければ、原生動物から節足動物(昆虫や、甲殻類)などの運動、行動は、全て「走性」で説明されることになる。

 走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である。

 Wikipediaによれば、「走性」とは、方向性のある外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的行動である。そして、走性は外部刺激によって次のように分類されるようだ。

  走圧性 (barotaxis) – 圧力

  走化性 (chemotaxis) – 化学薬品

  電気走性 (galvanotaxis) – 電流

  走磁性 (magnetotaxis) – 磁場

  走地性 (geotaxis) – 重力

  走水性 (hydrotaxis) – 水分

  走光性 (phototaxis) – 

  走流性 (rheotaxis) – 水流

  温度走性 (thermotaxis) – 温度

  接触走性 (thigmotaxis) – 接触

(おそらくこれら以外の種類のものもあるだろう。)

ゴキブリが、壁沿いを移動するのは、「接触走性」なのかもしれない。蛾が電灯に集まるのは、「走光性」であろう。蚊やハエを捕まえようとしても、それらが素早く逃げるのは、どのような走性なのだろうか。空気の流れに反応しているのかもしれない。蚊がヒトの皮膚から出る二酸化炭素に反応して針を刺して血を吸う。蚊がブーンと音を立てながら近づいてくるとき、蚊は餌を探索していると言いたくなる。ある意味では、そのように言うことは可能である。しかし、蚊は、二酸化炭素に反応して針を刺して血を吸うように、遺伝子によって決定されているのである。蚊は、ヒトの血を探索しているのではなく、突然変異と自然選択の積み重ねによって、そのように行動するように進化したのである。

 たとえば、玄関に、近づいたら明かりが点く照明をつけるとき、照明装置は、人間から出る赤外線に反応している。これは動物の走性による反応とよく似ている。しかし、照明装置は、接近してくる人を探索しているのではない。(その装置を設置した人は、近づいてくる人を探索していると言えるだろう。)これと同じで、走性によって、餌物を捕まえたり、より安全な環境に移動したりする動物は、それらを探索しているとは言えない。

 しかしそうすると、「動物は、探索する生物である」とは言えなくなる。「蚊は、ヒトの血を探している」と言えるのだろうか、言えないのだろうか、どういう語り方が正しいのだろうか。

08重度の知的障害を持つ人の人生の意味  (20201205)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

人生の意味を問答推論関係として説明することは、重度の知的障害を持つ人にも適用される。なぜなら、問答推論関係に関して、そのほかの人との違いがないからである。人生の意味の説明に関して、重度の知的障害を持つ人もまた、その他の人と同じように、上流問答推論を持ち(つまり、多くの人や出来事の影響を受けて行為し)、また下流問答推論を持つ(多くの人や出来事に影響を与える)。

 これに対しては、次のような反論があるかもしれない。<そのように考えるならば、動物の生涯の「意味」も、またさらには道に転がる石の「意味」も、すべて問答推論関係として説明することになるだろう。そのような説明の拡張可能性は、問答推論関係による人生の意味の説明が、間違いではないとしても、不十分であることを示している。>

 このような反論に対してどう答えたらよいだろうか。今のところ、次のように答えたい。<人生の「意味」は、路傍の石の「意味」と原理的に変わりがない。ただ、これらが持つ問答推論関係は異なっている。しかし他方で、「意味」があるものと「意味」がないものものという二分法は成り立たない。>

07 人生は単なる行為の連続か?  (20201204)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

01で「ある人の人生をその人の行為の全体だとしよう。このとき、ある人の人生の意味は、その人の行為全体の意味である。」と述べたうえで、行為の意味について説明した。04では、行為の意味について問答推論関係によってより詳しく考察した。

 しかし、人生を行為の連続体として捉えられるとしても、その意味は、それの要素である個々の行為の意味の集合体と考えることはできないのではないか、という反論があるかもしれない。なぜなら、<人生の意味は、それを構成する行為の意味の集合以上のものである>と思われるからである。

 この反論に対して、二つの注意をしておきたい。

 このような反論は、人生は、諸行為が単に連続するだけでなく、諸行為が意味的により統合されたものであると想定しているだろう。言い換えると、諸行為が一つの物語を構成していると想定しているだろう。もちろん、<私たちの人生は、ある物語を構成している>という考えを全く否定する必要はないし、それは多くの場合有効であろう。しかし、前回も述べたように、私たちの人生は、複数の仕方で物語られうる。人生そのものは、どのような物語によっても完全に掬い取られない。人生そのものは物語形式による理解を越えている。だからこそ、自己の人生や他者の人生についての私たちの理解は、常に開かれている。そしてそのことが、私たちが自己や他者を自由であると考えることを可能にしている。

 これに関連して付け加えると、私たちは、自我の同一性について、紋切り型の理解はできない。平野啓一郎の「分人主義」の例があるように、自我の同一性についても、多様な考え方がありうるだろう。

 もう一つの注意点は、行為の意味を行為の上流下流の問答推論関係として理解する時、

Xのある時点の行為とそれ先行する行為との関係や、それに後続する行為との関係もまた考慮されているということである。したがって、諸行為が物語を構成しているならば、その物語関係もまた考慮されているということである。

