22 アフォーダンスの生態学 (20201230)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(動物の知覚と探索行動の関係を考察していたのに、前回は、郵便ポストのアフォーダンスの話しをしてしまって、議論が拡散しすぎたとおもいます。郵便ポストのアフォーダンスは、言語を持つ人間にとってのアフォーダンスと問答の関係として、考察すべき話題でした。いずれはそこに向かいたいと思いますが、そのまえに、無脊椎動物にとってのアフォーダンスと探索行動の関係の考察を続けたいと思います。)

 知覚を考察するとき、主体と対象の関係だけでなく、環境を考える必要があるというアフォーダンス論の主張は正しいだろう。そのとき、アフォーダンスを、主体と環境(対象は環境の一部である)の関係として考えるのではなく、環境の中での動物と対象の関係と考えるのが正しいだろう。その関係は環境の中に含まれていると言ってもよいだろう。では、その環境とは何だろうか。

 ギブソンによれば、動物や人間の環境は、「媒質(medium)」と「物質(substances)」と「両者を分かつ面(surfaces)」の3つにわけられる(ギブソン『生態学的視覚論』訳17)。

 地上環境の「媒質」は、空気という気体であり、水中環境の「媒質」は、水や海水という液体である。

 ギブソンが「物質」というのは固体ないし半固体(植物や動物は、この半固体の一部であろう)であり、媒質の中にある。

 この「媒質」と「物質」の間には「面」がある。面の中でも地面は、「陸生動物の知覚や行動の基盤である。すなわち、地面は動物の支持面である。水と空気の境界は、水面である。水と個体の境界は、海底、湖底、川底などである。この場合、陸上生物にとっては、海や川は媒質ではなく、物質であるあろう。つまり、水面もまた、媒質(空気)と物質(海水、水)の境界である。(逆に水中生物にとって、水は媒質であり、空気は物質になるのかもしれない。)

 さて、動物は、媒質のなかを移動する生物である。そして、その移動は、でたらめなものではなく、多くの場合誘導ないし制御されている。媒質は、光、音、匂いなどの化学物質を伝えるものである。そして、動物は、光や音や匂いなどに誘導されて媒質のなかを移動する生物である。「走性」もまた、このような移動である。媒質のもう一つの特性は、それが酸素を含み、呼吸を可能にするということである(前掲書19)。また媒質は、おおよそ均質であり、重力による上下という絶対的関係軸を有する。このような媒質が提供する様々なもの(情報)をギブソンは「アフォーダンス」と名付けた(前掲書20)。

 動物はこのような媒質の中で対象を知覚する。(物質(動物とその対象)と媒質と面からなる)このような環境の中で「アフォーダンス」が成立している。

 ここでもう一度問いを繰り返そう。動物の探索行動はこのようなアフォーダンスとどう関係しているのだろうか?

21 ゲシュタルト心理学とアフォーダンス理論    (20201229)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?](見出しタイトルだけ変えました)

『生態学的視覚論』において、ギブソンは、アフォーダンスを単に<主体(動物/人間)と対象の関係において成立するもの>と考えるだけでなく、それをエコロジカルな視点から理解する。つまり、<主体(動物/人間)と環境の関係において成立するもの>とみなす。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。

 まず「アフォーダンス論」とゲシュタルト心理学の違いを確認しておきたい。ゲシュタルト心理学もまた、アフォーダンスに似た知覚を認めていた。

「コフカの『ゲシュタルト心理学の原理』1935(福村出版)から引用すると、「果物は『食べて下さい』といい、水は『飲んで下さい』と語り、雷は『恐がって下さい』と、また女性は『愛して』と語りかけている」(p.7)」150

これらを、コフカは「要求特性demand character」とよび、クルト・レヴィンは「誘発特性(invitation character)」とか「誘発性(valence)」と呼んでいた。

 ゲシュタルト心理学は、形や色などの性質と同様に、これらの誘発性が直接に知覚されることを認めていたが、しかしこれらを物理的なものと区別して現象的なものとみなした。つまり「対象の誘発特性は、経験を通じて対象に付与されるものであり、観察者の要求により付与されるものである。」(『生態学的視覚論』151) と考えた。

