03 問いと答えの組み合わせが真であるとはどういうことか (20220724)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

・私たちは、次のような場合に、問いと答えの組み合わせを真であると考えます。

例えばQ「これはリンゴですか?」という問いにA「はい、それはリンゴです」と答える時、その答えが真であるとは、誰に問うても、何度問うてもそう答える場合(あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるだろうと考える場合、あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるべきだと考える場合)です。問いに対するある答えが真であるとは、問いに対してそう答えるべきだということです。例えば、問いQを問うことは義務ではありませんが、その問いを問われたならば、Aを答えることが義務になるということです。この問答をすることは義務ではないが、その問いに対して、そう答えることは義務になります。単に文Aを語ることは義務ではないのですが、その問いQを問われたら、文Sを答えることが義務になるのです。

問答が真であるためには、もう一つ条件があります。問Qに対してSを答えることが真になるためには、問いQを問うことが成立しなければならないということです。では、問いが成立するとはどういうことでしょうか。

02 問答が意味の単位であるので、問答が真理値を持つ (20220722)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

前回書いたように、真理について、分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、事実的/規範的、等の区別が可能かどうか、可能だとするとどう区別するのか、を考えたいと思いますが、私は、真理は命題や事実の性質ではなく、問答の性質だと考えます。あるいは、「…は真である」という真理述語は、命題や事実について述定されるのではななく、問答(ないし問答関係)について述定されると考えます。そこで真理の区別の前に、このことを説明したいとおもいます。

#問答推論的意味論は、言語的意味の最小単位を命題ではなく、問答だと見なす。また、問答推論的語用論は、発語内行為の最小単位も、問答だとみなす。

文の意味は、語や語句の意味の結合によって成立しますが、その結合は、問いと答えの結合として成立します(これについては、『問答の言語哲学』「2.1.3.2 命題内容の理解と問答によるコミットメントの結合」(pp. 101-104)で説明しました。またその後、考察を加えて本ブログのカテゴリー「問答の観点からの認識」第67回で説明しましたので、それらをご参照ください。)。発話は焦点を持ちますが、その焦点は問答の答えの部分におかれるものです。発話が問答の結合によって成立するとき、問いに対する答えの部分に焦点があります(これについては『問答の言語哲学』「2.2 発話が焦点を持つとはどういうことか」(pp.104-132)で説明しました)。焦点は、発話が問答によって成立することを示しています。また、発話の発語内行為も、その問答によって成立します。なぜなら、問いは、返答の発話の発語内行為をすでに規定しているからです(これについては、『問答の言語哲学』「3.1 質問と言語行為」(pp.159-178)を参照ください。

#問答の意味は、問答推論関係によって示される。

・推論的意味論は、主張の意味を推論関係で説明するが、これに対して問答推論的意味論は、問いの意味を、問答推論関係で説明します(これについては『問答の言語哲学』「1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて」(pp.35-82)で説明しました)。しかし、主張や問いが意味の単位ではなく(『問答の言語哲学』では、このような理解をしていました)、問答が意味の単位であるとすると、問答の意味を、つぎのように問答推論関係で説明することができるでしょう。

(以下は、「問い」の意味ではなく、「問答」の意味の説明です)

<問答Aの意味は、問答推論(前提の問いと結論の答えを結合する推論)と、問答Aの上流推論(より上位の問いからそれを解くための問い(問答Aの問い)を導出する推論)と、問答Aの下流推論(より上位の問いに答えるために、問答Aを前提とし、そこからより上位の問いの答えを導出する推論)によって、明示化される。>

#問答は、意味を保存し、真理を保存する。

・論理的語彙は、保存拡大性という特徴を持ちます。つまり、論理的語彙を導入して除去することによって、それ以前に可能であった推論を不可能にしたり、それ以前に不可能であった推論を可能にしたりしない。論理的語彙の保存拡大性は、論理的語彙の使用が、他の語彙の意味を変えないこと、他の命題の真理値を変えないことを示している。問いの語彙と形式もまた、同様の保存拡大性を持つ。つまり問答によって、他の語彙の意味を変えないし、他の命題の真理値を変えない(これについては『問答の言語哲学』「1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて」(pp.35-82)で説明しました。保存拡大性については、このブログでも何度か考察を加えてきました)。

・この議論は、問答を意味の単位とみなすとき、どうなるでしょうか。論理的語彙と問いの語彙の使用によって、それ以前の通常の推論の妥当性に影響を与えず、また、それ以前の問答や問答推論の成立にも影響を与えないとすると、これらの語彙の使用は、それ以前に可能であった問答の成立にも影響を与えないでしょう。つまりこれらの語彙の使用は、問答の意味を変えないし、問答の真理値も変えないでしょう。

#問答が真であるとは、どういうことか?