06 人生は物語か?   (20201203)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「人は、自分の人生物語の作者である」と言えるだろうか? ハンナ・アーレントは、そうではない、という。

「誰一人として、自分自身の生涯の物語の作者あるいは生産者ではない。言い換えると、活動と言論の結果である物語は、行為者を暴露するが、この行為者は作者でも生産者でもない。言論と活動をはじめた人は、確かに、言葉の二重の意味で、すなわち活動者であり、受難者であるという意味で、物語の主体ではあるが、物語の作者ではない。」(アーレント『人間の条件』志水速雄訳、中央公論社、25節「関係の網の目と演じられる物語」p. 211)

その理由は、私たちは自分で物語を書くように、自由に自分の人生をつくることができないからである。

「活動と言論によって人間は自己自身を暴露するのであるが、その場合、その人は自分が何者であるのか知らないし、いかなる「正体」を暴露するか、まえもって予測することもできない。」(同書、「27節 ギリシャ人の解決」

この理由は正しい。しかしそこから結論「人は自分の人生物語の作者ではない」を導出するためには、「物語作者は物語を自由に作ることができる」という前提が必要である。しかし、物語作者は物語を自由に作ることができるだろうか。

 小説家がある賞を取ろうと思っても取れるとは限らないのと同様に、小説家がある賞をとれるような素晴らしい小説を書こうと思っても書けるとは限らない。小説を書くことは、人生と同じように、ままならない。この点で、人生と小説を書くことは同じだ。

 これに対して、人生が思うようにならない原因は外的な要因であるが、小説を思うように書けない要因は内的な要因である、という反論があるかもしれない。では、自分が貧しい家庭に生まれたことはままならない人生の外的要因で、自分に小説家の才能がないことは内的要因なのだろうか。では、自分は英語で小説を書きたいのだが、英語のネイティヴ・スピーカーではないので、英語でうまく小説を書くことができないとすると、これは外的要因なのか、内的要因なのだろうか。このように外的要因と内的要因の区別は曖昧である。したがって、それによって、人生と小説を書くことを区別することはできない。

 では、「人は、自分の人生物語の作者である」と言えるのだろうか。私はアーレントが言うのとは別の意味で、「人は、自分の人生物語の作者ではない」と言いたい。その理由は、「人生は、そもそも物語ではない」ということである。Xさんの人生について、伝記を書くことができるし、死ぬ間際に自伝を(その完成直前までなら)書き上げることはできるだろう。しかし、自伝も伝記も、Xさんの人生そのものではない。Xさんの人生について、私たちは(互いに両立しない)複数の物語を語ることができるだろう。

 人生が物語でないとすれば、人は自分の人生物語の作者ではない。人生は豊穣であり、前回まで示してきたように、人生の推論関係は無限の豊かさと広がりを持っている。

 (次のような反論があるかもしれない。<小説もまた、作家が書き終えたことによって完結するのではなく、読者に読まれてはじめて成立するのである。小説の意味もまた、上流問答推移論関係と下流問答推論関係によって明らかになるのであり、その点で人生の意味と似ている。> その通りである。そのように問答推論主義の観点から芸術作品の意味を語ることができるだろう。しかし、このことは「人は自分の人生物語の作者ではない」への反論とはならない。)

05 誰にとっての「人生の意味」か? (20201201)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

 私の言葉や行為は、その上流推論において、他者の行為や言葉および社会の影響を受け、また下流推論において、他者の行為や言葉および社会に影響を与える。この影響関係の中には、私の言葉や行為についての評価も含まれている。それゆえに、私の言葉や行為の「意味」が、このような推論関係ないし影響関係によって明示化されるとき、そこには私の言葉や行為についての評価も含まれている。私の人生が、私の言葉や行為の集積であるとすると、私の「人生の意味」は、このような推論関係の集積であると言えるのではないだろうか。

そして、「人生の意味」についての語りは、多くの場合、このような推論関係の集積についての語りになっているのではないだろうか。

 この説明に気がかりな点があるとすると、それが「私の人生」を「私の言葉と行為」の集積と考えている点である。ここで考えられている推論関係は、主として実践的推論の関係であるが、実践的推論の大前提と結論は、一人称命題である。私の人生は、確かに、私にとっては一人称で表現される私の言葉と行為の集積である。しかし他者にとっては、三人称で語られる出来事の集積である。ここで02に述べたことを再掲する。

「ある人の人生がその行為の全体であるとしても、他人から見ればその行為の全体は、一連の出来事に過ぎない。それゆえに、人の人生を一連の出来事として捉えることができる。このとき、人生の意味は、出来事の意味の一種である。」

このように考える時、ある人の「人生の意味」は、誰にとっての意味であるかによって異なるものになるだろう。例えば、

  ・Xさんにとっての、Xさんの人生の意味

  ・他者にとっての、Xさんの人生の意味

  ・社会(所属集団、共同体、人類)にとっての、Xさんの人生の意味

などを区別できる。

 これらすべてを合わせたものが、「Xさんの人生の意味」だといえるだろう。