[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]
前回は、知覚のゲシュタルト構造が、知覚がどのような探索を行っているかに依存することを説明した。知覚が、動物にとっては探索の結果であり、人間にとっては問いに対する答えであることを説明するうえで有用なのは、アルヴァ・ノエの「知覚のエナクティヴィズム」である。
アルヴァ・ノエ(1964-)は、『知覚の中の行為』(門脇俊介、石原孝二監訳、飯島裕治、池田喬、吉田恵吾、文景楠訳、春秋社、2010、原著2004)で、「知覚とは行為の仕方である」と主張する。
彼の知覚論の基礎的なモデルになっているのは、触覚である。物を触る時、触覚は対象の全体を一度に知ることはできない。対象を触りながら対象の形や大きさを知り、それがどのようなものであるかを知ることになる。触覚の内容は、触れ方と相即している。彼によれば視覚の場合もこれと同様のことが言える。視覚にも、対象の細部にわたる全体が一度に与えられるということはない。細部を知るにはその部分に近づいてみる必要がある。私たちは、ある細部はそこに近づくと見えるだろうものとして予想している。例えば、トマトは赤くて丸いものとして知覚されるが、しかしその裏側が見えているわけではない。その横に回ればトマトの側面が見え、さらに後ろに回れば、背面が見える。トマトの丸い形を知覚しているとは、視点を移動したらそのように側面や裏面がどのように見えるかが分かっているということである。トマトの丸さの知覚は、トマトに対する目の位置を変えるその「行為の仕方」に他ならない。
もうひとつ丸い皿の例を挙げよう。丸い皿が丸く見えるのは、真上ないし真下から見たときであり、大抵の視点では楕円に見える。しかし、楕円に見えていても、その皿が丸いことを知覚していることは、その皿のまわりで視点移動の「行為の仕方」を理解しているということに他ならない。
このように皿を知覚するとき、その皿をどのように使えるかを判断できるだろう。例えば、その皿に丸いクリスマスケーキを載せられると分かるだろう。
「皿の現実の形を見定めることは、その皿のプロファイルを知覚すること、そしてこのプロファイルすなわち見た目の形が運動に依存しているあり方を私たちが理解していることから成り立っている。このような事例から言えそうなことは、私たちが皿の形を経験することができ、見ることができるのは、非明示的な仕方でさらの感覚運動的プロファイルを把握しているからである、ということだ。皿の感覚-運動的プロファイルを把握することによってこそ、経験のなかで皿の形が利用可能になるのである」(前掲訳、125)
ノエは(少なくともこの本では)、知覚のゲシュタルトについて取り立てて語っていないのだが、皿の形の知覚は、もちろんゲシュタルトの知覚である。皿の形や大きさのゲシュタルト知覚が成立するのは、「あのケーキはこの皿に乗るだろうか?」という問いに答えようとするときに、(ゲシュタルト知覚)のである。「あのケーキをこの皿に載せようとするとどうなるか?」という行為の仕方に関する問いに答える必要が生じるからである。
知覚内容と行為が密接に結合しており、知覚が「行為の仕方」であるならば、行為は目的を持ち、それを実現しようとすることであるのだから、「どうやってそれを実現するか」という行為の仕方関する問いに答えようとする中で、知覚が成立することになるだろう。つまり、知覚は探索(問い)への答えとして成立する。