 これに対して、ギブソンは、アフォーダンスを誘発性から明確に区別する。

「アフォーダンスの概念は、誘発性、誘因性、要求の概念から導き出されてはいるが、それらとは決定的な違いがある。ある対象のアフォーダンスは、観察者の要求が変化しても変化しない。観察者は、自分の要求によってある対象のアフォーダンスを知覚したり、それに注意を向けたりするかもしれないし、しないかもしれないが、アフォーダンスそのものは、不変であり、知覚されるべきものとして常にそこに存在する。アフォーダンスは、観察者の要求や知覚するという行為によって、対象に付与されるのではない。」(同書、151)

「コフカにとっては、手紙を郵送することを誘いかけるのは現象的な郵便ポストであり、物理的な郵便ポストではなかった。しかし、この二元性は、有害である。そこで私は以下のように言う方がよいと思う。つまり、実際の郵便ポストが(これだけが)。郵便制度のある地域では手紙を書いた人間に、手紙を郵送することをアフォードする。このことは郵便ポストが郵便ポストとして同定されるときに知覚され、そして郵便ポストが視野内にあってもなくても理解される。投函すべき手紙を持っているときに、郵便ポストへの特殊な誘引力を感じるということは、驚くべきことではないが、しかし、重要なことは、その誘引力が環境の一部として――我々が生活している環境の一つの項目として――知覚されることである。…郵便ポストのアフォーダンスの知覚は、それゆえ、郵便ポストがもちうるそのときどきの特殊な誘引力と混同されるべきではない。」(同書、151f)

ギブソンは、アフォーダンスは、主体が対象に投影したものではなく、対象の形や色と同じように客観的に実在している、と考える。郵便ポストは、手紙を入れることを促している。郵便制度がない社会に、ポストをおいてもポストは手紙を入れることを促さないだろう。しかし、郵便制度がある社会では、ポストは手紙を入れることを促す。それは、私たちの生活環境の一部として知覚される。それは、郵便制度がある社会では、誰がいつみても知覚できるアフォーダンスである。その意味で、アフォーダンスは客観的に存在する。アフォーダンスは、主体と対象(郵便ポスト)の関係として成立するのではなく、郵便制度という環境の一部として成立している。

 この場合、郵便制度もまた客観的に成立していることになる。そうすると、ギブソンは「社会構築主義」、しかも自然も社会的に構築されていると考える「強い意味の社会構築主義」を採用するように見える。彼は、<自然は社会的に構築されていないが、社会制度(社会制度、社会規範)は社会的に構築されている>と考える「弱い意味の社会構築主義」ではなく、<自然も社会も同じように社会的に構築されている>と考える「強い意味の社会構築主義」であるように見える。しかしはたして、このギブソン理解は正しいのだろうか。言い換えると、生態学的アプローチは、強い社会構築主義と結びつくのだろうか。(この問題を追及すると、話がそれてしまうので、この問題はペンディングにしておきます。)

 動物と対象との関係においてアフォーダンスが成立するのだとすると、アフォーダンスは動物の探索活動に対応していると言えそうなのだが、もし生態学的な環境の中でアフォーダンスが成立するのだとすると、その場合にも、アフォーダンスは探索によって規定されているといえるのだろうか。その場合、アフォーダンスと問いは、どう関係するのだろうか。

20 アフォーダンスと問答    (20201227)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 動物の走性が「方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動」であるとすると、外部刺激は方向性をもっており、つまりゲシュタルトを持っている。そうすると、単細胞動物を含めてすべての動物はゲシュタルトを知覚していると言えそうである。

 この外部刺激のゲシュタルトは、動物の探索行動に応じて成立していると言えないだろうか。これに対しては次の反論が考えられる。<外部刺激に対する反応として走性行動が生じるのだから、ゲシュタルトが、走性行動によって成立するとは言えない。時間的に外部刺激は走性行動に先行するからである。>

 この反論に対して次のように応答できるだろう。外部刺激よる走性行動の解発は、複雑な条件をともなっている。

「動物が環境の変化をどのように知覚でき、またはできないかは、感覚能力の研究によって推論することができるが、観察される反応を解発するものがいったいなんであるのか、については確固たる回答が得られない。このことは、動物は、その感覚器官が受け取る環境の変化すべてに対して反応するのではなく、そのほんの一部に反応するに過ぎないという、特殊な事実に関係している。」(ティンバーゲン『本能の研究』前掲訳27)