<問答が真である>とは、従来の表現で言えば、<問いが健全であり(真なる答えを持つものであり)、答えが真である>ということです。従来の考えでは、<問答が真である>つまり<問いと答えの組み合わせが真である>とは、<その問答が、問いと答えの意味に基づいている、あるいはそれに加えて事実に基づいている>ということです。また、<問いが健全である>とは、<問いの意味に基づいて、答えることができる、あるいはそれに加えて、事実に基づいて答えることができる>ということです。

・しかし、問答が意味の最小単位であり、問答が真理値を持つのだとすると、「真なる答え」という表現はできないし、「問いが健全である」ということの上記の定義もできなくなります。なぜなら、真であるのは問答であって、答えではないからです。

・また<問いと答えの組み合わせが真である>とは、<その問答が、問いと答えの意味に基づいている、あるいはそれに加えて事実に基づいている>ということもできなくなります。なぜなら、<問いと答えの意味が、問答推論関係に基づく>のであり、<問答推論関係が、問いと答えの意味に基づく>のではないからです。

では、<問いと答えの組み合わせが真である>とはどのようなことでしょうか。

<真理は、命題の性質ではなく、問答の性質である>と考えようとするならば、この問いにどう答えるかが最も重要なことになります。

15 「同意原則」の廃止に向けて(20220713)

[カテゴリー:平和のために]

#「同意原則」とは次のようなものです。

(以下も、Wikipedia「国際司法裁判所」の項目からの引用です)

「あらゆる国際裁判は[…]当事国の同意なくして管轄権が成立することは決してない。これを同意原則という。 国際司法裁判所における裁判でも同意原則は貫かれている。

国際司法裁判所において管轄権が成立するには、以下の4つの場合がある。

(1) 個別の事件ごとに、両当事国が同意による付託する場合(コンプロミー)

(2) 原告国が被告国の後の同意を待つ形で国際司法裁判所に単独提訴を行い、被告国が同意した場合(応訴管轄、フォールム・プロロガートム)

(3) 一定の事項、事件について包括的に同意をし、条約で当該事件が起こった際に付託することを規定していた場合(裁判条約、裁判条項)

(4) 当事国の双方が国際司法裁判所規程36条2項に基づく選択条項受諾宣言をしていたとき、一方当事国がそれを援用した場合

(1),(2)は事後の同意、(3),(4)は事前の同意である。(2)については、同意原則より、被告国が裁判の開始に同意して初めて管轄権が成立するのであり、単独提訴の段階では管轄権はない。したがって、単独提訴したとしても、被告国が同意しなければ裁判が行なわれることはないし、国際司法裁判所は一切の訴訟手続をしない。」

このように利害当事国双方同意しなければ、裁判は行われません。しかし、裁判で負けそうだと考える当事国は、裁判することに同意しないと思われます。現在のところ、国連の国際司法裁判所は戦争の回避に役立っていないかもしれません。例えば、領土についての争いがある時、裁判に負けそうだとおもえば、裁判に同意せず、裁判に勝てそうだと思うときに裁判しようとするでしょう。双方の同意が必要なので、例えば、領土問題が国際司法裁判所で解決することは無いか、あるいはあっても非常にまれだろうとおもいます。

「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」に、国際司法裁判所による問題解決を実効性のあるものにするには、この「同意原則」を廃止する必要があるのではないでしょうか。ところで、私たちは、理性の公的使用によって、「同意原則は不要である」をつぎのように証明できるのではないでしょうか。

・人権の尊重を理性の公的使用における推論前提に用いることができる。

・殺人は人権侵害であり、戦争もまた人権侵害であり、それゆえに、戦争を回避すべきである。

・「理性の公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」の紛争は、戦争になる可能性がある。

「理性の公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」の紛争を戦争に寄らずに解決するためには、国際司法裁判所によって解決するしかない。

「理性の公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」の紛争は、国際司法裁判所によって解決しなければならない。

