[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」
(このカテゴリーの目標は、「人はなぜ問うのか?」に答えることです。そしてこれに答えるために、まず、「問うとはどういうことか?」を問うことにしました。これに答えるために、まず自然主義の立場からこの問いに答える可能性を追求することにしました。そのために、01から04まで動物の探索について明らかにしようとしました。その過程で、「04 動物は表象を持つのか (20200928)」で、動物の探索と人間の探索の違いを明確にするために、「動物は表象を持つのか?」という問いを立てました。ところで、動物の知覚もまたゲシュタルト構造を持つことが報告されています。つまり、人間の知覚と同じく、動物の知覚もまた地図構造を持つということです。そこで、知覚についてのNoeの議論をしたくなりましたが、そのとき彼の本が手元になかったので、05から人間が理論的問いと実践的問いを問うのは、どういう場合であるかを、考察しました。
今回から、動物の探索と人間の探索の比較の考察に戻りたいと思います。Noeの知覚論(動物の知覚も人間の知覚も表象ではないと主張しています)にも言及しますが、動物の探索について、「走性」からもう一度考察したいと思います。)
動物の探索と人間の探索の違いは、探索しているときに、探索していることを同時に意識しているかどうかの違いにある。人間の探索行為は、探索しようと意図することなしには成立しないし、探索しようとする意図を意識していることなしには、成立しない。これは探索行為に限らない。人間の行為は、行為のしていることの反省、行為の意図(行為内意図)の反省なしには、成立しない。
これに対して、動物の場合には(チンパンジーなどが例外になる可能性はあるが)、このような自己意識はない。このような自己意識的な探索がどのように始まるかを検討しよう。
01で、次のように書いた。「動物は感覚し、そして動き回ることができる」ということにある。動物とは、動き回る生物であるが、動き回るためには感覚が必要である。動物は、動き回って餌をとる。餌を取るためには、餌を感覚する必要がある。動物の運動と知覚は、主として餌の探索のためのものである。つまり、生物が動物となったときから、生物は探索するのであり、動物とは探索する生物なのである。」
「動物とは探索する生物である」これは正しいだろう。単細胞生物である「原生動物」からすでに栄養を求めて運動するが、そのメカニズムは、おそらく「走性」といってよいのだろう。これが正しければ、原生動物から節足動物(昆虫や、甲殻類)などの運動、行動は、全て「走性」で説明されることになる。
走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である。
Wikipediaによれば、「走性」とは、方向性のある外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である。そして、走性は外部刺激によって次のように分類されるようだ。
(おそらくこれら以外の種類のものもあるだろう。)
ゴキブリが、壁沿いを移動するのは、「接触走性」なのかもしれない。蛾が電灯に集まるのは、「走光性」であろう。蚊やハエを捕まえようとしても、それらが素早く逃げるのは、どのような走性なのだろうか。空気の流れに反応しているのかもしれない。蚊がヒトの皮膚から出る二酸化炭素に反応して針を刺して血を吸う。蚊がブーンと音を立てながら近づいてくるとき、蚊は餌を探索していると言いたくなる。ある意味では、そのように言うことは可能である。しかし、蚊は、二酸化炭素に反応して針を刺して血を吸うように、遺伝子によって決定されているのである。蚊は、ヒトの血を探索しているのではなく、突然変異と自然選択の積み重ねによって、そのように行動するように進化したのである。
たとえば、玄関に、近づいたら明かりが点く照明をつけるとき、照明装置は、人間から出る赤外線に反応している。これは動物の走性による反応とよく似ている。しかし、照明装置は、接近してくる人を探索しているのではない。(その装置を設置した人は、近づいてくる人を探索していると言えるだろう。)これと同じで、走性によって、餌物を捕まえたり、より安全な環境に移動したりする動物は、それらを探索しているとは言えない。
しかしそうすると、「動物は、探索する生物である」とは言えなくなる。「蚊は、ヒトの血を探している」と言えるのだろうか、言えないのだろうか、どういう語り方が正しいのだろうか。