「さらにいえることは、感覚器官が反応の解発に含まれている時でさえ、それが感受できる刺激のごく一部だけが実際に効果的なのである。」(同訳、28)

さらに、反応を複雑にする要因の一つは、内的な状態である。私たちも、空腹のときには、食べ物の匂いにより敏感になり、よりおいしそうに感じるだろう。食べ物のにおいのゲシュタルトは、主体の内的状態に依存する。そして内的状態は探索行動へ向かわせるものでもあり、食べ物を探索する反応が、匂いのゲシュタルトに影響を与えることになる。

 以上が反論への応答であるが、この説明では、<走性における外的刺激のゲシュタルトが探索行動の影響を受けている>という可能性を示せただけで、その証明としては不十分である。ただし、ノエが言うように、知覚は、行動に組み込まれており、行動の仕方であるとするならば、そしてまた、全ての行動は探索であると言えるならば、知覚のゲシュタルトは、探索によって規定されていると言えるだろう。

 ノエのエナクティヴィズムによれば、<物を知覚するとき、その対象に関わる可能な行為の集合を認知している>と言えるだろうが、アフォーダンス論によれば、<私たちは、物を知覚するとき、その物が促している(アフォードしている)行動を認知している>。物が何をアフォードするかは、主体のありようによって異なる。体重の重い人にとっては、ゆっくり歩くことを促す折れてしまいそうな板であっても、体重の軽い人にとっては、強く踏んづけても大丈夫な板であるかもしれない。喫煙者には、吸い込みたくなる良い香りでも、タバコ嫌いには、息を止めたくなる匂いかもしれない。このアフォーダンスの違いは、主体が何を求めているかの違いでもある。

 有名な例を挙げよう。ダーウィンのミミズの研究は有名である。翻訳が出たときに読んだダーウィンの『ミミズと土』(平凡社ライブラリー)が家にあるはずなのに、見つからないので、エドワード・S・リード『アフォーダンスの心理学』(細田直哉訳、佐々木正人監修、新曜社)をもとに説明したい。<ミミズは、体が乾燥してはいけないので、穴の出口をものでふさごうとする。その素材としてその松の葉を穴の出口近くにおいておけば、その松の葉で出口をふさごうとするのだが、松の葉の針の方が穴の中を向いているようにしたら、ミミズが外に出る時に刺さってしまうので、ミミズは、松の葉の元の方から穴の中に引っ張り込む。> このようなことをダーウィンは調べた。このミミズの行動を、アフォーダンス論で説明すれば、松の葉の先の針のところは、そこを穴の内側にするな、とアフォードし、松の葉の元の方は、ここをつかんで引き入れよ、とアフォードする、ということになるだろう(リード前掲訳、42-54)。

 このようなアフォーダンスの知覚もまた、ミミズの行動の課題に依存しており、ミミズの<穴をふさぐにはどうすればよいか>の探索(見かけ上の探索)に依存しているといえるだろう。

 ところで、ギブソンのアフォーダンス論は、アフォーダンスを単に<主体と対象の関係において成立するもの>と考えるだけではない。それをエコロジカルな視点から理解するのである。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。

19 エナクティヴィズムとアフォーダンスと問答    (20201225)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 このカテゴリーでは、「人は何故問うのか」に答えることが課題であるが、その前に人が問うことは、動物の探索とどう違うのかを明らかにしようとしてきた。これにまだまだ時間がかかりそうである。

 さて、動物が、走性や無条件反射で行動しているとき、それが探索行動であると見えても、それ遺伝子で決定している行動であるので、個体が探索しているのではない。動物が、条件反射とオペラント行動によって探索していると見る時、その行動は経験によって成立するものなので遺伝子と経験によって決定されている個体の行動である。それは、意図的行為ではないが、個体による探索行動だといえるかもしれない。ただし、この探索は、過去の経験と遺伝子と現在の経験によって決定されている。前者を「遺伝的行動」、後者を「経験的遺伝的行動」と呼ぶことにしよう。

 知覚は、どちらの行動であれ、探索のためのものであり、知覚のゲシュタルトは、何を探索しているかによって規定されているだろう。

 前回述べたノエの「知覚のエナクティヴズム」は、どちらの行動にも妥当するだろう。魚は、流れの上流に向かって泳ぐという走性(走流性)をもっている。その行動は、水の流れの知覚は、魚が上流に向かって泳ぐという行為と結合している。もしさなかが下流に向かって泳ぐとすると、スピードが速くなりすぎて危険なのかもしれない。つまり、走流性は危険回避という機能を持つのかもしれない。水の流れを感じるということは、その水の上流に向かっておよぐにはどうするかを感じることであるだろう。

