21 ゲシュタルト心理学とアフォーダンス理論    (20201229)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?](見出しタイトルだけ変えました)

『生態学的視覚論』において、ギブソンは、アフォーダンスを単に<主体(動物/人間)と対象の関係において成立するもの>と考えるだけでなく、それをエコロジカルな視点から理解する。つまり、<主体(動物/人間)と環境の関係において成立するもの>とみなす。それはどういうことだろうか。そのとき、動物の探索はどのように理解されるのだろうか。

 まず「アフォーダンス論」とゲシュタルト心理学の違いを確認しておきたい。ゲシュタルト心理学もまた、アフォーダンスに似た知覚を認めていた。

「コフカの『ゲシュタルト心理学の原理』1935(福村出版)から引用すると、「果物は『食べて下さい』といい、水は『飲んで下さい』と語り、雷は『恐がって下さい』と、また女性は『愛して』と語りかけている」(p.7)」150

これらを、コフカは「要求特性demand character」とよび、クルト・レヴィンは「誘発特性(invitation character)」とか「誘発性(valence)」と呼んでいた。

 ゲシュタルト心理学は、形や色などの性質と同様に、これらの誘発性が直接に知覚されることを認めていたが、しかしこれらを物理的なものと区別して現象的なものとみなした。つまり「対象の誘発特性は、経験を通じて対象に付与されるものであり、観察者の要求により付与されるものである。」(『生態学的視覚論』151) と考えた。

 これに対して、ギブソンは、アフォーダンスを誘発性から明確に区別する。

「アフォーダンスの概念は、誘発性、誘因性、要求の概念から導き出されてはいるが、それらとは決定的な違いがある。ある対象のアフォーダンスは、観察者の要求が変化しても変化しない。観察者は、自分の要求によってある対象のアフォーダンスを知覚したり、それに注意を向けたりするかもしれないし、しないかもしれないが、アフォーダンスそのものは、不変であり、知覚されるべきものとして常にそこに存在する。アフォーダンスは、観察者の要求や知覚するという行為によって、対象に付与されるのではない。」(同書、151)

「コフカにとっては、手紙を郵送することを誘いかけるのは現象的な郵便ポストであり、物理的な郵便ポストではなかった。しかし、この二元性は、有害である。そこで私は以下のように言う方がよいと思う。つまり、実際の郵便ポストが(これだけが)。郵便制度のある地域では手紙を書いた人間に、手紙を郵送することをアフォードする。このことは郵便ポストが郵便ポストとして同定されるときに知覚され、そして郵便ポストが視野内にあってもなくても理解される。投函すべき手紙を持っているときに、郵便ポストへの特殊な誘引力を感じるということは、驚くべきことではないが、しかし、重要なことは、その誘引力が環境の一部として――我々が生活している環境の一つの項目として――知覚されることである。…郵便ポストのアフォーダンスの知覚は、それゆえ、郵便ポストがもちうるそのときどきの特殊な誘引力と混同されるべきではない。」(同書、151f)

ギブソンは、アフォーダンスは、主体が対象に投影したものではなく、対象の形や色と同じように客観的に実在している、と考える。郵便ポストは、手紙を入れることを促している。郵便制度がない社会に、ポストをおいてもポストは手紙を入れることを促さないだろう。しかし、郵便制度がある社会では、ポストは手紙を入れることを促す。それは、私たちの生活環境の一部として知覚される。それは、郵便制度がある社会では、誰がいつみても知覚できるアフォーダンスである。その意味で、アフォーダンスは客観的に存在する。アフォーダンスは、主体と対象(郵便ポスト)の関係として成立するのではなく、郵便制度という環境の一部として成立している。

 この場合、郵便制度もまた客観的に成立していることになる。そうすると、ギブソンは「社会構築主義」、しかも自然も社会的に構築されていると考える「強い意味の社会構築主義」を採用するように見える。彼は、<自然は社会的に構築されていないが、社会制度(社会制度、社会規範)は社会的に構築されている>と考える「弱い意味の社会構築主義」ではなく、<自然も社会も同じように社会的に構築されている>と考える「強い意味の社会構築主義」であるように見える。しかしはたして、このギブソン理解は正しいのだろうか。言い換えると、生態学的アプローチは、強い社会構築主義と結びつくのだろうか。(この問題を追及すると、話がそれてしまうので、この問題はペンディングにしておきます。)

 動物と対象との関係においてアフォーダンスが成立するのだとすると、アフォーダンスは動物の探索活動に対応していると言えそうなのだが、もし生態学的な環境の中でアフォーダンスが成立するのだとすると、その場合にも、アフォーダンスは探索によって規定されているといえるのだろうか。その場合、アフォーダンスと問いは、どう関係するのだろうか。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

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