・ゆえに、国際司法裁判所による紛争の解決については、「同意原則」は不要である。

以上は、まだ素案ですのでまだブラッシュ・アップの必要があると思いますが、基本的にはこの方向で「同意の不要性」を「理性の公的使用」によって証明できるだろうと考えます。

(国連が、この方向に一歩踏み出すことを願います。)

14「思慮」は理性の「公的使用」か (20220712)

[カテゴリー:平和のために]

「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、国家連合体のなかに設置される国際司法裁判所で、争いを解決するということが考えられます。ここでの裁判官は、

次のようなものに基づいて、争いを解決しようとします。

国際条約で係争国が明らかに認めた規則

・法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習

・文明国が認めた法の一般原則

・法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説

裁判官がこれらの規則に従うとしても、もしこれらが理性の公的使用の結果であるならば、これらに従う理性使用も公的使用だといえます。では、これらは、公的使用の結果でしょうか。

・まず、国際条約が理性の公的使用の結果であるとは限りません。当事国が理性の私的使用によって、互いに合意すれば、国際条約は成立するからです。しかし、係争国がどの国際条約を締結しているかは、国際司法裁判所の裁判官にとって、事実の問題であって、自分が従うべき規範ではありません。

・次に、「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」についても、これらが認められているということを、裁判官が前提すべき、事実に属すると考えることができます。

・残りの「文明国が認めた法の一般原則」も「法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説」も、それらが認められていることを、裁判官が前提すべき、事実であると考えることができます。

では、国際司法裁判所の裁判官が、従うべき規範とは何でしょうか。それは裁判を行うための規範であり、なかでも最も重要なものは、「ある期限の内に結論を出さなければならない」ということではないでしょうか。

「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」は、上記の「法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習」に含まれているかもしれません。もしそうならば、上記「国際慣習」の中の一部「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」だけは、裁判官にとって、単なる事実(規範が存在するという事実)ではなく、従うべき規範であることになります。

では、この「裁判官が裁判を行うという職務を実行するために従うべき規則」は、アプリオリな命題でしょうか、アポステリオリな命題でしょうか。公正な裁判のやり方については、(別途、具体的に考える必要がありますが)、理性の公的使用によって合意が可能だろうと思われます。もしそうだとすると、裁判官が、当事国がどのような条約や規則を受け入れているか、を前提した上で、理性の公的使用によって、裁判を進めることができます。

ただし、「ある期限の内に結論を出さなければならない」という規則を公的使用によって認めることができるとしても、最終的にどのような結論を出すべきかを、公的使用によって決定できるとは限りません。そこにはアリストテレスのいう「思慮」(phronesis, prudence, Klugheit)のようなものが必要かもしれません。では、この「思慮」もまた「理性の公的使用」だと言えるでしょうか(カントはどう考えるのでしょうか、今のところ分かりません)。少なくとも「思慮」は「理性の私的使用」ではないとおもいます。しかし「思慮」の場合には、二人の人の思慮の結果が一致するとは限りません。つまり「思慮」では合意できない可能性が残ります。そうすると、この裁判官の出す判決の正当性が問題になります。

この点をさらに考えたいと思いますが、その前に、もう一つの問題を考えておきたいと思います。それは、利害当事国が裁判にかけることに同意していなければならない、という「同意原則」です。

13 国際司法裁判所について (20220710)

[カテゴリー:平和のために]

前回触れた「世界全体」は、世界のすべての人が参加してつくる世界共和国になるか、あるいは、すべての国家が参加して作る国家連合体のどちらかになるでしょう。国家連合体を作り、次第に国家の主権の制約を進めて、最終的に世界共和国をつくるというのがよいかもしれません(ここにも議論すべきことがありますが、話の拡散を避けるために今は論じません。)

とりあえず、「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、国家連合体のなかに設置される国際司法裁判所で、争いを解決するということが考えられます。

ところで、現在の国連の中には、すでに国際司法裁判所があります。

(以下、Wikipediaの「国際司法裁判所」の項目からの引用)
「国際司法裁判所規程
38条1項は、「裁判所は、付託される紛争を国際法に従って裁判することを任務とし、次のものを適用する」と規定する。すなわち、ICJが紛争の平和的解決のために適用するのは国際法である。