 (メダカの走流性については次のビデオをご覧ください。 

  https://www.youtube.com/watch?v=1IOGXL7i9VM  )

走性については、第12回の記事で、「走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である」と説明した。魚の場合には、走性というよりも無条件反射というべきかもしれないが、魚の走流性については「走性」として語れることが多い。無条件反射も走性も、その反応が遺伝によって決定しているという点では同じだと言えるだろう。

 魚は水の流れを知覚し、その刺激(無条件刺激)に対して、無条件反応(走流性)を示すのである。魚の水流の知覚は、ゲシュタルトをもっているだろう。ところで、上のビデオにあるように、模様の刺激(視覚刺激)に対しても、魚は同じような反応をするが、これも無条件反射である。そして、この模様がつくる水流に対する錯覚もまた、同じような知覚のゲシュタルトを形成するのだろうと推測する。触覚刺激であると視覚刺激であるとに関わらず、おなじような反射を引き起こす点は、非常に興味深い。

 ノエのこのような「知覚のエナクティヴズム」は、「知覚のアフォーダンス理論」と親和的である。まずこの親和性を確認して、次にアフォーダンスもまた、探索行動に規定されていることを説明したい。

 アフォーダンス理論とは、ギブソンが提唱した知覚論であり、対象を知覚することは、対象を何かを私たちにアフォードするものとして理解することだと見なす。例えば、平らな床は、そこを歩く人間を支えるものであり、椅子はそこに腰掛けることをアフォードし、ドアノブはそれをつかむようにアフォードし、ケーキは、それを食べるようにアフォードする。知覚のエナクティヴズムによれば、知覚は私たちが対象に対してどのようにふるまうことができるかを示すが、アフォーダンス理論は、知覚は、対象をある行為を誘うものとして知覚することを主張する。言い換えると、知覚は、対象の表情、価値、誘導価の知覚である。

 対象が何をアフォードするかは、主体の状態にも依存する。柵は、大きな人にはまたいで超えることをアフォードし、小さな子供には、下を潜り抜けることをアフォードするだろう。「どうしたら柵の向こうに行けるだろうか?」という問いに対するこたえとして、柵は、これらをアフォードする。ゲシュタルトは、探索にたいして生じると述べたが、アフォードの内容は、問いに応じて変化するが、しばしば問いに対する答えそのものとして生じる。

 「エナクティヴズム」は、対象の知覚を、<対象に関する可能な行為の仕方>の集合として説明するが、「アフォーダンス理論」は、対象の知覚を、その集合をさらに限定して、<対象に関する好ましい行為の仕方>として説明する。 両者の親和性は、Noeも強調する点である。

 次に、「アフォーダンス」もまた動物の探究活動に相関していることを確認したい。

18 知覚は行為の仕方である  (20201223)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回は、知覚のゲシュタルト構造が、知覚がどのような探索を行っているかに依存することを説明した。知覚が、動物にとっては探索の結果であり、人間にとっては問いに対する答えであることを説明するうえで有用なのは、アルヴァ・ノエの「知覚のエナクティヴィズム」である。

 アルヴァ・ノエ(1964-)は、『知覚の中の行為』(門脇俊介、石原孝二監訳、飯島裕治、池田喬、吉田恵吾、文景楠訳、春秋社、2010、原著2004)で、「知覚とは行為の仕方である」と主張する。

 彼の知覚論の基礎的なモデルになっているのは、触覚である。物を触る時、触覚は対象の全体を一度に知ることはできない。対象を触りながら対象の形や大きさを知り、それがどのようなものであるかを知ることになる。触覚の内容は、触れ方と相即している。彼によれば視覚の場合もこれと同様のことが言える。視覚にも、対象の細部にわたる全体が一度に与えられるということはない。細部を知るにはその部分に近づいてみる必要がある。私たちは、ある細部はそこに近づくと見えるだろうものとして予想している。例えば、トマトは赤くて丸いものとして知覚されるが、しかしその裏側が見えているわけではない。その横に回ればトマトの側面が見え、さらに後ろに回れば、背面が見える。トマトの丸い形を知覚しているとは、視点を移動したらそのように側面や裏面がどのように見えるかが分かっているということである。トマトの丸さの知覚は、トマトに対する目の位置を変えるその「行為の仕方」に他ならない。

