[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」
このカテゴリーでは、「人は何故問うのか」に答えることが課題であるが、その前に人が問うことは、動物の探索とどう違うのかを明らかにしようとしてきた。これにまだまだ時間がかかりそうである。
さて、動物が、走性や無条件反射で行動しているとき、それが探索行動であると見えても、それ遺伝子で決定している行動であるので、個体が探索しているのではない。動物が、条件反射とオペラント行動によって探索していると見る時、その行動は経験によって成立するものなので遺伝子と経験によって決定されている個体の行動である。それは、意図的行為ではないが、個体による探索行動だといえるかもしれない。ただし、この探索は、過去の経験と遺伝子と現在の経験によって決定されている。前者を「遺伝的行動」、後者を「経験的遺伝的行動」と呼ぶことにしよう。
知覚は、どちらの行動であれ、探索のためのものであり、知覚のゲシュタルトは、何を探索しているかによって規定されているだろう。
前回述べたノエの「知覚のエナクティヴズム」は、どちらの行動にも妥当するだろう。魚は、流れの上流に向かって泳ぐという走性(走流性)をもっている。その行動は、水の流れの知覚は、魚が上流に向かって泳ぐという行為と結合している。もしさなかが下流に向かって泳ぐとすると、スピードが速くなりすぎて危険なのかもしれない。つまり、走流性は危険回避という機能を持つのかもしれない。水の流れを感じるということは、その水の上流に向かっておよぐにはどうするかを感じることであるだろう。
(メダカの走流性については次のビデオをご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=1IOGXL7i9VM )
走性については、第12回の記事で、「走性は、方向性をもつ外部刺激に対して生物(または細胞)が反応する生得的な行動である」と説明した。魚の場合には、走性というよりも無条件反射というべきかもしれないが、魚の走流性については「走性」として語れることが多い。無条件反射も走性も、その反応が遺伝によって決定しているという点では同じだと言えるだろう。
魚は水の流れを知覚し、その刺激(無条件刺激)に対して、無条件反応(走流性)を示すのである。魚の水流の知覚は、ゲシュタルトをもっているだろう。ところで、上のビデオにあるように、模様の刺激(視覚刺激)に対しても、魚は同じような反応をするが、これも無条件反射である。そして、この模様がつくる水流に対する錯覚もまた、同じような知覚のゲシュタルトを形成するのだろうと推測する。触覚刺激であると視覚刺激であるとに関わらず、おなじような反射を引き起こす点は、非常に興味深い。
ノエのこのような「知覚のエナクティヴズム」は、「知覚のアフォーダンス理論」と親和的である。まずこの親和性を確認して、次にアフォーダンスもまた、探索行動に規定されていることを説明したい。
アフォーダンス理論とは、ギブソンが提唱した知覚論であり、対象を知覚することは、対象を何かを私たちにアフォードするものとして理解することだと見なす。例えば、平らな床は、そこを歩く人間を支えるものであり、椅子はそこに腰掛けることをアフォードし、ドアノブはそれをつかむようにアフォードし、ケーキは、それを食べるようにアフォードする。知覚のエナクティヴズムによれば、知覚は私たちが対象に対してどのようにふるまうことができるかを示すが、アフォーダンス理論は、知覚は、対象をある行為を誘うものとして知覚することを主張する。言い換えると、知覚は、対象の表情、価値、誘導価の知覚である。
対象が何をアフォードするかは、主体の状態にも依存する。柵は、大きな人にはまたいで超えることをアフォードし、小さな子供には、下を潜り抜けることをアフォードするだろう。「どうしたら柵の向こうに行けるだろうか?」という問いに対するこたえとして、柵は、これらをアフォードする。ゲシュタルトは、探索にたいして生じると述べたが、アフォードの内容は、問いに応じて変化するが、しばしば問いに対する答えそのものとして生じる。
「エナクティヴズム」は、対象の知覚を、<対象に関する可能な行為の仕方>の集合として説明するが、「アフォーダンス理論」は、対象の知覚を、その集合をさらに限定して、<対象に関する好ましい行為の仕方>として説明する。 両者の親和性は、Noeも強調する点である。
次に、「アフォーダンス」もまた動物の探究活動に相関していることを確認したい。