そして適用されるものとして、同条同項には以下が列挙されている。

・一般又は特別の国際条約で係争国が明らかに認めた規則を確立しているもの

・法として認められた一般慣行の証拠としての国際慣習

・文明国が認めた法の一般原則

・法則決定の補助手段としての裁判上の判決及び諸国の最も優秀な国際法学者の学説

すなわち条約慣習法法の一般原則に基づき裁判がなされ、そしてそれらを明らかにするために判例学説が援用される。

また同条第2項では、当事国の合意がある場合には、「衡平と善 (ex aequo et bono)」に基づき裁判することができると規定している[20]。この場合の「衡平と善」とは、「法に反する衡平」(Equity contra legem) のことである。英米法のエクィティと同じものと考えて良い。 」

しかし、この裁判での裁判官の判断は、(カントの定義に従うならば)理性の公的使用ではなく、私的使用です。ただし、利害当事者による理性の私的使用ではありません。

 これはどのようなものになるのでしょうか?

12戦争によらない争いの解決方法 (20220709)

[カテゴリー:平和のために]

人を殺してはいけない、と言えるならば、人を殺すことによる争いの解決は避けるべきだといえます。戦争は人を殺すことですから、戦争による争いの解決は避けるべきです。

では、「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合」には、どうすべきでしょうか。

ある国の内部で、二つの集団の利害が対立し、話し合いで解決しないとき、彼/彼女らは、裁判で争うことができます。それは暴力による解決を避けるための方策です。ただし、そのためには、その国の人々が、その裁判制度を承認していなければなりません。もし、その裁判制度を認めず、判決を受け入れない人が、判決に従わない場合には、その行為は国家に対する犯罪になり、国家によって裁かれることになります。

同様の制度を、世界全体で作れば次のようになるでしょう。

<国家間の争いが話し合いで解決しない場合には、国際司法裁判所で争い、当事国がその判決を引受けるならば、戦争による争いの解決を避けることができます。もし、その国際的な裁判制度を認めず、判決を受け入れない国が、判決に従わない場合には、その行為は世界全体に対する犯罪になり、世界全体によって裁かれることになります。>

では、この「世界全体」は、どのようなものになるでしょうか。

11別の側面から理性の公的使用と私的使用の区別について(20220708)

[カテゴリー:平和のために]

理性は推論の能力であり、公的使用と私的使用の区別は、推論の区別であることを前の9回と10回に説明しました。その推論の区別では、真理についての、事実的/規範的、アプリオリ/アポステリオリ、分析的/綜合的、必然的/偶然的、という区別が前提となっていること、そしてそれらの区別については再検討・再定義が必要であることを指摘し、とりあえず真理の区別の考察に向かうことにしました。これについては、カテゴリー「問答の観点からの真理」で行うことにしました。

今回は、別の側面から、理性の公的使用と私的使用の区別について考えたいとおもいます(本来は、この区別の再定義が終わってからすべき議論かもしれません。)

カントは、次のように述べています。

「自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない。これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩は格別妨げられるものではないと。」(たぶん、カント『啓蒙とは何か』岩波文庫、p. 10。今手元に本がなく確認できないので間違っているかもしれません。)

ここから言えることは、<公的使用は常に私的使用に対して優先されなければならない>、<公的使用では決定できない場合に限って、私的使用が行われる>ということです。したがって、<「自国第一」に考えてよいことは、理性の公的使用では決定できないことに限られる>ということです。

二つの国の間に、利害の対立があるとき、それぞれの国民が自国第一で考えたら戦争になる可能性があります。しかし、それぞれの国民である人々が、それぞれの国民としてではなく、世界市民として考える時には、その利害の対立について、それぞれの国民に限らず、すべての人が自由に参加できる、自由な理性的な議論(すべての前提を自由に理性的に吟味する議論)を行うことになるでしょう。そのとき、理性的な議論だけでは決定できない問題に行き当たる時(つまり公的使用では答えられない問題に行き当たる時)は、その決定の利害当事者たちが協議して決定する必要があるでしょう。なぜなら、その決定に責任を負えるのは、利害当事者だけだからです。たとえば、領土問題の場合、どのように国境線を引くかは、利害当事者の協議に任せるしかない部分があるかもしれません。そのような利害当事者の協議で合意ができないときは、どうしたらよいでしょうか。「公的使用で決定できず、利害当事者の協議でも合意できない場合にどうすべきか」という問題は、利害当事者だけの問題でなく、理性を持つすべての人の一般的な問題です。つまり、これは理性の公的使用によって解決すべき問題です。