 もうひとつ丸い皿の例を挙げよう。丸い皿が丸く見えるのは、真上ないし真下から見たときであり、大抵の視点では楕円に見える。しかし、楕円に見えていても、その皿が丸いことを知覚していることは、その皿のまわりで視点移動の「行為の仕方」を理解しているということに他ならない。

 このように皿を知覚するとき、その皿をどのように使えるかを判断できるだろう。例えば、その皿に丸いクリスマスケーキを載せられると分かるだろう。

 「皿の現実の形を見定めることは、その皿のプロファイルを知覚すること、そしてこのプロファイルすなわち見た目の形が運動に依存しているあり方を私たちが理解していることから成り立っている。このような事例から言えそうなことは、私たちが皿の形を経験することができ、見ることができるのは、非明示的な仕方でさらの感覚運動的プロファイルを把握しているからである、ということだ。皿の感覚-運動的プロファイルを把握することによってこそ、経験のなかで皿の形が利用可能になるのである」(前掲訳、125)

 ノエは(少なくともこの本では)、知覚のゲシュタルトについて取り立てて語っていないのだが、皿の形の知覚は、もちろんゲシュタルトの知覚である。皿の形や大きさのゲシュタルト知覚が成立するのは、「あのケーキはこの皿に乗るだろうか?」という問いに答えようとするときに、(ゲシュタルト知覚)のである。「あのケーキをこの皿に載せようとするとどうなるか?」という行為の仕方に関する問いに答える必要が生じるからである。

 知覚内容と行為が密接に結合しており、知覚が「行為の仕方」であるならば、行為は目的を持ち、それを実現しようとすることであるのだから、「どうやってそれを実現するか」という行為の仕方関する問いに答えようとする中で、知覚が成立することになるだろう。つまり、知覚は探索(問い)への答えとして成立する。

17 発話の焦点構造と知覚のゲシュタルト構造  (20201221)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

同じ文でも、異なる問いに対する答えとなる時には、ことなる焦点を持つ。

  「どれがりんごですか」「[これ]Fがリンゴです」

  「これはなにですか」「これは[リンゴ]Fです」

発話は必ずどこかに焦点を持ち、この焦点位置は相関質問によって規定されている。

これは、知覚のゲシュタルト構造に似ている。同一の絵が異なるゲシュタルトを持ちうる。

そのときゲシュタルトの違いは、問いの違いによって規定されている。

「何処から雨漏りしているのだろう?」と思って天井を見るとき、「何処が濡れているのか?」と問い、天井の色の違いに注目するだろう。そして、一部が丸く変色しているのを知覚するかもしれない。それに対して「この天井もそろそろ改修しなければならないだろうか?」と思って天井を見る時には、「天井板が古くなっていないかどうか?」と問い、天井板一枚一枚に注目して、隣の板との違いを知覚するかもしれない。この二つの場合には、同じ天井を知覚しても、そのゲシュタルトは異なる。

 このように知覚のゲシュタルトが、問いかけに依存して成立するのだとすれば、ゲシュタルトを知覚する動物もまた、何らかの仕方で探索している(問いかけている)と言える。前回述べた鶏は、ボタンの大小関係というゲシュタルトを知覚している。そのようなゲシュタルト知覚が生じるのは、鶏がどちらを押せば餌がもらえるかという探索をしているためだと言えるだろう。この探索は、(遺伝によって決定している)走性や無条件反射による<見かけ上の探索>ではない。過去の経験にもとづいて生じる探索である。

 もう一つ例を挙げよう。ティンバーゲン『本能の研究』(永野為武訳、三共出版株式会社)において、「じゅん鶏類、アヒルおよびガチョウの雛が猛禽の飛行に対して示す反応は、なににもまして「短い首」というサイン刺激で解発される」(p. 76)という。下のような模型を動かすとき、左に動かすと、アヒルやガチョウの雛は、それを猛禽類だと認識して逃避するが、右に動かすときには、逃避しない。

「「体軸の一端は短い突起に、またその反対側は長い突起になっている。この模型は、右方向に飛ばすと、首は短く尾は長くなる。逆方向へ飛ばせば首は長く尾は短くなる。前者の場合、模型は逃避反応を起こさせたが、後者はできなかった。この違いは翼の形に基づかないから、おそらく頭と尾についてのその鳥の認識にもとづくものでなければならない。このことは、両テストとも同じものを使っているから、サイン刺激として作用するものは、形ではなく、運動の方向と関連した形であることを意味している。」(p. 76f)

 つまり、この模型が左に動いたときと右に動いた時では、別のものに見える。つまり、異なるゲシュタルトをもつ。アヒルやガチョウの雛が(もし言葉にすれば)「敵はいないだろうか?」「あれは敵だろうか?」と探索しながら、模型を見る時、左に動くときには、進行方向の先頭に頭があるとすると、首が長く尾が短く見え、猛禽に見えるが、模型が右に動くときには、進行方向の先頭に頭があり、首が短く尾が長くみえるので、猛禽には見えない。つまり、「敵ではないだろうか?」と探索しながら模型を見る時、模型がどちらの方向に動くにせよ、進行方向の先頭に頭があり、進行方向の後方に尾があるというゲシュタルトで模型を見ることになる。それゆえに、この場合のゲシュタルト知覚は、「敵はいないだろうか?」「あれは敵だろうか?」という探索に対応して成立している。もちろん、アヒルやガチョウの雛はこのような問いを立てることはない。しかし、<見かけ上の探索>をおこない、そのような探索に対して、ゲシュタルトが生じている。

 鶏が大小の二つのボタンのゲシュタルト知覚をする場合は、経験を必要とするオペラント行動の先行刺激となる知覚であったが、この模型の知覚は、無条件反射を引き起こする無条件刺激となる知覚のゲシュタルトの例である。したがって、ゲシュタルト知覚に対応している探索もまたことなっている。後者は遺伝的に決定している<見かけ上の探索>行動である。

 動物のゲシュタルト知覚については、無条件反射の無条件刺激がゲシュタルト知覚である場合と、オペラント行動の先行刺激がゲシュタルト知覚である場合があることがわかる。他にも、条件反射における中性刺激がゲシュタルト知覚になる場合があるだろう。

 動物の知覚のゲシュタルト構造は、探索行動ないし<見かけ上の探索行動>と深く関係している。そしてそれは人間の場合の知覚のゲシュタルト構造が問いと深く関係していることを示唆しているし(これについては、いずれ詳しく述べる予定である)、発話の焦点位置が相関質問と深く関係していることに繋がっている。(発話の焦点位置が相関質問によって規定さていることについては『問答の言語哲学』の第二章で詳しく論じた。)

16 オペラント行動の規範性  (20201220)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回の「「おすわり」の規範性」というタイトルは、誤解を招いたかもしれない。人間が犬に「おすわり!」というとき、それは命令であり、命令が規範性を持つことは自明であるからである。ちなみに、ここで命令が「規範性を持つ」とは、<命令に従えば、褒められたり餌を得られたり、よいことがあるが、命令に従わなければ、叱られたり、餌をもらえなかったり、ひょっとすると罰を与えられたり、など悪いことがある>ということである。

 しかし、前回言いたかったのは、誤解はなかったとは思うが、人間の「おすわり」という発話が人間にとって規範性を持つことではなく、この発話が犬にとっても規範性を持つということである。このような主張に対しては、<そのような理解は、犬に自分の規範意識を投影しているだけであり、犬自身は規範意識を持っておらず、オペラント反応は、条件反射と同じように意識活動なしに生じるものである>という反論があるだろう。

 この反論に答えるには、犬自身が「おすわり」という発声に、またそれに対する自分の反応についての規範性を理解している証拠が必要である。

犬が、「おすわり」という声をきいたとき、従ったときと従わないときに何が後続するかを明確に理解していないが、<従ったときと従わないときでは後続することに何らかの違いがあることだけは理解している>ということがありうるだろう。これを「弱い規範性」の理解と呼ぶことにする。