これは、決して利害当事者間の戦争によって解決すべき問題ではありません。なぜでしょうか。

この問題に理性の公的使用は、どう答えればよいでしょうか。

これらを次に考えたいと思います。

01 真理の4つの区別 (20220705)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

(これはupのテストです。)

#真理の4つの区別 分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、事実的/規範的

真偽が、命題の性質ではなく、問答関係の性質であるとすれば、分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリ、必然/偶然、事実的/規範的、などの区別も、命題の区別ではなく、問答関係の区別です。

10 再定義をやり直します (20220703)

[カテゴリー:平和のために]

(四苦八苦しているうちに、ながらくupできずに、すみませんでした。)

前回の内容をもう一度まとめると次のようになります。

理性の私的使用も公的使用も、事実判断に関しては、同じものを前提します。異なるのは、価値判断に関する前提です。「公的使用」は、価値判断に関しては、普遍的に妥当するアプリオリな規範(カントでは道徳と法)だけを前提として推論しますが、「私的使用」は、それに加えて、アポステリオリな(経験的な)価値命題(世界を記述する個人や集団や共同体の利害、職務や集団や共同体の規範)もまた前提に加えて推論します。

したがって、理性の公的使用と私的使用の区別は、3つの区別(すなわち、事実判断と価値判断の区別、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別、分析判断と綜合判断の区別)を前提しています。この3つの区別は、現代哲学では批判されることが多いものです。したがって、理性の公的使用と私的使用の区別をもちいて、戦争を防ごうとするのならば、これらの区別を再考して、その再定義を与えることが必要になります。

以上が前回のまとめです。

分析/綜合、アプリオリ/アポステリオリの区別の再定義については、[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]の33回~37回で試みました。そこで、この再定義をもちいて、理性の公的使用と私的使用の区別についての再定義を行うことができるだろう考えました。ただし、それにいざ取り掛かろうとすると、以前に提案した再定義について、いろいろと考察したいことが出てきました。

そこで、真理についての、事実的/規範的、アプリオリ/アポステリオリ、分析的/綜合的、必然的/偶然的、という区別について、別のカテゴリーでしっかりと論じてから、このカテゴリーにもどって、理性の公的使用/私的使用の再定義を論じることにしたいとおもいます。

以前に「問答の観点からの真理論」という書庫(カテゴリー)を立ち上げていました。今回気づいたのですが、数年前にブログのアドレスの引っ越しをしたとき、その書庫(カテゴリー)が消えていたようです。そこで、「問答の観点からの真理論」を復活させて、できれば、かつての投稿も復活させて、真理についての論じることにします。

09 理性の公的使用と私的使用の区別の問題点 (20220624)

[カテゴリー:平和のために]

カントが考えていた「理性」の「公的使用」と「私的使用」の区別を、次のように考えたいとおもいます。

理性は推論の能力であり、「私的使用」とは、状況を記述する事実命題と、価値や規範を表現する経験的な価値命題(世界を記述する個人や集団や共同体の利害、職務や集団や共同体の規範)と普遍的に妥当するアプリオリな価値命題、を前提として推論することでだといえるでしょう。これにたいして、公的使用は、状況を記述する事実命題と、普遍的に妥当するアプリオリな規範(カントでは道徳と法)だけを前提として推論することだと言えるでしょう。

このように考える時、二つの理性使用(推論)は、事実命題に関しては同じものを受け入れています。これらは、カントならば、アプリオリな分析判断と綜合判断、アポステリオリ(経験的)な総合判断なに区別するでしょう。二つの理性使用(推論)が異なるのは、価値や規範に関する命題です。価値や規範に関わる命題に関しては、理性の公的使用は、アプリオリな分析判断と綜合判断だけを前提としてみとめますが、理性の私的使用は、これに加えてアポステリオリな総合判断も認めます。カントは、このようにめいじしているわけではありませんが、このような区別になるだろう思います。

このように理解するとき、理性の公的使用と私的使用の区別は、3つの区別(すなわち、事実判断と価値判断の区別、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別、分析判断と綜合判断の区別)を前提としています。ところが、この3つの区別は、現代哲学では、批判されることが多いものです。したがって、理性の公的使用と私的使用の区別をもちいて、戦争を防ごうとするのならば、これらの区別を再考して、その再定義を与えることが必要になります。