 この弱い規範性の理解の証拠となるかもしれないのは、次のような実験である。<ケージの中に大小二つのボタンがあり、鶏が、大きな方のボタンをつつけば、餌が出てくるようになっている。そのケージの中で、鶏は、大きなボタンを押して餌を手に入れるというオペラント行動を学習する。先行刺激は大小のボタンの知覚であり、オペランント行動は大きい方のボタンをつつくことであり、餌を手に入れることが、結果である。次に、この大小のボタンをいろいろな大きさのものに取り換えて、ただし常に大きな方のボタンをつついたら餌がでることを学習させる。そして、ボタンの大小の違いが簡単には判別できないようなものにしたとき、鶏はどちらをつついたら良いのか分からずにストレスを感じているような振る舞いをした。> (この実験報告を、ベイトソンの本で読んだような気がするのだが、どの本であったかおもいだせない。また他の本でも似たような報告を読んだ気がする。どなたがご存知の方がいたら教えてください。)

 もちろん、鶏がストレスを感じているような振る舞いをするとしても、そう見えるだけかもしれないし、ストレスを感じているとしても、それは私たちが意識するようなストレスではないかもしれない。これは、どちらかのボタンを押さなければならないという「弱い規範性」を理解している証拠にならないだろうか。

 オペラント条件付けの先行刺激とオペラント反応は、第三者から見れば、つねに規範性を持っている。つまり、反応に応じて、利と害が生じる。しかし、オペラント反応をする動物自身がその規範性を意識できているとは限らない。その規範性を意識できていない動物は、オペラント行動によって、探索しているとは言えないだろう。

 人間が問うことによって何かを探索するとき、問うことは、その成否を意識しており、答えの規範性を意識している。つまり、問うときには、常に真なる答え(あるいは適切な答え)を得る必要があるという、規範性を意識している。

学問の危機

[日々是哲学]

政府と自民党は、日本学術会議のあり方を変えようとしています。それを変えるには、日本学術会議法を変えなければならないので、改正案を国会にかける必要がありますが、与党が過半数を占めているので、もし法案が審議された多数決で成立することになる可能性が極めて高いです。それを阻止するには、この間の学術会議委員の任命拒否の問題を裁判に訴えて、憲法違反であることをハッキリさせるしかないでしょう。日本学術会議に裁判所に訴えることを強く望みたいとおもいます。

中国およびアメリカと日本の経済力の差は今後ますます開いていき、経済力に誇りを持てない日本人は、自国の科学技術や文化や民主主義に誇りをもつか、あるいは伝統的な日本文化やナショナリズムに誇りを見出すか、しかなくなるでしょう。現状のままだと、戦前のようにナショナリズムの方に流れていきそうです。

15 「おすわり!」の規範性  (20201214)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 動物の訓練は、オペラント条件付けを用いて行われる。例えば、前回挙げた例では、犬は、「おすわり!」の命令(先行刺激)を受けて、お座り(反応)を行い、褒美の餌を手に入れる(結果)。これの反復によって、犬が「おすわり」ができるように訓練する。

 「おすわり」と言われて、お座りができるようになった犬は、「おすわり」といわれたときに、行う反応(オペラント行動)を表象しているのだろうか。その行動をしたときに、得られる食べ物(結果)を表象(イメージ)しているのだろうか。訓練ができている動物の場合、それらを表象しているように思われるが、しかし仮に、その表象(イメージ)がなくても、その行動をするかもしれない。なぜなら、ここでの「おすわり!」を聞くことと座ることは、条件刺激と条件反応の関係のように、表象を介していない関係である可能性があるからである。「おすわり」と言われたら、習慣として、座る行動をしているのかもしれない。

 ところで、十分に訓練された状態の犬の場合には、「おすわり」という発話が、その犬に対して、命令としての規範性をもつようになるのではないだろうか。つまり、「おすわり」と言われたときには、お座りして褒められるか、お座りしないで叱られるか、どちらかが後続することを予想するにようになるのではないだろうか。もしある状態を予想するのだとすると、その状態を表象(イメージ)していると言えるだろう。おそらくある状態を表象しないで、その状態を予想することはできないだろう。しかし、犬がこの予想をしているかどうか、どうやって判定したらよいのだろうか。

 ところで、現代哲学では、判断や言語使用の規範性が強調される。判断は、言語なしにはできないし、言語は、使用の規則に従うことなしには成立しない。人間の言語を用いる行為はすべて、言語の規則従うという規範性を持っている。言語が成立して、規範性がそれに付け加わるのではなく、言語は規範的なものとしてのみ成立するのである。したがって、言語の成立よりも、なんらかの規範的なものの理解の方が先である可能性がある。

 ここで「おすわり!」という命令を、犬が、座れば褒められ、座らなければ叱られるものとして理解しているのならば、「おすわり!」という人の声を、規範的なものとして理解しているのである。この場合、「おすわり」という主人の声を聞くことと、座る行為の間の関係は、条件刺激と条件反応の関係のようなものとはことなる。規範を理解するということは、それに従ったときに何が後続し、従わないときに何が後続するかを理解するということである。では、訓練された犬にとって、「おすわり」という声は、本当にこのように規範的なものなのだろうか。

 犬が、「おすわり」という声をきいたとき、従ったときと従わないときに何が後続するかを明確に理解していないとしても、従ったときと従わないときでは後続することに何らかの違いがあることだけは理解するということがありうるのではないだろうか。

 規範性についてのこのような弱い理解を持っていることについては、私たちは証拠を示すことができるかもしれない。それを次に検討しよう。

14 オペンラント条件づけの再説明(20201213)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回述べた「オペラント条件づけ」の説明が全く不十分だったので、説明をやり直します。

スキナーは、オペラント条件づけの実験のためにスキナーのオペラント条件づけの実験では、スキナーは、「スキナー箱」と呼ばれるようになる箱を用いた。その箱は、その中にねずみをいれておいて、ブザーが鳴ったときに偶然ねずみがレバーを押すと餌が出てくる仕組みになっている。ブザー(弁別刺激)が鳴ったときにねずみがレバーを押す行動(オペラント行動)を測定する。

ここには、3つの項目、「弁別刺激(ブザー)」-「反応(レバーを押す)」-「反応結果(餌が得る)」の関係があり、この関係は、「三項随伴性」と呼ばれている。(この三項随伴性の分析は、

先行条件(Antecedents)、行動(Behavior)、結果(Consequences)の頭文字をとってABC分析と呼ばれており、行動療法でよく用いられる。)

 前回の説明では、この「弁別刺激(ブザー)」に言及していなかったので、訂正する必要がありそうです。

 ところで、この弁別刺激は果たして必要なのでしょうか。仮にブーザーがなく、単にレバーを押せば餌が出てくる仕組みにしておければ、ネズミは、餌を取るために、レバーを押すことを学習するでしょう。ただし、この場合には、レバーの知覚が、弁別刺激になっていると考えることが可能です。オペラント行動があるときには、どんな場合にも、私たちはそこに弁別刺激を見つけることができるのではないでしょうか。その例をいくつか上げてみましょう。

 例えば、「おすわり」の命令(先行刺激)を受けて、座り(反応)、褒美の餌を手に入れる(結果)これの反復によって、犬を訓練する。

 例えば、川の特定の場所で鮭を捕まえた熊は、鮭を食べるとき、川の特定の場所の知覚が弁別刺激であり、そこでの魚を探すことが反応であり、魚を捕まえて食べることが結果である。

 例えば子供が、箱を開けてそこにあるお菓子を手に入れることを学習するとき、箱の知覚が弁別刺激であり、それを開けることがオペラント行動であり、お菓子を手に入れることが結果である。

 例えば、子供が、熱いストーブに触らないことで、やけどを避けることを学習するとき、熱いストーブの知覚が弁別刺激であり、ストーブに触らないことがオペラント反応であり、やけどしないことが結果である。

 オペラント条件づけでは、後続する結果とは関係なく偶然に行った行動、つまりその他の原因で行った行動につづいて、自分に都合のよい結果(あるいは都合の悪い結果)が生じるという経験が一回あるいは何度が起こることによって、その行動をするようになる(あるいはしないようになる)はずです。オペラント行動する動物が、後続する結果を意図して行うのではないでしょう。意図してその行動を行うとすれば、それはまた別のメカニズムである。オペラント条件づけは、少なくともそれが動物の進化上最初に登場したときには、結果状態の表象や結果状態を引き起こそうとする欲求や意図なしに、生じたメカニズムだと思われる。

 しかし、オペラント行動に結果状態についてのイメージをもつ動物もいるかも知れない。もしいれば、オペラント行動には、2つの段階の区別が可能であろう。例えば、上の例の、犬の訓練の場合、ご褒美のイメージを持っている可かもしれない。しかし、動物が、結果状態のイメージを持つことをどうすれば、判別できるだろうか。これについて、次回に考え、人間の探索との類似性と違いついても考えたい。